ドイツ悪玉論の神話が本になります!

いつも私のブログを読んで下さってありがとうございます。
この度、呉PASS出版の岩崎様のお蔭をもちまして、かなり以前より当ブログにも掲載して居ります私が日本語訳をしまし
「独逸悪玉論の神話」
を出版して頂けることとなりました。
 
ドイツのナチス政権がとんでもない悪の政権であった、という捏造情報は主にソ連など東側の宣伝工作により創作され、それをニュルンベルク裁判で一方的に押し付けることによって戦後の連合国(国連)による国家の主権侵害・真面な主権国家の破壊を可能ならしめた、と言う点に於いて、日本にとっても決して他人事ではない、世界史に於いて非常に重要な、且つ国家の独立にとっては悲劇的な情報操作・宣伝工作であったことは紛れもない事実です。更にこれは戦後リベラル思想の当に出発点でもあります。保守にとっては許すべからざる犯罪であります。
蓋し、これは戦後の反日運動の元凶の一つでもあります。
是非、そういう視点で本書をお読み下されば、戦後の日本人が戦前戦中についてモヤモヤと納得できないこと、つまりナチスなどと云う如何わしい団体・國と防共協定や三国同盟を結んでしまったこと、について、「モヤモヤ」から「スッキリ是!」に自信をもって意識を変えることができ、日本が、日本政府が、天皇陛下が、そして日本国民が守ろうとしていたものの正体を改めて浮き彫りにするのではないかと思います。
本書ではブログの訳を全て一から推敲し、至らない訳を書き換え、また、小見出しを加えて、内容をより一層把握しやすく改訂いたしました。
下記リンクよりご購入をご検討くださいましたら幸甚に存じます。

ナチスドイツ悪玉神話の解体

 

日本精神の本質(原文) 井上哲次郎著01

日本精神の本質

                 文學博士 井上哲次郎著

 

  • 第一篇 日本精神と「神ながらの道」

 

第一章 日本精神の眞意義

明治以來、日本精神といふ言葉が使用されて、近來益々それが流行となつて來たのであるが、いつたい日本精神とはどういふことを意味して居るであらうか。日本精神とは日本民族本來の精神で、それにはおのづから特色の見るべきものがあるからして、之を日本精神といふのである。換言すれば、日本固有の精神である、日本民族に本來備はつて居る一種特有なる精神を云ふのである。然らば其の一種特有なる精神といふのはどういふ性質のものであらうか。それは我が日本の確かな古典に徴し、また歴史的事實に據つて考へて見たならば、果してどう云ふものであらうか。

我が日本民族は二千年以上の系統的發展を遂げて來たもので、その初は極めて單純で、また正直であつた。然しそれだけのことならば何處にでも似寄つた形跡があつたであらう。然し、もう少し押し詰めてみると、種々な特色があるけれども、然し五つの點を擧げて之を特色とすべきであらうと思ふ。

第一は明快な精神が確かに優勢であつた。『神代の巻』に「赤き心」「淸き心」などとあるのもそれを意味して居る。明るい朝日の昇るやうな氣分、そして爽やかな氣分、そしてそれが如何にも快い朗かな積極的の氣分、さういふやうな氣分が充ち滿ちて居つたことが分る。そしてこの氣分は引き續いて今日に至つて居るので、餘程我が民族の精神として特色をなして居る。さういふ精神的傾向が勝つて居るからして、神としては最も太陽の神を尊崇し、國としては太陽に因んで日本と稱し、國旗も日章旗を振り翳して進むといふやうな考になり、また花は種々あつても最も櫻の花を愛すといふやうな陽性の氣分が勝つて居る。熊澤蕃山[1]が日本を「陽國」と稱したのは面白い。それならば陰國ともいふべき國があるかといへば確かにある。印度の如きは即ち其の一例で、既に約百五十年前に亡國となつて居る。 明治天皇の日と題する御製に

さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり

とあるが、あれは實に克く日本精神をお述べになつたものである。日本精神は積極的で陽性の氣分が多大である。それは丁度朝日の爽やかに東の空より昇るやうな氣分である。本居宣長が

敷島の大和心を人とはゞ朝日に匂ふ山櫻花

と詠んだが、これも亦日本精神の特色を言ひ表はして居る。櫻の花の淺紅色を帯びて咲き亂れたのは最も日本民族の趣味に合つて居る。櫻は何時觀ても結構であるけれども、然し朝日に映じたところが最も陽性の氣分が多い。丁度其處を大和心に譬へて歌つたのは適切である。宣長は我が古典の研究に沒頭し、日本精神の發揚を以て終生の事業と爲した。彼は眞淵[2]ほどの歌よみではない。歌は決して其の長所ではなかつた。然し此の歌は最も克く日本精神を道(い)ひ破つた名歌として傳へられて居るが、確かに日本精神の明快なる方面を巧妙に捉へ得てゐる。支那であらうが、また西洋諸國であらうが、到底此のやうな特色を有して居るやうには思はれない。

第二の特色は純潔であらう。詳しく云へば、純淨潔白を歡(よろこ)ぶ精神、寸毫も汚(きたな)い不純分子のあることを許さない。さういふ潔癖ともいふべき性質がある。それで赤き心の反對としては穢(きたな)き心、或は黑き心などといふ。俗に腹黑いなどといふのは純潔の反對を意味して居る。換言すれば、晴々とした、一點曇の無い精神、之を喜ぶのが日本民族である。此の氣分が最も克く現はれてゐるのが神社である。神社には少しも不浄不潔なものの痕跡を留めない。隅から隅まで徹底的に淸浄潔白を期するのである。參拜者も亦身を淸め手を洗ひ、淸浄潔白にして神に對することになつてゐる。あのやうな氣分が日本民族の氣分で、そして唯々外形に現はれてゐる方面だけではなくして、其の精神的方面に於ても何等邪(よこしま)な、卑(いや)しい、汚い考を留(とど)めないことを期するのである。そのやうに、精神上純潔を貴ぶことが我が古來の傳統的の風俗であるから、少しでも野卑な考や、險惡な考、其の他總べて不純動機を以て吾に對する者があれば、到底忍耐することが出來ないといふやうな非常に強大なる反撥力を持つて居るのである。かの切腹の風俗はさう古いものではない。平安朝の末期から始まり鎌倉時代に流行となり、德川時代の末まで可なり廣く行はれたのである。明治以後は餘程減退したけれども、未だ全くその跡を絶つて居らぬ。あの切腹の動機は種々あるけれども、一は穢き心を持つて居らぬといふので腹を切つて其の赤誠を示し、其心の潔白を明かすのである。言い換へてみれば、精神純潔にして何等人に疑はれるやうな汚き心を包藏して居らぬといふことを死によつて實證する一つの仕方である。純潔の精神の一つの證據としても差支ないと思ふ。

第三に、高大といふ方面が確かにある。日本民族の精神は低級なことを以て滿足するものではない。佛教の我が國に輸入されたのは欽明天皇十三年であるが、それが推古天皇の時に聖德太子によつて本當に移植され、それから段々勢力を增大し、奈良朝になつてから隆盛となつた。而して六宗競ひ起つた。然し、奈良朝の佛教は華嚴宗を除くの外は權大乘に非ずんば小乘教であつた。當時の佛教に大革新を加へて日本を大乘佛教の國に爲したのは傳教[3]であつた。奈良朝に於て授戒もやつたけれども、あれは小乘戒であつた。傳教は我が國に於ては大乘戒(即ち圓頓戒)を授くべしと主張してなかなか力爭したのであるが、其の生存中には目的を達しなかつた。然し、死後一週間にして其の目的は達せられたのである。小乘佛教は皆な全滅し、權大乘は或は滅び、或は發展しなくなつて、獨り大乘佛教のみが榮えたことは一に傳教の功績に歸すべきであるが、然し、いつたい是は日本精神の然らしむるところである。偶々傳教が其の代表者となつたのである。佛教が獨り日本に於てのみ其の粹を殘したといふことは日本精神が然らしめたのである。儒教もやはり同じことで、儒教の不可(いけな)いところを悉く捨ててしまつて、其のよいところだけを活用したのである。そのやうに、外來の宗教・德教の粹を取つて其の他を捨てることは日本精神が獨り高大な方面のみを有してゐるからである。密教の如きものは他國にもあるが、皆な甚だ低級なものである。ところが、弘法[4]が我が國に於て密教の教理を説くに當つて、その低級な部分、殊に淫猥な方面は皆な除き去つて高尚な部分のみを取つて教理を組織したのである。佛教の行はれて居る處は日本以外にもあることはあるけれども、さう云ふ處の佛教は日本に比較すれば大抵皆な低級のものに外ならないのである。神武天皇が都を橿原にお奠(さだ)めになつた後、令を下して仰せられた御言葉の中に、

六合以開都。掩八紘而爲宇。不亦可乎。(六合ヲ兼ネテ以テ都ヲ開キ、八紘ヲ掩ヒテ字ト爲サムコト、亦タ可ナラズヤ。)

とあるが、是に依つて考へてみると、神武天皇の御精神の非常に偉大であつたことが能く分る。明治天皇の御製に

朝みどりすみわたりたる大空のひろきをおのが心ともがな

とある。如何にも其の高大な御精神を窺ひ得られるが、是はやはり日本民族の精神の古來存するところである。我が日本には山が多いけれども、其の中でも富士は最も喜ばれる山で、而して多くの志士が理想としたものである。其の例は澤山あるけれども、唯々茲に一、二の例を出すことにしよう。横井小楠[5]の詩に斯ういふのがある。

群嶽亂山總草茸。奇觀何處立斯笻。愛來大丈夫心事。寄在芙蓉第一峰。

(群嶽亂山總べて草しげり、奇觀何れの處か斯の笻(つえ)を立てん。
愛し来たる大丈夫の心事(志)、寄する(立てる)は芙蓉第一峰(富士山)に在り。)

また、乃木大將[6]の歌に斯ういふのがある。

仰ぎみれば心も空にさえわたる朝日照りそふ富士の神山

これもやはり富士を以て理想とする考で、而して「朝日照りそふ」と云つたところは明快な氣分を喜んだもので、乃木大將も何とかして日本精神の特色を詠つてみようとして斯ういふ歌を詠んだのである。

次に、日本精神の第四の特色は悠遠といふことである。この悠遠といふことは『神勅』の終に、

寶祚ノ隆エマサンコト當ニ天壌ト與ニ窮マリ無カルベシ矣。

とあつて、永久無限の理想的觀念を言ひ表はされてある。是で十分であるが、なほ崇神天皇の詔に、

永保窮之祚

とある。また、元明天皇の詔に、

天地共長。與日月共遠。

とあり、其の他『宣命』『萬葉集』の諸所に悠遠の精神がなかなか立派に現はれて居るが、更に『延喜式』の「引寄ノ祝詞」に依つても悠遠の壯圖を明かに看取し得られる。のみならず我が國には代々精神的・道德的の世界統一の悠遠なる理想が絶えず唱道されて居る。佛教の側からは鎌倉時代に日蓮[7]が之を唱道し、德川時代には儒教の側から山崎闇齋[8]が之を唱道し、復古神道の起れるに當つては本居宣長が純神道の立場から之を唱道し、次いで平田篤胤[9]が盛んに之を唱道し、篤胤に次いで大國隆正[10]が大いに之れを唱道し、明治以後に至つては諸方面の人々が之を唱道して、以て今日に至つて居るが、今日は益々之を唱道する時機に際してゐる。(此の事は後、第九章の神國實現の處に詳しく論ずるであらう)。之を悠遠と云はずして何といふか。何處の國にも無い理想精神が古來磅礴として我が國に存して居ることは到底否定し得られぬであらう。

第五の特色は平和と云つたならば適切であらう。『宣命』や『祝詞』には能く「平ラケク安ラケク治メ給ヒ・・・」などとあるやうに、平和主義的精神が歴史を通じて存して居る。聖德太子の憲法の初に、

和ヲ以テ貴シトナス。忤(さから)フナキヲ宗トナス。

とあるやうに、立派に平和主義を謳(うた)つてある。また、神勅の第二段に

イマシスメミマユイテシラセ。

とある。あの「シラセ」は「シラス」の命令法で、「シラス」の政治を行へといふことである。「シラス」の政治とは平和主義的・人道主義的の政治のことである。斯かる精神は昔から日本にあつて、是が政治の基礎根本を爲して居る。『教育勅語』にも「博愛衆ニ及ホシ」とあるが、是は何にも内地に限つたことではない。内地に於ては固より博愛の精神で行かなければならないが、なほ諸外國に對しても亦此の精神で行かなければならない。一言以て之を蔽へば、博愛主義である。是は『教育勅語』に始まつたことではない。然し明瞭に『教育勅語』に道破されてある。博愛主義は即ち平和主義である。明治天皇の御製に、

よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさはぐらむ

とある。これは確か日露戰爭中の御製かと拜察するのであるが、實に立派な人道主義・博愛主義の御精神の發露であると拜察せられる。この事は、古今の歴史を達觀すると能く分る。『神功皇后紀』に依ると、敵に對して非常に寛大な御精神で在らせられたことが見える。例へば、

自ラ服スル者ハ殺ス勿レ

といふ御命令があつて、確かに寛大な御精神が窺ひ得られる。また、かの豊太閤[11]の朝鮮征伐の時にも敵の俘虜に對して寛大であつた美談が傳へられて居る。(『征戰偉績』を見よ)。更に日露戰爭の時、如何に敵に對して寛大であつたかは周知の事實である。殊に敵將ステッセルに對して 明治天皇は乃木大將に大命を賜はつて、敵の非戰鬪員を救へといふことであつた。其の時、山岡中佐が使者となつて天皇のお思召を敵將に傳へたのである。敵將ステッセルは深く感激したらしいけれども、大命に從はなかつたのである。然し、旅順陥落のとき、また、 明治天皇は乃木大將に勅語を賜はつて敵將ステッセルに武士の待遇を與へよといふことであつた。是は非常に立派な人道的の御精神の現はれであつて、世界各國が驚嘆したであらうと思はれる。敵將ステッセルも御蔭で武装のまゝ鄕國に歸ることが出來た。また、日獨戰爭[12]の際には青島の守將ワルデックが部下の兵と共に降參して俘虜となつて日本に來たが、其の時も日本では獨逸の俘虜をなかなか厚遇したのである。ワルデックは福岡の海岸に臨んだ立派な建物の内に容れられて、遺憾なく優遇されたやうである。斯かることは後日餘程獨逸に好感を與へたやうに思はれる。

いづれにしても、日本が古來如何に外國の俘虜其の他に對して博愛・人道の精神を以て待遇したかと云ふことは史實の餘程克く證明するところである。簡單に之を言へば、平和主義的精神の發現は毫も疑ふことが出來ないと思ふ。固より幕末に於て志士が攘夷運動をやつたやうな變態的のことも多少無いではないが、あれは一時の謬想に基づいたことで、全體的に之を見れば、我が日本は博愛・人道及び平和・寛大の精神を以て進んで來て居るのである。但し我が國に對して無法なことをして來る者があれば、如何なる大敵と雖も、決して容赦せぬ、必ず之を撃退する。而して之を撃退するに當つては非常に強い。其の強いのは吾の方には公明正大にして寸毫も不正不義の考が無いからである。其の點を能く了解しないと非常な勘違いを來すのである。

之を要するに、日本精神は明快・純潔・高大・悠遠・平和の五つの要素を總合統一して歴史的に發展して來たものであるが、將來何處までも同じ精神で活躍して進み往くものである。日本精神は時あつては大和魂または日本魂とも云つてをる。然し、大和魂はとかく狭隘な敵愾心の意味に解釋されてゐる。之れを公明正大な意味に解釋すれば差支ない。また、大和心といふ言葉も平安朝以來用ひられて居る。大國隆正が著した『大和心』といふ上・下二巻の著書もある。然しやはり解釋の仕方は甚だ偏したものである。もう少し古いところでは單に和魂と言つて居る。或は菅公[13]が「和魂漢才」と云つたなどと云ひ傳へて居る。然しこれは間違である。和魂漢才といふ語は『菅家遺誡』にあるが、然し『菅家遺誡』は菅公の作でない。それに『菅家遺誡』にもこの語の有るのと無いのと二種類ある。どうもあの語は後から德川時代に至つて何人かが爲にするところあつて『菅家遺誡』の中に挿入したのであらうと思はれる。即ちこの語は菅公の言葉ではないけれども、菅公は確かに和魂漢才の人であつたと思ふ。和魂・大和心・日本魂などといふ言葉の詮索は姑く措いて、とにかく日本精神は古代からあつたもので、それが次第々々に歴史を透して發展して今日に至つて居る。今その内容を分析すれば以上の五種の特色を見出すのである。然し此の事に就いては、なほ第二篇に至つて詳述する積りであるから茲には其の大要を論ずるに止めて置く次第である。

 

[1]熊沢 蕃山(くまざわ ばんざん、元和5年(1619年) - 元禄4年8月17日(1691年9月9日))は、江戸時代初期の陽明学者。

[2] 賀茂眞淵のこと。

[3] 平安時代の僧、伝教大師最澄のこと。(766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈神護景雲元年〉822年〈弘仁13年〉)日本の天台宗の宗祖。

[4]空海(774年〈宝亀5年〉~ 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。諡号は弘法大師(こうぼうだいし)。真言宗の宗祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお)。

日本天台宗の宗祖である最澄と共に、日本仏教の大勢が今日称される奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらした。

[5]横井 小楠(よこい しょうなん、旧暦文化6年8月13日(1809年)~明治2年1月5日(1869年))は熊本藩士の儒学者。明治新政府の参与になるが暗殺された。

[6]乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉- 1912年〈大正元年〉9月13日)は、日本の陸軍軍人、陸軍大将。日露戦争陸戦の英雄。明治天皇崩御に殉死した。

[7]日蓮(にちれん、承久4年(1222年)2月16日~弘安5年(1282年)10月13日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。

[8]山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))は、江戸時代前期の儒学者(朱子學・南學派)・神道家・思想家。

[9]平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日〈1776年10月6日〉~天保14年閏9月11日〈1843年11月2日〉)は、江戸時代後期の国学者・神道家(復古神道)・思想家・医者。

[10]大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日〈1793年1月11日〉~明治4年8月17日〈1871年10月1日〉)は、幕末・明治維新期の国学者、神道家。

[11] 豊臣秀吉のこと。

[12] 第一次大戦に於ける支那や南洋群島での日本と獨逸との戰鬪を指している。

[13] 菅原道眞のこと。

 

≪日本精神の本質(原文) 井上哲次郎著00    日本精神の本質(原文) 井上哲次郎著02≫

日本精神の本質(原文) 井上哲次郎著00

文學博士 井上哲次郎 著

修正增補 日本精神の本質

                          東京 廣文堂書店

 

 

修正・增補 『日本精神の本質』の序

自分が初めて本書を發行したのは昭和九年の夏であつた。それから歳月匇々(そうそう)已に六年を經過したのである。そして世は益々日本精神の研究を促すやうになつて來た。因つて今回更に修正增補を加へて之を世に送ることにしたのである。本書は元來三篇と附録とより成り、第一篇は「日本精神と神ながらの道」と題し、分ちて十三章とし、第二篇は「わが日本國民精神の特色」と題し、分ちて八章とし、第三篇は「日本精神文化」と題し、分ちて十章となし、そして之に附するに附録を以てしたのである。附録は第一第二の二章より成る。然るに今回更に「日本精神關係の事相及び考察」と題する第四篇を增補したのである。そして第四篇は七章より成るものであるが其の第六章は以前附録の第二としたものを本篇に編入したのである。以前附録の第一として「筆禍事件[1]の眞相」を擧げたのであるが、是れは最早必要なきものとして本書には削除したのである。本書發行以來幾たびか版を重ねたのであるけれども、内容には何等增減がなかつたのである。然るに今回は第四篇を增加し、且つ附録を撤廢したのであるから「修正增補日本精神の本質」と稱することにした次第である。特に第四篇の第七章は讀者の要求に應ずるが爲に聊か微意を盡くしたものである。讀者の之を諒とせられんことを祈る。「修正增補日本精神の本質」發行に際し、事實其の儘を叙述して是れを其の序となすのである。

昭和十六年五月三十一日

        文學博士 井上哲次郎識す

 

 

 

日本精神の本質の序

我が國に於ては日本民族固有の精神を日本精神と稱するのであるが、日本精神は日本民族發生以來綿々として繼續し、精錬し、伸展し、向上し、而して今日に至つて益々旺盛となつて來たのである。固より其の間、儒佛二教及び西洋思想渡來の爲に消長隆替の迹が無いではない。然れども純然たる日本精神は却つて外來思想を咀嚼し、統制し、純化し、陶冶し、収めて以て自家藥籠中の物となさなければ止まないものである。而して其の成績は歴々として我が靑史に存し、復た蔽ふべからざるものありと云つて宜からう。德川時代に起れる復古神道は儒佛二教渡來前の純然たる日本精神を復活することを以て目的として努力し、其の効果も亦頗る觀るべきものがある。其の後王政維新となりて西洋文化が輸入せられ、英・米・佛・獨・露等の思想情調が雑然として我が國に漲り社會の形勢に一代變化を來したのである。之が爲に日本精神が一時壓倒せられたやうな状態をなし、或は損傷若くは腐蝕せられはせぬかと疑はれたけれども、最近に至つて復た猛然として擡頭し、純然たる其の本來の姿勢を現はし、一切低迷せる不穏不經の思想的毒瓦斯を掃蕩し、啻に國民をして天日を仰ぐの思あらしむるのみならず、更に世界的に永久の意義ある發展を遂げんとする態度を示すに至つたことは、實に之を絶大無比の快心事と謂はざるを得ないのである。我が國には儒教があるけれども、唯々日本化せられたる儒教があるのみである。佛教があるけれども、唯々日本化せられたる佛教があるのみである。基督教があるけれども、唯々日本化せられたる基督教又は日本化せられんとする基督教あるのみである。歐洲は曾て精神的に基督教に征服せられて、家族制度も破壊せられ、祖先崇拜も消滅して仕舞つたことはあるけれども、尚ほ依然として民族固有の精神を存して居るであらうか。若し存して居るならば、那邊に於て之を覔(もと)むべきであらうか。縦ひ何物か覔め得るとしても、我が國に於ける日本精神の如きものは、遂に見出し得られないではなからうか。ヘレニズムと云ふやうな古代希臘の遺風は今に至つて存しては居るけれども、希臘は國としては疾くに紀元前に亡び、羅馬帝國も遠の昔已に廢墟となり、今の歐洲諸國は孰れも我が國のやうな舊い歴史を有して居るものではない。それ故數千年を一貫するやうな民族精神のあらう筈はない。殊に大戰後[2]に至つて餘弊尚ほ甚だしく、創痍今に癒え難く、啻に大に振はざるのみならず、不穏の氣勢、病的の症状、交々其の間に現はれ來たるに際して、オスヴァルド・スペングレル氏[3]の如きは天の一方より頻りに「夕暮の國(即ち歐洲)の沒落」と絶叫し、又「決定の歳」と疾呼するのは抑々何を意味して居るであらうか。之に反して我が國は旭日の瞳々淸快の光を放つて日田市の空より昇るが如き姿勢ありと見られて居るのである。此の様な彼我の相違は抑々何に由つて生じて來たのであらうか。必ず其の原因が無くてはならないと思ふ。ユダヤと印度とは孰れも亡國であるから姑く之を置き、支那は二回程異民族の爲に征服せられたけれども、今は兎に角覺束ながら獨立して居る。が漢民族固有の精神を存して居るや否やは實に疑はしいものである。儒教さへ捨てて顧みないで三民主義によつて行くやうな有様で、歴史的には何等の繼續的の精神をも存して居るとは思はれない。宋儒が一時儒教を復活したけれども、根本儒教の復活ではなかつた。儒教に佛教と道教を混化せるものであつた。此の點は復古神道の俗神道を斥けて純然たる古神道即ち日本精神を復活せると大に其の趣を異にしたることを注意すべきである。所が支那では今日宋學さへ殆んど忘れて仕舞つたやうな状態である。其の外、道教があるけれども、極めて低級で精神的には振はない。古往今來達觀して之を考ふれば、世界に於て數千年來民族精神を繼承して一種特異なる國體をなし、系統的に發展を遂げ、益々世界的に意義ある活動をなさんとするもの、恐くは我が民族を置いて復た他に求むべきではなからう。果して然らば、日本精神の研究は諸種の點より見て非常に興味をそゝるのみならず、又目下の重大問題ではあるまいか。近頃日本精神に關する著書・雑誌等續々發行せらるるのは喜ぶべきことであるけれども、多くは歴史・文學・經濟・法律・藝術等の方面より之を論ずるものにて、單刀直入、精神科學の立場から其の本質を闡明するものに至つては寥々として曉天の星の如く稀なりとの感を免れない。自分は不肖ながら平素多大の興味を以て此の問題を研究し、年來竊に見る所があつたから、幾度か人に之に關する談話を筆記せしめて、原稿を作成し、遂に此の書を著すに至つたのである。但し第二篇は曾て雑誌『教育研究』に掲載したのであり、又第三篇の中第二・第五・第六・第七及第九の五章は曾て『丁酉倫理會講演集』『斯文』及び『教育學術界』等に掲載したものを更に修正したのである。それ故幾多の重複した箇處もないではない。尤も重複したやうな文句は餘程削除したのであるけれども、尚ほ多少の見落としがないでもなからうから、此の點に就いては切に讀者の寛恕を請ひたいのである。それで述作の形式に於ては未だ至らざる所あるを免れないであらうけれども、其の内容精神に至つては乾坤を貫く底の自信の存する所であることを明かにして置きたいのである。此の書愈々成るに及んで其の述作の動機の大要を叙して之を巻頭に掲げて以て之が序となすに至つた次第である。

 

昭和九年六月十七日緑陰深き處に於て

文學博士 井上哲次郎識す

 

 

 

[1]『我が國體と國民道德』(1925)で「三種の神器」のうち劔と鏡は失われており、殘ってゐるのは模造である」とした部分が、頭山滿ら他の國家主義者から不敬だと批判され、1927年に發禁處分となって公職を辞職した事件。

[2] 第一次大戦後の歐洲の沈滞を指している

[3]オスヴァルト・アルノルト・ゴットフリート・シュペングラー(独: Oswald Arnold Gottfried Spengler、1880年5月29日 - 1936年5月8日)は、ドイツの文化哲学者、歴史学者。
アメリカ合衆国、ロシア(ソ連)といった非ヨーロッパ勢力の台頭を受けて書かれた主著『西洋の没落』は、直線的な考え方である当時のヨーロッパ中心史観・文明観を痛烈に批判したもので、その影響は哲学・歴史学・文化学、芸術など多方面に及んだ。

 

座右の銘

易象に曰く、 天健(たけ)く行き、君子は自彊(じきょう)を以て息(やす)まず。

普曜經*に曰く、三界**は怙(たよ)る無し、唯道を恃むべし。 蓋し是れ佛陀の言なり。

右の格言二則、躬行(きゅうこう)をもって切なり。故に座右銘と為すを以て錄(しる)す。

*普曜經は、『方等本起経』(ほうどうほんききょう)とも呼ばれる佛教の経典
**三界とは、欲界(欲望に囚われた世界)・色界(欲は離れたが、物質・肉体の束縛がある清らかな世界)・無色界(物質を離れ、精神(心)のみが存在する世界)の迷いの世界のこと。

(燈照隅 書き下し)

 

≪                          日本精神の本質(原文) 井上哲次郎著01≫

敎育敕語畫鑑(教育勅語画鑑)21(完) 敕語奉答 ー 勝安芳(勝海舟)作

敕語奉答

                     勝安芳

 

あやに畏き天皇

あやに尊き天皇

あやに尊く畏くも

下し賜へり大敕語

是ぞめでたき日の本の

國の敎の基なる

是ぞめでたき日の本の

人の敎の鑑なる

あやに畏き天皇

敕語のままに勤しみて

あやに尊き天皇

大御心に答へまつらむ

 

奥附

 

敎育敕語畫鑑(教育勅語画鑑)20 咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ (明治神宮)

咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ (明治神宮)

明治天皇は、敕語の末段に於いて   

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

と仰せられた。

斯ノ道と云ふのは、とりもなほさず「爾臣民父母ニ孝ニ」から「義勇公ニ奉シ」までを指すもので『之ヲ古今ニ通シテ謬ラス』は過去及び現在を通じて謬りが無いとの意、『中外ニ施シテ悖ラス』は國の内外を問はず行って道理にたがふことは無いと云ふ意で、拳拳服膺は、自分の胸にしっかり抱き着ける、つまり肝に銘じて遵守し奉る意である。

斯の道は、實に皇祖皇宗の御遺訓で、國民の祖先が尊重奉體して實踐した道である。卽ち天地の公道であるから古今を通じても謬りなく、また國外に施しても閒違ひなき眞理である。

畏多くも明治天皇は御躬ら斯の道を御實踐になって我等人民と倶に、其の德を同じうしようと仰せになられたことは、まことに君臣一體德を本とする我が國體の國狀が窺はれて恐懼感激に堪へないと同時に、實に拳拳服膺シテ人としての本分を完うして、皇室の御繁榮を祈り、國運の隆昌に努力せねばならぬ。

されば、明治天皇に對し奉っては、國民均しく尊崇思慕せぬものはなく、一度御不豫が發せらるるや國民は日夕を辨せず、神佛に祈願して其の御快癒を冀うたが、明治四十五年七月三十日遂に崩御遊ばされた。尊崇思慕の赤誠が忽ちにして淚と化し、津々浦々の賤家の民までも天を仰ぎ地に伏して號哭したのも宜べなりと云ふべしである。

帝都に近く宏大なる明治神宮を御造營になり、明治天皇、照憲皇太后二柱の神を御祭祀まゐらせ給うたのは、それから數年後の事である。

二氏に伊勢の大廟、東に明治神宮あり、國民崇敬の標はかかって此の神々にある。神域は宏大、常盤の綠は神殿を護って、平和の霞としてたなびくあたり、玉川砂利を敷き竝べた境内には參拜の踵が絕ゆる閒も無い。天皇今は此の世にゐまさずとも、聖旨は天日と共に永遠に國民の上に貽されて君ゐます時と何等の變りがない。

「咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」

何と云ふ感銘深い詔であらうか。我々が、子々孫々までも傳へて敕語を奉戴することこれが何より聖旨に報ひ奉る唯一の忠誠であると考へる。

明治神宮

 

敎育敕語畫鑑(教育勅語画鑑)19 以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ (藤原鐮足)

以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ (藤原鐮足)

以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシの以テ、は、『父母ニ孝ニ』から『義勇公ニ奉シ』までを指したもので、此の閒に御諭しになった道を踐み行うて、天地と倶に窮り無き御盛運を扶け奉るべしとの御聖諭である。

天皇の仰せまでもなく、我が國は三千年の永い閒、上に萬世一系の天皇を仰いで今日に及んだことは歷史が明かに物語ってゐる。然しながら、此の永い閒には、臣民の身でありながら、恐多くも法皇を押込めまゐらせたり、自分が皇位に卽かうと企てた大逆漢も屡々出現した。けれども、忠良なる眞民の爲めに容易に退けられて磐石の皇統には何のゆるぎもなかった。

一例を擧ぐれば、道鏡、入鹿の如きは其の最も顯著なるもので、道鏡は忠臣和氣淸麿の爲めに遂に惡謀を遂げ得なかった。

蘇我入鹿武内宿禰の後裔で、代々朝廷の政治に參與してゐたので、權勢止るところを知らず橫暴專悉は遂に皇位を危からしめんとの企てにまで及んだ。卽ち彼は、推古帝の御甥聖德太子の御子孫を亡ぼして己に緣のある皇族を御位に卽けまゐらせようと企て、己が家を宮と稱び子等を王子と云はしむるに至り、朝廷を恐れざるの無道の擧動があった。

中臣鐮足は此のさまを見て大いに憤激し、入鹿父子を亡さん爲めに日夜頭を惱した末、皇極天皇の皇子中大兄皇子が同じく入鹿に對して御不快の念を抱かせらるるを知り、蹴鞠の遊びに事寄せて皇子に近づき、大極殿に於ける三韓よりの貢物捧呈の式場に於いて遂に入鹿を誅して、皇室の危機を御救ひ申し上げた。

文化が展け、國民の知識敎養が向上して來た今日では、道鏡や、入鹿の如き不忠の臣は出現しないことは明かであるが、思想界の激變は、動もすれば國民に我が國體の歷史、性質を忘れしめて、之を變革しようと企てる國民の往々現はれることは洵に遺憾である。

思想學衡其の他時勢に伴うて新しきを採入れることは、明治天皇の御聖旨に基づくところであり、國に善政を布くこと亦國民の義務である。然し、我々は國體を變革する必要を更に認めないのである。皇運を扶翼するは國を隆昌ならしむる所以、國が榮へ行けば國民は幸福になること自然の歸趨である。此の意味を辨へて、古來劃然と闡かにされてゐる君臣の道を踐むは、國民道德の大幹を誤らない所以であると考へる。

本圖は、鐮足が大極殿蘇我入鹿を誅する圖である。

藤原鐮足

 

敎育敕語畫鑑(教育勅語画鑑)18 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ (橘 中佐)

一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ (橘 中佐)

國難に遭遇した場合、國民が團結、且つ身命を擲って國を救ふべきことは國民本然の使命である。豈んや、世界無比の國體を擁し、光輝ある歷史を有する我が國民は、常に此の心掛を忘れぬことが、第一義である。

敕語に『一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ』と仰せられたのは、卽ち、一朝有事の場合には身命を擲って皇室國家の爲めに力を盡せよとの國民の本分を御垂示になったものである。

橘中佐は志操堅固、勇智に優れた軍人であったが、一面部下を憐れむ眞情が惇かった。日露の開戰されるや明治三十七年、第二軍に從うて戰地に赴いたが、八月末遼陽の會戰に參加した。

遼陽の會戰は、世界戰史中有數の大戰で、彼我の戰士傷者も莫大な數に上った。橘中佐は、僅かの手兵を率ゐて敵地に斬込み、全身銃彈を蒙って血に染り乍らも屈せず、部下を勵まして敵地を占領したが、遂に敵彈の爲めに戰死して了った。橘中佐が海の廣瀨中佐と共に軍神とあがめらるるに至ったのも決して故なきに非ずである。本圖は卽ち橘中佐奮戰の圖である。

橘中佐と云ひ廣瀨中佐と云ひ、又、日本海戰の東鄕元帥と云ひ其の奮鬪は實に筆舌につくされゆ目覺しいものであったが、世界有數の大敵を相手にして、完膚なきまでに之を膺懲したのは、兵士も共に國を顧る他に何ものもなく、死を以て敵にあたったが爲めで、此の大和魂こそ、我が國の誇とするところである。

今日世界は平和を目標として軍縮會議を開いて各國の軍備を縮小しようとしてゐる。然も、國際閒の關係は益々複雜になってゐるから何時國難に遭遇せんも圖り難い。これに就いては、我が國では明治三年徵兵令が布かれて以來、國民皆兵の制を採り、擧國一致を以て有事に當ることになってゐる。日常訓練を重ね、假令平時と雖も、過般の關東大震災の如き秩序紊亂の惧れある場合は、軍隊を出動せしめて、能く秩序を正し國民を保護してゐることは人々のよく知るところである。

軍備は決して侵畧の爲めではないことを國民は先づ知って置かねばならぬ。そえ故明治天皇も敕語に於いて「一旦緩急アレハ」と仰せられた。これは國を護るの聖旨であると拜し奉るのである。

そこで、一旦緩急ある場合は、現役と云はず豫備、後備と云はず、兵籍にあるものは身命を賭して皇國の爲めに力をつくすべきであるが、其の他男子竝に女子は、後陣に在って之を援助し、擧國一致以て國家の安全を期するやう心掛くることが、聖旨に副ひ奉る所以であると考へるのである。

橘中佐