ドイツ悪玉論の神話096

第二十二章 犠牲者としての独逸

カイザー(独逸皇帝)が第一次大戦を始めなかった様に、ヒトラーと國家社会主義者は、第二次大戦を始めなかった。更に、ヒトラーは、彼の力が及ぶ限りのあらゆることをして英仏米との戦争を避けようとした。彼はまた、戦争が進展する中で多数の和平主導をしたが、その全てが拒否または無視された。英仏が、独逸に対して宣戦布告したのであって、独逸がしたのではない。独逸の西側での軍事主導、例えばノルウェー侵攻、フランス侵攻、低地帯の占領等は、全て先制攻撃であり、根は本質において防御的であった。ソヴィエト侵攻も同様に先制攻撃であった。非戦闘員への爆撃も独逸が始めたものではなく、英國が始めたものだ。

もし、一体、ではヒトラーナチスは何をしたためにその恐ろしい世評を得るに至ったのか、と聞かれれば、答えは、明らかに「ホロコースト」である。だが、ホロコーストは(喩え起きたとしても)戦争が始まった後までは起きなかったし、それは戦争の結果として起こったのである。ところが、國家社会主義者(「ナチス」)は、戦争が始まるずっと以前に既に悪の化け物であると特徴づけられていた。しかし、一体何を根拠に?猶太人には戦争が始まるまでの間、ある種の制限を課せられた以外、何も(理不尽なことは)為されなかった。あらゆる残虐な抑圧や皆殺しの予言など、猶太人の新聞に絶え間なく吐き出された全ての冤罪にも拘らず、である。もし何か起きたのであれば、猶太人に最終的に何が起きたか、それは、自己実現的予言の類であり、當にその予言したものによってもたらされたもの(捏造)である。

猶太人に対する独逸人の態度には、合法的な理由があった。ヒトラーと國家社会主義者は、独逸にとってばかりでなく、西洋文明にとって、共産主義を実在する脅威と見ており、そして、猶太人と共産主義を一つと見て同じものと見ていた。更に、共産主義と猶太教を混同するのも、ヒトラーが非合法化する前の独逸の共産党は、78%が猶太人であったという限りにおいて、根拠のない事ではなかった。また、共産主義革命でソヴィエト連邦を支配したのは猶太人で、しかも赤色テロルを実行したのも猶太人であるという事は、独逸人には充分に明らかだった。更にまた、独逸の1918年の革命も含めて、欧州に於けるすべての共産主義革命運動の指導者が猶太人の扇動に、若しくは猶太人に直接率いられたものであったことも明白であった。例えば、ハンガリーのベラ・クーン、独逸のカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、クルト・アイスナー、オイゲン・レヴィーネ、イタリアのアマデーオ・ボルディーガなどである。1936年から1939年のスペイン内戦は、実際には共産主義者によるスペイン乗っ取りの企てにより起こった。その共産主義者も、他の例に漏れず、また、ソヴィエト連邦に支援された猶太人であった。

それでもまだ充分ではないかのように、1933年にヒトラーと國家社会主義者が権力を握ると、世界の猶太は、独逸に対して「聖戦」を宣言し、彼らの世界中での影響力と力を全て用いて独逸の経済を立ち行かなくする試みをした。これはヒトラーと國家社会主義者が独逸の猶太人に対して何らかの行動を起こすよりもずっと以前の事である。彼らは、その次に容赦ない独逸と國家社会主義者の指導者に対する宣伝工作戦を推し進め、彼らの英米の指導者に対する影響力を行使して独逸に対する戦争を扇動した。猶太人は独逸を滅ぼしたかった。これはただの脅しではなかった。何故なら、猶太人は既にロシアに於いて皇帝の政権を倒すことに成功し、その後、國を完全に支配したからだ。彼らは今や独逸を標的にしていた。彼らは國際共産主義コミンテルン)を組織し、財政支援した。國際共産主義のただ一つの目的は、独逸も含め、欧州に現存する政権を倒して猶太人に率いられたソヴィエト共和國に取って替える事であった。

 

世界猶太の独逸に対する態度については、フランスの猶太人、アレクサンダー・クルッシャー教授による次の声明に代表されるものが良く知られている。クルッシャーは1937年に書いている。「独逸は猶太主義の敵であり、致命的な憎しみを以て追及しなければならない。今日猶太教(主義)の目的は、すべての独逸の人々に対する慈悲無き戦いと独逸國家の完全な破壊である。我々は、完全な貿易の封鎖を要求する。つまり、原材料の輸入を止め、女子供、すべての独逸人に対する報復だ。」

1942年12月3日、世界猶太人会議の議長、ハイム・ヴァイツマンは、ニューヨークで次のような声明を出した。「我々は否定しないし、また、告白することを恐れない。この戦いは、我々の戦いであり、つまり、それは猶太の解放の為に遂行される(中略)全ての戦線を合わせた戦線よりも強いのが我々の戦線、猶太の戦線だ。我々はこの戦争に、全ての軍需品の生産を支える財政支援をするだけではない。我々は、この戦争が遂行され続けるための道徳的活力である、我々の最大限の宣伝工作力を提供するだけではない。勝利の保証は、大部分、敵の力を弱体化する事、彼ら自身の國の内部から抵抗の内に滅ぼす事にその基礎がある。そして我々は敵の要塞に居るトロイの木馬である。欧州に住む何千人に上る猶太人が我々の敵を滅ぼす主要な要素を構成している。そこでは、我々の前線は事実であり、勝利に最も価値ある支援である。」(強調付加)

ヴァイツマンは、欧州に住む猶太人、特に独逸に住む猶太人は、「敵(独逸)の要塞に居るトロイの木馬」と言っている。ヒトラーと國家社会主義者が猶太人を當に同様に内部の、独逸の外からの敵にいつでも喜んで協力する用意が出来ている敵、と見ていたとしてもそれは驚くべきことではあるまい。國際猶太は、独逸に対して宣戦し、戦争中だった。独逸に住んでいる猶太人は、「國際猶太」の重要な部分であり、そしてその事実により、自ら宣言した独逸の敵だったのである。

英國に居た猶太人は活発にチャーチルの独逸に対する戦争の求めを支持しており、米國に居た猶太人も活発にルーズベルトの独逸に対する参戦の決断を支援していた。國家社会主義政権は独逸人の國家を守るために独逸に居た猶太人を孤立させる手段を講じる以外に、一体何が予期できただろう?彼らは、大人数の猶太人を強制収容所に入れた。米國は、同様に、日米開戦後、独逸が猶太人を監禁しなければならなかったよりはるかに正當性に欠けるにも拘らず、西海岸の日本人を強制収容所に拘束した。

1944年3月、ヒトラーは、ハンガリーが寝返ってソヴィエト連邦と同盟を組むのを防ぐ為に、ハンガリーに侵攻した。独逸とハンガリーの合同軍はその後、間もなく始まると思われたロシアによる侵攻に対して防衛し始めた。ハンガリーの猶太人達は、公然とソヴィエト連邦の味方をしてハンガリー國内で危険な「第五列」、つまり、ハイム・ヴァイツマンの言う「トロイの木馬」を構成した。戦いが始まると、彼らは、ロシア人を手助けするために可能な限り、独逸とハンガリーの合同軍によるハンガリー防衛の妨害活動をしたことは殆ど疑いない。これは、生きるか死ぬかの時代であった。1944年に猶太人を集めてハンガリーから送り出したのは独逸人とハンガリー人からすれば、自衛以外の何物でもなかった。彼らがどこに送られてその後どうなったのか、が、當に「公式」ホロコーストの支持者とホロコースト修正主義の支持者の論争の主題なのである。前者は、彼らは全てアウシュビッツで皆殺しにされた、と主張し、それに対して後者は東に移住させられたと主張する。(44万人のハンガリーに居た猶太人が1944年のたった二か月の間に、何の痕跡もなしにアウシュビッツガス室で殺され、火葬された、と言うのは馬鹿げている。)何れにしても、来るべきロシア軍との生死を賭けた闘いに彼らが妨害工作すると言う事が解っていながら、彼ら猶太人にハンガリーに残る事を許すことは、独逸人とハンガリー人にとっては気違い沙汰であったであろう。

ドイツ悪玉論の神話095

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ヒトラーは繰り返し、英國と和平合意に至ろうと試みた、最初がポーランドとの戦争の後、そして二回目が、ダンケルクの後、だが、和平提案は拒否されただけだった。彼は、また、ルドルフ・ヘス英國の戦いの間にドン・キホーテ使節として和平合意を取り決めようと送ったが、チャーチルはヘスの言う事を聴こうともしなかった。彼は、ヘスを監獄に送り、戦争中ずっとそこに幽閉した。

英國はただ独逸を破壊することを望み、和平を締結する事には全く興味を示さなかった。ヒトラーは、その一方で、戦争中を通じて、いつでも英米どちらとも和平合意に達する機会があればそれを歓迎していた。「無条件降伏」が、ルーズベルトチャーチルの答えだった。英米は、無条件降伏以外は拒否したのと同時に、独逸の町を次から次へと容赦なく大量の爆撃機による空襲で破壊し続けた。

ニュルンベルク裁判は、戦後に行われ、その中で國家社会主義者の指導者は戦争犯罪で有罪を宣告され、処刑されるか、長期収監の宣告を受けた。しかし、独逸に対する判事として座った者達も同様に有罪だったのである。所謂「ホロコースト」はニュルンベルク裁判で発明されたもので、被告人の全く驚愕したことに、そして被告人は、最後の一人に至るまで、裁判が始まるまでそのような事は一切聞いた事が無かったと主張した。ホロコーストの主張に対して、近年になって少なからぬ疑いが投げかけられるようになったが、喩え、所謂「ホロコースト」がすべての詳細にわたって真実であるとしても、それは、独逸の爆撃の戦争犯罪とは比べ物にならない。「大量殺戮」と言う言葉は、独逸に対して使われているが、しかし、独逸の爆撃こそ、本當の大量殺戮であった。それは同時に文化殺しでもあった。爆撃作戦は独逸を完全に破壊するために遂行され、また、出来得る限り多数の独逸人を殺すために行われた。独逸の非戦闘員は大量に殺された。彼らに何か罪があるからではなく、彼らが独逸人であるがゆえに殺された。それこそが、當に、「大量殺戮」の定義なのである。

13世紀のカトリック神学者、聖トマス・アクィナスと17世紀のオランダのプロテスタントユーゴー・グロティウスが特定の戦争の道徳性を決定するために「正義の戦争理論」を出している。彼らは、戦争が正義であるためには、まず、それが、本質に於いて防御的である事。戦争で捕らえた捕虜は保護しなければならない。戦争は適切に設立された権威により公衆に宣言されなければならない。道徳的、或いは「正義」であるためには、戦争は勝てるものでなければならない -國家は、その人口を以て勝利の可能性のない自殺の使命に充てることは出来ない。「正義」の戦争の条件を満たすためには、戦争はそれが消し去るものよりもより悪の結果をもたらすことは出来ない。戦争が終われば、直接侵略に責任あるものだけを処罰することが出来る。「復讐」は戦争を正當化しないし、また、勝利の後の「復讐」も正當化しない。恨みを晴らすのは、キリスト教の価値観に反する。「正義」の戦争は、非戦闘員に差し向けられてはならない。最後に戦争に至る決定は、最後の手段として、戦争を避けるためのあらゆる努力が尽きた後でなければならない。戦争の原因と、それを執行する上での行動の両方が正義でなければならない。

これらの基準がニュルンベルクで適用されたなら、全ての國が戦争犯罪で有罪になったことであろう。

ドイツ悪玉論の神話094

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猶太人の教授、フレデリックリンデマン -空からの爆撃で独逸の民間人を大量殺人したリンデマン計画の著者は、また「モーゲンソウ計画」の熱心な支持者でもあった。「モーゲンソウ計画」は、戦後に独逸の産業をバラバラにして独逸を中世の農民社会に引き戻そうとする計画だった。モーゲンソウは、自分の日記(ページ11)に次の様に書いている。「独逸は三十年戦争の間にそこで起こった様に、荒廃地に変えなければならない。」モーゲンソウは、ルーズベルトの財務長官で、親しい友人でルーズベルトの顧問であった。彼もまた猶太人であった。

モーゲンソウの財務次官補は、共産主義者猶太人、ハリー・デクスター・ホワイト(ワイス)であった。モーゲンソウ計画を下書きしたのは実際にはこのホワイトであった。ジョン・T・フリンによると、その著書「ルーズベルト神話1948、1956年改訂」の中でホワイトは、ソヴィエト連邦のスパイでソヴィエトへの最高機密情報の提供者として働いた。(これは、本當であることがペレストロイカ後にソヴィエト連邦の公文書への閲覧手段が得られて証明されている。)フリンによると、ソヴィエト連邦に完全に忠実であった共産主義者は、ルーズベルト政権のあらゆる省庁で重要な職務に就いており、彼らの殆ど全てが猶太人で、あらゆる機密情報が即座にソヴィエトに手渡されていた。彼らはまた、スターリンから直接命令を受けた。ソヴィエトの猶太人スパイの一人であったネイサン・シルバーマスターは、農務省で働いていたが、ルーズベルトに指名されて、経済福祉委員の近東局長となった。彼は、ソヴィエトのスパイ機関「シルバーマスター集団」を形作り、それは、ルーズベルト政権内の高級官僚で構成されて、ハリー・デクスター・ホワイトも含まれていた。(シルバーマスター集団には、ネイサン・シルバーマスター、その妻ヘレン、ソロモン・アドラー(Schlomer Adler)、ノーマン・バースラー(Norman Bursler)、フランク・コー、ベラ・ゴールド(Bela Gold)、ソニア・スタインマン・ゴールド、ロークリン・カリー、アーヴィング・カプラン、ジョージ・シルバーマン、ウィリアム・ウルマン、アナトレ・ボルコフ、ハリー・デクスター・ホワイト-すべて猶太人で全て共産主義者、そして全てルーズベルト政権内で高級官僚であった。)ホワイトは、政府の殆どの機密情報に無制限で入ることが出来た。「秘密役務」は財務省の一局で、財務次官補としてホワイトは完全な内部情報を持ち、それをソヴィエト連邦を支配している猶太人にせっせと送った。ハリー・デクスター・ホワイトの個人秘書は共産主義者猶太人女性、ソニア・ゴールドで、ネイサン・シルバーマスターによってあてがわれた。

1944年の春、フリンによると、ワシントンのシルバーマスター集団は、クレムリンから降伏後の独逸の計画についての指令を受け取った。指令は明白であった。独逸の工業國としての能力を破壊せよ、そして、独逸を単なる農業國のレベルに落ちぶれさせよ。シルバーマスター集団は、これらの指令を施行するためにハリー・デクスター・ホワイトに渡した。ホワイトはモーゲンソウとの関係があったのでその役目を与えられ、そしてそれはモーゲンソウとルーズベルトの関係があったからであった。ホワイトは、一刻も早く動き出し、悪名高いモーゲンソウ計画を作った。

モーゲンソウ計画は、独逸を小さな独立した國家に分割して、その部分部分をロシアとポーランドも含む他の國々に帰属させることを求めた。ザール地方、ルール地方、上シレジア地方などを含む独逸の産業の中心は、國際化するか若しくは隣接する國に併合する、とした。全ての独逸の産業施設は、解体してソヴィエト連邦に輸送する。持って行けないものは、破壊する。鉱山は、水を満たして破壊する。計画は、独逸の人々を戦勝連合國の利益の為に強制的に奴隷労働隊にすることを求めた。独逸は、完全に工業化した國だ。モーゲンソウ計画は、結果として明らかに独逸に数百万の餓死者を出したであろう。勿論それを彼らはよくわかっていて意図したのであった。

ルーズベルトが1944年9月12日にチャーチル首相に会うためにケベック会議に発った時、彼は、外交手続きに必要なハル國務長官もスティムソン陸軍長官も同行させずに、財務長官ヘンリー・モーゲンソウ・ジュニアと財務次官補ハリー・デクスター・ホワイトだけを同行させた。ルーズベルトは既にモーゲンソウ計画の予知があって、ハルとスティムソンは頑強に反対するだろうと解っていた為、彼らを連れてこなかったのである。会議ではモーゲンソウとホワイトがホワイトの作り上げた計画を提示した。

チャーチルは、計画を提示されたとき、怒りと憤慨を以て反応し、また、外務大臣のアンソニー・エデンも同様だった。しかし、最後になってチャーチルは計画に同意した。その後に発覚したのは、モーゲンソウがレンド-リース法による65億ドルをチャーチルに申し出た。チャーチルはそれを拒否する立場には居なかった。英國は、破産しており、何が何でもその金が欲しかったのである。そこで、お金と交換で反対意見を引っ込め、計画は連合國の基本政策となった。

この計画の最後の段落は、米國英國の軍隊が独逸の降伏後、独逸からできるだけ早く撤退し、独逸をソヴィエト連邦支配下に置くことを求めている。ルーズベルトがワシントンに帰った時、彼はこの重要な合意に関して何も発表せず、ハルにもスティムソンにも伝えなかった。彼らは、モーゲンソウ計画が採択されたことを何日か後で新聞で知っただけだった。彼らはまた、チャーチルが計画への反対意見を撤回する見返りに65億ドルを得ることになる事も読んだ。二人は、計画を「盲目的復讐」と呼び、二人ともそれに激怒した。彼らがそれについてルーズベルトに向かって意見した時、ルーズベルトは最初は否定した。しかしながら、それは米國の、そして連合國の政策となった。

モーゲンソウ計画は、実際にはロシアの計画であった。クレムリン米國政府内の自身のスパイに命令を発し、クレムリンの仕様通りに計画を練ったハリー・デクスター・ホワイトが、それをヘンリー・モーゲンソウ・ジュニアに手渡し、モーゲンソウはそれを病気で衰弱したルーズベルトに提示し、ルーズベルトがそれを米國の政策にした。チャーチルは、賄賂で従った。猶太人が再び勝ったのだ!ソヴィエト連邦を支配した猶太人はルーズベルト政権を支配した猶太人と努力の成果を組み合わせて、英國の猶太人フレデリックリンデマンが熱烈に歓迎した、彼ら猶太人の敵、「ナチス」独逸を完全に、永久に破壊する計画を作成したのであった。ソヴィエトに居ようと、米國に居ようと、英國に居ようと、國際猶太は、独逸の人々に病的な憎しみを持ち、焼けるような復讐の欲望を抱いていた。彼らは各自が代表する國の利益ではなく、世界の猶太の目的を達成するために、努力の成果を組み合わせた。今や、彼らは自分たちが憎しむ独逸人に復讐できるのだ。独逸は、勿論、モーゲンソウ計画の複写を手に入れ、その計画は、完全な破壊であり、そこから彼らは戦い続ける以外には選択がないことを悟ったのである。

1943年1月、ウィンストン・チャーチル首相とフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、カサブランカ会議で知られる、モロッコカサブランカの町で会談した。ヨシフ・スターリンは出席しなかった。カサブランカ会議で出て来た最も注目される進展は、連合國の政策として、ルーズベルトの「無条件降伏」宣言であった。ルーズベルトチャーチルは、更にこの会議で独逸の都市の戦略爆撃を増進する決断もした。無条件降伏と言う要求に直面し、その後に破壊的殺人的モーゲンソウ計画に従属する事になれば、独逸には二つの選択肢しかなかった。戦って破壊されるか、それとも降伏して破壊されるか。戦い続ける事の方がより名誉ある道であろうと思われた。

最終的に、手加減した改訂版のモーゲンソウ計画、統合参謀本部1067、または、JCS-1067 が連合國の占領政策となった。JCS-1067 は、ほんの少しだけ最初の計画から軽くなっただけだった。

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ドイツ悪玉論の神話093

独逸への無差別爆撃の写真集

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がれきの中、重要交通が復旧した

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ケルンの街 大聖堂は持ちこたえた

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独逸では両親が爆撃で殺された野生児が 食糧を探して彷徨った

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独逸の他の街も連合國の焼夷弾で焼け落ちた
 

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爆撃で家を追い出され、どこにも行くところがない

 

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  我々がこれをしたこと、我々と全く同じような人々に対して、これをしたことを
                忘れない様にしよう!

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ディープステートについての考察03

アメリカ独立戦争イルミナティの関係 

アメリカ独立戦争と言えば、言わずと知れた、智勇の将、ワシントンが、当時の超大国英国と堂々と渡り合って勝利し、独立を勝ち取った英雄の戦い、と言うように習った記憶があります。

そしてその独立運動の最初にはボストン茶会事件とか、英国による重税と抑圧に植民地の住民が耐えかねてみんなで蜂起した、と言うのが我々が教育から受けた専らの印象として残っています。

しかし、実態はそんなかっこ良い物でもなかったようです。まあ、戦争が公然の人殺しであることは古今東西、同じ事ですが、そこに武器・食糧・弾薬の確保(開発と製造、それに補給(兵站)、その爲の予算措置など、我々が教育を受けた頃の思春期の子供には想像のつかない奥行きがあるもので、少年の日に「どこの軍隊が強いから勝った」とか、「どこの軍隊は弱いから敗けた」などと言う単純な純粋軍事力だけでその想像力を巡らせていた時代が懐かしいものですね。

例えば日本などは、第二次大戦前夜、ありとあらゆるABCD 経済包囲網の嫌味(戦争行為)の中でも自重を重ね、石油を買う為にその頃の世界市場価格にプレミアを付けられた上、パラフィンの多いインドネシアの質の悪い原油でも良いから兎に角、軍・民間の需要を満たして欲しいと腰を低くして米國にお願いしたにもかかわらず、結局それすら禁輸されてしまい、その儘では戦わずして敗戦の憂き目を見たであろう、當に八方ふさがりの中で必死の戦争をしましたが、結局は将兵がどんなに強靭でも物資の不足は継戦能力を削ぎ、長期戦になればなるほど不利になる中で、ルーズベルトの「無条件降伏」と言う途轍もない要求により、四年の戦争の内、二年半は戦争を止めたいのに止めさせてくれない状態となり、詰まる所、惨めな敗北を喫してしまいました。と言うよりは、元々から、米国は日本を完全に征服する意図を以て戦争を仕掛けてきたわけで、戦争の国際法*(戦時国際法ではなく)を守らない異常な戦争であったわけです。(*グロティウスや聖トマス・アクィナスなどが戦争の許容条件を提唱しており、それが正しい戦争を定義しています

アメリカの独立戦争もワシントン・ジェファーソン・フランクリンなどの理想主義だけではもちろん勝ち目はなかったでしょう。実際、英国の艦船はいつでも海上封鎖できますし、食糧は自給できていたでしょうけど武器はとても自給できてないでしょうし、経済的には何しろ植民地ですから、英国から現金が来なければたちどころに経済は行き詰まるはずでした。つまり、単独で英国と勝負していたら敗け戰はほぼ決まっていました。そして日本と同様、長期戦になればなるほど、不利になったはずでした。

ところが、敗けるはずの独立軍が勝った。(フランスの応援があったからですが。)

敗ける筈の側が勝つときは必ず裏があります。例えば、日支事変は結局アメリカに敗けたことで日本が最終的には敗けましたが、支那が敗ける筈であったことは事実です。或いは、バルバロッサ作戦も、冬将軍はありましたが、絶対にソ連軍が敗ける筈の戦いでした。(アメリカのレンド・リースで支援されたので持ち堪えた)
こういう言い方をすると失礼かもしれませんが、英国ですら、単独だったらドイツに勝ち目はなかったです。つまり、英国も敗ける筈の國だったのです。

それがひっくり返ると言うのは、余程の戦術転換、或いは英雄の活躍や友邦の加勢、はたまた新しい兵器の開発などがなければなりませんが、それ以外にも「蛇の道は蛇」と申しますように奥の手があるものですね。因みに、その奥の手の絶大な効果で、英国はいつの間にか、フランス・オランダ・スペイン・ロシア・スウェーデンデンマークまでが敵対する状況に追い込まれました。アメリカの独立戦争は當にその蛇の道を行くものでしたが、その結果、とんでもない憑き物(覃府)に憑かれてしまったようです。果たしてその道が正しかったのでしょうか? 取り敢えず、本書を引用します。

 

<引用始まり>(太字は原典の儘、下線は筆者の追加)

(「第3章 ディープステートイルミナティ 3.2 アメリカ独立戦争とディープステート」より)

フランス(覃府)のアメリカ独立支援の魂胆

「我々の国務長官と共に貴殿の将来の知り合いが[1]、彼ら(我が将兵ら)の過ちの中にある我々の共通の敵に対する司令官の見解に従う気持ちの欠如[2]が考慮されることなどないことを明言するでしょう。我々は現在の最前線に余りに利害があり、また、あの隊長(ワシントン?)に疑いを差し挟むにはあまりに危険が伴います。緩やかな法律、戦争に慣れておらず、俄かには従順でない人々、戦争条項と彼らを動員する手段の欠如が我々の命令を度々効果的で無くし、煮え切らない態度を強い、一つのやり方で目的を完結出来ないと別の事を試したりします。我々が望むやり方を追求できるとき、彼らを順応させた貴殿の性質と共に貴殿の状況に対する知識は、我々に可能な最善の形で私に貴殿の協力を保証してくれます。私が8日の書状の時点で勝手ながら貴殿に差し上げた情報より我々の準備が未だ遥かに及ばない様なことがないことを望みます。公務の為に必要とあらばどのようなご要望もご自由に、そして幹部の意志が可能ならしめる国家と権力が可能な限りそれを促進する我々のお気持ちをご納得戴ければ幸甚に存じます。最高の自尊心と尊敬と共に名誉あらんことを。 Sir Your, &c.(敬具)」

     ―トーマス・ジェファーソンよりラファイエットへ 1781年3月10日

 

ジェファーソンの率直で頻繁な文通は、大英帝国を倒す為にフランスからの軍事力、資金の援助を受け取る継続的計画を維持する上で疑いなく必要であった。フランス政府の援助(軍事力と資金)なしには、我々は英国の赤外套軍を破る見込みはなかった事は疑問の余地がない。フランスと協力していなければアメリカは独立戦争に敗北したであろう。アメリカ人は、その精神と戦術的技術は持っていたが英国赤外套のような優れた武器は持っていなかったし、フランスによって与えられたところの、勝利まで持ちこたえるだけの軍事予算もなかった。しかし彼らは何故そんなにも我々(アメリカ)を助けるために國外に出てこんなにも費用がかさむ戦争を戦ったのであろうか?それはただ単に双方よく知ったいつもの敵、つまり英国が我々米仏の敵であったからであろうか? これは、フランスが我々をこんなに頻繁に、しかもこんなに長期に亙って援助してくれた、ありそうもない単独の動機であった。(つまりそれだけであろうはずはなかった)

フランス人の真の動機と我々のアメリカ独立戦争に加担しようとする彼らの尋常でない熱心さを説明するためには、「両大陸の英雄」としても知られる一人の男、ラファイエット侯爵の物語から始めよう。ラファイエットのこの仇名は、彼が二つの大きな革命、フランス革命アメリカ独立戦争の成功により称賛されているからつけられたものである。アメリ独立運動が否定すべくもない英国君主の抑圧からの自由のための戦いであった一方、「フランス革命」はさらさら戦争などではなく、それは、24時間かからずに完了した組織されたクーデターで、その作戦の単純性により、素直な観察者にはその他にももっと話があるのではないかと言う疑問を残すものである。

ラファイエット侯爵の真実の物語は、幾分取り乱すようなものであるが、ディープステートの真の起源の裏の謎を明かしてくれる。

ラファイエット侯爵は、ジョージ・ワシントン将軍により、当時の超大国大英帝国と戦うための顧問として招聘されたのである。フランスはアメリカ独立戦争の中で1777年のサラトガの戦い[3]以降、合衆国の軍に協力した。彼らが海軍の援助をする前は、合衆国は殆ど全ての戦いで英国に敗けていた。しかし、なぜ彼らはそんなに即刻に我々を助けに来たのか、しかも何の見返りもなしに?

ラファイエットは、独立戦争期間にアメリカに来る前はアメリカとフランスのロビーストをしていた。ロビーストは勿論無料で働くわけではない。ラファイエットはデュポンのイルミナティ一家と関係があり、1776年5月1日にイルミナティ秘密結社が認知される前からも自身高い階級のイルミナティ会員であった。彼がアメリカ独立戦争に関わる前の歴史に、記録は良く残っているが、彼は1773年から1779年の間、他ならぬアダム・ヴァイスハウプトその人と定期的に会議を重ねていた。更にヴァイスハウプトはドイツからフランスに特別にラファイエットと話す為に出張していた。これらの会議は一般に知られており、その議論は、イルミナティ秘密結社が内部で開かれていたメーソンの神殿内部で行なわれた。マクシミリアン・ロベスピエールに渡されたフランス革命のためのディープステートの破壊と浸透の伝言も同じ様にヴァイスハウプトとラファイエットにより、与えられたものである。ヴァイスハウプトはフランス君主の転覆を計画し、アメリカ政府に関しては、彼は失敗(敗北)しつつあるアメリカ独立戦争に、その弱味を悪用(搾取)する手段を見たのであった。

アメリカを破滅させ、最後にはその「教会と国家」を転覆するる悪魔のような狡賢い陰謀が何年も先だって計画されたのである。但し、アメリカに関してはヴァイスハウプトの政府を内部から破壊する8つの手段全ては、長い時間をかけてずっと実行されたことを除いては。イルミナティ秘密結社が1776年5月1日に設立されたことと、独立宣言が丁度その66日後の1776年7月4日に行われたことは偶然の一致ではないのである。そしてそこに、新しい形の知恵と啓発に夢中になって公式に結社の一員となったトーマス・ジェファーソンとヴァイスハウプト、そしてその間にラファイエットが非公式の大使でおり、アメリカのディープステートが形成されたのであった。

 

[1] 原文は “your future Acquaintance with the Executive of the State”

[2] 原文は “among their faults is not to be counted a want of disposition to second the views of the Commander against our common enemy.”

[3] 原文は1791年。サラトガの戦いは、1777年9月から10月で恐らく間違い。

 

(「第4章 古代の象徴主義 4.1 国璽(Great Seal)の起源」より)

覃府による財政支援とその見返り

今日の一ドル札を そこにある全ての奇妙な象徴と隠された意味を検証するには、ハイム・サロモンと言う名の男から始める必要がある。彼は合衆国の歴史で最も重要な人間であるのに、歴史は彼の人生の正確な説明を殆ど省略しているが、それには疑問が生じる、何故だろう?

彼が取り組んだ合衆国に敵対する品の悪い不吉な企みが、何故かを正確に説明してくれる。ハイム・サロモンは1772年に合衆国に移民し、ニューヨークで仲介ビジネスを始めた。

ハイムがユダヤ教を実践していたという根拠はないが、そうではなく、「一万人の有名なフリーメーソン[1]」と言う本に、彼がフリーメーソンと高い階級のイルミナティで「主計官(兵隊や従業員に給料を支払う役割)」として載っているのが解る。彼は合法的なポーランドからの移民で、彼自身はフィラデルフィアに居住した。1772年の冬、ハイム・サロモンはワシントン将軍と会い、独立(叛乱)軍が完全に混乱して殆ど英国に降伏する用意が出来ていたことを見出した。ワシントンの寄せ集め軍隊は制服もなく、軍備も底をついていた。多くが靴すら履いていなかった。

もうどうすることもできず、酷い苦境に居たのでワシントンには名もないユダヤ銀行、そしてロスチャイルド系外国銀行の系列の代理人から秘密裏に資金を受け取る合意をする以外に選択の余地はなかった。サロモンは、有名なロスチャイルド所有の投資家とオランダ、フランス、欧州中の銀行家から全面的に支援されていた。彼はロスチャイルド側と合衆国側、ジョージ・ワシントン、ジェファーソン、アダムスとフランクリンの委員会との間で成功裏に仲介を行ない、アメリカ独立戦争を財政支援することとなった。ハイム・サロモンはラファイエット将軍と共に、独立軍とディープステートの契約を締結するのに必要な、戦時のあらゆる軍需品と資金を獲得し(金融側と)交渉するために協力した[2]この恐喝と賄賂なしには、ジョージ・ワシントンと我等が勇敢なアメリ将兵アメリカ独立戦争に敗北していたのであった。

アメリカに関する聖戦が今始まる。そしてそれが終わる時アメリカは、恐らく自由の要塞となる。しかし、その数百万人は知らないうちに君主の忠実な臣民となるだろう。その教会はユダヤ人の宗教を教えるために使われ、二百年を経ずして国全体が神の世界政府の為に働くことになる。彼らが神のものと信じるその政府は大英帝国となるであろう。全ての宗教は、大衆に気付かれすらしない間にユダヤ教に浸透されるであろう。そして彼ら全員はそのフリーメーソンの壮麗な建築家の不可視の、全てを見る目の下に置かれるであろう[3]。」

     ―英国将軍 コーンウォリス 1781

 

ハイムは1785年に至るまでディープステートの罠を仕掛け続け、アメリカの財務が殆ど潰えた頃、彼はワシントン、ジェファーソン、マディソンにあらゆる必要な資金を前貸しした。サロモンは膨大な数のアメリカの政治家にも賄賂を渡した。一ドル札に話を戻すと、独立宣言が起草され、批准されるとトーマス・ジェファーソン、フランクリン、ジョン・アダムスは会う事を強いられ、アメリカ独立戦争大英帝国を打ち負かすために用立てた全ての費用を返済する義務を負わされたのである。その価格は些細なものではなかった。ディープステートは見返りに二つの要求をした。国璽*の意匠を描くこと、それは後ほど紙幣に印刷されたが、もう一つは、我々の銀行と財政制度を恒久的完全に支配することであった。ピエール・ユージン・ド・シミティエレが国璽*の意匠を描くために呼び寄せられ、それは即座に承認された。しかしながら、大陸会議[4]はそれとは何ら関係なく、承認もしなかった。ロスチャイルド家は彼らの象徴主義を彼らが要求した通りに正確に合衆国の国璽に入れることを要求し、一歩も引きさがらなかった。

 *英語で「The Great Seal」

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合衆国1ドル札のデザイン(これがThe Great Sealです)

[1] 10 Thousand Famous Freemasons

[2] 原文:Haym Salomon worked with General Layfette to obtain and negotiate all the wartime subsides and money necessary to seal the Deep State deal;

[3] 原文:and they will all be under the invisible all-seeing eye of the Grand Architect of Freemasonry.

[4] 大陸会議とは、Continental Congress、つまり合衆国独立前の議会の事。

 

覃府の埋め込んだ時限爆弾(論理爆弾)とアメリカの運命

9年後の1782年[1]大陸会議の秘書チャールズ・トムソンとウィリアム・バートンが国璽に使われる意匠について合意を促進する手助けをした。大陸会議にはこの意匠の象徴主義イルミナティのものであることを理解して敵対的に反対する者も居たが、最後は承認された。「アメリカ独立戦争の金融利得者」と更に別の外国代理人アメリカのディープステートを設立する中で名を残したのであった。

我々が英国の君主から独立を宣言する中、そしてそれ以後にディープステートは、我々の共和国(或いは国家)に「論理爆弾」を仕込んだのである。彼らが如何に我々の政府と今日の全ての政府を転覆する計画をしたか充分に説明する、これ[2]が唯一の英語の一節である。神の恩寵により、我々には、ディープステートを縮退させているトランプ大統領が居る。しかしながら、これらの代理人、組織、企業、情報社会、秘密結社、それにディープステート所有のメディアは、不幸にもまだトランプを追っている。浸潤性で潜行性の癌の様にそれは未だ我々の国家の血液の中にあり、未だかつて見たことのない程に我々の文化に感染している。我々の文化がディープステートの疑似共産主義者イデオロギーに感染し続ける限り、我々は何時かはこの外国人権力のヒエラルキーにより、自身の影の政府/ディープステートを持っている他の多くの國と共に撃破されるだろう。

何故、敵対する外国国家が様々な国に、特に自由世界の成功者に「論理爆弾」を仕掛けるのか? 論理爆弾とは「ある特定の条件が満たされると、それらが破壊的な作用を実行するようにプログラムに秘密に組み込まれた一組の媒介変数」と定義される。合衆国が、謂わばプログラムで、そのディープステートの条件がゆっくりと満たされると西欧の政府、宗教機関、家族、そして文化規範の崩壊が起こる。ディープステートがこれらの制度慣習の一つ一つを標的にするだけでなく、今日これらは殆ど完全に奪われていることは偶然ではない。ディープステートは自身を完全にDOJ (司法省)や全ての米國の情報機関群に組み込んでいるのである。それは、「ヴァティカン」も含めて、然しそれに限らず、多くの宗教機関にも入り込み、本質的に誰かが企業を買収する様に買収して、その上で彼ら自身の「偽の教義」を広めているのである。ロックフェラーは学校と制度慣習も1920年代以来標的にしている。多くの人々にとってその効果は非常に目につくものであるのだが、その源泉は謎のままである。がそれは決して謎なんかではない。

 

[1] 文脈からはいつから9年後か不明。1782年の9年前は1773年はボストン茶会事件である。

[2] 文脈から前文を指すと思われる。つまり、「我々が英国の~仕込んだのである」の一文。

<引用終わり>

 

アメリカを独立させることにより、その國の平和と繁栄を願ったのではなく、その國に金を貸しつけることによって、脅迫・強請を行ない、堕落を願ったのです。結局覃府は独立軍に金を貸しつけましたが、自腹は全くなく、その出処は全てフランス政府であり、この巨額の出費がフランス革命の一因となったと言われています。

この様にして、アメリカにこの覃府が遂に憑りついたのでした。この様な歴史は、特に今や世界の超大国として君臨する大国アメリカにとっては、とても公に出来るものではありませんね。その國の初めに、お金に困ってヤクザに脅迫されていた、などと言う歴史は出来る事ならそっと隠しておきたい恥部ですよね。

でも、この様なことは、実は日本以外の近代国家として出発した殆どの國にあることなのです。(筆者は日本人であることに対して天に感謝しています。)特に、革命で前政権を倒したような国家には。何故なら、その革命を起こしたのも実は覃府ですし、その革命の資金を出したのも覃府で、新しい政権の通貨発行権も覃府に牛耳られているのです。要するに自分たちの商売(支配)の為に政権を潰し、人民を弄(もてあそ)んで扇動し、革命を起こし、流血を起こし、そして出来上がった政権を借金漬けにし、その通貨と経済を牛耳ってまた利益を貪るのが覃府の構成要素の一つであることは間違いありません。(日本も日露戦争の戦費調達で覃府の一部としてのユダヤ金融から貸し付けられましたが、昭和61年に完済しています。していなければ、当然恐喝・強請の類があったでしょうね。でも日本は戦後GHQ共産主義者に覃府を埋め込まれています。これについては、話が進むにつれて触れて行く事にします。)

例えば、戦後独立した多くの国々では、前宗主国が造った頼みもしてない工場や油田開発、プランテーション農場などの開発・建設費用として舊(旧)植民地に莫大な額を請求し、経済的に自立できないようにしたことは、正史では習わないけれども常にこれ等の舊植民地であった国々の事を理解する上で常識として考えなければならないことです。戦後、舊植民地にこの様な費用を請求しなかったのは日独だけ、そして、逆に賠償金まで支払ったのは日本だけです。その他の殆どの先進国は、舊植民地から貸し付けた資金の利息を搾取してきました。これらは表だって知られている事であり、覃府の仕業とは区別して考える必要がありますが、同様の搾取形態です。

更に、舊社会主義国ソ連や東欧の国々も実は、ウォールストリートの金融閥に陰で支援されていたことはいまさら言うまでもないことですが、勿論彼らは報酬なしに支援などしません。その分捕りの最たるものは、ロシア革命後に消えたロシア皇帝の金塊です。ロシア皇帝は、1917年の革命当時、世界一の黄金保有者でした。ところが、その黄金はロシア革命の混乱で行方不明になってしまいました。(と言う事になっています)でも眞實は、極秘の列車(或いは馬車)でフランスのロスチャイルド家に運ばれた、と言われています。第一次大戦前夜、フランスは途方もない資金をロシアに投資しています。恐らくその担保にロシアの金塊を強奪したと思われます。そしてこれも金融による覃府の支配の一部なのです。

こう言う手法の最も成功した事例が恐らくアメリカ独立戦争フランス革命でしょう。それは奇しくもヴァイスハウプトによりイルミナティの存在が発覚した時期と重なっているのです。(偶然ではあり得ません)

以上、アメリカ史の恥部の曝露と、その現代まで続く悪の伝統のお話です。この悪を退治するために何人かの勇敢な大統領がこれまで立ち上がりましたが、残念乍らすべて暗殺又は暗殺未遂の憂き目にあっています。その最後の大統領が実はジョン・F・ケネディであったのですが、それについては、フランス革命の次にお話することにします。

では、次回は同様にフランス革命の顛末についてのお話です。

(註:ディープステートをこのブログでは、「覃府」(たんぷ)と呼ばせていただきます 但し訳文は元のままです
覃は深い・拡がり及ぶ等の意味があり、府は、政府・幕府などの様に国家機関を表します。つまり、
Deep(覃)State (府)です。)

ドイツ悪玉論の神話092

ドレスデン

ドレスデンは、連合國の爆弾で破壊される前は、欧州でも最も美しい街の一つで、洗練された宮殿、教会堂、彫像に満ちた文化の中心であった。それは、曲がった石畳の街路、教会の尖塔、装飾に満ちた家屋がある、おとぎ話の様な町であった。そこには軍事的重要性は一切なかった。戦争の最後の年、そこは、何千と言う傷ついた独逸の兵を癒す病院の町であった。そこには独逸軍の分隊の一つすら駐屯していなかった。1945年の初め、数週間、20世紀最悪の極寒の冬、何十万と言う難民がロシア軍の侵攻から逃れてドレスデンになだれ込んで来た。ドレスデンの住民は、出来る限り、これらの可哀そうな人々を受け容れたが、全員を受け容れるのは不可能だった。何十万と言う怯えた、空腹の、死に物狂いの難民がこの古い街に集中し、歩道に、庭に、そして町の公園に野営した。彼らは地べたに寝て、凍死を防ぐ為に群れ集まった。子供がすすり泣き、食べ物をねだった。町の社会福祉役務は、食料を与え、手當をするなど、出来る事は全てしたが、圧倒されてしまっていた。そこに、爆撃機が来た。

最初の一波は英國で、1945年2月13日の夜10時に町の上空に飛来し、何千と言う大きな、高爆発性の爆弾を難民がひしめく舊市街に投下した。これは、屋根を吹き飛ばして、すぐ後に来る後続の焼夷弾の為の用意であった。高性能爆弾は空襲警報の仕組みを無用にし、消防署を破壊し、給水本管を壊し、莫大な破壊と死をもたらした。難民の群集は、逃げ場もなく隠れる場所もなかった。そこに、焼夷弾を満載した爆撃機が来て、それは、舊市街をうなる火の海と化した。空気の温度は、摂氏600度にも達した。秒速40mを超す風が酸素を全てつむじ風の中心に吸い込んだ。数万人が生きたまま焼かれた。この戦争の後期、爆撃の科学は、よく発達していた。英國によって投下された爆撃の形態は、「火旋風」を起こすように考えられたもので、ドレスデンの「火旋風」は、戦争の最も壮大なものの一つであった。

炎によって酸素が外に吸い出されたため、何千人と言う人々が、地下室で窒息した。そして更に何千人がぬいぐるみの人形の様に宙に投げ飛ばされ、凶暴な風によって即刻烈火の中に吸い込まれた。火旋風の空気の吸い込みはあまりに激しいので、木は根こそぎ飛ばされ、家の屋根は何キロも離れたところまでも飛ばされた。全くの恐怖状態が人々を襲った。馬が後ろ足で立ち、群衆に向かって走った。ライオンや虎等の野生動物が動物園の壊れた柵から逃げて来て怖がる群衆に向かって走った。巨大な蛇が逃げ惑う人の足の間をズルズルと進んだ。病院列車は未だ戦場からの負傷兵を満載しているが、燃えていて駅から出ようとして、その動きの中で爆弾から身を隠す為に列車の下に居た小さい子供の肢体を切断した。

次の爆撃機の波は、3時間後、高性能爆弾と対人爆弾と共に来た。爆撃機の飛来間隔は、落とす爆弾の種類と共に最大の殺傷率を得るために慎重に計算されたものであった。この第三波の爆撃機は、計画通り、火事を逃れて逃げ出す群衆と緊急事態の職員と消防の職員を捉えた。結果は、殺戮だった。

次の日、米國第8空軍部隊が町の破壊を完了した。この爆撃中、英米合わせて1,300機の重爆撃機が4,000トン近い高性能爆弾と焼夷弾ドレスデンに投下した。ドレスデンの空襲で最も恥ずべき出来事の話は、B-17爆撃機に続いた米軍のムスタング戦闘機の部隊の事だ。爆弾から逃れてエルベ川の堤防に避難する人々の集団がムスタング戦闘機に機銃掃射されたのである。機銃掃射の結果、堤防に沿ってあらゆる場所に死体が横たわっていた。次が、ある目撃者の描写である。「...数十機のムスタング戦闘機が人々を撃つために、エルベ川の堤防にぎっしり集まった人々の上をグローサーガルテンの大きな芝生の上と同様に低空飛行した。

街は完全に破壊された。あまりの死人の多さに独逸陸軍は、死体を集めて、長い鉄道の軌道から(その枕木で?)作った弔いの積み薪にそれをくべ、火葬にするために部隊を差し向けた。町に収容されていた米兵の戦時捕虜が手伝いに駆り出された。米國の「Slaughterhouse Five」を書いたカート・ヴォネガットは、彼らの一人であった。彼らは、地下壕を回って、全ての窒息死体、焼死体を引き取り、火葬にした。死体が余りにも多く、作業を終えるのに何週間もかかった。彼らは、兵士、若い、そして年老いた女性、短パンの少年、長い毛を編んだ少女、赤十字の看護婦、赤ん坊の死体を積んだ。これらの火葬薪は夜昼なく燃やされた。町に避難してきた無数の難民が居るので、ドレスデンの爆撃の結果による民間人犠牲者数は誰にも分らないが、推定数は、最大で60万人とされる。ドレスデンの空襲について最初に権威ある本を書いた英國の歴史家、デイヴィッド・アーヴィングは、13万5千人が殺されたと推定する。しかし、知る術はなく、真相は誰にも分らない。

ドレスデンを爆撃する軍事的な必要性は全くなかった。それは単純に、猶太人の反独宣伝工作の結果として我々が憎むようになった人々の、大量殺人であった。しかし、ライヒが崩壊する中でさえ、都市と町への爆撃は続けられた。これらの爆撃攻撃を計画し、実行した者は、誰の定義によっても、戦争犯罪者であったし、今もそうである。サイモン・ウィゼンタールと他の猶太人の「ナチ」狩人が未だに、ただ単に戦時に國に尽くしただけかもしれない、独逸の「戦争犯罪人」を探して世界中で老人病棟を徹底的に調べ上げている一方で、悪意以外の理由はなく、粉々に吹き飛ばされ、焼き尽くされたドレスデンと他の何百と言う都市や町に対する犯罪のことを考えるべきであろう。「ドレスデンで命を落とした無辜の人々は、殺されたのだ -何かしたことの報いとして、ではなく、生まれたことの事故として。1945年2月13~14日にドレスデンホロコーストで死んだ人々は、ただ独逸人であっただけなのだ。」-イングリッド・リムランド

2月16日、ドレスデンの空襲からたった二日後、英國爆撃機は、瀬戸物と食器の生産で知られる小さな町、プフォルツハイムを攻撃し、住民6万3千人の半分を殺した。この様な攻撃は、独逸が降伏するその日までずっと続いたのであった。

戦争の武器としての爆撃機の発展の初期段階で、ウィンストン・チャーチルは言っている。「空は、実際の敵の前線よりもずっと後方にいる、女性、子供、老人、そして病人などの、以前の戦いではやむを得ず触れないで置かれた者へ死と恐怖が達する道を開いてしまった。」チャーチルの冷ややかで超然とした空からの戦争の可能性の見方は、英國の独逸に対する空の戦いにその結実を見たのであった。

独逸の爆撃により殺された民間人の推定数は、百万人は優に超え、200万人に達する可能性がある。それに、さらに数百万人が恐ろしいけがに苦しんだはずだ。戦争の終わりに近い頃、独逸は基本的に無防備状態で、爆撃が最も激しかった時、独逸の都市や町、特に東側では、ロシア軍の侵攻から逃げて来た数知れない難民がうようよいた。どれだけの難民が居たのか百万の単位でもわからない。これらの数万人の可哀そうな人々は、爆撃の結果、火の中で焼けて灰になってしまい、後には何の痕跡も残さなかった。それ故に、数える事は出来ない。ここ最近、「政治的妥當性(ポリティカルコレクトネス)」への従属により、犠牲者の推定数が低く抑えられる傾向にある。戦争中の連合國の独逸人に対する残虐行為の本質について真実を語ることは、今日に至ってもあまり人気のある事ではない。結局のところ、我々は「いい者」だったのだ。

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侵攻して来るロシア軍から非難してきた難民 英米の爆撃と機銃掃射の標的となった

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独逸の都市を爆撃する米空軍のB-17

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連合軍の空襲後の独逸民間人の死体 これは無差別殺戮と同じだ

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ドレスデン空襲の後の死体の山、多くは子供

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街路は奇麗にしても。。。

 

 

ドイツ悪玉論の神話091

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米國では1942年にB-24、B-17の集団が英國に向けて飛び立ち、欧州の航空戦に参戦した。米國は當初は民間人の直接攻撃はせず、独逸の工場や軍事施設の精密爆撃を試みた。英國は、全ての空襲を夜間に飛ばしたが、米國は、爆撃の正確さを増すべく、爆撃を昼間に実施した。しかし昼間しようと夜間しようと標的に命中する爆弾より、その周りに落ちる爆弾の方が常に多く、高高度からの「精密爆撃」など、幻想であった。しばらく後、米軍は「精密爆撃」を諦めて英國の「地域爆撃」、つまり町全体を標的とする爆撃に加わった。

戦争が終わるまでに独逸の1,000に上る都市と町が爆撃され、そのうち160の大きな都市が灰燼に帰した。これらの都市や町は、欧州でも最も古く、きれいな町で、その芸術性と文化的価値においてフィレンツェ・パリ・ローマに匹敵するものであった。これらの破壊された都市には美術品、美術館、彫像、建築、図書館、博物館、宮殿、橋、ギルド会館、教会、カテドラルなど、何世紀にも亙って培われた文化の粋が含まれていた。これら、築き上げるのに千年もかかったであろう非常に発達した文化の装飾品が爆撃により、一時間とかからずに跡形もなく消えたのであった。

勿論、その頃にも何が起こっていたかについて多数の反対意見があったであろうが、輿論は全面的にそれを支持した。(輿論は宣伝工作で容易く操作できるものだ。)進歩的カトリック「Commonweal(共和國)」(決して平和主義者ではない)の週刊誌が1944年の早い時期に戦略爆撃を「無辜の市民の殺人と文明の自殺」と非難している。

ロンドンタイムズレビューは、戦略的空軍攻撃の英國の公式歴史について論評している。「これらの本は、動揺した気持ちの中で閉じることになる。それは、この彼らが語る物語での本當の英雄は、戦う空軍の隊長でもなく、況して58,888人の将校でもなく、作戦中に殺された爆撃隊の隊員でもない。英雄は、攻撃されている独逸の都市の住民である。燃え上がる自身の家屋や工場の廃墟の中、連合軍が侵略するまで、厳粛に耐えて働き続けた男性、女性、子供たちなのである。」

この種の野蛮が、戦争の続行する間、あらゆる伝統的「文明的戦闘の規則」遵守の見せかけの偽りが遂に放棄されるまで、居座ることになった。それは、どちら側も、万が一の可能性であろうと、敗北の悍ましい結果を避け得るなら、どんな行為も正當化されるという原理を暗黙に採用したからだ。

しかし、この全く意味のない独逸の都市と町に対する、勝利が確実になった後でさえも行われた絨毯爆撃の続行には他にも作用している要素があった。それは単なる「惰性」だった。大量爆撃空襲が続いたのは、それが爆撃隊と米國空軍が計画したことだったからであった。どの様な複合体、機能的組織にも言えるが、しばらくすると、軍産複合体の全体がそれ自体の生存の為にそれ自体を動かし始めるのである。英米両國の飛行機の組み立ての流れ作業は、続けて新しい爆撃機を連続的に生産した。爆弾の製造業者は、爆弾の組み立て流れ作業を夜昼なく行った。航空燃料の供給系は、自動的に機能し、必要な拠点に航空燃料を配達した。訓練部隊は、何千人と言う新しい飛行士と乗組員を訓練し続けた。標的を選び、爆撃乗員に離陸前の説明をする担當将校は、その仕事を続けた。何千トンにも及ぶ爆弾を毎日独逸の都市に送るように考えられ、組織されたこの軍産複合体は、一つの巨大な自動運転の機械のように動いた。誰も仕事をするように命令する必要もない。むしろ逆だ。誰か、高い立場の人間が止める様に命令しなければならなかった。仮に、誰かが止めるように言っても、それは、恐ろしい官僚的な抵抗に遭ったであろう。更に、その巨大爆撃設備の一番の司令塔であるチャーチルルーズベルト、ハリス空軍元帥、ハップ・アーノルド将軍は、正當かどうかは別に、爆撃を続行する傾向にあった。

独逸と日本は両國とも、その機会が与えられたなら、早ければ1943年の春の時点で、停戦でいつでも戦争を止める積もりだった。もしそれが起こることが許されたならば、一番多大な死と破壊は避けられたことであろう。しかし、チャーチルが支持したルーズベルトの無条件降伏政策は、そのような終結を不可能にした。無条件降伏の要求は、数百万の死と共に西欧州の大部分を廃墟にしてしまった、長く、じりじりと痛めつけられる戦いが辛い結末まで続くことを保証した。ヒトラーではなく、チャーチルルーズベルトに、これに対する責任がある。1943年の夏、チャーチルがロンドンを発ってケベックでの会議にルーズベルトに会いに行くとき、タイム誌の記者がチャーチルに尋ねた。「独逸に和平条件を提示しますか?」チャーチルは、陽気な声で答えた、「まさかしないさ!彼らは即時受け容れるだろう。」みんな笑った。

終戦近くになって、独逸の殆どの大都市と町が既に破壊され、今や小さな町や村が、未だ爆撃されていないという理由だけで、標的となっていた。多かれ少なかれ、任意である町をその日の標的に選んだ将校の気まぐれ、だけの理由で、何千と言う罪なき独逸の民間人が夜となく昼となく、その町で残酷な死に苦しんだ。巨大な爆撃の道具と化した中に雇われたあらゆる人間が、その割り當てられた仕事を続け、誰も高い立場の人間は止めるように言わなかったので、爆撃は、来る日も来る日も、毎夜のように続けられた。

オクスフォード大学の近代史の教授ノーマン・ストーンは、デイリーメールに次の様に書いている。
「1944年までに既に(中略)我々が勝利することが、しかもスターリン潜在的な敵であることが明白になった後も、我々は独逸の都市爆撃を何か月にも亙って続けた。爆撃の中には全く意味のないものもあった。戦争の終わるころ、我々は、一切何も軍事標的もない、ヴュルツブルクの南の古い飾り立てた町を攻撃した。(中略)難民の女子供だけであった。これらの不必要な加虐趣味の行動の中でも最悪のものがドレスデンの爆撃であった。」