国際秘密力19

第20章  英国汽船『ルシタニア』

          『わたしの道が確かになることを願います。

                    あなたの掟を守るために。<28>

 

第一次世界大戦の危険性は予見され、実際に1914年の8月の初めに戦争が勃発した。当時ウィンストン・スペンサー・チャーチルは英国海軍本部最高委員(First Lord Of The Admiralty: 海軍大臣)であった。この職位は他の国々の海軍大臣(First Minister of the Navy)および米国の海軍長官(Secretary of the Navy) と同等である。彼はこの職位を1915年11月まで勤めた。彼がどれだけ長くこの職位を勤めたかは重要であり、覚えておいて欲しい。

奇妙に符合することに、1913年の3月、ウィルソン大統領の政権下でフランクリン・デラノ・ルーズベルト海軍次官になったすぐ後に、チャーチルはこの職位に昇格した。事実を記録しておくと、フランクリン・ルーズベルトはセオドル・ルーズベルトの甥であり、従ってルーズベルト家の同じユダヤの血統を引いている。

そしてフランクリン・ルーズベルトは、約7年間、言い替えれば1918年11月の第一次世界大戦終了後まで同じ海軍次官の地位にいた。この時代の局面は、同じ時期に同様の地位を占めていたこの二人によって完璧に代表される。この時代特に興味深いのは、時代がこの二人に『米国を戦争に引きずり込むこと』を実行する機会を与えたことである。1915年に彼らはこの使命を成し遂げたことをここで強調しておく。

私たちは後章で、彼らが1941年に同様のことを繰り返す様子を見ることになる。まずその最初の段階での証拠について見てみよう。

IJCの学習とは関係のない軽い読み物として、私は3年ほど前に公立図書館で一冊の本を見つけた。それはボストンとトロントのリトル・ブラウン社出版で1972年版権取得の、コーリン・シンプソン著『ルシタニア号(THE LUSITANIA)』 であった。私の使用しているのはその第三版である。

この本から3枚の図を『証拠書類A,B,C』として本書に引用した。それらは、英国海軍本部が嘘をつき、また米国海軍省が嘘をついていたことを決定的に証明している。それらは、チャーチルが嘘をつき、またフランクリン・ルーズベルトが嘘をついていたことを決定的に証明している。そして、もしこれらの政府が嘘をつき、またこれらの海軍当局者が嘘をついていたとしたら、英国キュナード汽船会社が嘘をついていたことは言うまでもない。

今日それは、合理的な疑問点というような言葉ではなく、米国または英語圏で殺人者に有罪判決を言い渡す時に使われる言葉を使用すべきなのは疑う余地のないところである。

当時、『ルシタニア号』撃沈に関して真実を述べていたのはドイツ人、またの名を『フン族野郎(HUN)』だけであった。フン族は4~5世紀にヨーロッパを侵略したアジアの遊牧民であり、破壊者として知られているが、英国およびIJCは賢くもプロパガンダ(悪意の宣伝)のためにドイツ人をその名前で呼び、恐ろしいイメージを呼び起こしたのであった。

ルシタニア号は英国キュナード汽船会社の汽船として、1906年6月7日に進水した。この会社は当時北大西洋航路上の浮かぶ宮殿、すなわち豪華客船で知られていた。ルシタニア号は戦時には『巡洋艦』、または商船隊襲撃艦、またあからさまに言えば軍艦に転換できるよう、英国政府より建造費を援助されていた。例えば大砲類を登載して甲板上から砲撃できるよう、構造上特別に強く建造されており、砲架も装備していたのである。この時代の用語で言えば、ルシタニア号は同様の船に反撃するための『商船隊襲撃艦』であった。

同じ航路にはドイツ船が航行していたが、その航海においてルシタニア号が砲を装備していたかどうかは、同船の擁護者であるIJCのために論争中ということになっている。しかし当時施行されていた国際法ではルシタニア号は商業輸送船を偽装した軍艦であった。

戦争の初めのころ英国に向かっていたルシタニア号を潜水艦が脅かした時、ルシタニア号は何のためらいもなく即座に米国国旗を掲げたのであるが、これは策略的戦術の主要な例の一つであった。その時船には、ウィルソン大統領の最も親密なる顧問であり、戦争勢力間での平和会談を試みに行く途中のハウス大佐<29> が乗船していた。ウィルソン大統領、そして米国政府も公式には絶対中立を表明していた時に、ハウス大佐がたいへんなイギリスびいきであったことは興味深い。彼は星条旗が掲げられつつある時に旗から目をそらした。だからこそ、後日新聞社に対して『私は米国国旗なぞ見ていない』と言うことができた。

シンプソンによれば、ルシタニア号は戦争が勃発すると直ちに、少なくとも8基の4.7インチ砲で武装した。そして1962年に行われた潜水調査では、結論こそ出なかったがそれらの砲は目撃されたと信じられた。1994年の4月に、決定的とされる別の潜水調査が行われ、ナショナル・ジオグラフィック・マガジン誌上で報告された<30>。 この報告書については、前章で述べたバーバラ・タッチマンとともに、適当な処で議論することにしよう。

この報告書は面白いが、どうしても反論できない事実に直面して、全く観念的なものになってしまっている。それらの事実は最もIJC寄りの情報源でさえ証明していることであり、それらの多くは当時のことを多弁に物語っている。私たちは、事件をかき混ぜて混乱させようとするこの報告書のようながらくたは無視して、話をきちんと進めて行こう。

 

               通   告   !

 

  大西洋の航海に船出しようとする旅行者は、ドイツ及び同盟国、と大英帝国

  及びその同盟国の間で国家間戦争が行われていることに留意されたい。戦争

  領域には英国諸島に隣接する海域が含まれる。ドイツ帝国政府の公式通告に

  より、これら域にいる大英帝国またはその同盟国の国旗を掲げる船舶は破壊

  を免れない。従って、この戦争領域を大英帝国またはその同盟国の船舶に乗

  船して航海中の旅行者は各自の責任において行動されたい。

 

  ドイツ帝国大使館

  ワシントン.D.C.1915年4月22日
 

 

 

キュナード汽船会社は、1915年3月1日より開始していたその航海に乗客を勧誘していた。しかしその宣伝とは裏腹に、ルシタニア号の出航計画の一週間前にワシントンのドイツ大使館は警告を流していた。是非証拠Aをご覧頂き、自ら読んで頂きたい。それは明確で、曖昧さのない、そして簡潔で平易な言葉で書かれている。その文章の意味やドイツ側意図に関しては何の疑いもない。もしドイツが生き残った家族によって人命損傷で訴えられていたとしたら、ドイツはその訴えを、この通告書の写しを含む宣誓供述書による簡易裁判で退けることができたであろう。

各航海には二種類の積荷目録が準備された。その一つは一般公開用で、すべての軍需品および戦時禁制品が除外されていた。もう一つは完全な目録で、これらの軍需品および戦時禁制品が詳細に完全な形で記載されていた。

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証拠 A ドイツ大使館の警告書(1915年)

 

この航海の場合も慣習は守られ、読者は『証拠B』でライフル銃、砲弾、信管が『雑品』とともに記載されているのを見ることができる。その『雑品』は、大砲の破裂弾に充填するためのデュ・ポン社製綿火薬であることを、シンプソンが証明した。その爆発性威力の対象として船舶の撃沈を考えると、それは巨大な量になる。

 

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証拠 B ルシタニア号の積み荷リストその一(1915年)

 

  真の積荷目録のこれらの部分は、1950年代まで秘密にされていた。これらは、弾薬筒や榴霰(りゅうさん)弾が船に積まれていたことを示している。   

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証拠 C ルシタニア号の積み荷リストその二(1915年)

 

公式報告用としては『非軍需品』の積荷目録が流布され、すべての人が閲覧できるようにされた。一方で、秘密の『軍需品』の積荷目録は海軍省に届けられた。私はシンプソンおよび他の著作物により、それは海軍次官であったルーズベルトに直接届けられ保管されたと確信している。報道活動の自由のお陰でシンプソンがそれを探し出せたものの、その書類が再び日の目を見ることはないと思われる。英国海軍本部は今だにそれと同様の書類の上に座り続けており、それを公表することはないであろう。

これら前3節に含まれる証拠だけによって私たちは模擬的裁判を行い、無意味な議論をする必要のないようにしよう。すなわち、爆発を起こしたのはどこか、大量の石炭が海上に飛散しつつある時に空の石炭庫内で炭塵爆発が起きたのは何故か、等々延々と続く不毛の議論は避けよう。

英国の、他の何物をも圧倒する最大の要望は、米国を自分たちの陣営として戦争に引きずり込むことであった、というのが歴史の真相である。それは戦争勃発時にチャーチルに与えられた最重要目標であった。後日第二次世界大戦の時にも行われた様に、一人の代理人がニューヨークに送られ、米国内の『英国の友人』とこの代理人との間に連絡網が確立された。

(後の歴史のための参考であるが、CIAの前身である戦略事務局を占拠した『ウィリアム・ワイルド・ビル・ドノバン』は、ニューヨークにおける英国代理人との連絡のための連絡要員であった) 

この経路を通して、フランクリン・デラノ・ルーズベルトチャーチルは相互に連絡を取り合ったと私は信じている。

すべての規則に反していたこの航海において、ルシタニア号は潜水艦に対する防衛のためのジグザグ走行は行わなかった。そして極めて驚くべきことに、通常はアイルランド沖を巡回していた直衛駆逐艦隊は、ルシタニア号が近付いてくるこの期間、撤収させられていたのである。

ルシタニア号は待ち受けていた潜水艦を通り越し、船自体を完全な目標として曝しながらまっすぐに進んだ。一発の魚雷が発射された。それはその潜水艦が登載していた只一発の魚雷であった。その魚雷はルシタニア号に命中し、比較的こもった音の爆発が船の前方で起こった。そして、その衝突のすぐ後に発生した巨大で猛烈な爆発が船底を引き裂き、ルシタニア号は沈没した。この間すべてで18分であった。

失われた人命は恐ろしい数に上り、たった3年前のタイタニック号沈没による死亡者数記録に迫り、明らかにそれに匹敵する死亡者数となった。

(私自身としては次の様に信じ続けるであろう。タイタニック号の沈没は1915年までには米国の民間伝承とフォーク音楽の一部にまでなっていたが、米国国民は氷山に消えた米国人の生命に対し、誰にも責を咎められないでいた。その様な米国国民に対し、このむごたらしいルシタニア号の沈没は憤りを煽り、そのかなりの部分は米国国民の中に憎悪として閉じ込められた) 

最終的な集計では、生存者764人に対して、死亡者は1095人であった。死亡者の中には、94人の幼児と子供が含まれていた。米国市民の死者は123人で、これらの人々は、私が陰謀だと主張した企ての最終段階に奉仕する形で死んでいった。『非人道的犯罪』に対する裁判は当時まだ発案されていなかったが、この世界でかってこれに該当する悪事があるとしたら、この事件はまさしくそうであり、ニュールンベルク、東京、そしてマニラなどではその教義が誤って適用されたのである。

私がいかに強くこの事を感じているかを、私は読者にうまくお伝えすることができない。私は、私の中に閉じ込められた怒りを解放させるために、責任ある彼らに対する現代版起訴状を作成したい気持ちである。その起訴状は、失われた各々の人毎に優に200を超える訴因を有するであろう。

IJCのための弁解者たちが何と言おうが、ルシタニア号沈没は米国参戦に対して他の何よりも大きな影響を与えた。メディアは明らかな味付けを伴って米国世論を作り続けており、細身の長鋸で挽くようなその作業を終えた時、米国大衆はすっかり参戦する気分にさせられていた。

伝えられるところによれば、ジンマーマンの電報が、米国と英国の両者で解読されていた暗号を使用して、ドイツからワシントン、ワシントンからメキシコ市へと電送された。タッチマン女史によれば、この電報が米国参戦のもう一つの理由となったという。ここでは詳細には立ち入らないことにするが、米国南西部からメキシコに対して申し出がなされたことが想像される。その米国南西部は、1845年のアメリカ・メキシコ戦争においてメキシコが失った地域であるが、この様に米国は地球の半球で戦争に従事し続けていた。

私に明白であったのは、すべては英国海軍本部のスコットランドにあった海外電信機から、使用を中断中の、偽である可能性のある暗号によって電送されて来たということであった。タッチマン女史が、米国の暗号解読者たちは彼らの業務を遂行するために英国海軍本部に頼る必要があった、と述べているのを知った時、私はそれはいかがわしいという意見を強く抱いた。もしそうならば、電信の件はチャーチルが海軍本部を出た後に起こったのであるが、チャーチルは1915年の11月に海軍の職位と事務所を去る前に、暗号操作、海外電信の接続操作、およびルーズベルトとの連絡網は確立させていたはずだからである。

ウィルソン大統領は、金切り声で『平和』を叫びながら戦争に入って行き、『新秩序』とわめきながら戦争から出て来た。ウィルソンは、戦況が落ち着いてきてベルサイユでの和平会議に向かう前に、あたかもヨーロッパを統治する君主の如くヨーロッパを旅行した。その旅行において、ウィルソンは共和党員を誰一人として同行させることが出来なかったが、結局それはウィルソンへの圧迫要因となった。彼は国際連盟を提案しそれを押し付けたのだが、上院での投票時に共和党を賛成させることはできなかったのである。まさに正しくも、その提案は打破された。

その数年前にウィルソンは上院議員ヘンリー・キャボット・ロッジを政敵としていたが、米国の国際連盟加盟を阻止したのは上院におけるロッジの指導力によるものであって、それが国際連盟挫折の原因となった。そして、世界の人々にIJCの存在を気づかせ、IJCの指令を拒否するという事態が生じてきたのであった。

このIJCの主たるプロジェクトを私がさっさと通り過ごしてしまったので、読者の方は不思議に思われるかもしれない。しかし理由は簡単で、このプロジェクトが挫折したからである。それは後日再びフランクリン・ルーズベルトによって提案され、その時には喉が渇いた人に水を売るが如くに受け入れられた。この件については、その再度の提案の処で確かめることにしよう。それはまた日本征服と切り離せない関係で結ばれている。ここからは、まずIJCに何が起きたかを見てみよう。

 

【訳注】

 

 <28>  旧約聖書  詩編119.5より。

 <29>  ハウス大佐:エドワード・マンデル・ハウス大佐。IJCの傀儡であるウッドロー・ウィルソン米国大統領を見張るためにIJCにより派遣された番犬的人物。ウィルソンの任期中、大統領の主席顧問として極めて親密な関係にあり、大統領の指導・洗脳にあたった。特に連邦準備法成立への陰の影響力は大きかったと言われている。なおハウス大佐は軍務に服したことはなく、大佐の称号は全く名誉的なものであった。

 <30>  ナショナル・ジオグラフィック・マガジン誌:米国地理学協会の月刊機関誌。質の高いカラー写真や海外の情報も掲載。発行部数1039万部(1984)。