フリーメーソンと世界革命17(現代文)(完)

 

f:id:caritaspes:20191202004441p:plain

 

28.フリーメーソン、シオン主義(シオニズム
共産主義スパルタクス主義、「ボリシェヴィズム」

 

仏・伊・英・セルビア諸国のフリーメーソンが、世界大戦を扇動したことは、今日ではドイツのフリーメーソンも認めているが、ユダヤ人より成るフリーメーソンが、ユダヤ人の敵たるロシア帝王主義の味方となって、中欧同盟に対する戦争を助けたことについては、誰しも矛盾を感じる所である。しかしながら米国のフリーメーソン派の新聞に依ると、同国のフリーメーソンは、全くロシアを眼中に置いて居なかった。従って米国の参戦を要求するにあたっても、ロシアについては何も言わず、単に英国及びフランスを支援すべきことを説いたのであった。

協商側のフリーメーソンの中にも、各種各様の意見が行われたのは事実である。ロシアのフリーメーソンは、中欧同盟諸国を撃滅し、コンスタンチノープルを占領し、且つ大スラブ国家建設の理想を実現しようとしたのである。ところが同じロシアにおいて、ユダヤ人のフリーメーソンは、第二十世紀の初め以来、秘密裡に大きな発達を遂げ、何よりも皇帝の統治の没落を望んで居たのである。そして一たびその目的を達するや、ついで中央諸国の帝王を倒すことを謀った。そして彼等はドイツの王侯はドイツ人自身に追放させ、最後に「ドイツ」の革命に代えて、「ユダヤ」の革命にしようとしたのである。

ユダヤの革命は、国民に盲従を強いる為に、恐怖政治を行なおうとする。暴力、買収、欺瞞等がその手段である。斯くてユダヤの革命の結果は、無政府、混乱の状態に陥り、結局国民は、彼等=即ちユダヤ人に、自ら進んで世界統治権を献上することを余儀なくされるのである。上記のようなことは、一見極めて荒唐無稽な、又冒険的な計画であるかのように思う人があるかも知れないが、1897年バーゼルで開かれた第一回「シオン」会議の議事録を読んだ人に取っては、何ら不思議はないのである。この議事録は二十四回の集会の議事を記述したもので、厳に秘密とされていたのであるが、ある内通者から、ロシア政府の手に入った。その原文は、フランス語で書かれたもので、その写しは信用できる人々に交付されたが、その内の一人であった学者ニルス[1]は、1901年これをロシア語に翻訳した。このようにして『「シオン」の賢者の議事録』の第一版は、1902年に発行された(ニルスは現在約70歳の正直な学者にして、ウクライナに住んでいる)が、その後多くの発行者の手に同一のものが発行された。ニルス自身も、1917年にモスクワ近傍のセルギウス僧院から第三版を発行させ、これを書籍商に送付しようとして鉄道に積み込みを終わった時に、武装した一隊が現われて、この書籍全部を押収し、街上で焼却破棄してしまった。同時に、当時政権を握ったばかりのユダヤ人「ケレンスキー」(フリーメーソン結社員であった)は、モスクワ、ペトログラード、その他の書籍商全部を調べて、『「シオンの」賢者の議事録』を押収した。しかしその二、三冊はドイツに入り、ドイツ語に翻訳され、(「シオン」の賢者の秘密)という題で1919年に発行された。この翻訳者発行者であるドイツ人ゴットフリート[2]の言に依ると、この議事録の真正なものだということは、ユダヤ人もフリーメーソン結社員も疑わないが、「ニルス」及び「ブツトミ」兄弟の翻訳に係り、さきに出版された分は、大部分がユダヤ人の手に買い占められ、且つ破棄せられたとのことである。

その後世上に現れた所を見ると、(1)世界戦争。(2)露、オーストリア=ハンガリー、ドイツにおける帝政の潰滅。(3)共産主義フリーメーソン社員が醸生した混乱状態(この混乱状態の結果、彼等が二百年来計画している所のフリーメーソン社員であるユダヤ人の指導による人道同盟を作ることを、彼等は予期している)等は、今日既に実現したのであるから、この議事録について詳細な観察を試みるのは、決して無益ではあるまい。そこで、その記事の要点を説明する。

ユダヤ人が世界統治のために戦っていることは、今や盲目でない限りは、誰の目にも明らかな事であって、「シオン」の議事録に、次のように極めて率直に言明していることは、これを裏書きするものである。

吾人(ユダヤ人)は、強き名誉心、燃えるが如き所有欲、激烈なる復讐心、及び憎悪を抱いている、と。

ユダヤ人の世界統治の爲の原則は、非ユダヤ人に取っては注意に値する。即ち左の通りである。

統治者は、奸智、悪意、欺瞞を用いなければならない。国政をとるにあたり、公明正大なものは、更に有効な手段を用いる敵のために、その地位を奪われてしまうであろう、と。

ユダヤ人の唱える自由、平等、親睦(博愛)等は、ユダヤ人の専制を受けるべきキリスト教徒の国民をだますための標語に過ぎないことは、ユダヤ人仲間では、一も二も無く認められていることである。つまり彼等は赤裸々に次の如く言うている。

吾人(ユダヤ人)が国家に「自由」という毒薬を注射した今日、(1897年)、既に各国は危篤に瀕している。間もなく、最後の時が来るであろう云々と。

ユダヤ人によって世界が統一された暁には、非ユダヤ人には「自由」も、「権利」もなくなることは無論のことである。これについては、次の様に言っている。

吾人(ユダヤ人)は、非ユダヤ人中より傑出した人物の出ることを妨げることが出来るが、万一そう言う人物が出ても、吾人は群衆を指導してこの種の人物を葬り去るであろうと。

ユダヤ人の世界統治には恐怖政治を用いることは、彼等自ら次の如く言うている所を見れば明らかである。

平和的占領に依って創設さるべき我が国家は、戦争の恐怖に代えて、あまり目立たないでしかもそれだけ有効な刑罰を以てするであろう。即ち絶対的盲従を強いるため、恐怖政治を敷かねばならぬ云々と。

経済戦争が、ユダヤ人の世界統一の基礎を成すべきことは、次の文句によって知るべきである。

我々は労働者をして、賃金の増加を要求させるが、労働者はそれによって決して利益を得ない。何故なら我々は同時に生活必需品、及び日用品の価格を騰貴させるからである、云々。

我々は農工業生産の基礎を揺るがすために、労働者をして不規律、飲酒の悪癖に陥らせるであろう。云々。

我々は非ユダヤ人を誘惑して、奢侈浪費(贅沢や無駄遣い)の悪習に陥らせるであろう。

この議事録の中で、フリーメーソンについて、次の様に言っているのは意味深いことである。

フリーメーソンの仕事を指導すべきものは、我々(ユダヤ人)以外にない事は無論である。と言うのは、我々のみが結社の目的を承知しているのであって、非ユダヤ人は全くこれを知らないからである。

世界の叛乱の裏面には、必ずユダヤ人が居ることは、シオンの議事録の中にある次の文言によって明らかである。

世界における叛乱は、我々(ユダヤ人)が非ユダヤ人の国家の強固な結束を打ち破る為に起こさせたものである。各種の陰謀の頭首には、必ず我が忠実なる下僕が立っている云々。

従来行われた戦争(今次の世界戦争をも含む)に関しては、既に1897年に次の様に言うている。

ユダヤ人の国家が我々に対し反抗を敢てする場合には、我々は直ちにその隣国をして、この国に対し戦争を開始させねばならない、云々。

若しその隣国も、また、この国と共同して我々に反抗しようとする場合には、我々は世界戦争を勃発させなければならない、云々。

ユダヤ人の国家を圧迫するための方策は、これを要約すれば、その一国に対し、恐怖手段で我々の威力を示すにある。

王侯の殺害についても多く記述されている中に、次の文言がある。

その下手人は、我々の使用に供せられた家畜の群中の盲目の羊のようなものであって、自由に関する二、三の言論によって、容易に暗殺を扇動することが出来るのである。

そしてこのことは単に王侯のみに止まらず、いやしくもユダヤ人に対して妨害する者は、同様の運命に遭って、その死期を早められるのである。シオンの議事録には、これに関して次のように書いてある。

フリーメーソン結社の刑罰は、我々の仲間以外には、その当人でさえ自然の死によって死んだものだと思うように実行するのである。

ユダヤ人がその預言者の示したユダヤ人の世界統一を如何に確信しているかは、次の文章を見るとわかる。

我等ユダヤ人は、昔から予期されている所の、全然新たな国家を建設するため、各国民を吾人のものとすべきことを期している。この爲、我々の指導者としては、比類なき大胆と精神の力を以て、その目標に向かい邁進する様な人物を得ることに努力しなければならない。(例えばロシアのレーニンハンガリー過激派政府首領ベラ・クン[3]バイエルン過激派政府首領クルト・アイスネル[4]のような人物のことであろう)。

国家の崩壊は、各国同時に行なわれるべきものとしている。

我々が一旦統一の目的を達した暁には、我々(ユダヤ人)に対する陰謀を防ぎ止めなければならない。我々は我々及び我々の統治に対し、武器を執って反抗するものは、仮借する所なく殲滅しなければならない。新たに秘密結社を作ることも、同じく死を以て罰しなければならない。今日現存する秘密結社(フリーメーソン)が、過去及び現在に於て、我々のため大いに役に立っているが、世界統一後は断然これを解散させ、その結社員中、ユダヤ人以外の者は、欧州より遠く隔たった土地に追放するであろう。云々。

共産主義に関し、シオンの賢者は、非ユダヤ人が自然の法則に反する平等(社会階級撤廃)の思想を受け容れたのは、彼等の頭脳の低級を証明するものだと笑っている。即ちユダヤ人は非ユダヤ人を惑わし、一般的の争乱を生じさせるために、この標語(平等)を民衆の中に投じたのである。つまり非ユダヤ人同志を争わせ、結局ユダヤ人の世界統治を受け入れるしかない様にしようとしているのである。これが果たしてシオン主義者の意図であろうか。シオン主義とは、パレスチナの地に創設されるであろう純ユダヤ国に、全ユダヤ人を集合させることを目的とする運動のことであるとは、一般に信じられている所であるが、実際はそうではないのである。

ユダヤシオンは、単に貧しいユダヤ人、殊にロシアの貧しいユダヤ人を収容し、同時に又世界の主たるユダヤ人の郷土的国家であるべきものである。これは信じ難い事の様ではあるが、シオンの議事録にはちゃんと記述されているのみならず、事実上我々は現に世界的争乱を経験しつつあるではないか。シオンの賢者の言う所によれば「如何なる国家も、平穏に国力を充実させてはならない」のであって、この趣旨に基づいて、階級間の闘争を扇動し、政治的犯罪を賞賛し、正義の主張を圧迫し、国民を計画的に堕落させ、キリスト教の信仰を嘲笑するに至らしめたのである。

ここで注意すべきことは、宗教に反対する嘲笑は、ユダヤ教の信仰には決して触れていないことである。1897年、バーゼルで議論された事(シオンの議事録にあること)の内、多くのことは既に実行された。無政府主義者によるエリーザベト皇后[5]殺害(1898年)。セルビアフリーメーソン社員による皇太子フェルディナンド殺害(1914年)。世界戦争、及びその終局。1918年11月9日の革命などが、つまりこれであって、その後の世界を擾乱に陥れ、適当の時期にユダヤの世界統一を成就するために、各種のユダヤ的騒乱が繰り返されているのである。

バイエルンの革命[6]の首領であったクルト・アイスネルは、ワルシャワでイスムノフと言う名を騙り、ポーランドユダヤフリーメーソン組合の棟梁であった者で、又ミュンヘンではヴァン・エスラエロウィッツと言う名を騙り、ユダヤ人の秘密組合の長ともなっていた。彼は革命成功後の得意時代に、その同僚に対し「この革命は十一名の手で成し遂げた」と語った。この十一名は、全てユダヤ人で、ミュンヘンフリーメーソン結社に属していた(訳者註、この十一名及びドイツの名士にして、且つフリーメーソンの有力者たる者の氏名を列記するも之を略す)。要するにバイエルンの過激者革命は、全然ユダヤフリーメーソンの仕事であったことは、同政府の有力者が、何れもユダヤ人であったことを見れば明らかである。

スパルタクス[7]について一言うと、スパルタクスなる名称は、古代ローマ奴隷解放スパルタカスの名に因んだと、団員自ら言っているが、スパルタクス団の指導者は、十八世紀末アダム・ヴァイスハウプト教授[8]の創設したイルミナティ組合に属して居り、このヴァイスハウプトの仮名を、スパルタクスと言ったことから、スパルタクスと言う名称が起こったのである。

イルミナティ組合は、フリーメーソンの上の秘密結社であって、その社員は総てフリーメーソン社員であるが、フリーメーソン社員は必ずしもイルミナティ組合に属してはいない。この組合は1785年、バイエルンで、国家に害があるものとして禁止されたが、十九世紀に再びドレスデンに設立された。カール・リープクネヒトはこの組合に属し、ローザ・ルクセンブルグはよくこの団員と交際していた。1918年9月に押収されたスパルタクス団の書類に依ると、彼等はロシアの例にならって、ドイツ国内に一代惨劇を演じようと計画して居た。

ユダヤ人の秘密結社は、帝政主義者の疑いがあるドイツ人の名簿を作り、事を起こすと共にこれらのドイツ人を除こうと計画した。

現時最悪の状態にあるのはロシアであるが、同国では457人のボリシェヴィキ(過激派)が、恐怖政治を実行しているのであって、その内422人はユダヤ人である。それ以外は殆どすべて前科者である。レーニン[9](本名ウリヤノフ・ツェーデルンボーム)は、以前から、世界戦争前、スイスのあるフリーメーソンの秘密組合に属していた。この組合は世界革命を目的としていたものである。トロツキー(本名ブラウンスタイン)及びラデック(本名ゾベルゾーン)は、同一の陰謀団に属していた。レーニンユダヤ人であることを否定しようと、色々試みているが、彼はユダヤ人である。ユダヤ人が、ボリシェヴィズムをロシアに輸入し、且つ拡めたことは、今日では彼等自ら公然これを認めている。例えばユダヤ人コーハンは、1919年4月12日、ロシアのハリコフ発行の新聞コミュニストに、次の様に書いている。[10]

ロシアの大革命は、ユダヤ人の事業であると言っても決して過言ではない。我々(ユダヤ人)は、赤軍の最高統帥権が、レオ・トロツキー(本名ブラウンスタイン)の手裡にある限りは、安心していることが出来る。

1919年3月、ハンガリーに建設された労農共和国の政府は、全くユダヤ人ばかりから成り立って居た(訳者註、氏名略す)[11]。134日間の共産党の政治は、ハンガリーに癒すべからざる損害を与えた。幾千人が罪なくして惨殺され、当局者たるユダヤ人は、30億クローネの金、宝石、装飾品等を奪い去った。一億9,700万クローネは、オーストリア共産党の資金として同国に送られた。

ハンガリーに過激派政府が設立された時『イスラエルの国民』なる声が起こり、ユダヤ人はその預言者の命令に基づき、ハンガリー全国を領有すべきものだと主張し、又掲揚された旗には、革命の赤旗と共にシオンの旗たる藍と白の旗もあったことは、大いに注目に値することである。シオンの賢人達が、既に1897年に予期していた「大いなる擾乱」は、今や現実となった。今やユダヤ人の世界統治は始まったのである。

フリーメーソン、シオン主義、スパルタカス主義、共産主義、及びボリシェヴィズムの関係を疑う者の目を開く為に一言したい。国際連盟は、ユダヤ国の旗たる藍と白との旗を掲げるであろう。

この旗は、ユダヤ人に屈服したすべての国民が自ら誇りとする旗となるであろう。

 

f:id:caritaspes:20191217001818p:plain

国際連盟

f:id:caritaspes:20191217001907p:plain

原文にある旗のイラスト

 

[1] Sergei Aleksandrovich Nilus(Серге́й Алекса́ндрович Ни́лус)セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・ニルス(1862~1929)は、ロシア帝国ソビエト連邦の学者で神秘思想家。

[2] Gottfried zur Beek,(Ludwig Müller von Hausen)本名:Louis Eduard Julius Müllerはドイツの反ユダヤ的ジャーナリスト(1851~1926)。ゴットフリートは、「シオン賢者の秘密」でのペンネーム。

[3] Kun Bela(1886~1939)はハンガリーにソヴィエト共和国成立を宣言しボリシェヴィキスタイルの恐怖政治でハンガリー人を多く虐殺した。

[4] Kurt Eisner(1867~1919)は第一次大戦中に反戦運動から労働者デモを煽動し、叛逆罪に問われたが、終戦間近に釈放後、ドイツの混乱に乗じてミュンヘン革命を起こしバイエルンの王家を追放し、バイエルン自由州の首相になったが、選挙で惨敗後、右翼将校に暗殺された。

[5] オーストリア=ハンガリー帝國皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。1898年9月、旅行中のジュネーヴレマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害され、その生涯を閉じた。

[6] 第一次世界大戦後の1919年に、バイエルン社会主義者たちが革命を起こして一時的に作った社会主義政権。成立後すぐさま前線から帰還して来た軍の討伐を受けて消滅している。

[7] 1915年から1918年まで存在したドイツの急進的マルクス主義者らによる政治団体ドイツ社会民主党の分派として誕生し、ドイツ共産党の前身となった。1919年1月5日から1月12日にベルリンで武装蜂起するが、第一次大戦から帰還した将兵義勇軍(フライコープ)に鎮圧され、首謀者のカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが処刑された。

[8] Johann Adam Weishaupt(1748~1830)は秘密結社イルミナティの1776年の創始者ともいわれるが異論もある。この秘密結社はフリーメーソンを乗っ取ってフランス革命を起こしたともいわれている。また、アメリカ独立戦争にも関係した。フリーメーソン中の秘密組織で現在も存在すると言われている。

[9] 原典:Uljanow=Zedernboom、英語式綴りは、Ul'yanov= Zedernbaum(ウリヤノフ=ゼーデルンバウム)一般にレーニンの本名はウリヤノフと言われているが、出身地ウリヤノフスクからの偽名である可能性が高い。そうなると、ゼーデルンバウムこそ、本名ではないかと思われる。(燈照隅コメント) 

[10] 原典:M.Kohan、Zeitung „Der Kommunist“(Charkow, Rußland)英語式綴りでは、Newspaper “The Communist”(Kharkiv, Russia)

[11] 原典より名前だけ抜粋します:Tibor Szanuely、統治評議会議長のAlexander Garbai(=Grünbaum)、軍部のBostanzi(=Bienenstock)、権利のRonai(=Rosenstengel)、財政のBarga(=Weichselbaum)、首都のVince(=Weinstein)、食糧・工業のMoritz Erdelyt(=Einstein)、Bela Vago(=Salzberger)、警察のBela Bico(=Bienenstock 二人目)、全員がユダヤ人である。Oskar Czernyだけはユダヤ人でないことになっているが、その殺人鬼ぶりでソヴィエト政府に属する有能さを遺憾なく発揮した。

 

 

29.結論

 

私はスラブ運動を以て、世界戦争の七個の主要原因の一つに数えた。当時この意見には多くの反対者があったが、それ以後の出来事は、私の言葉の的中したことを証した。国家危急存亡の時にあたり、因循姑息[12]にして、状況に通暁[13]せず、又計画なき政府を有する程、不幸な事はない。

戦争中宣伝に用いられたドイツの野蛮、プロシャの軍国主義、虐げられた小民族の解放、人道、文明、文化のための戦争等の語は、結社員マッツィーニが既に70年前に対オーストリア戦争の際用いた言葉であって、今次の大戦では、世界フリーメーソンの用語となったのであった。本書は世界大戦の諸原因中、新スラブ運動に比べて遙かに重要な原因を述べたのである。この他、独墺両国、ドイツ主義、ドイツ国の勢威、専制君主、非キリスト的なもの、要約すれば彼等の所謂「チュートン民族の野蛮」に対する収まる事の無い憎悪心は、また大戦の原因となったものである。

私がフリーメーソンの研究に着手するや、既知未知の人々より多数の有望なる資料の寄贈を受けた。又私は二十以上の書店と連絡を取り、新旧の参考書を購入し、その数今や百五十部以上に達している。私はこの内から約五千に達する事項を抜粋し、本書の予備作業とした。しかし本書は簡単にして、内容を豊富にし、直接一般民衆の読み物であるようにしたため、私の資料中より甚だ多くを省略せざるを得なかった。

私の多く引用した書籍はHermann Grubel、Dr. Peter Gerhard、Dr. Brauweiler、Dr Waltber等の著書である。

本書の著述にあたり、私は諸方面よりフリーメーソンの秘密を公表する時は、一身上の危険に遭遇すべき怖れがあることを警告された。その例としてフランス議員シヴトン[14]の運命、ウィリアム・モルガン[15]の暗殺、マルキール・デ・モーレー[16]の不可思議なる最後、ウァレリオ大尉[17]、及び知事ローレンソー[18]の変死、その他十数件の実例を聞かされた。しかし少なくとも我が蹂躙されたドイツ国民の眼を開かせようと欲する私の決心は変わらなかった。

私は尚フリーメーソン社員は、世間周知の通り非常に怜悧で、且つ用心深いことを考えた。若し彼等が私に対して何か企てることあれば、全世界は彼等を目してその首謀者となすであろう。之は彼等に取って、最も望ましくないことで、その仕事に非常な障碍を来たすことになるであろう、又彼等としては、旧約聖書の原則通り「眼をもって眼に報い」、「同じことをもって同じことに報い」られるかも知れないことを考えなければならない。

今日ではフリーメーソンの元首の姓名も住所も分かっているし、わが国ではポルトガルの様に暗殺人を傭って、勝手に王や気に入らない大臣を暗殺するという様な事は無い。我が国にもフリーメーソンの率いる社会民主党の首領に、政治的な暗殺者がいるが、社会民主党員でも、今日においては政治的暗殺は何等の効果も無い事を悟ったであろう。即ちフリードリッヒ・アドラー[19]は、その告白する所によると、シュテルク伯[20]の暗殺を以て戦争を速やかに終了すること[21]が出来ると考えた。その結果は反対に戦争を長引かせることになり、不幸な講和について、その責任を負わねばならなくなった。

読者は、本書に依って、今次大戦の恐るべき流血に対しては、ドイツも、各国の政府も、その責任がなく、世界フリーメーソンという暗黒にして秘密的な勢力が、その主因をなしたものであり、此の勢力の背後に隠れて、各国民の運命を操ったものは、世界ユダヤ主義であった事を悟られたことと思う。

最後に共和政体に対する私の立場は、次の通りである。ドイツ人統治の下に、各人は全般の幸福のために企図する様な良好な独墺共和国は、悪い君主国に比べて百倍好ましい。これに対し有為にして良好な輔助者を有するドイツ皇帝の下にあるよき君主国は、成り上り者や、犯罪者で構成される共和国に比べれば、千倍も好ましい。

 

                              -畢-(完)

 

[12] 古い習慣ややり方にとらわれて改めようとせず、その場しのぎに終始するさま。

[13] ある物事についてたいへん詳しく知っていること。精通。

[14] Gabriel Syveton(1864~1904)はフランスの歴史家、政治家。フランス愛国者国家主義的であり、人権同盟に対抗して居た。その後、フリーメーソンが作成したカトリック信者のカードをめぐる醜聞に巻き込まれ、陸軍大臣を議場で殴り、その場で逮捕された。その後、裁判所に出廷予定の前日、部屋のガス暖房器具の不具合で窒息死した。

[15] William Morgans(1774~1826)は米國のレンガ職人。品行が悪い彼を地元のロッジが相手にしなかったことに怒り、メーソンの秘密を暴く本を出版すると公言した。1826年9月、些細なことで逮捕され、その後、数人の男が来て彼を保釈させそのままフォート・ナイアガラに連れて行った。そこから行方が分からなくなり、ボートで湖に出て行ったとも言われた。1848年になってHenry L. Valanceが彼を殺したと主張した。(真相は不明)

[16] Marquis de Morès(1858~1896)は反ユダヤ主義のフランスの政治家。軍人。フランスの勢力を強化しようとチュニスからスーダン方面に移動中、旅案内人を装った暗殺団(Tuaregの一団)に暗殺された。

[17] Hauptmanns Valerio フランスのドレフュス事件で殺された人物の一人。

[18] Präfekten Laurenceau フランスのドレフュス事件で殺された人物の一人。

ドレフュス事件とはスパイ容疑で逮捕されたユダヤ人アルフレド・ドレフュス大尉の冤罪事件。真犯人はハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐であったらしい。ドレフュスの弁護人は総てユダヤフリーメーソンであったという話。真相はどうあれ、これはユダヤ人差別に反対する格好の宣伝材料だった。

[19] Friedrich Adler(1879~1960)はオーストリア社会主義者。フリッツ・アドラーとも。両大戦間期においてオットー・バウアーとならぶオーストリア社会民主党社会民主労働党)左派の指導者であり、またウィーン・インターナショナルおよび社会主義労働者インターナショナルの創設に関わった。

[20] Karl Graf von Stürgkh(1859~1916)フォン・シュテルク伯は、オーストリアオーストリアハンガリー二重帝国)の貴族・伯爵・政治家。第一次世界大戦開戦時の首相を務めた。在任中、1916年10月21日、ウィーンのホテルで社会民主党左派の指導者フリードリヒ・アドラーによって射殺された。F・アドラーは死刑を求刑されたが、公判での彼の弁論は戦争を嫌悪していた国民の支持を受け、結局敗戦による二重帝国の崩壊に伴い恩赦で釈放、その後も政治活動を続けた。

[21]原文:終了せざること。文意から終了せることの間違いと思われる。

 

 

 

 

(奥附)

大正十二年八月四日印刷納本

大正十二年八月七日初版刊行

大正十三年三月三十日再版刊行

 

訳者兼  内藤順太郎
発行者

印刷者  淡谷貞蔵

 

発行所  東亞社出版部

 

 

 

フリーメーソンと世界革命17(原文)(完)

f:id:caritaspes:20191202004441p:plain

 


28.フリーメーソン、シオン主義(シオニズム
共産主義スパルタクス主義、「ボリシェヴィズム」

 

佛・伊・英・セルビア諸國のフリーメーソンが、世界大戦を煽動したことは、今日では獨逸のフリーメーソンも之を認めて居るが、猶太人より成るフリーメーソンが、猶太人の敵たる露西亜帝王主義の味方となりて、中欧同盟に對する戦爭を助けたことに就ては、誰しも矛盾を感ずる所である。併しながら米國フリーメーソン派の新聞に依ると、同國のフリーメーソンは、全く露國を眼中に置いて居なかつた。従つて米國の参戦を要求するに方つても、露國に就ては何等云ふ所なく、單に英國及佛國を支援すべき事を説いたのであつた。

協商側のフリーメーソンの中にも、各種各様の意見が行はれたのは事實である。露國のフリーメーソンは、中欧同盟諸國を撃滅し、コンスタンチノープルを占領し、且つ大スラブ國家建設の理想を實現せんとしたのである。然るに同じ露國に於て、猶太人のフリーメーソンは、第二十世紀の始め以來、秘密裡に大なる發達を遂げ、何よりもツァーリの統治の没落を望んで居たのである。而して一たび其目的を達するや、尋(つい)で中央諸國の帝王を倒すことを謀つた。而して彼等は獨逸の王侯は、獨逸人自身をして之を放逐せしめ、最後に「獨逸」の革命に代ふるに、「猶太」の革命を以てせんとしたのである。

猶太の革命は、國民に盲従を強ひる爲めに、恐怖政治を行はんとするのである。威力、買収、欺瞞等は其手段なのである。かくて猶太の革命の結果は、無政府、混亂の状態に陥り、結局國民は、彼等=即ち猶太人に、自ら進で世界統治權を捧呈するの餘儀なきに至らしめんとするのである。上記の如き事は、一見極めて荒唐無稽なる、又冒険的の計畫であるかの如く思ふ人があるかも知れないが、1897年バーゼルに開かれた第一回「シオン」會議の議事録を読んだ人に取つては、何ら不思議は無いのである。此議事録は二十四回の集會の議事を記述したもので、厳に秘密とせられて居たのであるが、或る内通者から、露國政府の手に入つた。其原文は、佛語で書かれたもので、其写は信用ある人々に交附されたが、其内の一人たる學者ニルス[1]は、1901年之を露語に翻訳した。かくて『「シオン」の賢者の議事録』の第一版は、1902年に發行された(ニルスは現在約七十歳の正直な學者にして、ウクライナに住んで居る)が、其後多くの發行者の手に同一のものが發行された。ニルス自身も、1917年に莫斯科(モスクワ)近傍のセルギウス僧院から第三版を發行させ、之を書籍商に送附せんとして鐡道に積込を終つた時に、武装せる一隊が現はれて、此書籍全部を押収し、街上に於て焼棄してしまつた。之と同時に、當時政權を握つた計りの猶太人「ケレンスキー」(フリーメーソン結社員たり)は、莫斯科、ペトログラード、其他の書籍商全部を調べて、『「シオンの」賢者の議事録』全部を押収した。併し其二、三冊は獨逸に入り、獨逸語に翻訳され、(「シオン」の賢者の秘密)なる標題を以て、1919年に發行された。此翻訳者發行者たる獨逸人ゴットフリート[2]の言に依ると、此議事録の眞正なものだと云ふことは、猶太人もフリーメーソン結社員も、之を疑はないが、「ニルス」及び「ブツトミ」兄弟の翻訳に係り、曩(さき)に出版された分は、大部分猶太人の手に買占められ、且つ破棄せられたとのことである。

其後世上に現はれた所を見ると、(1)世界戦爭。(2)露、墺匈、獨逸に於ける帝政の潰滅。(3)共産主義フリーメーソン社員が醸生したる混亂状態(此混亂状態の結果、彼等が二百年來計畫して居る所のフリーメーソン社員たる猶太人の指導に依る人道同盟を作ることを、彼等は豫期して居る)等は、今日既に實現したのであるから、此議事録に就て詳細なる観察を試みるのは、決して無益ではあるまい。依つて今、其記事の要點を説明する。

猶太人が世界統治の爲めに戦つて居ることは、今や盲目でない限りは、誰の目にも明らかな事であつて、「シオン」の議事録に、次の如く極めて率直に言明して居ることは、之を裏書きするものである。

吾人(猶太人)は、強き名譽心、燃ゆるが如き所有欲、激烈なる復讐心、及憎悪を懐いて居る、と。

猶太人の世界統治の爲の原則は、非猶太人に取りては注意に値する。即ち左の通りである。

統治者は、奸智、悪意、欺瞞を用ひざるべからず。國政を執るに方り、公明正大なるものは、一層有効なる手段を用ふる敵の爲めに、其地位を奪はるゝに至るであらう、と。

猶太人の唱ふる自由、平等、親睦(博愛)等は、猶太人の専制を受くべき基督教國民を瞞着する(だます)爲めの標語に過ぎないことは、猶太人仲間では、一も二も無く認められて居ることである。即ち彼等は赤裸々に次の如く云ふて居る。

吾人(猶太人)は、國家に「自由」なる毒薬を注射した今日、(1897年)、既に各國は危篤に瀕して居る。間も無く、最後の時が來るであらう云々と。

猶太人に依つて世界が統一された暁には、非猶太人には「自由」も、「權利」もなくなることは無論のことである。之に就ては、次の様に云つて居る。

吾人(猶太人)は、非猶太人中より傑出せる人物の出ることを妨げることが出來るが、萬一そう云ふ人物が出ても、吾人は群衆を指導して此種の人物を葬り去るであらうと。

猶太人の世界統治には、恐怖政治を用ふべきことは、彼等自ら次の如く云ふて居る所を見れば明かである。

平和的占領に依つて創設せらるべき我國家は、戦爭の恐怖に代うるに、餘り目立たないで而かもそれ丈け有効なる刑罰を以てするであらう。即ち絶對的盲従を強ひる爲め、恐怖政治を敷かねばならぬ云々と。

経済戦爭が、猶太人の世界統一の基礎を成すべきことは、次の文句に依つて知るべきである。

吾人は労働者をして、労銀の増加を要求せしめるが、労働者はそれに依つて決して利益を得ない。何となれば吾人は同時に生活必需品、及び日用品の價格を騰貴せしめるからである、云々。

吾人は農工業生産の基礎を動揺せしめる爲め、労働者をして不規律、飲酒の悪癖に陥らしめるであらう。云々。

吾人は非猶太人を誘惑して、奢侈浪費(贅沢や無駄遣い)の悪習に陥らしめるであらう。

此議事録の中で、フリーメーソンに就て、次の如く云ふて居るのは意味の深いことである。

フリーメーソンの仕事を指導すべき者は、吾人(猶太人)以外に無い事は無論である。蓋し吾人のみが結社の目的を承知して居るのであつて、非猶太人は全く之を知らないからである。

世界の叛亂の裏面には、必ず猶太人あることは、シオンの議事録の中にある次の文句に依つて明らかである。

世界に於ける叛亂は、吾人(猶太人)が非猶太人の國家の鞏固なる結束を打ち破る爲めに起させたものである。各種の陰謀の頭首には、必らず我忠實なる下僕が立つて居る云々。

従來行はれた戦爭(今次の世界戦爭をも含む)に關しては、既に1897年に於て次の様に云ふて居る。

非猶太人の國家が吾人に對し反抗を敢てする場合には、吾人は直に其隣國をして、此國に對し戦爭を開始せしめねばならぬ、云々。

若し其隣國も、亦此國と共同して吾人に反抗せんとする場合には、吾人は世界戦爭を勃發せしめねばならぬ、云々。

非猶太人の國家を壓迫する爲めの方策は、之を約言すれば、其一國に對し、恐怖手段を以て吾人の威力を示すにある。

王侯の殺害に就ても多く記述されて居る中に、次の文句がある。

其下手人は、吾人の使用に供せられたる家畜の群中の盲目の羊の如きものであつて、自由に關する二、三の言論に依つて、容易に之を煽動することが出來るのである。

而して此事は單に王侯のみに止らず、苟も猶太人に對して妨害を爲すものは、同様の運命に遭遇して、其死期を早められるのである。シオンの議事録には、之に關して次の如くに書いてある。

フリーメーソン結社の刑罰は、吾人の仲間以外には、其當人さへも自然の死に依つて死ぬるものだと思ふ様に實行するのである。

猶太人が其預言者の示せる猶太人の世界統一を如何に確信して居るかは、次の文章を見るとわかる。

我等猶太人は、昔から豫期されて居る所の、全然新なる國家を建設する爲め、各國民を吾人のものとすべきことを期して居る。これが爲め吾人の指導者としては、比類なき大膽と精神の力とを以て、其目標に向ひ邁進する様な人物を得ることを勉めねばならぬ。(例へば露國のレーニン、匈牙利過激派政府首領ベラ・クン[3]バイエルン過激派政府首領クルト・アイスネル[4]の如き人物の謂ならん)。

國家の崩壊は、各國同時に行はるべきものとして居る。

吾人が一旦統一の目的を達した暁には、吾人(猶太人)に對する陰謀を防遏(ぼうあつ)せねばならぬ。吾人は吾人及び吾人の統治に對し、武器を執りて反抗する者は、仮借する所なく之を殲滅せねばならぬ。新に秘密結社を作ることも、同じく死を以て罰せねばならぬ。今日現存せる秘密結社(フリーメーソン)が、過去及び現在に於て、吾人の爲め大に役に立つて居るが世界統一後は、全然之を解散せしめ、其結社員中、猶太人以外の者は、歐洲より遠く隔たつた土地に放逐するであらう。云々。

共産主義に關し、シオンの賢者は、非猶太人が自然の法則に反する平等(社會階級撤廃)の思想を受け容れたのは、彼等の頭脳の低級を證明するものだと笑つて居る。即ち猶太人は非猶太人を惑はし、一般的の紛亂を生ぜしむる爲めに、此標語(平等)を民衆の中に投じたのである。即ち非猶太人同志を爭はせ、結局猶太人の世界統治を受くるの餘儀なきに至らしめやうとして居るのである。之が果してシオン主義者の意圖であらうか。シオン主義とは、パレスチナの地に創設さるべき純猶太國に、全猶太人を集合せしむることを目的とする運動の謂であるとは、一般に信ぜられて居る所であるが、實際はそうでは無いのである。

猶太シオンは、單に貧しき猶太人、殊に露國の貧しき猶太人を収容し、同時に又世界の主たる猶太人の郷土的國家たるべきものである。之は信用し難い事の様ではあるが、シオンの議事録にはちゃんと記述せられて居るのみならず、事實上吾人は現に世界的紛亂を経験しつゝあるではないか。シオンの賢者の言ふ所に依れば「如何なる國家も、平穏に國力を充實させてはならぬ」のであつて、此趣旨に基いて、階級間の爭闘を煽動し、政治的犯罪を賞賛し、正義の主張を壓迫し、國民を計畫的に堕落せしめ、基督教の信仰を嘲笑するに至らしめたのである。

茲に注意すべきは、宗教に反對する嘲笑は、猶太教の信仰には決して触れて居らぬことである。1897年、バーゼルにおいて議せられた事(シオンの議事録にあること)の内、多くのことは既に實行せられた。無政府主義者のエリーザベト皇后殺害[5](1898年)。セルビアフリーメーソン社員が皇太子フェルディナンド殺害(1914年)。世界戦爭、及び其終局。1918年11月9日の革命等は、即ち之であつて、其後の世界を擾亂に陥れ、適當の時期に猶太の世界統一を成就する爲めに、各種の猶太的騒亂が繰り返されて居るのである。

バイエルンの革命[6]の首領たりしクルト・アイスネルは、ワルシャワに於てイスムノフといふ名を以て、波蘭猶太人のフリーメーソン組合の棟梁たりし者で、又ミュンヘンではヴァン・エスラエロウィッツと云ふ名を以て、猶太人の秘密組合の長ともなつて居た。彼は革命成功後の得意時代に、其同僚に對し「此革命は十一名の手で成し遂げた」と語つた。此十一名は、総て猶太人で、ミュンヘンフリーメーソン結社に属して居つた(訳者註、此十一名及び獨逸の名士にして、且つフリーメーソンの有力者たる者の氏名を列記するも之を略す)。要するにバイエルンの過激者革命は、全然猶太のフリーメーソンの仕事であつたことは、同政府の有力者が、何れも猶太人であつたことを見れば明かである。

スパルタクス[7]に就て一言せんに、スパルタクスなる名稱は、古代ローマ奴隷解放スパルタカスの名に因んだと、団員自ら云つて居るが、スパルタクス団の指導者は、十八世紀末アダム・ヴァイスハウプト教授[8]の創設したイルミナティ組合に属して居り、此ヴァイスハウプトの仮名を、スパルタクスと言つたのから、スパルタクスなる名稱が起つたのである。

イルミナティ組合は、フリーメーソン以上の秘密結社であつて、其社員は凡てフリーメーソン社員であるが、フリーメーソン社員は必ずしもイルミナティ組合に属しては居ない。此組合は1785年、バイエルンに於て、國家に害があるものとして禁止せられたが、十九世紀に再びドレスデンに設立せられた。カール・リープクネヒトは此組合に属し、ローザ・ルクセンブルグはよく此団員と交際して居つた。1918年9月に押収されたスパルタクス団の書類によると、彼等は露國の例に倣つて、獨逸國内に一大惨劇を演じやうと計畫して居た。

猶太人の秘密結社は、帝政主義者の疑ある獨逸人の名簿を作り、事を擧ぐると共に之を除かうと計つた。

現時最不良の状態に在るのは露國であるが、同國では457人のボリシェヴィキ(過激派)が、恐怖政治を實行して居るのであつて、其内422人は猶太人である。其餘りは殆ど全部前科者である。レーニン[9](本名ウリヤノフ・ツェーデルンボーム)は、夙に世界戦爭前、瑞西の或るフリーメーソンの秘密組合に属して居た。此組合は世界革命を目的として居たものである。トロツキー(本名ブラウンスタイン)及びラデック(本名ゾベルゾーン)は、同一の陰謀団に属して居た。レーニンの猶太人たることを否定せんと、色々試みて居るが、彼は猶太人である。猶太人が、ボリシェヴィズムを露國に輸入し、且つ拡めたことは、今日では彼等自ら公然之れを承認して居る。例へば猶太人コーハンは、1919年4月12日、露國ハリコフ發行の新聞コミュニストに、次の様に書いて居る[10]

露國の大革命は、猶太人の事業であるといふも決して過言ではない。吾人(猶太人)は、赤軍の最高統帥權が、レオ・トロツキー(本名ブラウンスタイン)の手裡にある限りは、安心して居ることが出來る。

1919年3月、匈牙利に建設された労農共和國の政府は、全然猶太人計りから成り立つて居た(訳者註、氏名略す)[11]。134日間の共産黨の政治は、匈牙利に医(いや)すべからざる損害を與へた。幾千人は罪なくして惨殺せられ、當局者たる猶太人は、30億クローネの金、宝石、装飾品等を奪い去つた。一億9,700萬クローネは、墺國共産黨の資金として同國に送られた。

匈牙利に、過激派政府が設立された時『イスラエルの國民』なる聲が起り、猶太人は其預言者の命令に基づき、匈牙利全國を領有すべきものだと主張し、又掲揚された旗には、革命の赤旗と共にシオンの旗たる藍と白の旗もあつたことは、大に注目に値することである。シオンの賢人達が、既に1897年に豫期して居つた「大なる擾亂」は、今や現實となつた。今や猶太人の世界統治は始まつたのである。

フリーメーソン、シオン主義、スパルタクス主義、共産主義、及びボリシェヴィズムの關係を疑ふ者の眼を開く爲めに一言せん。國際連盟は、猶太國の旗たる藍と白との旗を掲げるであらう。

 

(此旗)は、猶太人に屈服せる凡ての國民が自ら誇りとする旗となるであらう。

 

f:id:caritaspes:20191217001818p:plain

國際聯盟旗

 

f:id:caritaspes:20191217001907p:plain

原文にある旗のイラスト

 

[1] Sergei Aleksandrovich Nilus(Серге́й Алекса́ндрович Ни́лус)セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・ニルス(1862~1929)は、ロシア帝国ソビエト連邦の学者で神秘思想家。

[2] Gottfried zur Beek,(Ludwig Müller von Hausen)本名:Louis Eduard Julius Müllerはドイツの反ユダヤ的ジャーナリスト(1851~1926)。ゴットフリートは、「シオン賢者の秘密」でのペンネーム。

[3] Kun Bela(1886~1939)はハンガリーにソヴィエト共和国成立を宣言しボリシェヴィキスタイルの恐怖政治でハンガリー人を多く虐殺した。

[4] Kurt Eisner(1867~1919)は第一次大戦中に反戦運動から労働者デモを煽動し、叛逆罪に問われたが、終戦間近に釈放後、ドイツの混乱に乗じてミュンヘン革命を起こしバイエルンの王家を追放し、バイエルン自由州の首相になったが、選挙で惨敗後、右翼将校に暗殺された。

[5]  オーストリア=ハンガリー帝國皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。1898年9月、旅行中のジュネーヴレマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害され、その生涯を閉じた。

[6] 第一次世界大戦後の1919年に、バイエルン社会主義者たちが革命を起こして一時的に作った社会主義政権。成立後すぐさま前線から帰還して来た軍の討伐を受けて消滅している。

[7] 1915年から1918年まで存在したドイツの急進的マルクス主義者らによる政治団体ドイツ社会民主党の分派として誕生し、ドイツ共産党の前身となった。1919年1月5日から1月12日にベルリンで武装蜂起するが、第一次大戦から帰還した将兵義勇軍(フライコープ)に鎮圧され、首謀者のカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが処刑された。

[8] Johann Adam Weishaupt(1748~1830)は秘密結社イルミナティの1776年の創始者ともいわれるが異論もある。この秘密結社はフリーメーソンを乗っ取ってフランス革命を起こしたともいわれている。また、アメリカ独立戦争にも関係した。フリーメーソン中の秘密組織で現在も存在すると言われている。

[9] 原典:Uljanow=Zedernboom、英語式綴りは、Ul'yanov= Zedernbaum(ウリヤノフ=ゼーデルンバウム)一般にレーニンの本名はウリヤノフと言われているが、出身地ウリヤノフスクからの偽名である可能性が高い。そうなると、ゼーデルンバウムこそ、本名ではないかと思われる。(燈照隅コメント)

[10] 原典:M.Kohan、Zeitung „Der Kommunist“(Charkow, Rußland)英語式綴りでは、Newspaper “The Communist”(Kharkiv, Russia)

[11] 原典より名前だけ抜粋します:Tibor Szamuely、統治評議会議長のAlexander Garbai(=Grünbaum)、軍部のBostanzi(=Bienenstock)、権利のRonai(=Rosenstengel)、財政のBarga(=Weichselbaum)、首都のVince(=Weinstein)、食糧・工業のMoritz Erdelyt(=Einstein)、Bela Vago(=Salzberger)、警察のBela Bico(=Bienenstock 二人目)、全員がユダヤ人である。Oskar Czernyだけはユダヤ人でないことになっているが、その殺人鬼ぶりでソヴィエト政府に属する有能さを遺憾なく発揮した。

 

 

29.結論

 

予はスラブ運動を以て、世界戦爭の七個の主要原因の一に算(かぞ)えた。當時此意見には多くの反對者があつたが、爾後の出來事は、予の言の的中せることを證した。國家危急存亡の秋に方り、因循姑息[12]にして、状況に通暁[13]せず、又計畫なき政府を有する程、不幸なる事はない。

戦爭中宣傳に用ひられた獨逸の野蛮、プロシャのミリタリズム、虐げられたる小民族の解放、人道、文明、文化の爲の戦爭等の語は、結社員マッツィーニが既に70年前に於て、對墺戦爭の際用ひた言葉であつて、今次の大戦にては、世界フリーメーソンの用語となつたのであつた。

本書は世界大戦の諸原因中、新スラブ運動に比し、遙かに重要なる原因を述べたのである。此外、独、墺両國、獨逸主義、獨逸國の勢威、専制君主、非基督的のもの、約言すれば彼等の所謂「チュートン民族の野蛮」に對する医(いや)すべからざる憎悪心は、又た大戦の原因をなすものである。

予がフリーメーソンの研究に着手するや、既知未知の人々より多數の有望なる資料の寄贈を受けた。又予は二十個以上の書店と連絡を取り、新舊の参考書を購入し、其數今や百五十部以上に達して居る。予は此内から約五千に達する事項を抜粋し、本書の豫備作業とした。併し本書は簡單にして、内容を豊富にし、以て直接一般民衆の読物たらしめんが爲、予の資料中より甚だ多くを省略せざるを得なかつた。

予の多く引用した書籍はHermann Grubel、Dr. Peter Gerhard、Dr. Brauweiler、Dr Waltber等の著書である。

本書の著述に方り、予は諸方面よりフリーメーソンの秘密を公表する時は、一身上の危険に遭遇すべき虞れあることを警告された。其例として佛國議員シヴトン[14]の運命、ウィリアムモルガン[15]の暗殺、マルキール・デ・モーレー[16]の不可思議なる最後、ウァレリオ大尉[17]、及び知事ローレンソー[18]の變死、其他十數件の實例を聞かされた。しかし少くも我蹂躙されたる獨逸國民の眼を開かせんと欲する予の決心は變らなかつた。

予は尚フリーメーソン社員は、世間周知の通り非常に怜悧で、且つ用心深いことを考へた。若し彼等が予に對して何か企つることあれば、全世界は彼等を目して其首謀者となすであらう。之は彼等に取り、最も望ましくないことで、其仕事に非常な障碍を來すことになるであらう、又彼等としては、舊約全書の原則通り「眼を以て眼に報い」、「同じことを以て同じことに報い」られるかも知れないことを考へなければならぬ。

今日ではフリーメーソンの元首の姓名も住所も分つて居るし、我國では葡萄牙のやうに暗殺人を傭つて、勝手に王や気に入らぬ大臣を暗殺するといふ様な事は無い。我國にもフリーメーソンの率ゐる社會民主黨の首領に、政治的の暗殺者が居るが、社會民主黨員でも、今日にては政治的暗殺は何等の効果の無い事を悟つたであらう。即ちフリードリッヒ・アドラー[19]は、其告白する所によると、シュテルク伯[20]の暗殺を以て戦爭を速にせること[21]が出來ると考へた。其結果は反對に戦爭を長引かすことゝなり、不幸なる講和に就て、其責任を負はねばならなくなつた。

読者は、本書に依つて、今次大戦の恐るべき流血に對しては、獨逸も、各國の政府も、其責任がなく、世界フリーメーソンなる暗黒にして秘密的なる勢力が、其主因をなしたものであつて、此勢力の背後に隠れて、各國民の運命を操つたものは、世界猶太主義であつた事を悟られたことゝ思ふ。

最後に共和政體に對する予の立場は、次の通りである。獨逸人統治の下に、各人は全般の幸福の爲めに圖るが如き、良好なる独墺共和國は、悪い君主國に比して百倍好ましい。之に反し有爲にして良好なる輔助者を有する獨逸皇帝の下にある好き(よき)君主國は、成り上り者や、犯罪者より成る共和國に比すれば、千倍も好ましい。

 

                              -畢-

 

 

[12] 古い習慣ややり方にとらわれて改めようとせず、その場しのぎに終始するさま。

[13] ある物事についてたいへん詳しく知っていること。精通。

[14] Gabriel Syveton(1864~1904)はフランスの歴史家、政治家。フランス愛国者国家主義的であり、人権同盟に対抗して居た。その後、フリーメーソンが作成したカトリック信者のカードをめぐる醜聞に巻き込まれ、陸軍大臣を議場で殴り、その場で逮捕された。その後、裁判所に出廷予定の前日、部屋のガス暖房器具の不具合で窒息死した。

[15] William Morgans(1774~1826)は米國のレンガ職人。品行が悪い彼を地元のロッジが相手にしなかったことに怒り、メーソンの秘密を暴く本を出版すると公言した。1826年9月、些細なことで逮捕され、その後、数人の男が来て彼を保釈させそのままフォート・ナイアガラに連れて行った。そこから行方が分からなくなり、ボートで湖に出て行ったとも言われた。1848年になってHenry L. Valanceが彼を殺したと主張した。(真相は不明)

[16] Marquis de Morès(1858~1896)は反ユダヤ主義のフランスの政治家。軍人。フランスの勢力を強化しようとチュニスからスーダン方面に移動中、旅案内人を装った暗殺団(Tuaregの一団)に暗殺された。

[17] Hauptmanns Valerio フランスのドレフュス事件で殺された人物の一人。

[18] Präfekten Laurenceau フランスのドレフュス事件で殺された人物の一人。

ドレフュス事件とはスパイ容疑で逮捕されたユダヤ人アルフレド・ドレフュス大尉の冤罪事件。真犯人はハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐であったらしい。ドレフュスの弁護人は総てユダヤフリーメーソンであったという話。真相はどうあれ、これはユダヤ人差別に反対する格好の宣伝材料だった。

[19] Friedrich Adler(1879~1960)はオーストリア社会主義者。フリッツ・アドラーとも。両大戦間期においてオットー・バウアーとならぶオーストリア社会民主党社会民主労働党)左派の指導者であり、またウィーン・インターナショナルおよび社会主義労働者インターナショナルの創設に関わった。

[20] Karl Graf von Stürgkh(1859~1916)フォン・シュテルク伯は、オーストリアオーストリアハンガリー二重帝国)の貴族・伯爵・政治家。第一次世界大戦開戦時の首相を務めた。在任中、1916年10月21日、ウィーンのホテルで社会民主党左派の指導者フリードリヒ・アドラーによって射殺された。F・アドラーは死刑を求刑されたが、公判での彼の弁論は戦争を嫌悪していた国民の支持を受け、結局敗戦による二重帝国の崩壊に伴い恩赦で釈放、その後も政治活動を続けた。

[21] 原文:終了せざること。文意から終了せることの間違いと思われる。

 

(奥附)

大正十二年八月四日印刷納本

大正十二年八月七日初版刊行

大正十三年三月三十日再版刊行

 

訳者兼  内藤順太郎
發行者

印刷者  淡谷貞蔵

 

發行所  東亞社出版部

フリーメーソンと世界革命16(現代文)

26.フリーメーソンと戦時集会

 

次に述べたいことは、世界大戦中にフリーメーソンが行った集会の中から二~三のものを挙げて彼等の目的を明らかにし、更に世界のフリーメーソンが、常に早期の講和に反対して来たことを明らかにするため、二~三の例証を記述する事にしようと思う。

1914年11月、ドイツの前宰相ビューロー公が、イタリアの参戦を阻止する為、イタリア―オーストリア二国間に仲介を斡旋した際、これを妨げたものは世界のフリーメーソンであった。1915年2月12日、パリで開かれた英仏伊の高級社員の会合に於て、イタリアの参戦を決議した。1915年9月20日イタリアの各都市に、法王ベネディクト十五世が、講和のために努力していることを嘲笑する意味のポスターが貼付された。これはイタリアのグランド・オリエント(大東社)の仕事であった。1916年5月28日ジェノヴァで開いたフリーメーソンの高級幹部の会合で、更に法王の講和に反対すること、および連合国に対して忍耐を勧告することを決議した。この秘密集会には、英国の大棟梁コンノート大公、フランスの大棟梁ペラン将軍[1]及びポルトガルの大棟梁リマも参加した。1916年12月中旬、ローマにフリーメーソン会議を開いた際、会員リッカルディ[2]は、セルビア及びベルギーの独立を回復し、アルザス・ロレーヌをフランスのものにするまでは戦わねばならないと力説した。1917年4月にパリで開いた万国フリーメーソン会議では、如何にしてドイツ国内に反君主的運動を起こすべきかの問題を審議した。

ストックホルムに開いた社会民主党の会議も、これと同じ目的で開かれたものの様である。当時これに加わったドイツの社会民主党シャイデマン[3]は、ドイツを民主化する要求を携えてドイツに帰った。即ちシャイデマンは、連合国のフリーメーソンのただの伝言役だったのである。当時はドイツを共和国化すべしと唱えるのは時期尚早と認識し、まず民主化を唱えさせたのである。

1917年6月下旬、パリに開いたフリーメーソンの世界会議には、ドイツを除く多数の国々のフリーメーソン社員が参加し、講和条件としてアルザス・ロレーヌをフランスに還付する事、ポーランドチェコスロヴァキア両国の建設、オーストリア=ハンガリー国を解体して圧迫された民族を解放することを討議した。その他、この会合の目的は、各国の統一を図ること、即ち国際連盟の創設にあった。

世界フリーメーソンの最後の大会合は、1918年9月下旬、パリで開催され、フランスグラントリアンに属する300個の組合のほか、フランス大組合に属するもの、及び外国から多数の代表者が参列した。この会合にもコンノート大公、ペラン将軍[4]、及びリマが出席した。この会合の席上で、連合諸国に対し尊敬、感謝、感嘆の意を表し、且つ必ず勝利すべき事を表明した。尚国際連盟を作り、これにはフリーメーソン式の政府を有する国家のみを参加させるべき希望を述べた。これに依ると、フリーメーソンは既に1918年の9月に、確実な勝利を予期して居たのである。

ドイツの社会民主党ファーター[5]は、マグデブルグの労兵会議で、ドイツの崩壊が如何に準備されたかを報告した。即ち「我々に取っては、この革命は決して突然来たものではない。我々は1918年1月25日以来、既に計画的にこの準備を進めたのである。この事業は困難で且つ危険であった。我が社会民主党は、ストライキは革命に導くものではないことを見抜き、他の道をとった。我々は戦線に出たわが党員を逃亡させ、これを編成して、これに偽造紙幣、金員及び宣伝文書を持たせて、諸方面、就中戦線に派遣し、兵卒を軟化させ、こうして崩壊は徐々に、しかも確実に実行された云々」。

1918年10月5日、バーデンの宰相マックス[6]は講和の提議をした。マックスの父は、フリーメーソンの大棟梁であった者で、従ってマックスと、フリーメーソンとの関係も浅くはないわけである。ところがこのマックスの平和提議も、直ちに世界フリーメーソンの退ける所となった。結社員ポンデクサー[7]は、米国上院に於て「ロイド・ジョージ、及びクレマンソーは、休戦を呑まないであろう」との期待を述べた。又彼の同僚ロッジは「平和は米英仏軍がドイツ国内に入った後に討議されるべきものだ」と言った。要するに我が平和提議は、他の平和の意思表示と同様に、嘲笑を以て葬り去られたのである。

ドイツ国民が、この種の世界フリーメーソンの行為について、何等知る所がなかったのは、ドイツフリーメーソンが自分たちに対する誹謗を恐れ、政府に迫ってこの種の記事を公表することを禁止させたためである。戦争中、ドイツのフリーメーソンは、敵国側のフリーメーソンの行為について、沈黙を守ったため、敵国側フリーメーソンの反独墺宣伝を間接に助けたことになる。しかも今日、ドイツフリーメーソンが、敵国との旧関係を回復しようとしつつあるのを見ては、ドイツ国民として憤慨に堪えないところである。1918年8月、ウィーン発行のフリーメーソン新聞の報じた所では、1870年以来、閉鎖されて居たアルザス・ロレーヌのフランス組合は、再び建設され、ドイツフリーメーソン社員は、同地方から駆逐されたのに、ケルンには新たに英国の組合が設置され、ドイツの社員はこれと交際しているとのことである。ドイツ国民は、民族的見地からすれば、世界上において最も義務心なき国民である、との嘆きを発せざるを得ない。

 

[1]  原文:ペラン、原典:Périn。ペタンの間違いか?Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain(1856~1951)は第一次大戦で活躍したフランス軍将軍。第二次大戦中はドイツと休戦してドイツ占領地域以外のフランスを統治した。戦後、ナチスに協力したとして非難され、終身刑となったが近年その業績が見直されている。ペタン以外の該当者確認できず。カール・ハイセの元々の文章からPérinとなっていることは確認済み。

[2]原典:Riccardi。

[3] Philipp Heinrich Scheidemann(1865~1939)はドイツの政治家。ドイツ社会民主党党首として第一次大戦直後首相を務めた。ドイツ革命に際して共和国設立宣言した人物。原典ではフリーメーソン?となっている。

[4] ペタン?

[5] Albert Vater(1859~1923)は社会民主党の政治家で、マグデブルクのKPD(共産党) の共同設立者。健康と経済的困窮から1923年にピストル自殺。

[6] Prinz Maximilian Alexander Friedrich Wilhelm von Baden(1867~1929)マックス・フォン・バーデンはプロイセンの将軍であったバーデン大公子ヴィルヘルムの長男。自由主義者として知られ、1918年10月に独逸帝國宰相に任命され、連合国との休戦交渉を託された。彼はヴィルヘルム二世が帝位を保持できないと悟って居り、ホーエンツォレルン家を救うために退位を促した。しかし間に合わず1918年11月9日にドイツ共和国成立が宣言された。1928年にバーデン大公家を継いだが、翌年にコンスタンツで死去した。

彼の父親は1859~1863年プロシャ大組合「Zur Freundschaft」(To Friendship)の大棟梁で、「ewigen Orient(永遠のオリエント)」に参加し、1897年までその名誉大棟梁であった。(原典より補足)

[7] 原文:ポイントデクスター、原典:Pointdexter(誤りと思われる)。Miles Poindexter(1868~1946)マイルズ・ポンデクスターはアメリカの政治家で作家。共和党員、後に進歩主義者。下院議員を一期(1909~1911)務め、1910年に再選されたが上院議員にえらばれたため辞職。上院議員としては1923年まで務めた。1913年に進歩党に参加したが、1915年には共和党に復帰。1920年に大統領選挙に立候補した。1923~28年、駐ペルー大使。

 

27.ウィルソンのフリーメーソン的平和条件

 

世界大戦勃発の責任は、主としてフリーメーソン社員の負うべきものである事は、公平な読者の充分に理解したことと信ずる。但し本書に挙げた例証は、単に従来公表されたものの一部に過ぎない。読者にしてフリーメーソンの雑誌、パンフレット、特に秘密書類を見られたならば、この例証の数は正に千倍にも達するであろう。しかしながら恐るべき破壊、荒廃を伴った世界大戦は、フリーメーソン本来の目的ではなくて、その主とする所は、その思想、中でもヨーロッパ君主制の没落、更に世界共和国の建設を実現すべき世界革命にあったのである。果たして、それならばウィルソンの平和条件(十四箇条)も、その主要項目に於て、フリーメーソンの目的に適応して居らねばならぬ筈である。ウィルソン自身、フリーメーソン社員であるのであるから、なおさらそうである。実際ウィルソンの平和条件を熟読して見ると、その主な条項は、確かにフリーメーソン的精神に充たされていることがわかる。もっともその中には、表面上フリーメーソンの原則と、何等関係のない様に見える規定も少なくないが、これは戦争の結果、必然的に出来たもので、誰が作っても当然書く様な事柄なのである。故にこの種の規定については論じないことにする。

ウィルソン平和条件の第一条、「講和談判の公開」は、判断力のない国民にとっては、純フリーメーソン式の標語である。フリーメーソン社員は、秘密を厳守すると言う誓いの下に、万事秘密裡に仕事をしているものであるのに、講和談判の公開を叫ぶのは、群衆を眩惑した後、古来のやり方で、その後の仕事を進めていこうと考えているのである。そしてパリ講和会議は、1919年1月、談判開始にあたり、専門的事由によって、遺憾ながら談判を公開することが出来ないと声明した。

第二条「船舶航行の完全な自由」も、英国が決して海上の支配権を放棄する考えがない事が明らかであるから、一つの空文に過ぎない。例えばトルコでは、ダーダネルス海峡の航行の自由を要求しているに拘らず、英国はスエズ運河もしくはジブラルタル海峡の支配権を放棄することなどは、その気振りも見せないのである。

第四条の「ミリタリズム(軍国主義)の廃止」は、フリーメーソンがあらゆる機会にしてきた要求である。1914年12月13日、フランスグラントリアンの最高会議顧問の宣言中にも、如何なる対価を払ってもプロシャの軍国主義を撃滅しなければならないと、力を込めて書いてある。ここで注意を要することは、フランスも、英国も平和成立後、依然その厖大な陸海軍を保持していることである。(ドイツは動員を解いたのに)

第八条は「アルザス・ロレーヌの還付」に関する事項で、過去40年間、フリーメーソンが絶えず要求していた事柄である。この要求は、ドイツのフリーメーソン社員の参列した席上でも行われたのである。

第九条は、イタリア国境の改正に関する事項で、大棟梁マッツィーニは既に五十年前にこれを提議し、世界フリーメーソン社員は、主義上これに同意したのである。オーストリア=ハンガリー国内各民族の自治も、従来フリーメーソンの絶えず唱えた所である。

第十二條「トルコの分割」も、フリーメーソンの考慮した事柄である。即ちマッツィーニは、五十年前に次の様に言った、「ヨーロッパにおいて専制主義を保持し、民族主義を否定する国は、オーストリア=ハンガリー国及びトルコの二大帝国であって、前者はその頑固なること、欧州の支那と称すべく、後者はアジア主義の代表者、兼国教王国として欧州の進歩を阻害するのである」と。

最後の大十四條「各国の合同」(国際連盟、世界共和国)は、明瞭にフリーメーソン式の事項であって、過去三十年間のフリーメーソンの会議で、屡々且つ詳細に研究された所である。この四海同胞の理想が現実において如何なる状態にあるか。現在の飢餓、困憊、乱暴なる強制的平和は、即ちそれであって、我々は所謂専制君主を追って、フリーメーソンの要求を充たし、それによってウィルソンの手よりパンを得ようとしたのであるが、その結果は前述の通りである。

全世界のフリーメーソンは、同一の目標に向かい、努力している単一な世界同盟であるか否かは、戦争前屡々論議せられた所である。ドイツのフリーメーソンの有力者は、世界のフリーメーソンはその形式は区々であるが、同一体であると主張した。今やフリーメーソンの宿望は達せられた。社員の言を藉(か)りて言えば、すべての不正、特権は除かれ、すべての虐げられた国々は、再び自決権を回復した。従って世界の大組合は統一し、彼等の「将来の理想」は達成されたのである。フランコリンは、1889年6月17日、これを将来の理想として述べていた。

フリーメーソン社員は、古き世界を粉砕することに成功したが、果たして、新たに人類の殿堂を建設し得るだろうか、どうだろうか。

 

 

f:id:caritaspes:20191202004441p:plain

 

 

フリーメーソンと世界革命16(原文)

26.フリーメーソンと戦時集會

 

次に述べんとする所は、世界大戦中フリーメーソンの行つた集會の中の二三のものを擧げて彼等の目的とする所を明かにし、且つ世界のフリーメーソンが、常に早期の講和に反對し來つた事を明かにする爲め、二三の例證を記述することにしやうと思ふ。

1914年11月、獨逸の(前宰相)ビューロー公が、伊太利の参戦を阻止する爲め、伊墺間に斡旋した際、之を妨げたものは世界のフリーメーソンであつた。1915年2月12日、巴里に開かれた英、佛、伊の高級社員の會合に於て、伊太利の参戦を決議した。1915年9月20日伊國の各都市に、法王ベネディクト十五世が、講和の爲めに努力して居ることを嘲笑せる意味のポスターが貼附された。之は伊國のグランド・オリエント(大東社)の仕事であつた。1916年5月28日ジェノヴァに開いたフリーメーソンの高級幹部の會合に於て、更に法王の講和に反對すべきこと、及び聯合國に對して忍耐を勧告することを決議した。此秘密集會には、英國の大棟梁コンノート大公、佛國の大棟梁ペラン将軍[1]及び葡萄牙の大棟梁リマも参加した。1916年12月中旬、羅馬にフリーメーソン會議を開いた際、結社員リッカルディ[2]は、セルビア及び白耳義の独立を恢復し、アルザス・ロレーヌを佛國のものにするまでは戦はねばならぬと力説した。1917年4月に巴里で開いた萬國フリーメーソン會議では、如何にして獨逸國内に反君主的運動を起さしむべきかの問題を審議した。

ストックホルムに開いた社會民主黨の會議も、之れと同じ目的を以て開かれたものゝ様である。當時之に加はつた獨逸の社會民主黨シャイデマン[3]は、獨逸をデモクラシー化すべき要求を携へて獨逸に帰つた。即ちシャイデマンは、聯合國のフリーメーソンの傳聲管たりしものである。當時は獨逸を共和國化すべしと唱へるのは尚早と認め、先づデモクラシー化を唱へさせたのである。

1917年6月下旬、パリに開いたフリーメーソンの世界會議には、獨逸を除く多數の國々のフリーメーソン社員が参加し、講和條件としてアルザス・ロレーヌを佛國に還附すること、波蘭チェコスロヴァキア両國の建設、墺匈國を解體せしめて壓迫せられた民族を解放することを議した。其外、此會合の目的は、各國の合一を圖ること、即ち國際聯盟の創設にあつた。

世界フリーメーソンの最後の大會合は、1918年9月下旬、巴里に開催され、佛國グラントリアンに属する300個の組合の外、佛國大組合に属するもの、及び外國から多數の代表者が参列した。此會合にもコンノート大公、ペラン将軍[4]、及びリマが出席した。此會合の席上で、聯合諸國に對し尊敬、感謝、感嘆の意を表し、且つ必ず勝利を得べきことを表明した。尚國際聯盟を作り、之にはフリーメーソン式の政府を有する國家のみを参加せしむべき希望を述べた。之に依ると、フリーメーソンは既に1918年の9月に、確實なる勝利を豫期して居たのである。

獨逸の社會民主黨員ファーター[5]は、マグデブルグの労兵會議に於て、獨逸の崩壊が如何に準備せられたかを報告した。即ち「吾人に取りては、此革命は決して突然來たものではない。吾人は1918年1月25日以來、既に計畫的に之が準備を進めたのである。此事業は困難で且つ危険であつた。我が社會民主黨は、ストライキは革命に導くものではないことを看取し、他の道を執つた。吾人は戦線に出た我黨員をして逃亡せしめ、之を編成して、之に贋造紙幣、金員及び宣傳文書を持たせて、諸方面、就中戦線に派遣し、兵卒を軟化せしめ、かくして崩潰は徐々に、しかも確實に實行された云々」。

1918年10月5日、バーデンの宰相マックス[6]は講和提議を爲した。マックスの父は、フリーメーソンの大棟梁たりし者で、従つてマックスと、フリーメーソンとの關係も浅くはないわけである。然るに此マックスの平和提議も、直ちに世界フリーメーソンの却くる所となつた。結社員ポンデクサー[7]は、米國元老(上)院に於て「ロイド・ジョージ、及びクレマンソーは、休戦を肯(がえん)ぜないであらう」との期待を述べた。又彼の同僚ロッヂは「平和は米、英、佛軍が獨逸國内に入りたる後に議せらるべきものだ」と云つた。要するに我平和提議は、他の平和の意思表示と同様に、嘲笑を以て葬り去られたのである。

獨逸國民が、此種の世界フリーメーソンの行爲に就て、何等知る所がなかつたのは、獨逸フリーメーソンが自己に對する誹謗を恐れ、政府に迫りて此種の記事を公表することを禁止せしめた爲めである。戦爭中、獨逸のフリーメーソンは、敵國側のフリーメーソンの行爲に就て、沈黙を守つた爲め、敵國側フリーメーソンの反独墺宣傳を間接に助けたことになる。而も今日、獨逸フリーメーソンが、敵國との舊關係を恢復せんとしつゝあるのを見ては、獨逸國民として憤慨に堪へない所である。1918年8月、維納發行のフリーメーソン新聞の報ずる所に依ると、1870年以來、閉鎖されて居たアルザス・ロレーヌの佛國組合は、再び建設せられ、獨逸フリーメーソン社員は、同地方から駆逐せられたるに、ケルンには新に英國の組合が設置せられ、獨逸の社員は之と交際して居るとのことである。獨逸國民は、民族的見地よりすれば、世界上に於て最も義務心なき國民なりとの嘆を發せざるを得ない。

 

[1] 原文:ペラン、原典:Périn。ペタンの間違いか?Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain(1856~1951)は第一次大戦で活躍したフランス軍将軍。第二次大戦中はドイツと休戦してドイツ占領地域以外のフランスを統治した。戦後、ナチスに協力したとして非難され、終身刑となったが近年その業績が見直されている。ペタン以外の該当者確認できず。カール・ハイセの元々の引用元文章からPérinとなっていることは確認済み。

[2] 原典:Riccardi。

[3] Philipp Heinrich Scheidemann(1865~1939)はドイツの政治家。ドイツ社会民主党党首として第一次大戦直後首相を務めた。ドイツ革命に際して共和国設立宣言した人物。原典ではフリーメーソン?となっている。

[4] ペタン?

[5] Albert Vater(1859~1923)は社会民主党の政治家で、マグデブルクのKPD(共産党) の共同設立者。健康と経済的困窮から1923年にピストル自殺。

[6] Prinz Maximilian Alexander Friedrich Wilhelm von Baden(1867~1929)マックス・フォン・バーデンはプロイセンの将軍であったバーデン大公子ヴィルヘルムの長男。自由主義者として知られ、1918年10月に独逸帝國宰相に任命され、連合国との休戦交渉を託された。彼はヴィルヘルム二世が帝位を保持できないと悟って居り、ホーエンツォレルン家を救うために退位を促した。しかし間に合わず1918年11月9日にドイツ共和国成立が宣言された。1928年にバーデン大公家を継いだが、翌年にコンスタンツで死去した。

彼の父親は1859~1863年プロシャ大組合「Zur Freundschaft」(To Friendship)の大棟梁で、「ewigen Orient(永遠のオリエント)」に参加し、1897年までその名誉大棟梁であった。(原典より補足)

[7] 原文:ポイントデクスター、原典:Pointdexter(誤りと思われる)。Miles Poindexter(1868~1946)マイルズ・ポンデクスターはアメリカの政治家で作家。共和党員、後に進歩主義者。下院議員を一期(1909~1911)務め、1910年に再選されたが上院議員にえらばれたため辞職。上院議員としては1923年まで務めた。1913年に進歩党に参加したが、1915年には共和党に復帰。1920年に大統領選挙に立候補した。1923~28年、駐ペルー大使。

 

 

27.ウィルソンのフリーメーソン的平和條件

 

世界大戦勃發の責任は、主としてフリーメーソン社員の負ふべきものであることは、公平なる読者の充分了解したることゝ信ずる。但し本書に擧げた例證は、單に従來公表せられたるものゝ一部に過ぎない。読者にしてフリーメーソンの雑誌、パンフレット、特に秘密書類を見るを得ば、此例證の數は正に千倍にも達するであらう。然しながら恐るべき破壊、荒廃を伴ひたる世界大戦は、フリーメーソン本來の目的ではなくて、其主とする所は、其思想、就中欧羅巴君主制の没落、及び世界共和國の建設を實現すべき世界革命にあつたのである。果たして然らばウィルソンの平和條件(十四箇條)も、其主要項目に於て、フリーメーソンの目的に適應して居らねばならぬ筈である。ウィルソン自身、フリーメーソン社員であるに於て、特に然り。實際ウィルソンの平和條件を熟読して見ると、其主なる箇條は、確かにフリーメーソン的精神に充されて居ることがわかる。尤も其中には、表面上フリーメーソンの原則と、何等關係のない様に見える規定も少くないが、之は戦爭の結果、必然的に出來たもので、誰が作つても當然書く様な事柄なのである。故に此種の規定に就ては論じないことにする。

ウィルソン平和條件の第一條、「講和談判の公開」は、判断力なき國民にとりては、純フリーメーソン式の標語である。フリーメーソン社員は、秘密を厳守すべき誓の下に、萬事秘密の裡に仕事をして居るものであるのに、講和談判の公開を叫ぶのは、群衆を眩惑せしめた後、古來の方式に依つて、其後の仕事を進めて行かうと考へて居るのである。而して巴里講和會議は、1919年1月、談判開始に方り、専門的事由に依りて、遺憾ながら談判を公開することが出來ないと聲明した。

第二條「船舶航行の完全なる自由」も、英國が決して海上の支配權を放棄する考へがない事が明かであるから、一つの空文に過ぎない。例へば土耳古では、ダーダネルス海峡の航行の自由を要求せるに反し、英國スエズ運河若しくはジブラルタル海峡の支配權を放棄することなどは、其気振りも見せないのである。

第四條の「ミリタリズムの廃止」は、フリーメーソンがあらゆる機會に於て爲したる要求である。1914年12月13日、佛國グラントリアンの最高會議顧問の宣言中にも、如何なる價を拂つてもプロシャのミリタリズムを撃滅せしめねばならぬと、力を込めて書いてある。此所に注意を要することは、佛國も、英國も平和成立後、依然其厖大なる陸海軍を保持して居ることである。

第八條は「アルザス・ロレーヌの還附」に關する事項で、過去40年間、フリーメーソンが絶えず要求して居た事柄である。此要求は、獨逸フリーメーソン社員の参列した席上でも行はれたのである。

第九條は、伊太利國境の改正に關する事項で、大棟梁マッツィーニは既に五十年前に之を提議し、世界フリーメーソン社員は、主義上之に同意したのである。墺匈國内各民族の自治も、従來フリーメーソンの絶えず唱へた所である。

第十二條「土耳古の分割」も、フリーメーソンの考慮した事柄である。即ちマッツィーニは、五十年前に次の様に言つた、「欧羅巴に於て専制主義を保持し、民族主義を否定する國は、墺匈國及び土耳古の二大帝國であつて、前者は其頑固なること、歐洲の支那と稱すべく、後者は亜細亜主義の代表者、兼國教王國として歐洲の進歩を阻害するのである」と。

最後の大十四條「各國の合同」(國際連盟、世界共和國)は、明瞭にフリーメーソン式の事項であつて、過去三十年間のフリーメーソンの會議で、屡々且つ詳細に研究せられた所である。此四海同胞の理想が現實に於て如何なる状態にあるか。現在の飢餓、困憊、亂暴なる強制的平和は、即ちそれであつて、吾人は所謂専制君主を逐(お)ひて、フリーメーソンの要求を充し、以てウィルソンの手よりパンを得んとしたのであるが、其結果は前述の通りである。

全世界のフリーメーソンは、同一なる目標に向ひ、努力して居る單一なる世界同盟であるか否かは、戦爭前屡々論議せられた所である。獨逸フリーメーソンの有力者は、世界のフリーメーソンは其形式は區々であるが、同一體であると主張した。今やフリーメーソンの宿望は達せられた。社員の言を藉(か)りて云へば、凡ての不正、特權は除かれ、凡ての虐げられたる國々は、再び自決權を恢復した。従つて世界の大組合は合一し、彼等の「将來の理想」は達成せられたのである。フランコリンは、1889年6月17日、之を将來の理想として述べたのである。

フリーメーソン社員は、古き世界を粉砕することを得たが、新たに人類の殿堂を建設し得るや、否や。

f:id:caritaspes:20191202004441p:plain

 

 

フリーメーソンと世界革命15(現代文)

25.フリーメーソン及び世界戦爭

 

 

読者はここまで述べてきたことより、フリーメーソンは世界共和国の建設を目的とし、これを達成する手段として、いたる所で革命を画策している事が疑いないことと知ったであろう。そうであれば今回の大々的革命、つまり世界大戦についても、フリーメーソンには、きっとその責任があることは容易に推定できる所である。

平和主義者のフリーメーソンが世界平和の標語を民衆に説く一方にで、英仏のフリーメーソンは世界革命、即ち世界戦争を流布宣伝し、それに馴れさせるような政策を実行しつつあった。フリーメーソン社員ウィルヘルム・オール(かつては平和主義者であったが、今次大戦における経験の結果、ドイツ国民としての自覚を得た人)は、よくフランスの国民精神を心得て、躊躇なく言明している、「フランス民全部は、ドイツ国民を理解しようとしないだけでなく、極めて危険な偏見にとらわれて、アルザス問題を論議するのは、まるで子供が銃で遊ぶのに等しいものがある。且つドイツの事情について甚だしい誤解を抱いて居たため、フランス民全部は世界戦の責任を負わねばならない。そして一大勢力であるフリーメーソンは第一にこの責任を負うべきである」と。つまりオールは、単にフランスのフリーメーソンがこのフランス民の誤解を正し、世界戦争を抑止することに努力しなければならないと言っているが、実際にはオーストリア皇太子の殺害を画策したのは、フランスのフリーメーソンであることは知らないと見える。しかもオールといえども、フランスフリーメーソンが、ドイツの崩壊を確信して居たことについては認めて次の様に言っている。

「教育或るフランス人は、ドイツを以て粘土の足を有する巨像にたとえて、早晩崩壊すべき運命にあるものという見解を持って居た。彼等が、ドイツに関する新聞記事によって知ったところは、権勢欲に駆られて、領土を拡張しようとするカイザーの帝国主義と、社会主義的革命との衝突であった」と。

そしてフランスのフリーメーソンは、巧妙に此の革命を促進することを画策した。

当時フランスのフリーメーソンは、次の様に考えて居たらしい。「オーストリア皇太子の死と共に、すべての障害は取り除かれることになる。なぜなら八十四歳の高齢であるオーストリア皇帝は、衝撃の結果、これ以上生きながらえることは難しいだろうし、後継者は若年で無経験で余りにお人好しだ。要するに、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊する。ドイツもまた戦争を始めることはあるまい。なぜなら社会主義者や共和主義者はホーエンツォレルン家(皇帝)を廃して、君主主義に結末をつけ、それによって戦争を防止するだろうから」と。

ドイツ国の労働者が、革命を起こすことは、外国のフリーメーソンが、一般に嘱望(しょくぼう:前途・将来に望みをかける)し、且つ屡々言明したことである。要するにフリーメーソンは、世界共和国(建設)のために、世界革命を期待していた。しかも世界戦争そのものは、一つの悪事として寧ろこれを避けようと望んでいた。この行為は、丁度オーストリアの刑法にある「殺害の意思はなかったが、敵意を以て実行した行為のために、相手の人が死んだなら、その犯罪は殺人である」に該当する。(訳者註:フリーメーソンは世界戦争そのものを起こす気はなかったが、世界革命を望んだので世界戦争が起きた。つまり(結局)フリーメーソンが世界戦争を起こしたと言われても仕方がない)。

フリーメーソンの高級幹部は、「チェコ」、「ユーゴスラブ」、その他オーストリア=ハンガリー帝国内の異民族は皆蹶起(決起)するだろうと期待し、又社会民主党、両帝国の自由主義の新聞、及びドイツのフリーメーソンが、平和維持、戦争防止に尽力する事を計算して居たが、ただオーストリア皇太子の暗殺に対する民衆の激昂(激怒)だけは、彼らの予想外のことだった。チュートン民族の国ではラテン民族の国に比べ、政治的暗殺は極めて珍しい事なので、皇太子の暗殺事件は、大変な激昂を買い、オーストリア=ハンガリー国内のドイツ民族だけでなく、異種民族の一部にも、セルビアに対するオーストリア=ハンガリーの宣戦を自由のために当然の事と感じたのである。

フランスのフリーメーソンが戦争を欲し、且つこれを敢行したことについては、二つの主な原因がある。その第一は、ドイツ以外、一般のフリーメーソンの希望であった専制君主及び貴族を廃して共和政体に置き換えようとすること。第二はアルザス・ロレーヌの奪回であった。フランスのフリーメーソンが、復讐心の養成に努めたことは非常に顕著であって、組合の名称によって、アルザス・ロレーヌ奪回の理想を明確に維持しようとし、例えばアルザス・ロレーヌ復讐等の名前を持つものもある。因みにアルザスで仏語を話すものは僅かに4%で、ロレーヌでは29%以下で、1871年にフランス人としての権利を行使した者は、約3%に過ぎなかった。ところがフランスのフリーメーソンの高級の者は、この古代より純粋のドイツ人の国であったアルザス・ロレーヌの割譲を許すべからざる不当な事とし、今次大戦中にも「アルザス・ロレーヌ」、「ザール河谷」、「ライン地方」の併合を熱心に主張したのも、主としてフランスのフリーメーソンであった。1917年12月19日のハヴァス通信[1]は、フランスフリーメーソンの最高幹部の檄を発表した。これによると「フランスは各国民(敵国民を含む)の解放のために戦うのである。故にアルザス・ロレーヌを要求するのは、圧迫された権利を要求するのであって、両州の回復は安全及び幸福の象徴である」とのことである。つまり、今次の戦争は、フランス側がフリーメーソンの理想の下に実行したものである事を明瞭に告白しているのである。

ドイツフリーメーソンは、フランス政治家ポアンカレ、クレマンソー、ブリアン、デルカッセ等は結社員ではないと主張しているが、この方面を熟知するシーマン博士[2]、及びカール・ハイス[3]は、最近彼等がフリーメーソン社員であることを証言しているから、何も付け加える必要はなかろう。もっとも彼等がドイツのフリーメーソンが認めていない組合に属していたことは、あり得ることであるが、だから彼等は結社員でないとすることは出来ない。フランスの政治家の殆ど全部が、階級の上下の差こそあれ、いずれもフリーメーソン結社に属している事は事実である。政治家だけではなく、各方面の有力で、しかも高収入の地位は、主としてフリーメーソン社員の占め、高級軍人にも多数の結社員がある。フランスではドイツの倒壊を予言したものが少なくなかった。例えば1912年に発行されたド=シヴリュー少佐[4]著の軍事小説「ドイツ帝国の没落」では、ドイツはホーエンツォレルン三代目のカイザーと共に、仏露英ベルギーの協同作戦により、完全に倒壊するだろうと記述している。この著者は恐らくフリーメーソン社員で、民衆の思想を漸次恐るべき戦争に馴らすのを目的としたのではないかと思われる。事の成り行きを如何にも自然に、避けられない運命であるかのように見せるのは、フリーメーソンの慣用手段である。

フランスフリーメーソン第33階級ユダヤ人イサーク・クレミュー[5]は、普仏戦争の際も、ウィルヘルム一世の首に百万フランの懸賞をかけ、パリの組合が「ウィルヘルム」、「モルトケ」、「ビスマルク」の三人を、フリーメーソンの裁判にかけようとしたが、今次の世界戦争にも似通ったことがあった。フランスの新聞は筆を揃えて「ホーエンツォレルンがドイツに君臨する間は平和は成立しない」と書いたが、その後まもなく1912年4月に開かれたフリーメーソン会議の重要な議題は、「如何にしてドイツ内に君主政治反対の運動を起こすことができるか、世界平和の基礎はドイツ及びオーストリア=ハンガリー皇帝を廃することにある」と言うことにあった。この思想は極めて速やかに全世界に普及した。ドイツ国民の中にも、この思想が浸透し、先ず勝利に対する信念を失うに至った。当時の宰相ベートマン・ホルヴェーク[6]は、最初の時期にこの思想を防ぎ止めようと努めなかったことについて、責を負わねばならない。彼は自身フリーメーソン社員であった。

ドイツ・オーストリア両帝国の社会民主党は、平和を招き入れるためストックホルムに往来することを許された。彼等の持ち帰ったものは平和ではなく、純フリーメーソン式なる一新標語「民衆化」であった。即ち彼等は、敵国が日々吾人を滅ぼそうと計略しているさ中に、ドイツ・オーストリア両国に於て選挙権の民衆化を唱えた。ところが民衆化なる標語の背後には「共和化」、或いは「ドイツ・オーストリア両帝室出の君主を廃する」と言う真の目的があったのである。つまりこの標語は、パリからストックホルムを迂回して、ドイツに輸入され、半年後1918年正月末、ロイドジョージは英国下院で演説して言った。「最も信ずべき情報に依ると、ドイツ国内の革命は近づいた。協商国は確実に戦争の目的を達することが出来る。従って英国の戦争目的はドイツに知られることなく、完全に達成される事となる」と。オーストリア皇太子の暗殺、戦争の煽動は、パリのフリーメーソン中央部の画策した所であるから、彼等が「無併合無賠償の平和」に反対するのは勿論の事である。つまり、フランスフリーメーソンアルザス・ロレーヌの獲得及びドイツ共和国の建設のために戦争を起こしたのであるから、この二大要件を満たさない平和は、彼等の容認できない所である。ドイツが和平をしようとした意思が、フランスのフリーメーソン戦争継続の意思のために破られたことは、ベルンストルフ伯[7]が、調査委員会に於て平和の可能性について次のように説明したことを見れば明瞭である。「1916年1月米国のハウス大佐は二回目のベルリン訪問をしたが、彼は帰還後、私に対し、平和に対する主な反対はパリにあることを説明した。この証拠に依り、フランスフリーメーソンの戦争に関する働き振り、及びその戦争に関する責任は明瞭となった訳である。

イタリアでは、フリーメーソンが世界戦争の開始を促進した事実を、特に明瞭に見取ることが出来る。1902年、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が、伊仏の接近を図った時、既に三国(独墺伊)同盟は、少なからぬ打撃を蒙った。この際伊仏の接近を画策したのは三人のフリーメーソン社員、即ち伊国宰相ザナルデリ[8]、駐伊フランス大使バレール[9]、及びフランス外相デルカッセであった。次いで1914年4月3日、伊英仏間の協定は、独墺両国の包囲を完成したもので、ニューヨークヘラルドのパリ版は、当時ロシアは動員を実施して居たことを報告している。この協定に参与した者も、皆フリーメーソン結社員たるイタリアのサンジュリアーノ[10]、フランスのポアンカレ、及び英国のエドワード・グレイ[11]であった。

オーストリア皇太子暗殺の翌日(1914年6月29日)、イタリアのフリーメーソンは集会を開いて、新たに生じた世界の情勢について協議し、越えて同年7月31日伊国内の460個の組合に対して通牒を出し、イタリアのフリーメーソンは、世界のフリーメーソンの一致決議した原則に従い行動することを告知した。その意義は欧州の「貴族主義国」即ちドイツに対し敵対することにあった。これと殆ど同時にスウェーデンフリーメーソンの長たる同国王グスタフ五世は、イタリア王に電報して、イタリアの独墺側に加担しないことを切望した。1914年9月6日、イタリアのフリーメーソンの長フェラーリ[12]は社員に対し、イタリアは好機に接し参戦することで、国民を戦争に対し準備することを訓示した。同年9月13日には、反オーストリア的大示威運動が行われ、トリエステ及びトレンティーノ[13]の獲得を高唱した。その主な演説者は、結社員シヴィニーニ[14]であった。同年11月、ドイツの前宰相ビューロー公が、伊墺間で、トレンティーノのイタリアへの割譲をオーストリアに斡旋した時、これを妨げたのはフリーメーソンであった。

1914年12月3日、後の首相で結社員であったサランドラ[15]は、内国に於て、イタリアは旧欧州の改造に際し、重大な要求をしなければならない、と語った。イタリアで参戦の煽動を行ったのがフリーメーソンに限られたことは、同国内でも認められていることで、現に参戦反対の新聞ヴィットリア[16]は、1915年3月初め「フリーメーソンは、1870年以来国家の解体を進めているものであるが、今やフリーメーソンの始めた戦争に、我々を引き入れようとしている。彼等はパリやロンドンのフリーメーソンから命令を受けているのである」との記事を掲げた。無所属の人々に対し、イタリアのフリーメーソンは、暴力的手段を用いた。例えばジョリッティ[17]はローマでの生命の安全を期することが出来なくなり、イタリア参謀総長ポリオ将軍[18]は戦争反対論者であったが、不意に変死を遂げた。中立の新聞は徐々に少なくなった。この後戦争まで、既に多くの新聞は駐伊フランス大使バレールの媒介で、多額の買収金を受け取った。イタリアの社会主義者ベンチーニ[19]は、内国に於てフランスは戦争前既にイタリアの新聞のために、2,500万リラを支出したことを主張したが、誰も之を否認するものはなかった。[20]

伊国フリーメーソン社員第33階級ヴァカルッチ[21]博士は1915年3月10日マッツィーニの命日(マッツィーニは1872年3月10日に死せり)に際し激烈なる戦争演説を行い、マッツィーニのプログラムを回想し、我々は彼の遺業を完成せねばならぬと述べた(トリエステトレンティーノの占領を意味する)。

参戦宣伝が最高潮に達したのは、1915年5月5日、ジェノヴァの附近で行なわれた参戦大示威運動(デモ)当日であった。ガブリエーレ・ダヌンチオ[22]は戦争演説を行い、イタリアの493個の組合は全部その旗を以てこれに参集した。その後三週間を経ずにイタリアの対オーストリア戦線の実現を見るに至った。1916年5月24日参戦一周年記念日に際し、いたりあのフリーメーソンの長たるフェラーリは明瞭に説明した。「宣戦はイタリアのフリーメーソンの命令に基づいて行われた」と。この言葉はやや異様に聞こえるかも知れないが、当時のイタリアの首相として、イタリアの中立を宣言したサランドラはフリーメーソン社員で、フェラーリの命令に従うのは当然の事だったのである。以上によりイタリアをして参戦せしめたのは、全く国内フリーメーソンの力であったことを知ることが出来る。

今次の世界大戦間、フランス系スイス人が全力を挙げてイタリアに加担したのに反し、ドイツ系スイス人はドイツに対し余り同情を表わさなかった。これについてもフリーメーソンの影響を看過することは出来ない。スイスには総計35個の組合があるが、その内ドイツの組合は11個、フランスのが23個、イタリアのが1個である。又組合員4,300人中、ドイツ人は1,500、フランス人は2,700、伊国人は100名である。スイスにおけるこの三国人の人口比は、独64%、仏28%、伊8%であるが、フリーメーソン結社員の比は、仏64%、独34%、伊2%である。このようにフランスのフリーメーソンの数の勝っていることは、大戦間のスイスフリーメーソンの態度に照応しているのである。ベルギーの親仏的態度も主としてフリーメーソンの仕事である。同国国王アルベールは、フリーメーソン社員であるが、同国のフリーメーソンは、世界の共和政体を理想としている。

スペインでも、フリーメーソンは1914年以来百方同国の参戦を促す努力をした。1917年8月下旬、マドリードその他の各地で行なわれた参戦要求の示威運動では、400人の死者を出す程の騒動を演じた。而も労働階級がフリーメーソン指導の下に対独開戦を主張したのは、オーストリア=ハンガリー国の労働者が、同じくフリーメーソンの指導を受けて「平和」を要求したのと対比し、誠に面白い現象と言わねばならない。これらは、全く両帝国を倒して共和国に変えてしまおうとするフリーメーソンの希望に出でたことである。

スペインが戦争の惨禍を蒙らずに終わったのは、主として親独家たる同国首相マウラ[23]と、同国王との功である。これも戦争を扇動するものは帝王ではなくて、フリーメーソンであると言いうことに対する一つの例証である。

ポルトガルでも、フリーメーソンは開戦以来、親仏的な世論の喚起に努めた。中立の同国人社員の一人[24]は言った。「英国(の組合)はドイツの勝利が自由の喪失を意味することを宣伝し、この目的のためポルトガルに2500万[25]の金を投入した。金は世論以上の仕事をする。何となれば世論とは、新聞のことで、新聞は金でどうにでもなるものだからである」と。実に英国は同一手段を全世界に施し、且つ成功した。

1915年5月中旬、リスボンで行なわれた革命は英国の金でフリーメーソンの行った威力行為であって、その目的はポルトガルの大戦参加を実現させることにあった。

フリーメーソンが戦争を扇動した一つの好適例を示せるはルーマニアである。1913年夏ルーマニアギリシャセルビアに、対オーストリア秘密同盟が成立した。ルーマニアのコアンドラ将軍[26]は、1914年1月に言った「ルーマニアルーマニアセルビア両国の砲をハンガリーに送り、且つ数百年来我々の領土たるかの(ハンガリー内の)地方を併合するため、既に所要の措置を取った」と。ルーマニアでも戦争扇動者はフリーメーソン社員であった。戦争勃発当時、同国には16個の組合があって「内5個宛はフランスおよびイタリアの大組合に属して居た。前のルーマニア王カロル[27]は、中欧両国の味方であったが、1914年10月11日、毒を入れたコーヒーで殺された。これにより戦争扇動者は勝ってがってに振舞うこととなった。新たに立った女王は、英国の王室出身で、戦争扇動者の一人であった。

同国にドイツ人(フリーメーソン)の一組があって、フランス式の名称を有し、フランスの大組合に属して居たが、大組合はこれをドイツ人の組合と知らずにルーマニアに反ドイツ気分を煽るべき記事(同文通牒)を送付して来たり、新聞に広告する要求して来たりした。組合はこれを拒絶し、それ以後佛組合との関係を絶った。これはフランスのフリーメーソンの戦争煽動の一好例である。

ギリシャでも戦争煽動を行ったのは、フリーメーソンであった。結社員ヴェニゼロスは、1914年の冬以来、ギリシャを対独墺戦争に牽(ひ)き入れようと努めた。協商側は彼を介して色々ギリシャを誘惑すべく試みた。即ち1914年11月22日にはアルバニアのトルコ領をギリシャに与えることを約し、1915年1月12日には、小アジアの沿岸に領地を得させると言い、次にはキプロス島までも与えると約したが、コンスタンティノス王が、その国民のため平和を維持することに努め、ウエニゼロスを却(しりぞ)けたので、上述の様な誘惑は不成功に終わった。そこで協商側は、コンスタンティノス王に対し、脅迫的態度をとるに至り、結局1917年6月11日、英仏海軍委員はギリシャの首相に対し「国王が退位しなければアテネ市を廃墟と化すであろう」との英仏の最後の通牒を交付した。コンスタンティノス王は遂に退位し、ヴェニゼロスは同月28日執政官となった。

英国、即ち最高の大組合、又は世界組合の目的は、全世界の支配である。かの有名なセシル・ローズ[28]はかつて言った。「アフリカ全部、パレスチナ、ユーフラテス河谷、南米全部、太平洋上の諸島嶼、蘭領インド、支那の海岸、及び日本、並びに北米合衆国は英領とならねばならない。そうすれば世界に戦争はなくなるだろう」と。英国フリーメーソンの傑物ロード・キッチナー[29]は1911年に説明して言った。「欧州に於ける英国の国境は、運河に非ずしてマース河[30]の線である」と。これ等英国フリーメーソンの計画は、非常に冒険的に聞こえるが、世界戦の結果、彼等は著しくその目的に近づくことが出来た。ロイド・ジョージは、1917年6月末この計画の精神に於て、ドイツ植民地のメソポタミア、及びアルメニアを英領にするように要求した(丁度この時独露両国の社会民主党ストックホルムで無併合の平和について協議して居た)。そして1917年、英軍がパレスチナを占領した時、ロイド・ジョージは、英国下院で、英国は決して再びパレスチナを手放さないと声明した。英国では、領土の獲得と、フリーメーソンとは密接な関係があって、英国領土の拡張と、英国フリーメーソンの発展とは相互に輔(たす)け合っていると言うことが出来る。*かつてのキリスト教とスペイン・ポルトガルの関係を彷彿させる(燈照隅コメント)

英国の大を成したのは、フリーメーソンの事業であるとは、英国人自身の言う所である。英国の将帥、占領者は、すべてフリーメーソン社員であった。例えばゴードン将軍[31]ボーア戦争司令官ロード・ロバーツ[32]、南ア高級委員のロード・ミルナー、今次世界戦におけるフランス将軍、ロード・キッチナー等は何れもフリーメーソン社員である。従って英本国及びその植民地には、これらの人々の名を冠した組合が多数にある。全世界に行き渡っている英国組合は、英国の帝国主義の爲に尽くしたのであって、今次の大戦間、英国の組合はローマ、パリで開かれたラテン・フリーメーソンの政治的な会議に加わった。このようにしてイタリアの参戦以前、英・仏・伊三国のフリーメーソンの高級幹部の間には、政治上の談合が行われたのである。(1915年2月12日、パリにおける協商側のフリーメーソン最高幹部の会合に於て、イタリアの参戦を決定した)。

英国フリーメーソン内のユダヤ主義の影響については、既に書いたから、ここでは、英国では多数のユダヤ人のフリーメーソン社員が貴族、に列せられその一部の者は同国上院議員になっていることを記すだけに止めておく。例えばロード・ビーコンスフィールド[33]、ロード・ロスチャイルド[34]、デーリーテレグラフ新聞社長ロード・バーナム[35]、ロード・ノースクリフ[36]その他である。これら猶太人の貴族連が、英国のフリーメーソン内で特殊な地位を占めていることは、多数の組合がこの人々の名称を冠しているのを見てもわかる。英国におけるユダヤ人のフリーメーソン社員が、ドイツを憎悪して居たことは、ノースクリフの新聞に依るドイツ攻撃を見れば明瞭である。

王室とフリーメーソンとの関係が密接であること、英国のごときは世界にその比がない。故エドワード七世も、現在のジョージ五世も、フリーメーソン社員である。もっともエドワード七世の崩御の後は、コンノート大公が、大棟梁となっているので、ジョージ五世は、フリーメーソン内では余り重要な役目を持っていない。皇太子プリンス・オブ・ウェールズもすでにフリーメーソン社員となった。彼は1919年6月27日に行われたフリーメーソンの戦勝祝賀式に参列した。英国の政治家は全部フリーメーソン社員である。

英国の世界強国政策を促進するため、1885年にEmpire Lodge No.2108が組織され、ザンジバル国王[37]ジョホール国王[38]等もその会員となった。第二回日英同盟の締結に主として参与した日本政治家林氏(林 董子爵)も、またこの組合に加入した。世界戦に際し、インドの王侯が、英国側に付いたことについては、この組合の活動の結果による所が多い様である。世界戦における協商側の戦勝は又英国の新聞雑誌記者組合の活動に負う所が大きかった。この種のある組合[39]の一領袖カルヴァート[40]の言ったことは本当である。曰く「ペンを以てする新聞は、その方法と同じく重要である。故にこのロッジの会員は、フリーメーソンの原則の防禦のために、その最後の一〇(インキの)に至る迄を注ぐことを覚悟している[41]」と。

この世界戦争が、明瞭にフリーメーソンの戦争であったことは、英国のフリーメーソン新聞の自ら言う所である。彼等はこの戦争は貴族主義・専制政治オートクラシー、即ち両帝国)と民主主義・民主政治との決戦であったと主張しているが、実際は彼等ドイツのカイザーのため脅威を受けたと称する民主政治のためではなく、却って世界資本主義の専制政治のために戦ったのである。民主政治とは、何ぞやの問いに対し、英国の代議士ポンソンビー[42]は、下院に於て次の如く言っている。「デモクラシーとは国家の統治に、決定的に参与する、教育完全にして、その政治上の自己の地位を自覚せる国民の政治的状態である。我が英国人は、このような状態には未だ中々達していない。我等は戦争前にもこのようなデモクラシーは有していなかった」と。

デイリー・テレグラフ新聞も英国民は英仏協定、日英同盟、英露協約について何等関与する所なかったことを認めている。曰く「これ等はすべて英国政府の締結したもので、国民は締結に先立ち、この種のことが考慮されていると言いうことさえも知らなかったのである。英仏露は1913年秘密協約を結び、ドイツと戦争の際、フランスの獲得するべき土地(アルザス・ロレーヌ、ライン等)を協定した。英国のタウンスヘンド将軍[43]は、英仏露及びベルギーの軍事全権間にドイツを滅ぼすべき秘密軍事会議が行われ、将軍もこれに参列したことを語った。英国の開戦後第一週中に15万人をベルギーに上陸させ、かつ直ちにベルギーの軍属と共に、ライン地方に侵入すべきことが定められ、同時に仏軍はフォゲーゼン[44]を超え、露軍は東プロシャを経て進撃することになっていた。既にその時(開戦の一年前)、ボーア人[45]に対し、その援助の報酬として、ドイツ領南アフリカを与えるべきことを約した。

他の一証を挙げれば、英国の前陸相ホールデン卿(Lord Haldane)は、1915年7月15日、ロンドンにおける演説の際、英国に目立たぬ様に、ドイツとの戦争のための準備をさせたことを以て、自己の功績としている。英国労働者の指導者マクドナルド[46]は、戦争勃発直後、英国外務大臣グレーに対し、グレーが1906年以来、ドイツとの戦争を準備し、且つこの際協商側は、少しもベルギーの中立のことを気にしないのを当然の事と考えていたことを非難した。国境要塞モブージュ[47]が、既に1913年に充分に英仏の弾薬を持っていたことは注目に値する。

英国の大組合は、戦争勃発後直ちにドイツ出身の会員を全部追い出し、サンダーハムの領事であったドイツのフリーメーソン結社員に対し、反逆罪の名のもとに死刑の宣告をした(が、これは恐らく非合法である)[48]。英国大組合は、ラテン民族のフリーメーソン会議には常に全権代表者を送ったが、ドイツの平和提議は侮辱を以て突き返した。英国フリーメーソンは、逐次各国特に米国を戦争に引き入れることに全力を尽くした。戦争前英帝国内のフリーメーソン社員の数は、25万乃至30万であったが、戦争中に45万に上った。この様な激増をしたことについては、英米フリーメーソン新聞が自ら言うように、今次の大戦はフリーメーソンの戦争であることに考え及んだならば、自ら合点の行くことである。

英国フリーメーソンの平和祝賀会は、事実上盛大なる戦勝祝賀会であった。この日は1914年6月28日より、満五ヶ年に当たる1919年6月27日と定め、ロンドンのローヤル・アルバートホールで行われた。8,500人の社員は室に溢れ、カナダ、ニュージーランド、豪州、南支那、セイロン、英領ギニア島の大組合の多数の代表者も、これに参列した。米国の16個の大組合も、高級幹事を代表として、式に参列せしめた。寔(まこと)に未曽有の英米フリーメーソンの一大観兵式とも言うべきものであった。

中欧強国を撃滅しようとした世界組合の計画が成功した後、次に来るべきものは、英国、ユダヤ、米国の指導の下における世界フリーメーソンの世界統治であって、今日既にその兆しが認められるのである。

世界フリーメーソンの関係について深刻な研究を遂げ、崩壊した各国の廃墟の上に世界共和国を打ち建てようと、世界革命、つまりは世界戦争を起こしたところの本来の力が世界フリーメーソンであることを知るに及んで、我々はドイツのフリーメーソンに対しても、不満の念を禁ずることが出来ない。ドイツのフリーメーソンは、その一員たる「オールOhr」の言及に依れば、高き理想に憧憬する余り、現実を見失ったとのことであるが、私はドイツの「フリーメーソン」が「ラテン」民族の大組合の、政治的革命的性質を承知していたはずであるにも拘らず、これと関係を保持するに至ったのは、ドイツ人の馬鹿正直のなせる所だと言わざるを得ない。1913年8月、ハーグに於て開かれたフリーメーソン平和会議で、ベルギー結社員が、仏独両国民の接近を妨げるものは、ドイツの軍国主義であると言い、且つドイツフリーメーソンの任務は、ドイツをして再び哲学者、詩人、芸術家の国民たるべき古代の理想に引き戻すことにあると言ったのに対して、ドイツの結社員は当然、フランスが三年兵役を採用して、ドイツに軍備拡張を余儀なくさせたことを指摘すべきであったにも拘らず、何等これに対し抗議する所がなかったのは、フランスフリーメーソン社員の意見に賛意を表したものと言わざるを得ない。のみならず、フランスのフリーメーソンの政治的精神に眩惑されて、ドイツ国内に革命を起こし、或いは少なくともこれを促進する考えであったとみるほかはない。ここに、戦時中ドイツのフリーメーソンが取った曖昧な態度、並びにフランスのフリーメーソンの攻撃に対するその防禦の薄弱であった原因を理解することが出来る。

米国には、60個の大組合があって、その下に14,000個の組合があり、棟梁会員(マスターメーソン)(第三階級以上)だけでも170万人に達している。その外ほかフリーメーソンと関係ある秘密結社の会員数は約400万人ある(ドイツの大組合同盟の承認しているものは大組合16、会員約50万人である)。有色人種の大組合は32個あって、組合は約千個である。以上の数字を見ただけでも、米国におけるフリーメーソンの価値を知ることが出来るであろう(ニューヨーク州だけの会員数92,460人である)。(セオドア・)ルーズベルトが、フリーメーソン社員であったことは人の知る所であるが、ウィルソンが同社員であるかどうかについては、色々説があったが、米人の證明する所に依れば、彼もブライアン(William Jennings Bryan国務長官)も共に確実に社員である。色々矛盾した報道があるのは、主にドイツ側の承認していない大組合に属する者についてである。米国で有力な地位にいる人は、大概は社員である。何となれば、米国では社員でない者は、政治上でも、実業上でも、発展を遂げることが殆ど不可能であるからである。米国議員の三分の二(232名)は、フリーメーソンであり、元老院(上院)でも、フリーメーソン社員が過半数(48名)を占めている[49]。米国フリーメーソンの態度は、大戦の初期においては不定であった。例えば兵器弾薬の輸出について、最初は猛烈な反対があったが、間もなく共和国としては、共和政体、及び各国民の融和に賛成する連合国の方に加担するほかはないと言う思想が優勢となった。もっとも連合国の一員として、ツァーリのロシアがあると言うので、これに反対する者も少なくなかったのは事実である。だから第33階級の「モーア」は、慎重の態度をとり、まず次の様な事を言った。「我々はドイツ国民に対しては、最大の敬意を表するものである。……併しながらフリーメーソン軍国主義には反対であって、且つ米国人の理想は国王神権なるものを尊重しない」(1915年10月ワシントンフリーメーソン新聞The Newage)と。これに対しドイツ系米国人フリーメーソン社員中、誰も反対する者がなかった。そこで徐々に反独的煽動が始まった。例えば「欧州連邦の建設によって、永久に戦争を予防することが出来る」。或いは「フリーメーソン」は正義権利及び真理のための戦争の先駆者として、世界同胞の黄金時代を迎えるであろう」。などの宣伝が行われた。これは米西戦争、あるいはフリーメーソンポルトガルに、内戦や、政治的殺人の絶え間ない事などを引合に出すまでもなく、馬鹿げ切った事であるが、事実に於ては非常に効果があったのである。フリーメーソンは、この様にして徐々に米国大戦参加の素地を作り、1915年2月には、イタリアの大棟梁「フェラーリ」「ナタン」の両人は、イタリア政府の委任を受けて、米国に渡航し、数か月間同国に滞在して、反独墺熱を煽り、且つ米国を大戦に引き入れることに努めたのであった。米国フリーメーソンは世界大戦の結果に甚大なる寄与をしていることは、どれほどフリーメーソンが大戦間その会員の増加に非常な努力をしたかによって知ることが出来る。つまり戦争中だけで、大体50万人の会員を増加し、現在会員は計200万に達している。フランスの歴史家ハノトー[50]は、次の様に記述している「1914年マルヌ戦の前にフランスの人心萎縮し、多数の政治家はすぐにドイツと講和することを希望した時にあたり、三名の米国使節はフランス政府に対し、戦争継続を希望すると共に、米国も戦争に参加することを約し、且つ米国には目下の処、米国の参戦を希望する者は、五万人しかないが、やがては一億に達するであろうと述べた」と。尚最近ウィルソンの上院における説明中、彼は如何なる状況に於ても戦争に参加したであろうと述べた。即ち潜水艦戦(Uボートによる攻撃)が無くても、米国は参戦したであろう。なお、西部戦線における軍隊中、米国フリーメーソン社員の数は、25万に達したことは注意に値する。米軍総司令官「パーシング」将軍は、同じく結社員である。それでフランスのフリーメーソンは、権利擁護の戦争のために欧州に来たパーシング将軍[51]、及びその勇敢なる部下に対して「サン=ミエル[52]」における美事なる戦勝を称賛した。

今次の世界大戦は、フリーメーソンの戦争であったと言っても決して過言ではない。米国及び英国のフリーメーソン新聞は、当に世界戦争は純然たるフリーメーソンの戦争であって、その理想のために行なわれたものだと主張している。

ケベック」(カナダ)の大組合は1917年年報に、米国フリーメーソンは、世界戦の最初より協商側であったと記述している。又ロンドン発行のフリーメーソン新聞The Freemasonには「開戦後第一週に於て、米国フリーメーソン大会は、英国及びその味方にできる限り援助を与えることを決議した」と報じ、また同紙は、次の様に書いている。「米国の結社員は、200万人以上に達し、而もその各社員は該結社が共和国の安全及び存立上、如何なる価値を持っているかをよく承知している。世界戦争は、貴族主義と民主主義の戦いであって、世界の将来は民主的となるであろう。これはドイツのカイザーがこれを知っているかどうかに関わらないのである」と。

国労働同盟首領サミュエル・ゴンパースの米国における勢力は大したものである。彼は富豪で、フリーメーソン社員で、ユダヤ人である。彼は米国労働者の間に少しでも戦争反対の気分が見えると、すぐこれを抑えつけた。米国のユダヤ人は、皆心身を挙げて協商側となり、対独戦争に従事するとは、ある有力なる米国ユダヤ人(オスカー・ストラウス[53])の言であった。

北米、中米、南米の諸国を通じ、二三の例外を除く外、相次いでドイツに対し宣戦布告した。そしてこれ等諸国の参戦に最も力を出したのは各国のフリーメーソン社員であったことは、米国(北米合衆国)と全くやり方が同じである。アフリカの黒人共和国リベリアがドイツに対し、宣戦するに至ったのも、同国フリーメーソンの力であって、又同国はかの偽善者ウィルソンのため、米国側に立って参戦するか、その独立を失うか、二者択一を迫られたのであった。支那の参戦も、英米フリーメーソン系の政策に基づくものである。北京には、高級組合があって、支那の有力者はこれに加入し、同組合はワシントンにある高級第33階級社員の団体に属し、この団体は米国政府と密接な関係を持っている。その他、支那には英国の大組合に属する二十数個の組合がある。

日本には、英国系統のフリーメーソン結社員がある。即ち英国大組合に属する4個の組合のほか、横浜、神戸、長崎に各一個ずつのスコットランド組合がある。林子爵が結社員であったことは有名なことだ。タイはドイツとは常に良好の関係にあって、何等戦争の原因たるべきものはなかったに拘らず、やはりドイツに対し宣戦した。英国が、各国の有力者と親密な関係を保持するために、世界各地の貿易拠点に、自国の組合を配置していることは人の知る所で、タイもその顕著な一例で、同国の財政は、英国人が監督の任に当たっている。要するにアジアの大部もドイツに対し敵対の関係に立ったものであって、これは主として組合の事績であったのである。

現時政治に関するスコットランド式高級フリーメーソン(即ちグラントリアンConseil Supreme(フランス大東社最高会議))のある国は、総計31か国であって、内27か国は、独墺に対し宣戦した。残余の四か国は、ドイツ、ハンガリー、ボリヴィア、アルゼンチンである。英米フリーメーソン新聞が、今次の世界大戦を、フリーメーソン戦争だと称しているのは正当の事である。即ちこの戦争の動機であったオーストリア皇太子の暗殺は、フリーメーソンの仕事で、各国宣戦の動機となったものも、フリーメーソンの力が主であった。彼等は、戦争の目的は貴族主義国家、君主国の没落、ドイツミリタリズム(軍国主義)の倒壊にあることを唱え、大戦の結果は、彼等の希望通り、オーストリア=ハンガリーの崩壊による、ハプスブルグ及びホーエンツォレルン両王家の駆逐、アルザス・ロレーヌの奪還、ライン地方の分離、ポーランドの新設、トルコの分割等となったのである。

 

[1] Havas ハヴァスは1835年創立のフランスで最初の報道局。AFP もここから派生した。1998年にVivendi に買収された。

[2] Dr. Theodor Schiemann(1847~1921)はドイツの歴史家。バルトドイツ人の家系に生まれた、保守的国家主義的思考の、プロテスタント

[3] 原文カールハイゼ。Karl Heise(1872~1939)は、神秘主義的、陰謀論的作品で知られるドイツの人文科学者。「協商のフリーメーソンと世界大戦(1919)」は反ユダヤ・反メーソンの陰謀論の古典。

[4] Louis Marie Sylvain Pierre Larreguy de Civrieux(1859~1941)ド=シヴリュー少佐はフランスの作家。

[5] 原典:Isaak Cremieux、原文イ・クレミエー。Isaac Adolphe Cremieux(1796~1880)は、1830~40年代の政治犯裁判で名を馳せたフランスの弁護士、政治家。1848年の革命後、臨時政府の法務大臣、1871~1875年国民会議代理、1785年以降終身元老員議員。

[6] 原文:ベートマンホルウェヒ。Theobald Theodor Friedrich Alfred von Bethmann Hollweg(1856~1921)はドイツ帝国第五代宰相。

[7] 原文:ベルンスドルフ伯。Johann Heinrich Graf von Bernstorff(1862~1939)はドイツの政治家。プロシャ王国で最強の政治家の息子。父親が1862年より英国大使となったので、1873年の父の死まで英国で過ごした。1908~1917年駐米大使。1887年、父の反対で出来なかった結婚をビスマルクの計らいで実現した。配偶者はニューヨークの裕福な絹商人の娘だった。

[8] Giuseppe Zanardelli(1826~1903)フリーメーソン

[9] 原文:パレール。Camille Barrère(1851~1940)バレール。駐伊フランス大使。フリーメーソン

[10] 原文:サンギュラノ。Antonino Paternò Castello, Marchese di San Giuliano(1852~1914)マルケゼ(侯爵)・サンジュリアーノはシチリアの古い貴族の家系に生まれ、1909~10在仏外交官、1910~14年イタリア外務大臣フリーメーソン

[11] Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon(1862~1933)初代ファロドン・グレイ子爵は、英国の政治家。

[12] Ettore Ferrari(1845~1929)はイタリアの彫刻家。イタリア大東社の大棟梁。

[13] 原典:Triest und Trient。トリエステアドリア海港湾都市。トレンティノ=アルト・アディジェは長くオーストリアの領土であったイタリア北東部の州。

[14] Guelph Civinini(1873~1954)はイタリアの作家・詩人・ジャーナリスト・探検家。フリーメーソン。 

[15] Antonio Salandra(1853~1931)はイタリア保守の政治家。1914~16年第33代首相。彼はイタリアの領土恢復主義に立って、第一次大戦で協商側に就くことを確約した。 フリーメーソン

[16] Vittoria(イタリアの新聞社、詳細不明)

[17] 原文;ギオリッチ。Giovanni Giolitti(1842~1928)はイタリアの自由主義的政治家。1892年~1921年まで断続的に5回に亘って首相を務めた。ファシズム台頭期にはこれに協調的であったが、のちに反対者となる。

[18] Alberto Pollio(1852~1914)はイタリアの将軍。1908年よりその死までイタリア陸軍参謀総長を務めた。

[19] Genuzio Bentini(1874~1943)はイタリアの弁護士、政治家。社会主義者フリーメーソン

[20] 「Internationale Rundschau」チューリッヒ、1917年11月。

[21] Vaccaluzzi(詳細不明)

[22] 原文:ガブリエル・ダヌンチオ。Gabriele D'Annunzio, Prince of Montenevoso, Duke of Gallese(1863~1938)ガブリエーレ・ダヌンチオ・モンテネヴォーソ公・ガレーゼ伯はイタリアの詩人・劇作家・ジャーナリスト。第一次大戦に従軍。1914年以降政治家としても活躍。自身ファシストと宣した事は無いがその思想はムッソリーニに影響を与えたと言われている。フリーメーソン

[23] Antonio Maura Montaner(1853~1925)はスペインの首相を1903~04、1907~09、1918、1919、1921~22の期間、五回務めた。常に憲法を守り、スペイン特有の悪い政治風土を避けて議会制度を守った首相。マウラはフリーメーソンではない(原典脚註)。

[24] 原文:エルプリウアー。原典:El Privaz。引用元のカール・ハイスの「協商フリーメーソンと世界大戦」を読むと、英国のロッジが金を積んでポルトガルのロッジに働きかけていることが読み取れると共に、このEl Privaz と言うのは特定されない一個人、程度の意味であることが分かる。それで、「社員の一人」とした。

[25] 原文は二百五十萬。原典は25 Millionen なので、2500万の間違いと思われる。

[26] Constantin Coandă(1857~1932)はルーマニアの兵士で政治家。将軍まで上り詰め、1918年には短期ルーマニアの首相兼外相となった。息子の一人は数学者でコアンドラ効果で有名。

[27] カロル一世(1839~1914)は本名Karl Eitel Friedrich Zephyrinus Ludwigでホーエンツォレルン家の侯爵の息子。ルーマニア公(1866~1881)、ルーマニア王(1881~1914)。正史には毒殺のことは一切触れられて居ない。

[28] Cecil John Rhodes(1853~1902)は英国の植民地政治家。南アフリカの金・ダイヤモンド鉱山で巨富を得て英国のアフリカ植民地政策の一翼を担った。嘗てのローデシア(現ジンバブウェ)は彼の名前から命名された。

[29] The Right Honourable Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl Kitchener(1850~1916)は英国の陸軍軍人。最終階級は元帥。初代キッチナー伯ホレイショ・ハーバート・キッチナー。第一次大戦中、陸軍大臣で死去。

[30]マース川(オランダ語:Maas、フランス語:Meuse ムーズ)は、フランス北東部を水源としベルギーを流れオランダで北海へ注ぐ川である。 9世紀頃よりアルザス、ロレーヌ地方がフランスに併合されることとなるヴェストファーレン条約が締結された1648年まで、神聖ローマ帝国の西の国境線がこの河川であった。

[31] Charles George Gordon(1833~1885)英国の軍人。太平天国の乱の時、民兵組織の常勝軍を率いて活躍、その後、スーダンハルツームで戦死。

[32] Field Marshal Frederick Sleigh Roberts, 1st Earl Roberts(1832~1914)初代ロバーツ伯爵・陸軍元帥。

[33] ヴィクトリア女王の寵愛を受けた首相ベンジャミン・ディズレーリのために1876年に創設された称号。

[34] Nathaniel Mayer Rothschild, 1st Baron Rothschild(1840~1915)英国の銀行家・政治家・初代ロスチャイルド男爵

[35] 原文:バーンハム。Edward Levy-Lawson, 1st Baron Burnham(1833~1916)本名エドワード・レヴィ‐ローソン。初代バーナム男爵。

[36] Alfred Charles William Harmsworth, 1st Viscount Northcliffe(1865~1922)本名アルフレッド・ハームズワース。初代ノースクリフ子爵。1896年5月にイギリス最初のタブロイド紙『デイリー・メール』を創刊、1903年には『デイリー・ミラー』を創刊し、『ザ・タイムズ』と『オブザーバー』を買収した新聞王。輿論に多大な影響を与えた。

[37] Sayyid Faisal bin Turki(1864~1913)ザンジバルタンザニアの沖にある島でイスラム系スワヒリ文化の地域。16世紀ポルトガル、17世紀以降オマーン帝國が支配していた。19世紀になり、英国の保護下に置かれた。

[38] Sultan Sir Ibrahim Al Masyhur Ibni Almarhum Sultan Abu Bakar Al-Khalil Ibrahim Shah(1873~1959)は22代ジョホールのスルタン。ジョホールマラッカ海峡周辺のマレーシア側の地名。

[39] ロンドンの「Gallery Lodge No. 1928」や「Fratres Calami Lodge No. 3791」等の組合のこと。(原典より)

[40] Albert Frederick Calvert(1872~1946)は英国の著述家、技師、探検家。

[41] 「そのインキの最後の一滴までもかける覚悟が出来ている」(原典直訳)

[42] Edward Ponsonby, 8th Earl of Bessborough(1851~1920)第8代ベスバラ伯爵。ダンカノン子爵としても知られる。1884~1895年英國下院議長を務めた。

[43] Sir Charles Vere Ferrers Townshend(1861~1924)は第一次大戦メソポタミアで連合軍最悪の戦いを行ったと言われる将軍。1918年まで戦争捕虜として過ごした。クート・アル・アマラをトルコに渡した同一人物。

[44] ヴォージュ山脈(フランス語)のドイツ名。ロレーヌ(ロートリンゲン)の南に位置する1000m級の山脈。

[45] 又はブール人。Boerはオランダ語で「農民」の意。17世紀に南アフリカケープタウンに移住したオランダ人やナントの勅令以後迫害されたフランス人プロテスタントの亡命者の子孫。今ではアフリカーナーと呼ぶ。

[46] James Ramsay MacDonald(1866~1937)英国の政治家。労働党党首。英国初の労働党の首相。

[47] Maubeugeはベルギー国境にあるフランスの要塞の町。元スペイン領オランダの町で17世紀仏領となり、ルイ14世によって要塞が補強された。第一次大戦初期にドイツの手に陥ちた。

[48] 原文では原典の(これは恐らく非合法である)が略されている。原文:「サンダーハムの領事たるドイツのフリーメーソン結社員に対し、反逆罪の名の下に死刑の宣告をなした。」Sunderham の地名については不明。

[49] 当時はアラスカ・ハワイが合衆国でなかった爲、全米48州であった。(つまり上院議員は96名)

[50] Albert Auguste Gabriel Hanotaux(853~1944)ガブリエル・アノトーはフランスの政治家・歴史家。1894~1895、1896~1898年外相、1898年植民地相を務めた。

[51] John Joseph "Black Jack" Pershing(1860~1948)はアメリカの陸軍軍人。第一次大戦欧州派遣軍の総司令官。この時パーシングの副官の一人だったのがジョージ・C・マーシャルとダグラス・マッカーサー

[52] 原文:サンシーエル。原典でSt. Mihiel(サン=ミエル)と確認。サン=ミエルはヴェルダンの南約30キロにあるロレーヌ(ロートリンゲン)地方ミューズ県の町。独仏の係争地であったロレーヌの西端にあたる。

[53] Oscar Solomon Straus(1850~1926)はアメリカ合衆国の政治家。セオドア・ルーズベルト大統領の下で1906~1909年、合衆国商務長官を務めた。

f:id:caritaspes:20191202004441p:plain

 

 

フリーメーソンと世界革命15(原文)

25.フリーメーソン及び世界戦爭

 

読者は既述せる所に依りて、フリーメーソンは、世界共和國の建設を目的とし、之を達する手段として、到る所に革命を畫策せることの疑ひなきことを知られたであらう。然らば今次の大々的革命、即ち世界戦に就ても、フリーメーソンは、必ずや其責を負ふべきものであることは推定に難からざる所である。

平和主義者のフリーメーソンが、世界平和の標語を民衆に説ける一方に於て、英佛のフリーメーソンは、世界革命、即ち世界戦爭を馴致[1]すべき政策を實行しつゝあつた。フリーメーソン社員ウィルヘルム・オール(嘗ては平和主義者であつたが、今次大戦に於ける経験の結果、國民的自覺を得た人)は、よく佛國の國民精神を會得し、躊躇なく言明して居る、「佛國民全部は、獨逸國民を諒解しやうともしないのみならず、極めて危険なる偏見に囚はれて、アルザス問題を論議せること、恰も子供が火器を弄ぶに等しきものがある。且つ獨逸の事物に就て、甚しき誤解を懐いて居た故に、佛國民全部は世界戦の責任を負はねばならぬ。而して一大勢力たるフリーメーソンは第一に此責に任ずるべきである」と。即ちオールは、單に佛國フリーメーソンが此佛國民の謬見を正し、世界戦爭を抑止することに努力しなかつたら、いけないと云つて居るが、實際に於て墺國皇儲の殺害を畫策したのは、佛國のフリーメーソンであることは知らないと見える。而もオールと雖も、佛國フリーメーソンが、獨逸の倒潰を確信して居たことは之を認めて次の様に云つて居る。

「教育或る佛國人は、獨逸國を以て粘土の足を有する巨像に比し、早晩倒潰すべき運命にあるものとの見解を有して居た。彼等が、獨逸國に關する新聞記事に依つて知つた所は、權勢欲に駆られて、領土を拡張せんとするカイザーの帝國主義と、社會主義的革命との衝突であつた」と。

而して佛國のフリーメーソンは、巧に此の革命を促進することを圖つたのである。

當時佛國のフリーメーソンは、次の様に考へて居たらしい。「墺國皇儲の死と共に、総ての障碍は取り除かれることになる。何となれば八十四歳の高齢にある墺國皇帝は、感動の結果、此上生きながらへることは難かしからうし、後継者は弱年で無経験で餘りにお人好しだ。約言すれば、墺匈國は崩壊する。獨逸國も亦戦爭を始めることはあるまい。何となれば社會主義者や共和主義者はホーエンツォレルン家を廃して、君主々義に結末をつけ、以て戦爭を防止するであらう」と。

獨逸國の労働者が、革命をやるだらうとは、外國のフリーメーソンが、一般に嘱望し、且つ屡々言明したことである。要するにフリーメーソンは、世界共和國の爲めに、世界革命を期待して居た。而も世界戦爭其物は、一の悪事として寧ろ之を避けんことを欲した。此行爲は、丁度墺國の刑法にある「殺害の意思はなかつたが、敵意を有して爲した行爲の爲に、相手の人が死んだなら、其犯罪は殺人である」に該當する。(訳者註:フリーメーソンは世界戦爭を起す気はなかつたが、世界革命を欲したので世界戦爭が起きた。即ちフリーメーソンは、世界戦爭を起したと云はれても仕方がない)。

フリーメーソンの高級幹部は、「チェコ」、「ユーゴスラブ」、其他墺匈帝國内の異民族は皆蹶起すべきことを豫期し、又社會民主黨、両帝國の自由主義の新聞、及び獨逸國のフリーメーソンが、平和維持、戦爭防止に力を盡すべき事を胸算して居たが、唯墺國皇儲の暗殺に對する民衆の激昂だけは、彼等の意想外のことであつた。チュートン民族の國ではラテン民族の國に比し、政治的暗殺は極めて稀有のことであるので、皇儲の暗殺事件は、大なる激昂を買ひ、独り墺匈國内の獨逸民族のみならず、異種民族の一部にも、セルビアに對する墺匈國の宣戦を以て自由の爲め當然の事と感じたのである。

佛國のフリーメーソンが戦爭を欲し、且つ之を敢行したことに就ては、二個の主なる原因がある。其第一は、獨逸以外、一般のフリーメーソンの希望たりし専制君主及び貴族を廃して、共和政體を以て之に代へんとすること。第二はアルザス・ロレーヌの奪回であつた。佛國フリーメーソンが、復讐心の養成に努めたことは、頗る著しいものであつて、組合の名稱に依つて、アルザス・ロレーヌ奪回の理想を明確に維持せんとし、例へばアルザス・ロレーヌ復讐等の名稱を有するものもある。因にアルザスに於て、佛語を話すものは僅かに4%で、ロレーヌでは29%以下で、1871年に依然佛國人たるべき權利を實用したものは、約3%に過ぎなかつた。然るに佛國フリーメーソンの高級の者は、此古代より純粋の獨逸人の國たるアルザス・ロレーヌの割譲を以て、許すべからざる不正當の事となし、今次大戦中にも「アルザス・ロレーヌ」、「ザール河谷」、「ライン地方」の併合を熱心に主張したのも、主として佛國フリーメーソンであつた。1917年12月19日のハヴァス通信[2]は、佛國フリーメーソンの最高部の檄を發表した。之れに依ると「佛國は各國民(敵國民を含む)の解放の爲めに戦ふのである。故にアルザス・ロレーヌを要求するのは、壓迫せられた權利を要求するのであつて、両州の恢復は安全及幸福の象徴である」とのことである。これは即ち今次の戦爭は、佛國側がフリーメーソンの理想の下に、實行したものである事を明瞭に告白して居るものである。

獨逸フリーメーソンは、佛國政治家ポアンカレ、クレマンソー、ブリアン、デルカッセ等は結社員ではないと主張して居るが、此方面に精通せるシーマン博士[3]、及びカール・ハイス[4]は、最近彼等のフリーメーソン社員なることを證言して居るから、何も附け加へる必要はなからう。尤も彼等が獨逸のフリーメーソンの認めて居らぬ組合に属して居たことは、あり得ることであるが、之を以て彼等は結社員でないとすることは出來ない。佛國の政治家の殆ど全部が、階級の上下の差こそあれ、何れもフリーメーソン結社に属して居る事は事實である。独り政治家のみならず、各方面の有力なる、及び収入多き地位は、主としてフリーメーソン社員の占むる所で、高級軍人にも多數の結社員がある。佛國では獨逸の倒潰を豫言した者が少くなかつた。例へば1912年發行ド=シヴリュー少佐[5]著軍事小説「獨逸帝國の没落」では、獨逸はホーエンツォレルン三代目のカイザーと共に、佛、露、英、白耳義の協同動作に依り、全然倒潰するであらうと記述して居る。此著者は恐らくフリーメーソン社員であつて、民衆の思想を漸次恐るべき戦爭に馴らすのを目的としたのではないかと思はれる。事の成行を如何にも自然らしく避くべからざる運命であるかの如く見せるのは、フリーメーソンの慣用手段である。

佛國フリーメーソン第33階級猶太人イサーク・クレミュー[6]は、普佛戦爭の際も、ウィルヘルム一世の首に百萬フランの懸賞をかけ、巴里の組合が「ウィルヘルム」、「モルトケ」、「ビスマルク」の三人を、フリーメーソンの裁判に召喚しやうとしたが、今次の世界戦爭にも似よつたことがあつた。佛國の新聞は筆を揃へて「ホーエンツォレルンが獨逸に君臨する間は平和は成立しない」と書いたが、其後間もなく1912年4月に開かれたフリーメーソン會議の重要なる議題は、「如何にして獨逸内に君主政治反對の運動を起こし得べきか、世界平和の基礎は獨逸及び墺匈國皇帝を廃するにあり」と云ふにあつた。此思想は極めて神速に全世界に普及した。獨逸國民中にも、此思想浸潤し、先づ勝利に對する信念を失ふに至つた。當時の宰相ベートマン・ホルヴェーク[7]は、最初の時期に於て、此思想を防遏(ぼうあつ)することに努めなかつたことに就て、責を負はねばならぬ。彼は自身フリーメーソン社員であつた。

独墺両帝國社會民主黨は、平和招徠の爲めストックホルムに往來することを許された。彼等の持ち帰つたものは平和ではなく、純フリーメーソン式なる一新標語「民衆化」であつた。即ち彼等は、敵國が日々吾人を滅ぼさうと計圖(計画)して居る時に、独墺両國に於て選擧權の民衆化を唱へた。然るに民衆化なる標語の背後には「共和化」、或は「独墺両帝室出の君主を廃する」と云ふ眞の目的があつたのである。即ち此標語は、巴里よりストックホルムを迂回して、獨逸に輸入せられ、半年後1918年正月末、ロイド・ジョージ英國下院に於て演説して云つた。「最も信ずべき情報に依ると、獨逸内の革命は近づいた。協商國は確實に戦爭の目的を達することが出來る。従つて英國の戦爭目的は獨逸に知らるゝことなく、完全に達成せらるゝ事となる」と。墺國皇儲の暗殺、戦爭の煽動は、巴里のフリーメーソン中央部の畫策した所であるから、彼等が「無併合無賠償の平和」に反對するのは無論のことである。即ち佛國フリーメーソンアルザス・ロレーヌの獲得及び獨逸共和國の建設の爲めに戦爭を起したのであるから、此二大要件を充足しない平和は、彼等の容認し得ない所である。獨逸が平和を得やうとした意思が、佛國のフリーメーソン戦爭継続の意思の爲めに破られたことは、ベルンストルフ伯[8]が、調査委員會に於て平和の可能なりしことに就て次の様に説明したことを見れば明瞭である。「1916年1月米國のハウス大佐は第二回の伯林訪問を爲したが、彼は帰還後、私に對し、平和に對する主なる反對は巴里にあることを説明した。此證據により、佛國フリーメーソンの戦爭に關する働らき振り、及び其戦爭に關する責任は明瞭となつた訳である。

伊太利に於ては、フリーメーソンが、世界戦爭の開始を促進した事實を、特に明瞭に看取することが出來る。1902年、伊太利王ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が、伊佛の接近を圖つた時、既に三國(独、墺匈、伊)同盟は、少なからぬ打撃を蒙つたのである。此際伊、佛の接近を畫策したのは三人のフリーメーソン社員、即ち伊國宰相ザナルデリ[9]、駐伊佛國大使バレール[10]、及び佛國外相デルカッセであつた。次で1914年4月3日、伊、英、佛間の協定は、独墺両國の包囲を完成したもので、紐育ヘラルドの巴里版は、當時露國は動員を實施して居たことを報告して居る。此協定に参與した者も、皆フリーメーソン結社員たる伊太利のサンジュリアーノ[11]、佛蘭西のポアンカレ、及び英國エドワード・グレイ[12]であつた。

墺國皇儲暗殺の翌日(1914年6月29日)、伊太利フリーメーソンは集會を開いて、新に生じたる世界の情勢に就て協議し、越えて同年7月31日伊國内の460個の組合に對して通牒を出し、伊國のフリーメーソンは、世界のフリーメーソンの一致決議せる原則に従ひ行動すべきことを告知した。其意義は歐洲の「貴族主義國」即ち獨逸に對し敵對することにあつたのである。之れと殆ど同時に瑞典フリーメーソンの長たる同國王グスタフ五世は、伊太利王に電報して、伊國の独墺側に加擔せざることを切望した。1914年9月6日、伊太利フリーメーソンの長フェラーリ[13]は社員に對し、伊國は好機に接し参戦すべきを以て、國民を戦爭に對し準備すべきことを訓示した。同年9月13日には、反墺的大示威運動が行はれ、トリエステ及びトレンティーノ[14]の獲得を高唱した。其主なる演説者は、結社員シヴィニーニ[15]であつた。同年11月、獨逸前宰相ビューロー公が、伊墺間に斡旋して、墺國をしてとレンティーノを伊國に割譲せしめやうとした時、之を妨げたのはフリーメーソンであつた。

1914年12月3日、後の首相にて結社員たるサランドラ[16]は、内國に於て、伊太利は舊歐洲の改造に際し、重大なる要求を爲さねばならぬことに就て語つた。伊國で参戦の煽動を行つたのは、フリーメーソンに限られたことは、同國内でも認められて居ることで、現に参戦反對の新聞ヴィットリア[17]は、1915年3月初め「フリーメーソンは、1870年以來國家の解體を勉めて居るものであるが、今やフリーメーソンの初めた戦爭に、吾人を引き入れやうとして居る。彼等は巴里及び倫敦のフリーメーソンから命令を受けて居るのである」との記事を掲げた。無所属の人々に對し、伊國フリーメーソンは、暴力的手段を用ひた。例へばジョリッティ[18]は羅馬に於て其生命の安全を期することが出來なくなり、伊國参謀総長ポリオ将軍[19]は戦爭反對論者であつたが、不意に變死を遂げた。中立の新聞は漸次少くなつた。之より先き戦爭前、既に多くの新聞は駐伊佛國大使バレールの媒介で、多額の買収金を受取つた。伊太利の社會主義者ベンチーニ[20]は、内國に於て佛國は戦爭前既に伊國新聞の爲め、2,500萬リラを支出したことを主張したが、誰も之を否認する者はなかつた。[21]

伊國フリーメーソン社員第33階級ヴァカルッチ[22]博士は1915年3月10日マッツィーニの命日(マッツィーニは1872年3月10日に死せり)に際し激烈なる戦爭演説を行ひ、マッツィーニのプログラムを回想し、吾人は彼の遺業を完成せねばならぬと述べた(トリエステトレンティーノの占領を意味する)。

参戦宣傳の最高度に達したのは、1915年5月5日、ジェノヴァの附近に行はれた参戦大示威運動當日であつた。ガブリエーレ・ダヌンチオ[23]は戦爭演説を爲し、イタリアの493個の組合は全部其旗を持つて之に参集した。其後三週間を経ずして伊太利の對墺戦線の實現を見るに至つた。1916年5月24日参戦一周年記念日に際し、伊國フリーメーソンの長たるフェラーリは明瞭に説明した「宣戦は伊國フリーメーソンの命令に基づきて行はれた」と。此言葉は稍や異様に聞こえるかも知れないが、當時の伊國の首相として、伊國の中立を宣言したサランドラはフリーメーソン社員で、フェラーリの命令に従ふのは當然の事であつたのである。以上により伊國をして参戦せしめたのは、全く伊國フリーメーソンの力であつたことを知ることが出來る。

今次の世界大戦間、佛國系瑞西人が全力を擧げて伊國に加擔したのに反し、獨逸系瑞西人は獨逸に對し餘り同情を表はさなかつた。之に就てもフリーメーソンの影響を看過することは出來ない。瑞西には総計35個の組合があるが、其内獨逸の組合は11個、佛國のが23個、伊太利のが1個である。又組合員4,300人中、獨逸人は1,500、佛國人は2,700、伊國人は100名である。一體瑞西に於ける此三國人の人口は、独64%、佛28%、伊8%であるが、フリーメーソン結社員の數は、佛64%、独34%、伊2%である。斯く佛國フリーメーソンの數の勝つて居ることは、大戦間に於ける瑞西フリーメーソンの態度に照應して居るのである。白耳義の親佛的態度も主としてフリーメーソンの仕事である。同國々王アルベールは、フリーメーソン社員であるが、同國のフリーメーソンは、世界の共和政體を理想として居る。

西班牙に於てもフリーメーソンは、1914年以來百方同國の参戦を促すに努めた。1917年8月下旬、マドリード其他の各地に行はれた参戦要求の示威運動では、400人の死者を生ずる程の騒動を演じた。而も労働階級がフリーメーソン指導の下に對独開戦を主張したのは、墺匈國の労働者が、同じくフリーメーソンの指導を受けて「平和」を要求したのと對比し、誠に面白い現象と云はねばならぬ。是れ全く両帝國を倒して共和國を以て之に代へんとするフリーメーソンの希望に出たことである。

西班牙が戦爭の惨禍を蒙らずに終つたのは、主として親独家たる同國首相マウラ[24]と、同國王との功である。之も戦爭を煽動するものは帝王ではなくて、フリーメーソンであると云ふことに對する一つの例證である。

葡萄牙に於ても、フリーメーソンは開戦以來、親佛的輿論の喚起に努めた。中立の同國人社員の一人[25]は言つた。「英國(の組合)は獨逸の勝利が自由の喪失を意味することを宣傳し、此目的の爲葡萄牙に2500萬[26]の金を投入した。金は輿論以上の仕事をする。何となれば輿論とは、新聞のことで、新聞は金でどうにでもなるものだからである」と。實に英國は同一手段を全世界に施し、且つ成功した。

1915年5月中旬、リスボンに行はれた革命は英國の金で、フリーメーソンの行つた威力行爲であつて、其目的は葡萄牙の大戦参加を實現せしむるにあつた。

フリーメーソンが戦爭を煽動した一つの好適例を示せるは羅馬尼亜である。1913年夏羅馬尼亜、希臘、塞耳比亜間に、對墺國秘密同盟が成立した。羅馬尼亜のコアンドラ将軍[27]は、1914年1月に云つた「羅馬尼亜は羅・塞両國の砲を匈牙利に送り、且つ數百年來吾人の領土たる彼の(匈牙利内の)地方を併合する爲め、既に所要の措置を取つた」と。羅馬尼亜に於ても戦爭煽動者はフリーメーソン社員であつた。戦爭勃發當時、同國には16個の組合があつて「内5個宛は佛國及び伊國の大組合に属して居た。前の羅馬尼亜王カロル[28]は、中欧両國の味方であつたが、1914年10月11日、毒を入れた珈琲で殺された。是に於て戦爭煽動者は、全然勝手に振舞ふことゝなつた。新に立つた女王は、英國の王室出で、戦爭煽動者の一人であつた。

同國に獨逸人の一組があつて、佛國式の名稱を有し、佛國の大組合に属して居たが、大組合は之を獨逸人の組合と知らずに羅馬尼亜に反獨逸気分を煽るべき記事(同文通牒)を送附し來り、且つ之を新聞に公布すべきことを要求して來た。組合は之を拒絶し、爾後佛組合との關係を絶つた。之は佛國フリーメーソンの戦爭煽動の一好例である。

希臘でも戦爭煽動を行つたのは、フリーメーソンであつた。結社員ヴェニゼロスは、1914年の冬以來、希臘を對独墺戦爭に牽き入れやうと努めた。協商側は彼を介して色々希臘を誘惑すべく試みた。即ち1914年11月22日にはアルバニア土耳古領を希臘に與へることを約し、1915年1月12日には、小亜細亜の沿岸に領地を得させると云ひ、次にはキプロス島までも與へると約したが、コンスタンティノス王が、其國民の爲め平和を維持することに努め、ヴェニゼロスを却けたので、如上の誘惑は不成功に終つた。そこで協商側は、コンスタンティノス王に對し、脅迫的態度を執るに至り、結局1917年6月11日、英・佛海軍委員は希臘の首相に對し「國王退位するにあらざれば雅典市を廃墟と化せしめるであらう」との英佛の最後の通牒を交附した。コンスタンティノス王は遂に退位し、ヴェニゼロスは同月28日執政官となつた。

英國、即ち最高の大組合、又は世界組合の目的は、全世界の支配である。彼の有名なるセシル・ローズ[29]は嘗て云つた「アフリカ全部、パレスチナ、ユーフラテス河谷、南米全部、太平洋上の諸島嶼、蘭領印度、支那の海岸、及び日本、並に北米合衆國は英領とならねばならぬ。然らば世界に戦爭はなくなるだらう」と。英國フリーメーソンの傑物ロード・キッチナー[30]は1911年に説明して云つた。「歐洲に於ける英國の國境は、運河にあらずしてマース河[31]の線である」と。之等英國フリーメーソンの計畫は、頗る冒険的に聞えるが、世界戦の結果、彼等は著しく其目的に接近することが出來た。ロイド・ジョージは、1917年6月末此計畫の精神に於て、独領植民地メソポタミア、及びアルメニアを英領たらしむべく要求した(丁度此時独露両國の社會民主黨はストックホルムに於て無併合の平和に就て談判をして居た)。而して1917年、英軍がパレスチナを占領した時、ロイド・ジョージは、英國下院に於て、英國は決して再びパレスチナを手離さないと聲明した。英國では、領土の獲得と、フリーメーソンとは密接なる關係があつて、英國領土の拡張と、英國フリーメーソンの發展とは相互に相助輔け合つて居ると云ふことが出來る*。*嘗てのキリスト教とスペイン・ポルトガル植民地の関係を彷彿させる -燈照隅)

英國の大を成したのは、フリーメーソンの事業であるとは、英國人自身の云ふ所である。英國の将帥、占領者は、凡てフリーメーソン社員であつた。例へばゴードン将軍[32]、ボーア戦爭司令官ロード・ロバーツ[33]、南阿(アフリカ)高級委員のロード・ミルナー、今次世界戦に於けるフレンチ将軍、ロード・キッチナー等は何れもフリーメーソン社員である。従つて英本國及其植民地には、之等の人々の名を冠した組合が多數にある。全世界に行き渡つて居る英國組合は、英國の帝國主義の爲めに盡したのであつて、今次の大戦間、英國の組合は羅馬、巴里で開かれたラテン・フリーメーソンの政治的の會議に加はつた。斯くて伊太利の参戦以前、英・佛・伊三國のフリーメーソンの高級幹部の間には、政治上の談合が行はれたのである。(1915年2月12日、巴里に於ける協商側のフリーメーソン最高幹部の會合に於て、伊太利の参戦を決定した)。

英國フリーメーソン内の猶太主義の影響に就ては、既に書いたから、此處には英國では多數の猶太人のフリーメーソン社員が、貴族に列せられ、其一部の者は同國上院議員になつて居ることを記するに止めて置く。例へばロード・ビーコンスフィールド[34]、ロード・ロスチャイルド[35]、デーリーテレグラフ新聞社長ロード・バーナム[36]、ロード・ノースクリフ[37]其他である。之等猶太人の貴族連が、英國フリーメーソン内で特種の地位を占めて居ることは、多數の組合が、此人々の名稱を冠して居るのを見てもわかる。英國に於ける猶太人のフリーメーソン社員が、獨逸を憎悪して居たことは、ノースクリフの新聞に依る獨逸攻撃を見れば明瞭である。

王室とフリーメーソンと關係の密接なること、英國の如きは世界に其比がない。故エドワード七世も、現在のジョージ五世も、フリーメーソン社員である。尤もエドワード七世の崩御の後は、コンノート大公が、大棟梁となつて居るので、ジョージ五世は、フリーメーソン内では餘り重要な役目を有して居らない。皇太子プリンス・オブ・ウェールズも既にフリーメーソン社員となつた。彼は1919年6月27日に行はれたフリーメーソンの戦勝祝賀式に参列した。英國の政治家は、全部フリーメーソン社員である。

英國の世界強國政策を促進する爲め、1885年にEmpire Lodge No.2108が組織せられ、ザンジバル國王[38]ジョホール國王[39]等其會員となつた。第二回日英同盟の締結に主として参與したる日本政治家林氏(林 董子爵)も、亦此組合に加入した。世界戦に際し、印度の王侯が、英國側に附いたことに就ては、此組合の活動の結果に待つ所が多い様である。世界戦に於ける協商側の戦勝は又英國の新聞雑誌記者組合の活動に待つ所が大きかつた。此種の或組合[40]の一領袖カルヴァート[41]の云つたことは實際である。曰く「ペンを以てする新聞は、其他の方法と同じく重要である。故に此ロッヂの會員は、フリーメーソンの原則の防禦の爲めに、其最後の一〇(インキの)に至るまでを注ぐことを覺悟して居る[42]」と。

此世界戦爭が、明瞭にフリーメーソンの戦爭であつたことは、英國フリーメーソン新聞の自ら云ふ所である。彼等は此戦爭は貴族主義・専制政治オートクラシー、即ち両帝國)と民主主義・民主政治(デモクラシー)との決戦であつたと主張して居るが、實際は彼等獨逸のカイザーの爲め脅威を受けたと稱するデモクラシーの爲めではなく、却つて世界資本主義のオートクラシーの爲めに戦つたのである。デモクラシーとは、何ぞやの問いに對し、英國の代議士ポンソンビー[43]は、下院に於て次の如く云つて居る。「デモクラシーとは國家の統治に、決定的に参與する、教育完全にして、其政治上の自己の地位を自覺せる國民の政治的状態である。我が英國人は、斯の如き状態にはまだ中々達して居らぬ。我等は戦爭前にもかゝるデモクラシーは有して居なかつた」と。

デイリー・テレグラフ新聞も英國民は英佛協定、日英同盟、英露協約に就て何等關與する所なかつたことを認めて居る、曰く「之等は凡て英國政府の締結したもので、國民は締結に先立ち、此種のことが考慮せられて居るといふことさえも知らなかつたのである。英、佛、露は1913年秘密協約を結び、獨逸と戦爭の際、佛國の獲得し得べき土地(アルザス・ロレーヌ、ライン等)を協定した。英國のタウンスヘンド将軍[44]は、英、佛、露及び白耳義の軍事全權間に獨逸を滅ぼすべき秘密軍事會議が行はれ、将軍も之れに参列したことを語つた。英國の開戦後第一週中に15萬人を白耳義に上陸せしめ、且つ直に白耳義の軍属と共に、ライン地方に侵入すべきことに定められ、同時に佛軍はフォゲーゼン[45]を超え、露軍は東プロシャを経て進撃すべきことに成つて居た。既に當時に於て、ボーア人[46]に對し、其援助の報酬として、獨逸領南阿弗利加を與ふべきことを約した。

他の一證を擧ぐれば、英國の前陸相ホールデン卿(Lord Haldane)は、1915年7月15日、ロンドンにおける演説の際、英國をして目立たぬ様に、獨逸との戦爭の爲めに準備したことを以て、自己の功績として居る。英國労働者の指導者マクドナルド[47]は、戦爭勃發直後、英國外務大臣グレーに對し、グレーが1906年以來、獨逸との戦爭を準備し、且つ此際協商側は、毫も白耳義の中立を意に介さないのは當然のことゝ考へて居たことを非難した。國境要塞モブージュ[48]が、既に1913年に於て十分に英佛の弾薬を持つて居たことは注目に値する。

英國の大組合は、戦爭勃發後直ちに獨逸出身の會員を全部逐ひ出し、サンダーハムの領事たる獨逸のフリーメーソン結社員を、反逆罪の名の下に死刑の宣告をなした(が、これは恐らく非合法である)[49]英國大組合は、ラテン民族のフリーメーソン會議には、常に全權代表者を送つたが、獨逸の平和提議は侮辱を以て突き返した。英國フリーメーソンは、逐次各國特に米國を戦爭に引き入れることに全力を盡した。戦爭前英帝國内のフリーメーソン社員の數は、250,000乃至300,000であつたが、戦爭中に450,000に上つた。かくの如き劇増をなしたことに就いては、英米フリーメーソン新聞が自ら云ふ如く、今次の大戦はフリーメーソンの戦爭であることに考へ及んだならば、自づから合點の行くことである。

英國フリーメーソンの平和祝賀會は、事實上盛大なる戦勝祝賀會であつた。此日は1914年6月28日より、満五個年に當たる1919年6月27日と定め、倫敦のローヤル・アルバートホールで行はれた。8,500人の社員は室に溢れ、加奈陀、新西蘭、豪州、南支那錫蘭(セイロン)、英領ギニア等の大組合の多數の代表者も、之に参列した。米國の16個の大組合も、高級幹事を代表として、式に参列せしめた。寔(まこと)に未曽有の英米フリーメーソンの一大観兵式とも云ふべきものであつた。

中欧強國を撃滅せんとした世界組合の計畫が成功したる後、次で來るべきものは、英國、猶太、米國の指導の下に於ける世界フリーメーソンの世界統治であつて、今日既に其兆が認められるのである。

世界フリーメーソンの關係に就て深刻なる研究を遂げ、崩潰せる各國の廃墟の上に、世界共和國を打ち建てんが爲めに、世界革命、即ち世界戦爭を起した所の本來の力は、世界フリーメーソンなることを知るに及んでは、吾人は獨逸のフリーメーソンに對しても、不満の念を禁ずることが出來ない。獨逸のフリーメーソンは、其一員たる「オール(Ohr)」の言に依れば、高き理想に憧憬するの餘り、現實を見失つたとの事であるが、予は獨逸の「フリーメーソン」が「ラテン」民族の大組合の、政治的革命的性質を承知して居つた筈なるに拘はらず、之と關係を保持するに至つたのは、獨逸人の馬鹿正直の然らしむる所だと云はざるを得ない。1913年8月、ハーグに於て開かれたフリーメーソン平和會議に於て、白耳義結社員が、佛、独両國民の接近を妨げるものは、獨逸の軍國主義であると言ひ、且つ獨逸フリーメーソンの任務は、獨逸をして再び哲學者、詩人、芸術家の國民たるべき古代の理想に引き戻すにあると云ふたのに對して、獨逸の結社員は、當然佛國が三年兵役を採用して、獨逸をして軍備拡張を餘儀なくせしめたことを指摘すべきであつたにも拘はらず、何等之に對し抗言するところが無かつたのは、佛國フリーメーソン社員の意見に賛意を表したものと云はざるを得ない。のみならず、佛國のフリーメーソンの政治的精神に眩惑されて、獨逸國内に革命を起し、或は少くも之を促進する考へであつたと観る外はない。是に於てか、戦時中獨逸のフリーメーソンがとつた曖昧なる態度、並に佛國フリーメーソンの攻撃に對する其の防禦の薄弱なりし原因を了解することが出來る。

米國には、60個の大組合があつて、其下に14,000個の組合があり、棟梁會員(マスターメーソン)(第三階級以上)だけでも170萬人に達して居る。其外フリーメーソンと關係ある秘密結社の會員數は、約400萬人ある(獨逸の大組合同盟の承認して居るものは大組合16、會員約50萬人である)。有色人種の大組合は32個あつて、組合は約千個である。以上の數字を見ただけでも、米國に於けるフリーメーソンの價値を知ることが出來るであらう(紐育州だけの會員數92,460人である)。(セオドア)ルーズベルトが、フリーメーソン社員であつた事は人の知る所であるが、ウィルソンが同社員なりや否やに就ては、色々説があつたが、米人の證明する所によれば、彼もブライアンも共に確實に社員である。色々矛盾した報道のあるのは、重に獨逸側の承認を得て居らぬ大組合に属する者に就てである。米國で有力な地位に居る人は、大概は社員である。何となれば、米國では社員でない者は、政治上でも、實業上でも、發展を遂げることが殆ど不可能であるからである。米國議員の三分の二(232名)は、フリーメーソンであり、元老院(上院)でも、フリーメーソン社員が過半數(48名)を占めて居る[50]米國フリーメーソンの態度は、大戦の初期に於ては不定であつた。例へば兵器弾薬の輸出に就て、最初は猛烈な反對があつたが、間もなく共和國としては、共和政體、及各國民の融和に賛成する聯合國の方に加擔する外はないと云ふ思想が優勢となつた。尤も聯合國の一員として、ツァーリの露國があると云ふので、之に反對するものも少くなかつたのは事實である。是に於て第33階級の「モーア」は、慎重の態度を執つて、先づ次の様な事を云つた。「吾人は獨逸國民に對しては、最大の敬意を表するものである。……併しながらフリーメーソンはミリタリズムには反對であつて、且つ米國人の理想は國王神權なるものを尊重しない」(1915年10月華盛頓フリーメーソン新聞The Newage)と。之に對し獨逸系米國フリーメーソン社員中、誰も反對するものがなかつた。そこで漸次反独的煽動が始まつた。例へば「歐洲聯邦の建設に依つて、永久に戦爭を豫防することが出來る」。或は「フリーメーソン」は正義權利及眞理の爲の戦爭の先駆者として、世界同胞の黄金時代を招來するのであらう」。など云ふ宣傳が行はれた。之は米西戦爭、或はフリーメーソン葡萄牙に、内國戦や、政治的殺人の絶え間ない事等を引合に出すまでもなく、馬鹿気切つた事であるが、事實に於ては頗る効果があつたのである。フリーメーソンは、此如くして漸次米國大戦参加の素地を作り、1915年2月には、伊太利の大棟梁「フェラーリ」「ナタン」の両人は、伊太利政府の委任を受けて、米國渡航し、數か月間同國に滞在して、反独墺熱を煽り、且米國を大戦に引き入れることに努めたのであつた。米國フリーメーソンは世界大戦の結果に甚大なる寄與をして居ることは、どうフリーメーソンが大戦間其會員の増加に非常な努力をしたことに依つて知ることが出來る。即ち戦爭中だけで、無慮50萬人の會員を増加し、現在會員は計200萬に達して居る。佛國の歴史家ハノトー[51]は、次の様に記述して居る。「1914年マルヌ戦の前に佛國の人心萎靡し、多數の政治家は直に獨逸と講和すべきことを希望したる時に方(あた)り、三名の米國使節は佛國政府に對し、戦爭継続を希望すると共に、米國も戦爭に参加すべきことを約し、且米國には目下の處、米國の参戦を希望する者は、五萬人しきやないが、軈(やが)ては一億に達するであらうと述べた」と。尚ほ最近「ウィルソン」が、元老院(上院)に於ける説明中に、彼は如何なる状況に於ても戦爭に参加したであらうと述べた。即ち潜水艇戦が無くても、米國は参戦したであらう。猶ほ西方戦場(西部戦線)に於ける軍隊中、米國フリーメーソン社員の數は、25萬に達したことは注意に値する。米軍総司令官「パーシング」将軍は、同じく結社員である。それで佛國フリーメーソンは、權利擁護の戦爭の爲めに歐洲に來たパーシング将軍[52]、及其の勇敢なる部下に對して「サン=ミエル[53]」に於ける美事なる戦勝を稱賛した。

此の今次の世界大戦は、フリーメーソンの戦爭であつたといつても決して過言では無い。米國英國フリーメーソン新聞は、當に世界戦爭は純然たるフリーメーソンの戦爭であつて、其の理想の爲めに行はれたものだと主張して居る。

ケベック」(カナダ)の大組合は1917年年報に、米國フリーメーソンは、世界戦の最初より協商側であつたと記述して居る。又倫敦發行のフリーメーソン新聞The Freemasonには「開戦後第一週に於て、米國フリーメーソン大會は、英國及其與國に爲し得る限り援助を與へることを決議した」と報じ、又同紙は、次の様に書いて居る。「米國の結社員は、200萬人以上に達し、而も其各社員は該結社が共和國の安全及存立上、如何なる價値を有せるかをよく承知して居る。世界戦爭は、貴族主義と、民主主義の戦であつて、世界の将來は民主的となるであらう。之は獨逸のカイザーが之を知ると否とに關しないのである」と。

米國労働同盟首領サミュエル・ゴンパースの米國に於ける勢力は大したものである。彼は富豪で、フリーメーソン社員で、猶太人である。彼は米國労働者の間に少しでも戦爭反對の気分が見えると、すぐ之を抑へつけた。米國の猶太人は、皆な心身を擧げて協商側となり、對独戦爭に従事するとは、或る有力なる米國猶太人(オスカー・ストラウス[54])の言であつた。

北米、中米、南米の諸國を通じ、二三の例外を除く外、相踵(つ)いで獨逸に對し宣戦を布告した。而してこれ等諸國の参戦に最も力を致したものは各國のフリーメーソン社員であつたことは、米國(北米合衆國)と全く其揆を一にして居る。アフリカの黒人共和國リベリアが獨逸に對し、宣戦するに至つたのも、同國フリーメーソンの力であつて、又同國は彼の偽善者ウィルソンの爲め、米國側に立つて参戦するか、其独立を失ふか、二者其一を選ぶべく強要せられたのであつた。支那の参戦も、英米フリーメーソン系の政策に基くものである。北京には、高級組合があつて、支那の有力者は之に加入し、同組合は華盛頓にある高級第33階級社員の団體に属し、此の団體は米國政府と密接な關係を持つてをる。其他、支那には英國の大組合に属する二十數個の組合がある。

日本には、英國系統のフリーメーソン結社員がある。即ち英國大組合に属する4個の組合の外、横浜、神戸、長崎に各一個宛のスコットランド組合がある。林子爵が結社員であつたことは有名なことだ。暹羅(シャム)は獨逸とは常に良好の關係にあつて、何等戦爭の原因たるべきものはなかつたに拘らず、やはり獨逸に對し宣戦した。英國が、各國の有力者と親密な關係を保持する爲に、世界各地の貿易場に、自國の組合を配置して居ることは人の知る所で、暹羅も其顕著なる一例で、同國の財政は、英國人が監督の任に當たつて居る。要するにアジアの大部も獨逸に對し敵對の關係に立つたものであつて、之は主として組合の事績であつたのである。

現時政治に關するスコットランド式高級フリーメーソン(即ちグラントリアンConseil Supreme(佛蘭西大東社最高會議))のある國は、総計31箇國であつて、内27箇國は、独墺に對し宣戦した。残餘四箇國は、獨逸、匈牙利(墺太利)、ボリヴィア、アルゼンチンである。英米フリーメーソン新聞は、今次の世界大戦を以て、フリーメーソン戦爭だと稱して居るのは、正當の事である。即ち此戦爭の動機たりし墺國皇儲の暗殺は、フリーメーソンの仕事で、各國宣戦の動機をなしたものも、フリーメーソンの力が主であつた。彼等は、戦爭の目的は貴族主義國家、君主國の没落、獨逸ミリタリズムの倒潰にあることを唱へ、大戦の結果は、彼等の希望通り、墺匈の崩潰は、ハプスブルグ、及びホーエンツォレルン両王家の駆逐、アルザス・ロレーヌの奪還、ライン地方の分離、波蘭の新設、土耳古の分割等となつたのである。

 

[1] 徐々に馴らしてある状態になるよう仕向けること。

[2] Havas ハヴァスは1835年創立のフランスで最初の報道局。AFP もここから派生した。1998年にVivendi に買収された。

[3] Dr. Theodor Schiemann(1847~1921)はドイツの歴史家。バルトドイツ人の家系に生まれた、保守的国家主義的思考の、プロテスタント

[4] 原文カールハイゼ。Karl Heise(1872~1939)は、神秘主義的、陰謀論的作品で知られるドイツの人文科学者。「協商のフリーメーソンと世界大戦(1919)」は反ユダヤ・反メーソンの陰謀論の古典。

[5] Louis Marie Sylvain Pierre Larreguy de Civrieux(1859~1941)ド=シヴリュー少佐はフランスの作家。

[6] 原典:Isaak Cremieux、原文イ・クレミエー。Isaac Adolphe Cremieux(1796~1880)は、1830~40年代の政治犯裁判で名を馳せたフランスの弁護士、政治家。1848年の革命後、臨時政府の法務大臣、1871~1875年国民会議代理、1785年以降終身元老員議員。

[7] 原文:ベートマンホルウェヒ。Theobald Theodor Friedrich Alfred von Bethmann Hollweg(1856~1921)はドイツ帝国第五代宰相。

[8] 原文:ベルンスドルフ伯。Johann Heinrich Graf von Bernstorff(1862~1939)はドイツの政治家。プロシャ王国で最強の政治家の息子。父親が1862年より英国大使となったので、1873年の父の死まで英国で過ごした。1908~1917年駐米大使。1887年、父の反対で出来なかった結婚をビスマルクの計らいで実現した。配偶者はニューヨークの裕福な絹商人の娘だった。

[9] Giuseppe Zanardelli(1826~1903)フリーメーソン

[10] 原文:パレール。Camille Barrère(1851~1940)バレール。駐伊フランス大使。フリーメーソン

[11] 原文:サンギュラノ。Antonino Paternò Castello, Marchese di San Giuliano(1852~1914)マルケゼ(侯爵)・サンジュリアーノはシチリアの古い貴族の家系に生まれ、1909~10在仏外交官、1910~14年イタリア外務大臣フリーメーソン

[12] Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon(1862~1933)初代ファロドン・グレイ子爵は、英国の政治家。

[13] Ettore Ferrari(1845~1929)はイタリアの彫刻家。イタリア大東社の大棟梁。

[14] 原典:Triest und Trient。トリエステアドリア海港湾都市。トレンティノ=アルト・アディジェは長くオーストリアの領土であったイタリア北東部の州。

[15] Guelph Civinini(1873~1954)はイタリアの作家・詩人・ジャーナリスト・探検家。フリーメーソン。 

[16] Antonio Salandra(1853~1931)はイタリア保守の政治家。1914~16年第33代首相。彼はイタリアの領土恢復主義に立って、第一次大戦で協商側に就くことを確約した。 フリーメーソン

[17] Vittoria(イタリアの新聞社、詳細不明)

[18] 原文;ギオリッチ。Giovanni Giolitti(1842~1928)はイタリアの自由主義的政治家。1892年~1921年まで断続的に5回に亘って首相を務めた。ファシズム台頭期にはこれに協調的であったが、のちに反対者となる。

[19] Alberto Pollio(1852~1914)はイタリアの将軍。1908年よりその死までイタリア陸軍参謀総長を務めた。

[20] Genuzio Bentini(1874~1943)はイタリアの弁護士、政治家。社会主義者フリーメーソン

[21] 「Internationale Rundschau」チューリッヒ、1917年11月。

[22] 原典:Vaccaluzzi。(詳細不明)

[23] 原文:ガブリエル・ダヌンチオ。Gabriele D'Annunzio, Prince of Montenevoso, Duke of Gallese(1863~1938)ガブリエーレ・ダヌンチオ・モンテネヴォーソ公・ガレーゼ伯はイタリアの詩人・劇作家・ジャーナリスト。第一次大戦に従軍。1914年以降政治家としても活躍。自身ファシストと宣した事は無いがその思想はムッソリーニに影響を与えたと言われている。フリーメーソン

[24] Antonio Maura Montaner(1853~1925)はスペインの首相を1903~04、1907~09、1918、1919、1921~22の期間、五回務めた。常に憲法を守り、スペイン特有の悪い政治風土を避けて議会制度を守った首相。マウラはフリーメーソンではない(原典脚註)。

[25] 原文:エルプリウアー。原典:El Privaz。引用元のカール・ハイスの「協商フリーメーソンと世界大戦」を読むと、英国のロッジが金を積んでポルトガルのロッジに働きかけていることが読み取れると共に、このEl Privaz と言うのは特定されない一個人、程度の意味であることが分かる。それで、「社員の一人」とした。

[26] 原文は二百五十萬。原典は25 Millionen なので、2500万の間違いと思われる。

[27] Constantin Coandă(1857~1932)はルーマニアの兵士で政治家。将軍まで上り詰め、1918年には短期ルーマニアの首相兼外相となった。息子の一人は数学者でコアンドラ効果で有名。

[28] カロル一世(1839~1914)は本名Karl Eitel Friedrich Zephyrinus Ludwigでホーエンツォレルン家の侯爵の息子。ルーマニア公(1866~1881)、ルーマニア王(1881~1914)。正史には毒殺のことは一切触れられて居ない。

[29] Cecil John Rhodes(1853~1902)は英国の植民地政治家。南アフリカの金・ダイヤモンド鉱山で巨富を得て英国のアフリカ植民地政策の一翼を担った。嘗てのローデシア(現ジンバブウェ)は彼の名前から命名された。

[30] The Right Honourable Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl Kitchener(1850~1916)は英国の陸軍軍人。最終階級は元帥。初代キッチナー伯ホレイショ・ハーバート・キッチナー。第一次大戦中、陸軍大臣で死去。

[31]マース川(オランダ語:Maas、フランス語:Meuse ムーズ)は、フランス北東部を水源としベルギーを流れオランダで北海へ注ぐ川である。 9世紀頃よりアルザス、ロレーヌ地方がフランスに併合されることとなるヴェストファーレン条約が締結された1648年まで、神聖ローマ帝国の西の国境線がこの河川であった。

[32] Charles George Gordon(1833~1885)英国の軍人。太平天国の乱の時、民兵組織の常勝軍を率いて活躍、その後、スーダンハルツームで戦死。

[33] Field Marshal Frederick Sleigh Roberts, 1st Earl Roberts(1832~1914)初代ロバーツ伯爵・陸軍元帥。

[34] ヴィクトリア女王の寵愛を受けた首相ベンジャミン・ディズレーリのために1876年に創設された称号。

[35] Nathaniel Mayer Rothschild, 1st Baron Rothschild(1840~1915)英国の銀行家・政治家・初代ロスチャイルド男爵

[36] 原文:バーンハム。Edward Levy-Lawson, 1st Baron Burnham(1833~1916)本名エドワード・レヴィ‐ローソン。初代バーナム男爵。

[37] Alfred Charles William Harmsworth, 1st Viscount Northcliffe(1865~1922)本名アルフレッド・ハームズワース。初代ノースクリフ子爵。1896年5月にイギリス最初のタブロイド紙『デイリー・メール』を創刊、1903年には『デイリー・ミラー』を創刊し、『ザ・タイムズ』と『オブザーバー』を買収した新聞王。輿論に多大な影響を与えた。

[38] Sayyid Faisal bin Turki(1864~1913)ザンジバルタンザニアの沖にある島でイスラム系スワヒリ文化の地域。16世紀ポルトガル、17世紀以降オマーン帝國が支配していた。19世紀になり、英国の保護下に置かれた。

[39] Sultan Sir Ibrahim Al Masyhur Ibni Almarhum Sultan Abu Bakar Al-Khalil Ibrahim Shah(1873~1959)は22代ジョホールのスルタン。ジョホールマラッカ海峡周辺のマレーシア側の地名。

[40] ロンドンの「Gallery Lodge No. 1928」や「Fratres Calami Lodge No. 3791」等の組合のこと。(原典より)

[41] Albert Frederick Calvert(1872~1946)は英国の著述家、技師、探検家。

[42] 「そのインキの最後の一滴までもかける覚悟が出来ている」(原典直訳)出典:Germania 17. Juli 1919

[43] Edward Ponsonby, 8th Earl of Bessborough(1851~1920)第8代ベスバラ伯爵。ダンカノン子爵としても知られる。1884~1895年英國下院議長を務めた。

[44] Sir Charles Vere Ferrers Townshend(1861~1924)は第一次大戦メソポタミアで連合軍最悪の戦いを行ったと言われる将軍。1918年まで戦争捕虜として過ごした。クート・アル・アマラをトルコに渡した同一人物。

[45] ヴォージュ山脈(フランス語)のドイツ名。ロレーヌ(ロートリンゲン)の南に位置する1000m級の山脈。

[46] 又はブール人。Boerはオランダ語で「農民」の意。17世紀に南アフリカケープタウンに移住したオランダ人やナントの勅令以後迫害されたフランス人プロテスタントの亡命者の子孫。今ではアフリカーナーと呼ぶ。

[47] James Ramsay MacDonald(1866~1937)英国の政治家。労働党党首。英国初の労働党の首相。

[48] Maubeugeはベルギー国境にあるフランスの要塞の町。元スペイン領オランダの町で17世紀仏領となり、ルイ14世によって要塞が補強された。第一次大戦初期にドイツの手に陥ちた。

[49] 原文では原典の(これは恐らく非合法である)が略されている。原文:「サンダーハムの領事たるドイツのフリーメーソン結社員に対し、反逆罪の名の下に死刑の宣告をなした。」Sunderham の地名については不明。

[50] 当時はアラスカ・ハワイが合衆国でなかった爲、全米48州であった。(つまり上院議員は96名)

[51] Albert Auguste Gabriel Hanotaux(853~1944)ガブリエル・アノトーはフランスの政治家・歴史家。1894~1895、1896~1898年外相、1898年植民地相を務めた。

[52] John Joseph "Black Jack" Pershing(1860~1948)はアメリカの陸軍軍人。第一次大戦欧州派遣軍の総司令官。この時パーシングの副官の一人だったのがジョージ・C・マーシャルとダグラス・マッカーサー

[53] 原文:サンシーエル。原典でSt. Mihiel(サン=ミエル)と確認。サン=ミエルはヴェルダンの南約30キロにあるロレーヌ(ロートリンゲン)地方ミューズ県の町。独仏の係争地であったロレーヌの西端にあたる。

[54] Oscar Solomon Straus(1850~1926)はアメリカ合衆国の政治家。セオドア・ルーズベルト大統領の下で1906~1909年、合衆国商務長官を務めた。

f:id:caritaspes:20191202004441p:plain

 

 

フリーメーソンと世界革命14(現代文)

第四部

24.世界革命に依るフリーメーソン共和国の建設

 

世界各国におけるフリーメーソンの革命的事業を通して観ると、その精神は常に同一である。即ち其の究極の目的は、共和国の建設にあるのである。

その一例を挙げれば、ベルギーのフリーメーソンの集会に「ベルギー共和国」なる議題の出ることは敢えて珍しいことではない。そして同国のフリーメーソンが、外国における革命的事件についても、多大な興味を感ずるということは、次の例でも明らかである。それは1911年、同国の有名な結社員フルネモン[1]が、演説して言ったことだが、「諸君は最近のポルトガル革命のニュースを聞いた時の我々の得意な感情を覚えているか。数時間かからずに、玉座は転覆され、国民は凱歌を奏し、共和国は宣言された。それは何も知らぬ一般の人に取っては、正に晴天の霹靂であった」云々と。南米ブラジルの最後の皇帝ペドロ二世を没落させた者は、フリーメーソン結社員デオドロ・ダフォンセカ元帥[2]で、その革命運動は全てフリーメーソン組合の画策する所だった。フランスのフリーメーソンの委任に基づき、1917年仏英両国の代表者として、ギリシャ王コンスタンティノスの退位を強要し、これをフリーメーソン社員のウエニゼロス[3]に替えたフランス代表者ジョンナール[4]は、同じく結社員である。当時コンスタンティノス王が即時退位しなければアテネ市を焦土と化すだろうと、彼を脅した。要するに古来幾多の革命は計画的に、執拗に、持続的に比類ない精力で準備され、全世界の君主を廃位しようとしているのである。この計画の起原は決して昨今の事ではなく、実にフリーメーソンの発展と共に、次第に成就して来たものである。即ち単に精神的メーソンについて言えば、1740年にその起原があり、更にまた職工組合について考えるなら、オリヴァー・クロムウェルの1648年及び1688~89年の光栄ある革命[5]をも引き合いに出すことが出来る。しかしこれ等の事件について述べることは、話が余りに横道に入り過ぎるので、ここでは割愛する。(*この一文はメーソンが職工時代から反君主制だったことを示唆するのか?

1740年フランスフリーメーソンの棟梁ダンタン公[6]は、或る演説の際に「フリーメーソンは全世界に共和政体を採用させるために創設されたものだ」と述べた。此の演説を紹介したウィルヘルム・オールは、既に当時1789年のフランス革命の精神が、フランスのフリーメーソンの中に窺われること、および同様の精神と理想が当時ドイツの知識階級に不用意に輸入されて居たことを認めている。

フリーメーソンに関するフランスの著書La Franche-Maçonne(1744年)、及びLes Franc-Maçons écrasés(1746年)は、表面上フリーメーソンに反対の様で、その実はフリーメーソンを説明宣伝するものと認められるが、この二書は既に世界共和国の思想、及び1789年の革命(フランス革命)のプログラムの大筋、並びに「自由」及び「親睦(友愛)」の標語を書き表している。その後王朝の没落後、更にこれに「平等」の標語が付け加えられたのである。

ここで一言説明しておきたいのは、フリーメーソンの中では「平等」は全く行われていないことである。即ち各階級の間には厳格な隷属服従の関係が存在するからである。ウィルヘルム・オールはフランスフリーメーソンを指揮する顧問(Conseil de l’Ordre)の制度は、一種の寡頭政治であって、一般にフランスのフリーメーソン内では貴族主義が行われて居り、すべての結社の上級の機関、例えばRitual-Kollegium は、その機関が授けた第三十三階級に属する社員だけで組織される。つまり全く非民主的な機関であることを書いている。

フリーメーソン内には「自由」もないのである。即ち言論の自由は全くない。国家の行う検閲とは比較にならない程、厳格な検閲制度がある。これは特にフランスで厳重であって、ドイツでは一般に結社員がその沈黙の誓約を遵守すべきことについて、各自の責任観念に任せている。1894年1月1日、フランスの組合Grand Orientは、その回章[7](かいしょう 回覧)で明瞭に、次の様に言っている。「如何なる事由があっても(許可なく勝手に)、結社員は結社及びその内容については決して公表してならない、と言うことについて、領袖並びに演説者はあらゆる機会に、社員の注意を喚起する必要がある。そして公表をするにしても、明確な許可を受け、又指示された方法によるべきものである」と。

フランスのフリーメーソン社員は、思想の自由を有せないのである。即ち彼等は必ず共和主義、及び反僧侶主義でなければならない。又勝手に結社から脱退することが出来ない。つまり本人にその意志がなくても、組合が必要と認めれば、その人は死ぬまで社員であらねばならない。これに反し、結社員を組合から追放することは、その長の勝手である。ミュッフェルマ[8]は、1915年発行のイタリアのフリーメーソンに関する著書中に、その一例を挙げている。「1914年12月4日社員にしてベルノ[9]の組合の領袖たるドクター・B.[10]は、イタリアの棟梁から電報で社員を免ぜられた。しかもこれについては何等の抗弁も、審問も行われないのであった」と。フリーメーソン結社内における「自由」の実際については、尚無数の例を挙げることが出来るが、上に掲げた所で既に十分であろう。

次に標語の第三たる「親睦(友愛)」の実際はどうか。これは社員相互間ではどうか、こうか行われているが、この相互間においても激しい闘争の行われることがあるのを見ると、フリーメーソンの理想まではまだかなりの距離のあることを感じざるを得ない。オーストリアの蔵相であったシェーンボルン[11]は、1789年のフランス革命について、次のような意見を発表した「この革命は自由、平等、博愛に対する憧憬を以て開始されたが、その終局はギロチン(処刑台)の絶え間ない働きで終わり、且つ惨憺たる戦争で、フランスおよび全欧州を荒廃に帰した」と。誠に至言と言うべきである。

話は大分横道に入ったが、本節の主題に復帰しよう。人類を強者の支配より解放しようと言うのは、イルミナティ組合の目的でもあった。この組合は十八世紀の後半に大いに活動し、且つフリーメーソンといくつもの共通点を有して居たものである。既に当時に於て世界同胞及び世界共和国の思想は、その魔力を表し、偉大な思想家、例えばカントの様な人物も賛同したのである。しかしドイツの各階級に、共和政体が拡がったのは、十九世紀に入ってからの事であった。つまりこの思想はフリーメーソン社員で革命家であるマッツィーニによって代表された。彼の一派は全欧州に行き亘って居た。マッツィーニの説に従えば、共和政体は唯一の正当なる政体であって、マッツィーニ自身は彼の備える道徳及び才能により、国民の指導教養に任じ、且つその代表たるべき者と考えている。しかも自由を掛け声に始まった革命運動も、その自由の使徒が一旦支配権を掌握すれば、専制主義となってしまうのである。

フランス革命の惨事のために著しくその評判を失墜した共和思想は、十九世紀の中葉イタリアにおいて存続し、その後同世紀の終わりには再びフランスに移った。フランスでもイタリアでもドイツの封建皇帝政治は間もなく没落して、社会民主主義が行われるようになり、その時は欧州平和の脅威たるアルザス・ロレーヌ問題も好都合に解決されるだろうと期待して居た。この思想はフランス革命百年紀念のために、1889年にパリで開催の世界フリーメーソン会議では、一層明瞭に表明された。その際社員フランコリンは次の要旨の演説を為し、参列者の大喝采を浴びた。

十八世紀にも1789年の革命を経験しなかった国家でも、君主主義及び宗教が没落すべき日は遠くない。この日に於て、すべての不正は正され、すべての特権は除去され、すべての暴力で併合された国(「アルザス・ロレーヌ」、「ポーゼン(現ポズナン)」、「ガリツィア」等)は、自決権を獲得するであろう。その時は国境その他の境で、隔絶されている全世界のフリーメーソンは、これ等の境を撤廃して合同することが出来るであろう。これが我々の眼前に横たわる光栄ある将来の理想である。この日を一日も速やかに実現させることは、我々の任務である。

右の演説は、フリーメーソンがドイツ革命、共和国の建設、及びフリーメーソンの四海同胞の実現を予期していることを語っているものである。

世界共和国の思想は、1900年、パリの第二回世界フリーメーソン会議においては、全会議の基礎観念として特に明瞭に表明された。つまりこの会議での演説者で、これに関する意見を述べない者はなかった。ある社員は、世界フリーメーソンの事務所を創設し、それでフリーメーソンの理想の実現、それに世界共和国の建設のため、全世界の結社員の協力に資するように、と言う提議をした。彼は有名なるアルキメデスの言葉、「私に拠点を与えよ、然らば私は全世界を混乱に陥れるであろう」を引用し、且つこう言った。「全世界のフリーメーソンの結束は、我々に取って所謂拠点を与えるものである。我々はそれにより世界を混乱に陥れることが出来る」と。実に意味深長な言葉である。この提議は熱心な賛同を博し、会員一同は世界共和国の万歳を唱えるに至った。そしてその一委員長は、この万歳の叫びは決して無駄に終わるものではないと確言し、またある社員は各国の代表者が帰国後先ず第一に報告すべきは、「各代表者が如何に世界共和国の建設に対し満場の賛意を表したかということである」と述べた。この際注意すべきは、ポルトガルフリーメーソンの代表者の演説であった。彼は演説の最後に言った「私は帰国後ポルトガルフリーメーソンの集会でフランスフリーメーソン万歳、世界共和国万歳を唱えても、誰も疑問に思うものがないことを確信する」と。当時(1900年)ポルトガルはまだ王国であった。その後十年で同国フリーメーソンの企図は成功し、共和国になったのである。

その後万国フリーメーソン会議は屡々開催され、世界共和国建設について画策し、また各国において幾多のフリーメーソンの陰謀が行われた。そしてそれ以後各国の新聞(その大部はフリーメーソンの手中にある)は連合し、又フリーメーソンの勢力を有する国家は互いに協力し、その終局において世界最大のフリーメーソン社員たるエドワード七世が努力し、且つ切望した所の中欧諸国の包囲が実現されることになった。その後セルビアフリーメーソン社員の銃弾は、計画通り発射されることになったのである。

有識者」はチュートン帝国[12]の没落を、時計を手にして計算することが出来た。此の両帝国は全世界のフリーメーソン結社(Gross orient)から死刑の宣告を受けていたからである。国内における叛逆は、終に常勝軍の背後を刺した。このようにして我々の敵が熱望した所の共和国は成立したのである。

 

[1] Léon Furnémont(1861~1927)は、ベルギーの弁護士・政治家・国会議員

[2] Marschall Deodoro da Fonseca(1827~1892)は、ブラジルの軍人。軍事クーデターを指揮して皇帝ペドロ2世を退位させ、ブラジルの初代大統領となった。

[3] Eleutherios Venizelos [Ελευθέριος Βενιζέλος](1864~1936)ヴェニゼロスは、ギリシャの政治家。君主制から共和制への移行期間を通じて9期12年に亘り断続的に首相を務めた。

[4] Charles Célestin Auguste Jonnart(1857~1927)はフランスの政治家。1894年にパ・ド・カレーから元老院議員となり、公共事業相、アルジェリア総督、そして1911年ブリヤン内閣で外務大臣第一次大戦中は外務委員、大戦後、ギリシャコンスタンティヌス王を退位させる連合国の中心人物であった。

[5] 名誉革命のことと思われる

[6] 原文・原典はHerzog von Autin。Herzog von Antinの間違いと思われる。フランス語:duc d’Antin(ダンタン公)はルイ14世の寵姫モンテスパン侯爵夫人のひ孫になる公爵Louis de Pardaillan de Gondrin(1707~1743)で、フランスの廷臣。フリーメーソンであった。

[7] 順に回して見せる文書、書状。ふつう、あて名が列記してある。回文。回状。

[8] Dr. Leo[pold] Müffelmann(1881-1934)はLudwig Müffelmannの息子。ジャーナリストで著名なフリーメーソン

[9] Belluno。ヴェネチアの北方約60キロにあるイタリアの町。

[10] 原典による。原文はベー。「B」のドイツ語読みであろう。   

[11] Friedrich Erwein Maria Carl Franz Graf von Schönborn(1841~1907)フリードリッヒ・シェーンボルンはオーストリアの政治家・法務大臣。1890年代のチェコとドイツの和解に大きくかかわった人物。

[12] チュートンとは古代欧州に存在した部族の名称で、ラテン語のテウトネス族から来た言葉で、ユトランド半島(現在のデンマークの辺り)が原住地とされる。そこから転じて、ゲルマン系の諸族を示す言葉となった。中世以降、テュートン(チュートン)はチュートン騎士団のように、ドイツ人の別称として使われた。この言葉は、ドイツ(German)と言う言葉に付け加えて、規則正しく、秩序正しく、集団で協力する性質、と言う意味が含まれる。ちょうど、ラテンと言う言葉が楽天的で陽気、と言う意味が含まれるようにその対句として使われる。

ここで言うチュートン帝國とはつまり、ドイツ・オーストリア=ハンガリー両帝國のことである。

f:id:caritaspes:20191202004441p:plain