アメリカの國民性4 -和辻哲郎1943.12

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3. アメリカに於けるホッブス的性格の展開

前に言及したスペイン人のペルー・メキシコ等の征服は、基督教の名に於て行はれた。たとひ中部アメリカの土人が高度に發達した人倫的組織や壮麗な宗教的儀禮などを作り出してゐたとしても、それらは皆基督の福音を攝受する以前のものである。それらは内容的には基督の福音に合致するものと云へるであらうが、しかしさういふ立派なものを福音の傳はる以前に實現してゐるとすれば、そこに何か警戒すべきものがある。恐らくそれは惡魔の策謀であらう。惡魔は福音の傳はるのを邪魔するために、先手を打つて、豫め同じやうな内容の組織や制度を教へ込んで置いたのである。從つてもし土人が卽座に基督教への改宗を肯んじないならば、これを殺戮することは惡魔の弟子を殺戮することに他ならぬ。惡魔の所作を破壊して福音を擴めるためには、どんな手段を用ゐても殘酷といふことはない。これが彼らの土人殺戮の原理であつた。

しかしアメリカに植民したアングロ・サクソンの基督教に對する態度はこれとは異つてゐた。彼らは少數の例外を除いてローマの教權に背いた新教徒である。特にピュリタンやクェーカーなどは新教の徹底的保持の故に新しい土地に出て來たのである。彼らにとつては信仰のことは個人の心情の問題であつて、教會のために信者を殖すことではない。況んや基督教のために殺戮を行ふといふ如きことは以ての外である。クェーカーの如きは戰爭絶對反對を固い信條としてゐた。しかし開拓を遂行するためには土人と戰ひその抵抗を絶滅しなくてはならぬ。特に北アメリカの土人はペルーやメキシコの土人の如き文化を持たず、開拓亊業のために勞力を提供する如きものではなかつた。だからアングロ・サクソンは初めから『死んだインディアンのほかに善いインディアンはない』と考へてゐたのである。土人は殺すほかはない。が彼らは何の名に於て土人殺戮を行つたであらうか。

ここに有力な原理を提供したのはホッブス的な自然狀態の人間觀である。人は萬物に對して自然の權利を持つてゐる。土人アメリカの森林で狩する權利を持つてゐるやうに、移住したピュリタンもこの森林を拓いて耕地となす權利を持つてゐる。ここには正不正の問題はない。その代り同じ森林について權利を主張し合ふピュリタンと土人とは當然戰爭を行はねばならぬ。戰爭狀態に於て弱い者が殺されるのは當然の理であつて正不正の問題ではない。が土人相手の戰爭と雖も決して樂なものではなく、初期の移民はしばしば酷い目に逢つた。そこでピュリタンたちが適用したのは自然法である。彼らは土人に平和を提議した。平和條約が成立すれば土人を殺さないですむ。がもし平和の提議に應じなければ、手段を擇ばず土人を殺戮する。自然法に從はないやうな人間は動物と同じに射殺してよいのである。ここにスペイン人と同じき土人殺戮が行はれたとしても、アングロ・サクソンは毫末も良心のとがめを感じなかつたのである。

がピュリタンたちにもつと大きい成功をもたらしたのは平和條約や和親條約による領土の擴大であつた。ベルナール・ファイ(本田喜代治譯「アメリカ文明の批判」)の叙述によると、彼らは廣い原始林のなかの空地の土人の村で土人たちと會商する。夜、焚火を圍んで談判しながら、彼らは携へて來た大きい酒樽を開いて土人たちに振舞ふ。土人はだん〱醉つて上機嫌にくだを巻き始める。イギリス人は辛抱強く彼らの相手になり、辛抱強く彼らに酒をついでやる。やがて潮時を見て一枚の紙片を差出し、土人の酋長達に署名を求める。酋長たちは意味も解らず、醉にふるへた手で署名する。そこでイギリス人は、持つて來た酒樽全部を抜いて、車座になつてゐる土人たちに飲ませ、自分たちは歸つて行く。土人たちは焚火の光の中で踊り狂ふ。契約が成立し、彼らはその森林を譲渡したのである。その代償として彼らはウィスキーとラム酒と小銃と火藥と斧とパイプとをもらつた。さうしてそれを非常に喜んだ。しかし所有權の知識のない彼らは譲渡がどんなことであるかを實は知らなかつたのである。土人たちはただ自分らと同じくこの森で狩する權利をイギリス人に與へたと考へてゐた。然るにイギリス人は契約に基いてこの土地の合法的な地主となつた。後に土人たちが狩に來て見ると、森林は切拂はれて農園が出來てゐる。彼らは怒つて家を燒き幾人かのイギリス人を殺す。すると彼らは契約を守らない怪しからぬ者として徹底的にやつつけられる。イギリス人は自然法の第三則に基いて、正義の名の下に殺戮を行ふことが出來たのである。がもし土人たちが殲滅を避けたいと思ふならば、また少しの火藥と澤山のラム酒とをもらつて、新しい紙片に署名すればよかつた。

これが平和條約や和親協約による領土擴大の實相であつた。彼らは火藥とラム酒と惡德と傳染病とで以て土人を殺戮し續けたのであるが、しかし少しでも不正なことは行はなかつたといふ形になつてゐる。自然狀態に於ては正不正はなく、契約關係に入つて後は正義を犯したのはいつも土人だつたからである。かくして彼らは正義の名の下に土人を驅逐し、殺戮し、奥へ奥へと新大陸を開拓して行つた。これは基督教の名の下に土人を殺戮した代りに改宗した土人と融合し始めたスペイン人よりも、遥に冷酷、無慈悲で、また惡辣であつた。が彼らはそれを堅實として誇つたのである。アメリカ大陸でアングロ・サクソンの國のみが強大な國家となつた所以はこの堅實性に存すると云はれるが、それこそまさにホッブス的性格に他ならない。

平和を假装せる土人との戰は開拓亊業と並行してこの後も絶え間なく續けられ、十八世紀中頃のベンジャミン・フランクリンの時代にも盛んに行はれてゐる。フランクリン自身土人との折衝に當つたこともある。さすがに彼は土人を單純に殺戮してよい動物とは考へてゐない。彼が北アメリ土人に就いて書いた短文によると、野蠻人(savage)といふ一般の考へ方を訂正しようとさへしてゐる。我々は我々の禮儀作法が完全なものだと思つてゐる。だからそれと異つた禮儀作法を持つ土人を野蠻人と呼ぶ。しかし土人もまた彼らの禮義作法を完全なものと考へてゐるのである。公平に見れば禮儀作法のないほど粗野な民族もなく、また粗野の跡を殘さないほど禮儀正しい民族もない。土人の社會には服從を矯正するやうな權力も牢獄も官吏もないが、しかし男は若い時には猟人にして戰士であり、老年には評議員となつて辯舌で人を動かす。女は衣食と育兒の世話をし、公の議亊の記憶役をつとめる。ちやんと秩序は立つてゐる。また欲望が少く閑暇が多いから、會話で改善につとめることが出來る。從つて彼らから見れば我々の忙しい生活の仕方は奴隷的で卑しいのである。我々の尊重する學問も彼らには無駄なものである。或協約のあとでアメリカ人側から土人の青年の教育を引きうけようと申出たことがあるが、土人はこの申出を鄭重に取扱つて返亊を翌日まで延ばしたのちに、極めて慇懃に次のやうに答へた。『御好意は深く感謝するが、教育に就いての考へがお互に違ふのは止むを得ない。曾てカレヂで教育を受けた土人の子が、卒業して歸つてくると、猟人にも戰士にも評議員にも向かなくなつてゐた。しかしただお斷りするのも失禮であるから、代りに我々の方からあなた方の子弟の教育を引受る提議を致したい。』これが彼らの見識なのである。それほどであるから彼らはその禮儀作法が白人に劣るとは決して考へてゐない。さうしてそれには尤もな點もあるのである。會話や會議の際の禮儀はその最も顕著なものであらう。辯士が語り始めると聴衆は深い沈黙を守る。語り終つてもなほ五六分は修正の餘裕を與へる。他を遮つて口を出すのは日常の會話の際でさへも非常な不作法とされてゐる。これをイギリスの議會の喧擾やパリの交際社會の話の奪ひ合ひなどに比べると、非常な相違である。尤もこの禮儀は極端に發達して、読者の面前ではその意見に反對せぬといふまでになつてゐる。これでは爭論は防げるにしても聞手の肚は解らない。土人への傳道師の一番の苦手はこの禮儀である。或時瑞典の牧師が土人の酋長を集めて説教した。アダム・イヴの贖罪から始めて基督の受難まで物語つた。すると土人の辯者が立つて感謝の辭を述べた。『あなたのお話は非常によい。林檎を喰べたのは惡かつた。林檎酒にした方がよかつた。こんなに遠方まで來てあなた方の云ひ傳へを話して下すつた好意は感謝に堪へない。就いてはお禮のしるしに我々の方の云ひ傳へをお話ししたい。』そこで酋長は唐もろこしと隠元豆の起源説話を語つた。牧師は不愉快になつて、『私の話したのは神聖は眞理だ。しかし君のは作り話に過ぎない。』土人は怒つて答へた。『どうもあなたは禮儀作法を教はらなかつたらしい。禮儀を心得た我々はあなたの話を悉く本當だと思つた。何故あなた方は我々のを本當にしないのですか。』

フランクリンはなほもう一つ重要な相違として土人の主德の一たる客人優遇の風習をあげてゐる。旅する土人は案内なしに他の村に入ることを決してしない。村に近づくと立留まつて大聲で案内を乞ふ。村からは通例二人の老人が出て來て客を村の中へ案内し、客人のタメの家へ連れて行く。さうして村人たちに客の來たことをふれて歩く。人々が客人の家へ食物を届ける。客がゆつくり食亊をすませた頃に、煙草が出され、會話が始まる。あなたは誰であるか、何處へ行くか、などの問はここで初めて發せられるのである。さうしておしまひに、道案内その他必要なことがあればお役に立たうと申出る。かういふ接待に對して土人は何らの代償をも要求しない。これは白人の客に對しても同様である。然るに土人が毛皮を賣りに白人の町へ出て、腹がへつて食亊をすると、『お金は?』ときかれる。持つてゐなければ『出てうせろ、犬め』とどなられる。土人から見ると白人は全く人の道を知らないのである。

フランクリンはかういふ話を輕い諧謔の調子で書いてゐるが、我々はその底に土人への同情が流れてゐるのを感ずる。少くとも彼は教會で説教してゐる牧師たちよりも土人たちの方が道義的に優れてゐることを認めてゐると思ふ。しかしそれにも拘らず彼は土人をしてその所を得しめる方法を考へようとはしなかつた。新大陸の開拓のためには、氣の毒ながら土人は亡びてもらはねばならぬ。これが彼の態度である。自傳の中で土人との會議の際の土人の亂醉の騒ぎを描いた箇所の終りに彼は云つてゐる。『誠に地上の農耕者に場所を與へるため、これらの野蠻人を絶滅するのが神の企畫であるならば、ラム酒がそのための手段であるかも知れぬといふことはあり得ぬことではない。ラム酒は、曾て海岸地方に住んでゐた部族を、既に悉く絶滅せしめたのである。』卽ち土人ラム酒を飲ませてその弱點を衝くのは、アングロ・サクソンの移民ではなくして、恐らく神様だらうといふのである。しかもフランクリンは、それがアングロ・サクソンの所業であることを百も承知の上で、右の如く云つてゐるのである。

このフランクリンの態度は、土人殺戮に於けるホッブス的原理の活用と同一の亊態を示してゐる。アングロ・サクソン土人に所有權の概念なく從つて土地譲渡の契約が彼らに無意義であることを十分承知してゐたのである。しかも彼らはこの契約を結び、さうして契約違犯を待つて殺戮を行つた。この手續が彼らに必要なのである。この種の心情はフランクリンにも根深く存してゐる。彼は十七八歳の頃菜食主義を實行したことがあるが、魚のフライを揚げる匂をかいでしばしば煩悶した。そこで鱈の胃袋から小さい魚の出て來たことを思ひ出し、魚同士が食ひ合つてゐるのなら、自分が魚を食つて惡いわけはないといふ理屈をつけ、腹一杯鱈を食つた。『理性ある動物たることは誠に好都合なものである。したいと思ふ亊はどんなことでも理由を見出し或は作ることが出來る。』 ーこの心情は彼の政治家としての成功をも助けてゐる。戰爭絶對反對のクェーカー教徒が、火藥費の支出に反對してその代りに『パン、粉、小麥、または他の穀類』の費用を可決したとき、知亊は平氣で火藥を買ひ、その儘ですんだ。このやり方に興味を覺えたフランクリンは、大砲を買ふ金を要求する時に fire engine (消防ポンプ)買入費を要求すればよいと云つた。大砲は fire engine (火器)に違ひないからクェーカー教徒も反對し得ないといふのである。その後土人との戰爭で司令官に任命された時、隊附の牧師が祈禱や説教に兵士等の出ないことをこぼした。その兵士等がラム酒の支給の際には必ず出席してゐるのを知つてゐるこの司令官は、牧師に忠告した。『祈禱のあとで酒を分けることにしては如何です。』この妙案で兵士等は皆祈禱に出席するやうになつた。フランクリンはそれに附け加へていふ、『軍律による處罰よりも、かかる方法の方がよい。』

我々はここに原理によつて行動するといふアングロ・サクソンの態度の眞相を見出し得ると思ふ。アメリカの獨立宣言はアメリカの國家の原理を表現したものであるが、その獨立宣言もまた右の視點からのみ十分に理解せられるであらう。その宣言は、『すべての人は平等に作られてゐる』(All men are created equal)といふ有名な句を以て始まる。さうしてこの句は地球上のあらゆる人に平等の權利を認めるかの如き印象を與へてゐる。ベルグソンの如き哲學者すら、この句をさういふ風に解釋する。彼によれば西洋の古代でも、また東洋に於ても、おのが民族以外の人を差別扱ひした。然るに基督教の四海同胞主義は初めて人權の平等と人格の神聖とを確立した。さうしてそれを十分に實現したのがアメリカのピュリタンの人權宣言である、と。然るにそのアメリカのピュリタンは前述の如くアメリカの土人にその所を得しめようとは決してしなかつたのである。また彼らと共に人權の平等を宣言した南部諸州のアングロ・サクソンは、アフリカから劫掠して來た多數のニグロ奴隷の上に立つてゐたのである。のみならずその後のアメリカの國是は、東洋の諸民族を差別扱ひすることを特徴としてゐる。卽ち前述の如き意味の人權の平等をアメリカ人は毫も認めてはゐないのである。實際またこの獨立の宣言は、本國のアングロ・サクソン人に對して植民地のアングロ・サクソン人が一切の特權を拒否し權利の平等を主張したに過ぎなかつた。卽ち『あらゆる人』と云はれてゐたのは、アングロ・サクソン民族内部のあらゆる人に過ぎなかつた。しかもそれを前述の如き意味に解せられ得るやうな言葉で以て表現したのである。從つて彼らは人權の平等をふり廻しながら平然として土人を殺戮し、依然としてニグロ奴隷を鞭うち得たのである。

アメリカ人と雖もこの矛盾に氣づかぬ筈はない。そこに都合のよい辯護として控へてゐるのがホッブスの人權平等説である。この説もまた『あらゆる人は平等に作られてゐる』といふ句を以て始まり、さうしてその『あらゆる人』は地球上のあらゆる人を意味することが出來る。しかしこの人權の平等は戰爭狀態と同義であつて、平等の慈悲を意味するのではない。この立場に立てば、自然法に基き、正義の名に於て土人の殺戮、奴隷の使用をなし得るのである。そのための手段は『契約』であり、またそれに基く『法律』であつた。

ベルナール・ファイは法律に對する嗜好をアメリカ人の重要な特性の一つに數へてゐる。が同時にその法律が、父祖傳來の行爲の規範なのではなく、嚴しい自然との闘爭の中から新しく作り出されたもの、從つて個人の自由な活動を出來るだけ阻害しないものであることをも指摘してゐる。各人の物質的生活の便宜のために法律が作られるといふ考へがここでは實現されたのである。が我々が特に指摘したいのは國内法の特質よりもむしろ他の民族に對する契約や法律の使ひ方である。ラム酒の效力を用ゐて土人と契約を結んだあの態度は、この後のアメリカの外交政策に一貫して現れてゐると云つてよいであらう。

我々は九十年前にペリーが江戸を大砲で威嚇しつつ和親條約の締結を迫つたことを忘れてはならぬ。もしそれを拒めば、平和の提議に應ぜざるものとして、手段を問はざる攻撃を受けたであらう。大砲に抵抗するだけの國防を有せなかつた當時の日本は、人々の憤激にも拘らず、和親の提議に應ぜざるを得なかつた。もしその後攘夷を實行したならば、契約を守らないといふ不正の立場に追ひ込まれる筈であつた。この手口は更にワシントン條約に於て繰返されてゐる。當時の名目は世界の平和のための軍備縮小である。卽ち依然として平和の提議である。しかし實質は日本の軍備を戰ひ得ざる程度に制限することであつた。しかもそれは米英の重工業の力の威壓の下に提議された。もし日本が拒めば、平和の提議に應ぜざるものとして、米英の軍備擴張を正當化することになる。當時の日本は、重工業の力がなほ不充分であつたためか、或は政治家の短見の故か、この平和の假面をつけた挑戰に應じ得なかつた。この弱味につけ込んで更に支那問題に關する條約を押しつけられた。歐洲大戰爭中日本が支那と結んだ條約は、武力の威嚇の下に強制されたといふ理由で無效とされた。アメリカが日本と結んだ最初の條約は大砲の威嚇の下に強制されたものであるが、それは知らぬ顔で通してゐる。とにかく平和の名の下に日本に不利な條約を押しつけ有利な條約を抹殺したのである。そこでアメリカは、滿洲亊變以後の日本を契約違犯で責め立てた。正義の名によつて日本を絞めつけ、日本をして自存自衞のために立たざるを得ざらしめた。この『平和』や『正義』の名目のホッブス的な性格を理解してゐないと、彼らの宣傳に引つかかる怖れがある。歐洲大戰爭以來、日本ではこの點に少からぬ油斷があつたと思ふ。

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