国際秘密力25

第25章  情報作戦から原子爆弾まで

   『・・・これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。<6>

 

本章では情報の収集と利用について考察してみよう。情報収集、秘密諜報員、秘密連絡の利用に関する最も古い記録を、私は古代中国の文献『孫子の兵法』の中に見つけた。エジプト人たちも同じくらい早い時期からこれらを完成させていたのは間違いなく、またユダヤの統治者たちもおそらくこれらに没頭していったのであろう。少なくともユダヤ人たちがこれらに通じていたのは確かである。

これらは人類の歴史を通して、戦争の中で常に重要な役割を演じてきた。注目すべき熟達者の例としては、リシュリュー枢機卿<7>第一次世界大戦で英国の諜報機関を指導したホール提督、代表作『黄金虫』の中でその内容を普及させたエドガー・アラン・ポー<8> などがいる。

米国陸海軍の諜報機関は長い間南部諸州出身者の協力を得ていたが、第一次世界大戦において、暗号解読の天才、ウィリアム・フリードマン*が大尉としてフランスに行くまでは依然としてそうであり、またユダヤ人はすべて除外されていた。彼はフランスの暗号について英国情報部と共同で作業を行い、熟達していった。そしてそれ以来、南部諸州生まれの人々にとっては下り坂の、ユダヤ系の人々にとっては上り坂の状勢となった。
*ウィリアム・F・フリードマン(William Frederick Friedman 1891~1969)は、ベッサラビア生まれのユダヤ人。ロシア郵便局で通訳及び言語学者として勤めるブカレスト出身の父と、裕福なワイン商人の娘であった母との間に生まれ、一家は1892年に過酷な反ユダヤ主義のロシアを脱出して米国ピッツバーグに辿り着いた。米陸軍の暗号専門家で、陸軍信号情報局(SIS)を1930年代、その後継局を1950年代に至るまで運営した。1940年には彼の部下がフランク・ローレットに率いられて日本のパープル暗号を解読し、米国の第二次大戦参戦に先駆けて日本の外交機密を開示した。(英語Wikiより燈照隅訳)

ハーバート・ヤードレイ**は1920年代初めのワシントン軍縮会議では確実に、またおそらくロンドン軍縮会議でも、米国国務省のための暗号解読作業を率いていた。艦船建造の全面的制限に関して、彼は日本の『最終見解』をことごとく米国側に暴露し、米国側は少しの懸念もなく日本をそれに追い込むことができた。

**ハーバート・オズボーン・ヤードリー(Herbert Osborne Yardley 1889~1958)は、アメリカ合衆国の暗号学者。インディアナ州ワージング生まれ。その著『ブラック・チェンバー 米国はいかにして外交暗号を盗んだか』(1931年)で知られる。
ヤードリーは陸軍情報部第8課(MI-8)「ブラック・チェンバー」の設立者であり、その長であった。 彼のもとで、ブラック・チェンバーの暗号解読者は日本の外交暗号を解読し、1921年から1922年のワシントン会議アメリカの交渉者を有利な立場に置いた。 のちに中国の国民政府が日本の暗号を解読するのを助け、カナダ政府が暗号部門を設けるのを助けた。

しかし1930年ごろ彼は解雇され、彼の部門は解散となった。そしてその後間もなく、ルーズベルトの下でフリードマンが活動を始めたのであった。その時以来、ユダヤ人たちはこの任務を任されていた。

ヤードレイは1920年代遅くまたは1930年代のごく初めに書いた、『米国の暗号解読部局(The American Black Chamber)』の中で米国の秘密を暴露し、その後日本のための仕事に向かった。しかし日本の軍部は、日本海軍の暗号はすべて明治天皇の下で英国によって始められたこと、そしてある体系に基づいた暗号はその体系を知っている人間によっていとも簡単に破られることを知っていながら、劣悪なる怠慢により自らを防御しなかった。

フリードマンは、日本が使用を開始した新しい暗号機に関する仕事を始めた。それはオランダの機械を基にしたドイツの機械を模倣したもので、1940年までに日本の外交用暗号としていた。その暗号機を解明するのは、フリードマンの天分がすべてではなかった。少なくとも二カ所の日本大使館・領事館への侵入が大きく寄与した。一つはニューヨーク、もう一つは南アメリカと言われている。また、おそらくワシントンの大使館もこの目的で侵入された。

この情報を含む本書の最後の方の章は、数え切れないほどの図書類を参考にしている。私が鮮明に記憶している一人の著者はレディスラス・ファラゴ***で、彼はこの内容について何冊もの大書を著している。私はこの名前がペンネームなのか、それともごく珍しい本名なのかは知らない。

***ラディスラス・ファラーゴ(LadislasFaragóまたはFaragóLászló 1906~1980)は、ハンガリーの軍事歴史家およびジャーナリストであり、特に第二次世界大戦の時代に関して、歴史とスパイ活動に関するベストセラーの本を数多く出版した。

英国は1940年までにドイツの暗号を、そして米国は同年までに日本の暗号を解読していた。1940年6月にフランスが降伏した時、日独伊の枢軸国は情報戦争においては敗戦し、連合国側にとって計画立案は容易になっていたのであった。その連合国側はチャーチルルーズベルトが率いていたのであり、また1941年6月に戦争に引き込まれた時には忍耐を強いられたソ連スターリンによる支援が加わった。

英国の諜報員スティブンソンが1940年6月にルーズベルトに会った時、枢軸国の意図と戦略は筒抜けであった。チャーチルルーズベルトは注意深く計画を立案した。戦場において英国が追い詰められた時、チャーチルは戦艦プリンス・オブ・ウェールズに乗艦してニューファウンドランドのアルゼンチア湾に出かけ、重巡洋艦オーガスタに乗艦したルーズベルトと会見した。

彼らは幕僚らとともに戦略立案を進めたが、その中には米国を参戦させるためにドイツに米国海軍艦艇を攻撃させるということが含まれていた。これは十分に証明された、公知の事実である。そして、米国と同盟して背後からドイツと敵対させるために日本を使って戦争を刺激するということが、この会見の未公表の秘密合意事項中にあったと多くの米国人は、そして私も信じている。

1941年6月にドイツがロシアに侵攻することをスターリンに警告したルーズベルトが次に行ったことは、同年7月遅くの日本への石油輸出禁止と在米日本資産の凍結であった。ハーグ協定および当時存在していたすべての国際法、それらは何世紀にも渡って英国艦艇の大砲により制定・布告されてきたのであったが、それらに鑑れば米国はその時点で日本と戦争状態に入ったと私は主張する。

英国は、日露戦争における日本帝国海軍の旅順港攻撃と同様の奇襲攻撃の可能性をワシントンに警告しており、1935年ごろ米国はそれらの不慮の攻撃に備えた艦艇演習を行っていた。また、ビリー・ミッチェル将軍は1920年代の軍の会議においてこの様な攻撃を警告していた。

これらに加えて諜報機関からも山のような警告の報告があったにも拘らず、J.エドガー・フーバーFBI長官はこれらの情報を軽視し、また重要な地位にいた太平洋海域の米軍高官の中でハワイと真珠湾の指令官たちだけが、紫暗号機(Purple Machine:紫は日本の外務省が使用していた暗号の名称)無しで放置された。

私および大部分の米国人が今日知る限りでは、キンメル提督とショート将軍は、真珠湾での損失の責任を負うように『仕組まれた』のであった。実際、彼らは肝要な航空母艦海上に出しておいて旧式艦艇だけを廃棄したも同然であった。

前著『憲法改悪の強要(Coercion  F-or Constitutional Change)<9>』の中で極めて詳細に述べた様に、それらは意図的に行われたと私は信じている。極めて多数の証拠物件が私の主張を支援している。人々を犠牲にしたことは犯罪である。

ダグラス・マッカッサーはかなり前から警告を受けており、日本への長距離攻撃用爆撃機B-17の使用ができなかったために、第一上陸地としてフィリピンを選んだことは疑いないところである。マッカーサーらはおそらく、日本に最初の攻撃をさせるために日本を刺激し怒らせるという秘密の任務を負ってフィリピンに滞在していたのであろう。

ブレレトン将軍は彼の弁解には関係なく、霧が立ちこめた台湾への攻撃を始めることは許されなかった。その台湾では、日本の航空機隊が霧のために午前10時ごろまでは離陸できないでいた。

また米国の航空機隊はダグラス・マッカッサーの指示により、昼食の間整列状態で陸地に釘付けにされ、そして破壊された。真珠湾攻撃のたった数時間後に、『昼食』のために軍務を一斉に休むなどということは私の理解を超えている。しかし日本の攻撃機が台湾から飛来した時、飛行兵たちは事実、マッカーサーの指令により軍食堂にいたのである。

マッカーサー自身はあっという間に、軍に護衛された専用機バターン号によりマニラ湾口の要塞であるコレヒドール島に退避していた。こうして地下に待機していたことによって彼は彼の軍隊に『慕われ』、そして結果的に『退避壕のダグ(Dugout Doug)』 として永久に知られることになった。

燈照隅註:マッカーサーについては誤解されている部分もあり、拙訳「敗北を拒否した男 ~ダグラス・マッカーサー~ E. マリンズ」には彼の他の面が描かれている。ご興味があれば以下リンクをお読みください。
敗北を拒否した男 ~ダグラス・マッカーサー~ E. マリンズ - 燈照隅のブログ

『共和国の戦いの賛美歌(The Battle Hymn Of The Republic)』 は南北戦争当時に作曲されたものであるが、この歌の無数の替え歌が第二次大戦中の各戦役で歌われた。私が覚えている歌詞が一つある。

『退避壕のダグはぶるぶる震えて岩の上。
奴はずらかるマリタの中へ。
その時部下の兵たちは、敵の弾の中』

コレヒドール島は、軍隊では『岩』の呼び名で知られており、マリタはその島の主要な地下道であった。『弾』はカノン砲からの破裂弾を指している)

マッカーサーが彼の部下とウェーンライト将軍を見捨てたことは当時および戦争中の米国では良く知られており、大部分の軍人たちはマッカーサーの指揮下の地域に配置されないことを望んでいた。その例外は一連のIJCの手下たちであった。彼らは日本の占領があるであろうということ、そして日本において誰が命令するであろうかということを知っており、マッカーサーの指揮下に入ることを望んでいた。

ここに興味深い話がある。第二次世界大戦の1世紀前とまではいかないにしても何十年か前、『アーミー・ジャーナル誌』と呼ばれる定期刊行物があった。この雑誌は、将校たちの異動、死亡、昇進を始め、他の将校や友人にとって興味ある肝要な統計的事項を殆どすべて掲載していた。特に、ここにはすべての氏名の変更が印刷されていた。

今日、殆どのユダヤ人の名前は容易に、かつ確実に判別できる。彼らはツァー時代のロシアから逃避するために、名前をロシア名またはヘブライ名からドイツ名に一度は変更しているからである。発音できないような彼らの名前を笑われて、彼らは美しい物の名前を付けるようになった。

例えばAdler をEagle に、またGelt をGold にというように。『French Stone』を意味するFrankenstein というような名前が付けられ、その家族が米国に着いた時にそれは『Frankstone』に変えられた。また、『Gold』または『Gelt』で終わる名前で、Finegelt を英国風にFinegold としたような例もある。名前の一部分のみが英国風に変えられる例は多い。米国人は父方の姓で先祖を辿ることが多いが、英国風の名前に変えたユダヤ人の場合、その変更を認識しているか、記録を辿れるかでなければそれは難しい。

ここに天がくれた機会があった。駐屯地の変更や赴任指令等の機密を守るため、アーミージャーナル誌の発刊は終戦7年後に再刊されるまで中断されていたのであるが、それが再刊されると、月刊または週刊として毎回4、5冊の膨大な大冊で発行されたのである。それは、内容を解析するだけでも主要プロジェクトが必要なほどの量であった。

これらの大冊に埋もれて、軍に所属中に名前を正式に変更したユダヤ人たちの名前があり、それは彼らの名前の変更情報を容易に入手できる唯一の記録であった。彼らは新しい環境の中で過ごしており、周囲の者にユダヤ人と気づかれないでいた。彼らが日本に赴任して責任ある地位にいた時、日本人たちは彼らがユダヤ人たちであるとは露知らず、米国人であると信じきっていた。

それは米国企業が占拠したビジネスの世界でも全く同様であった。企業の所有者や融資者であった彼らの殆どが純粋なユダヤ人であり、IJCの手先たちであったことは、日本人は誰一人知らなかった。

私はこの情報を、30年組の陸軍士官であった人物から得た。彼は1932年に正規軍に小尉で入隊したが、退役した時はまだ大佐であった。その理由は、国防総省勤務となった彼が、IJCによる軍関係の契約と地位の乗っ取りを全力で防いだからであった。この国防総省に勤務した最後の数年を除けば、彼は軍法務部に全期間所属していた。氏名の変更はすべてこの部局で行われ、マッカーサーの指令下の大西洋海域において、確かに彼らの氏名の変更がなされていたのである。

私が知っていた戦闘部隊の超ベテランによれば、彼らはあらゆる手を尽くして戦闘任務を回避しており、信じられないような勇敢さを示した優秀な例外はあるものの、IJCの人々はまず間違いなく、また一般のユダヤ人たちも大部分は戦闘任務には従事していなかった。

作り話のハリウッド映画では、米軍共同墓地の場面で、十字架の墓石とダビデの星の墓石が6対1位の割合で映し出される。ユダヤ人は殆ど戦闘任務に就いていなかったこと、そして当時のユダヤ人は人口の約3%しかいなかったことは、この様なハリウッド映画がプロパガンダに外ならないことを如実に物語っている。

これらの非戦闘員たち、および特にIJCの指令を受けていた者たちは日本への占領軍の中に食い込めそうな業務に引き付けられていった。私の研究結果では、ヨーロッパではこの様な占領軍になりそうな軍隊へのユダヤ人の異動は起きていなかった。IJCはすでにヨーロッパを所有していたのであり、日本はまだ所有していなかったのである。

ヒュー・P・ロングを議論した時にお話した様に、1941年12月の真珠湾攻撃のごく直近までは、米国は強い孤立主義者であった。しかし真珠湾攻撃は参戦への反対意見を吹き飛ばしてしまい、ルーズベルトは完全に支配力を握った。その様な背景により議会においては、反逆人または反逆行為と呼ばれるのを恐れて、ルーズベルトが提案したいかなる法案にも反対することは恐れられた。

私が子供のころ、議会で一人の勇敢な議員がおり、ルーズベルトの対日宣戦布告に反対していたことをおぼろげながら覚えている。その放送はご丁寧にも日本語で吹き替えられていたので覚えていたのだが、それはその議員が日系人の票を必要としていたからであった。しかしこの忠実な日系米国人たちを砂漠の強制収容所に追い払ってしまうと、彼はすぐに『ジャップ』呼ばわりを始めた。

すべては彼の思惑通りであった。プロパガンダマシンはハリウッドやニューヨークで順調に稼働しており、すべてはルーズベルト万歳を叫んでいた。真珠湾攻撃の知らせを聞いた時にチャーチルが思わず言った言葉

『私は仰向けになって、戦争以来初めての安眠と熟睡を得た』

が、何よりも良くすべてを語っている。その言葉はまた

『私はベッドに行き、救われし者の安堵感と感謝の念を持って眠りについた』

であるともされてきた。

この戦争および両側のすべての軍隊の勇敢さを書くために、何百枚と言わず、山のような大量の紙が各国で消費された。多くの著名な作家たちが詳細に渡って見事に語ってきた物語を改めて記述するのは、私の目的ではない。ゴードン・プランジやリーダーズ・ダイジェスト誌までが、彼らの物語を日本の指導者たちが話すように仕向けた。但し日本の中だけで。彼らの物語について、検閲を経ていない言葉は外の世界には届かなかった。

英雄的な赤軍ヒトラーを押さえ込んだ。これをもってIJCはスターリンを使うことを終了させたと私は考えている。ヤルタ会談ではヨーロッパを獲得しようと背後を『利用』したスターリンではあったが。模範的な勇敢さと大胆さをもって、同様に勇敢で大胆な米国に対抗した日本ではあったが、日本に勝機は無かった。だが大和魂は表面上征服されたように見えたが、深く潜行したのであった。今日、大和魂の復活と最終的な勝利の徴候は存在する。

原始爆弾の開発の物語についても、何度となく語られてきた。1930年代にドイツで行われた核分裂反応と、フランクリン・ルーズベルト原子爆弾の開発を嘆願したアルバート・アインシュタインの手紙は誰しもが知っているところである。

日本人はポツダム宣言を知っており、また受諾された時の宣言文には、交渉後の条件付き降伏であることを明確に示す言葉が含まれていたことを知っている。しかし米国の人々の大部分はそれを知らない。トルーマン大統領が第二次大戦の戦勝記念日に、日本は『無条件降伏』をしたと演説し、メディアはそれだけを高々と吹聴したからである。ポツダム宣言と日本の受諾書を記載したものの中で、大学での政治と歴史に関する科目の専門的教科書よりひどいものを、私は今日まで見たことがない。

米国がこの恐ろしい原子兵器を広島と長崎で使用したことは、世界中の人々が知っている。また、日本は降伏のための最善の努力を継続中で、暗号解読能力を有していたすべての主要連合国はその事実を知っており、その時その場所でこの爆弾を使用する必要は無かったことも世界の人々は知っている。

エドワード・テラー****は原子爆弾の開発に従事し、さらに恐ろしい水素爆弾の発明で栄誉を受けている人物であるが、この本を書いている1995年の春分の日の数日前に彼が認めたように、日本の二つの都市を原爆により破壊し尽くした真の理由は、ロシア人に対する示威、強迫、脅嚇であった。勝利にも拘らず、IJCは人間の尊厳を侮る行動を自制することはできなかった。東京とマニラで彼らが裁くという、これほど恐ろしい戦争犯罪はかって企てられたことは無い。

****エドワード・テラー(Edward Teller、 もとのハンガリー名ではテッレル・エデ(Teller Ede)、 1908年~ 2003)は、ハンガリー生まれでアメリカ合衆国に亡命したユダヤ理論物理学者である。アメリカ合衆国の「水爆の父」として知られる。ローレンス・リバモア国立研究所は彼の提案によって設立された。

 

【訳注】

 

 <6>  新約聖書 ヨハネの黙示録15.1より。

 <7>  リシュリュー:(1585~1642)フランスの枢機卿・政治家。ルイ十三世の宰相で事実上のフランスの支配者。

 <8>  エドガー・アラン・ポー:(1809~1849)米国の詩人、短編小説家、批評家。推理小説の元祖とも言われる。  

  <9>  著書「憲法改悪の強要」:J.L.ウェスト博士他著、佐伯宣親編・訳、嵯峨野書院刊。(1980.11.7)