国際秘密力12
■ 第13章 出会い 『彼の家には多くの富があり・・・<3>』
新世界での話を続ける前に、スペインとポルトガルのこれらの早期の航海がどこから来たのかを見てみよう。
イベリア半島は過去長い間侵略されていて、イスラム教によってもたらされたアラブ文化に、一時期だけ完全に占拠されたことを思い出そう。明るく、陽気で、流れる水と泉のある優美な建築物のアラブ文化は、北欧文化とは似ても似つかない。北欧の文化は、小作人たちが居住していた不潔な堀立小屋と、貴族たちが居住していた要塞化した前哨基地から現れ出たものであった。
アラブ文化は、ギリシャ人たちの多くの知識を世界を代表して保存するとともに、中国、インド、ペルシャから古代人たちが知っていたことの多くを吸収していた。アラブ文化は、それらの知識の科目の大部分について知識を蓄積するとともに拡張していった。建築と文学はやや遅れていたものの、数学と医学は彼らの得意とするところであった。
アラブ人の様に長い歴史を持つ民族について一般論を言うことは、明らかな例外もあって非常に難しいのであるが、概して言えば彼らは雅量のある人々であった。特に、西洋と接触している文明の下にあったスンニ派はそうであった。アラブ人たちの血と知識は、イベリア人たちが知っていた以上に、かなりの量がイベリア人の中に入っていた。
征服者たちはインド諸国<4> の香辛料を求めており、コロンブス船隊の巨大な新大陸への到着に少し遅れて東インド諸島に到着した。東方への前哨基地はアフリカとインドを廻ってゆっくりと延長されていた。一方、西方への直接的航海はすでに盛んに行われていた。というのは、コロンブスが最初の航海ばかりでなく、その後の航海でも、ある金属を持ち帰っていたからであった。
(彼の各々の航海は、遥か遠方より帰ってこられるであろうということを、なお一層はっきりさせた)
その金属とは、大昔から男たちの卑しい激情を煽ってきた金であった!!!さらに重要だったのは、わずかな量の金を持ち帰ったことに加えて、コロンブスは内陸に巨大な量があるという噂話をもたらしたことであった。それは確実だと信じられ、そしてコルテスの遠征によって確かに証明された。今やスペイン人のすべての若い二代目たちは、彼らの足跡を残し、一財産を作ろうとして『インド諸島』への航路を求めた。当時はまだアメリゴ・ヴェスプッチ<5> は航海をしておらず、彼らはアメリカのことを『インド諸島』と呼んだのであった。
彼らは無思慮な欲望の塊となって、略奪、強姦、殺人そして大量殺戮による根絶へと突き進んでいった。その大量殺戮は、何世紀か後に、ラオス・カンボジアで、そしてヒトラーのポーランド人用窯、それらは子供騙しの様に思えるのだが、で築かれることになる頭蓋骨の山々のすべてより悲惨であった。
第二次大戦における大量殺戮は今だに、IJCに支配されたメディアを通して、繰り返し定期的に、世界中の人々の目・耳にこれでもかこれでもかと、うんざりするほど叩き込まれる。これを過去にアメリカで為された大量殺戮に対する、これらのメディアの態度と比較してみると良い。これらは子供騙しの宣伝である。またハノイで失われた生命や、ドイツ・日本に加えられた猛爆による膨大な死者について、これらの同じメディアは殆ど言及しない。
さらに比較してみると、原子爆弾によって、広島・長崎の人々に訪れた苦難と破壊の恐怖について、これらのメディアは殆ど何も言わない。この原子爆弾が投下された時、太平洋戦争は実質上すでに終了しており、日本は絶望の中でロシアを通して平和への嘆願をしていた。そしてそれらすべてを米国戦略事務局(American Office of Strategic Service)のアレン・ダレスは知っていた。彼はその組織の後身・CIAを統率し、またロシアとの冷戦の初期段階では、兄弟のジョン・フォスター・ダレスとぐるになってIJCのために活動した。
コルテスの信じ難いほどの蓄財の報告とほぼ同時期の1520年、フェルディナンド・マゼランは世界を回る航海に出ていた。彼は、彼が到着した土地をすべてスペイン領だと主張していった。そしてついにフィリピンにおいて日本人とヨーロッパ人が対面し、直接的に対決した。
私の日本の歴史に関する知識はたいへん貧弱であり、読者にはお侘びをしたい。そして、この本で記述されている考え方に読者自身で補足して頂くことをお願いする。その私の貧弱な知識も、IJCに迎合した作者によって悪しく汚されており、殆ど価値の無いものとなっている。私は、私が正しいと知っている事実を何とか拾い集めてみた。例えば、後鳥羽上皇は流罪となり島後(隠岐)で死ぬことを許されたが、それは彼自身が知っていたかどうかは別にして、彼が反IJCであったからであった。
そして約1世紀後、後醍醐天皇は同様の流罪から逃れ、大神山様の斜面で農民たちの助けによってIJCの捕獲人たちを打ち負かした。繰り返すが、彼らはIJCの存在について知識もヒントも持っていなかった。しかし彼らは、何か邪悪な勢力が行動していることを知っていた。そして彼らは日本の人々のために全力を尽くした。
ここで読者が正しい事実を知っていて、私が間違っている点があれば読者自身で読み取って欲しい。読者はこの後また、日本の有史以来の歴史全般に亘ってIJCが掛り合っていることを見るであろう。
秀真伝(ほつまつたえ)<6> に記述されている内容を除けば、日本の歴史書は、IJCおよびその目的に合う様に何世紀にも亘って変造され、書き直され、または捏造されてきた。秀真伝はIJCの汚れ、血塗られた手によって触られておらず、純粋で汚れがないと理解している。その理由はただ一つ、その写本が秘匿されて長く保存され、他のものが破壊された後で発見されたからである。
とにかく、秀吉はより広い生活圏を求めて南方に日本帝国を拡張していった。私たちがすでに見たように、彼はアフリカ回りの航海で示された海軍能力を備えていた。彼が持っていなかったもの、そして後にヨーロッパ人とフィリピンで出合った時点で日本人が持っていなかったものは、大砲とスペイン式火縄銃であった。そのスペイン式銃は、ラセンを切っていない平らな穿孔の銃口装槙式銃で、肩にかついで射撃するものであった。
日本の弓術家と騎兵隊は、当時世界のどこよりも優れていたし、彼らは火薬も知っていた。問題は彼らが技術的に後進的であったことであった。技術的に劣っていたため、またヨーロッパ人の目の中に強欲の微光を見たため、彼らは日本の島々に退却し、鎖国した。
彼らは鎖国が、これらの風呂にも入らない妙な生き物たちの生物学的および物質的な襲撃から身を守る安全な処置である、と考えていた。彼らはその時だけでなく、過去からずっと何世紀にも亘って浸透されてきていたことを知らなかった。その時IJCに対抗するために必要とされていたことのすべては、日本の島の塁壁が破られる前に、この彼らにとっての巨大な新地域を強化することであった。
そうこうしている間、IJCはうねりながら前進していた。読者は、前出のマッケベディーの『ペンギン現代歴史地図』第3巻の地図8を見て欲しい。この地図は、ローマ法王教令によりブラジルがポルトガルに割譲される1600年までにスペインが新世界において占領した地域を描いている。
この地図は、オランダ、フランス、イギリス、後にはロシアまでが、お互いにどっちつかずで、要求・論争・戦争・植民するようになっていた北米の詳細までは示していない。
バージニア州のジェームスタウンは1607年に英国により建設され、マサチューセッツ居留地は、1620年に英国の清教徒団により作られた。後に米国になった他の居住地は1776年までに総計13を数えるまでになっており、各々は実質的に所有権がほぼ確立していた。オランダはマンハッタン島を僅かな金額で購入しニューヨークを建設した。そして何年か後に、英国との間の多くの戦争と論争の一つを鎮める際に、英国の西インド諸島の一つの島と交換した。後に米国となった西部では、スペインが北方のカナダ方向へと要求を広げていった。
ロシアはまだアラスカには来ていなかった。ロシアは極東を目指して進んでいたが、まだ現ウラジオストックへの途上であり、それは幾多の連続した探検と征服を伴う困難な仕事であった。ロシア皇帝の命を受けたベーリング<7> はアラスカ地域を突き止めたが、ロシアの所有権という観点でまともに考慮されるまでには何年もかかった。アラスカ地域の所有が実現してからのロシアは、海岸線を南下して現カリフォルニア州のサンフランシスコ付近に着くまでのすべての土地を要求した。
次に、これらの底流にあるものを再び見てみよう。前出のギルバートの地図9をまた詳しく見て欲しい。
この時代の一連の事件に関して、私には発生時期が奇妙に一致して見える。ヴェネチアと東方との通商が閉鎖されたころに、一人のユダヤ人が、ユダヤであることを秘密したかしなかったかは別にして、全く新しい世界を発見した。
その時スペインの王室は、ユダヤ人たちの富を求めた航海によって浸透、操作されていた。そしてスペインはそのユダヤ人たちを放逐したが、ユダヤ人たちは彼らの商業社会に移動しただけであった。そして、その商業社会もヴェニスから、スペインが支配しているジブラルタル海峡を通過せずとも公海を自由に利用できるオランダに移った。これらすべては、歴史の中のある瞬間に同時に発生したのである。この年代を通してのユダヤ人たちの成功は、世界中の誰の目にも明かな公知の事実であった。
現ニューヨーク州のルーズベルト家は日本では、日露戦争におけるセオドル・ルーズベルト大統領の『調停』と、フランクリン・ルーズベルト大統領の太平洋戦争を通して良く知られている。セオドルの『調停』によってロシアは親切にもポーツマス条約に調印し、戦争は終息をみた。
このルーズベルト家<8> がユダヤ人であることはあまり知られておらず、バケツ一杯の歴史修正学派の人々ですら虚であると疑っているが、彼らのオランダのユダヤ人からの家長血統はしっかりと文書化されている。彼らの女家長の系譜は良く記述されていないと言うのは真実であろうし、従って彼らのユダヤ人としての純血性は証明されていないと言うのも真実に近いであろう。
しかし私はここで読者に注意を喚起したい。それは、このことはロスチャイルド家の場合と全く同一であろうということである。ルーズベルト家の場合と違うのは、ユダヤ人であることが否定されないばかりか、声高に誇らしげに宣伝されているということである。もし読者が、ロスチャイルド家の場合にも女家長系統を辿って系譜の線引きをしたいと望むなら、彼らがユダヤ人というのは真実でなくなるであろう。しかし、ロスチャイルド家の人々が系譜の線引きをした時、彼らは単に貴族の爵位が欲しかっただけではなく、後に引用するコンスタンス・バターシィ夫人の日記に記述されているような一族特有の目的のために、家長系統による家系に依ったという事実は残っている。
長い話を短く言うと、本章で示されたこれらの二つの地図はこの本の主旨を伝えている。この地図では、イギリスとフランスのどちらが、海外に設立された居留地を支配していたかについては区別していない。お金およびそれからの利益は、戦争から得る利益と同様、同じ懐に入っていった。
この人種は、お金の力とその管理方法について早くから学んでいた。お金は貸付や利用を通して力を発揮するが、彼らはまさにそれを実行していた。彼らはフランス国王の大蔵大臣や会計係を操作することにより、フランス国王を破産させ、フランス革命に導いていった。彼らは苦しい貸付を留保することによってヨーロッパの君主をして彼らの命令を実行せしめた。そして戦争があれば、彼らは当事者の両側に軍需品を売りつけた。
では次では彼らの銀行業務について論じることにしよう。
<5> アメリゴ・ヴェスプッチ:(1451~1512) フロレンスの人。1499年、スペイン人に従って南アメリカに航海し、詳細をヨーロッパに紹介。
<6> 秀真伝(ほつまつたえ):古代日本の真正の歴史と道統を明らかに誌した文書(BC668およびAD126)。全編12万余字の古代文字から成り、その成立の古さ、伝承の深さにおいて、今日に完全な形で残る世界最古の古典と言えよう。歴史書は常に時の権力によって弄ばれる。「秀真伝」もその例外ではなく、仏教伝来、蘇我氏専権のころから受難が始まったと考えられ、ついに道境専横の時代に社会の表面から秘匿されるに至った。その後一千余年して、江戸時代安永年間に惚焉とその姿を現し、「秀真伝」作者である神武朝の大臣櫛甕玉命(くしみかまたのみこと)の遥かな裔孫であるという和仁估容聡(わにこやすとし)および小笠原家により、大正年間まで研究が続けられた。しかしその後再び世に隠れんとしたところ、戦後になって松本善之助氏が奇縁をもってこの書物に出会い、以来鋭意専心研究に打ち込むとともに、散逸した諸本の蒐集に尽力された。同氏の業は、国史の破邪顕正の上からも大書すべき功績であった。五・七調で綴られているその内容は、言葉(日本語)を極めて尊ぶ思想で貫かれ、また現代の四季折々の行事に直結する事柄が数多く記載されている。この文献の後に書かれ、外国文明に大きく影響されて間もないと思われる古事記(AD712)、日本書紀(AD720)よりも、現代の私たちに違和感のない世界が広がっている。その教えるところは崇高で、2700年の時を越えて私たちの心に訴えかけてくる。それはいかにも日本的と感じられるものであり、西欧文明とは明らかに異なる。大和魂を持つ日本人にとって必読の書である。
<7> ベーリング:デンマークの航海者(1681~1741) ロシアのピョートル大帝の命を受けて北太平洋を探検。ベーリング海峡を発見しユーラシアとアメリカが別々の大陸であることを発見。
<8> ルーズベルトの家系:ルーズベルト家の祖先を辿って行くと、17世紀末にオランダにいたユダヤ人、Claes Martenzan van Rosenvelt に行き着くと言われている。このローゼンフェルト家の祖先は、異教徒審問中にスペインから亡命したユダヤ人の一群に属し、ローゼンカンポと称されていた。その後この一群のユダヤ人はヨーロッパ各地に分散した。 彼らは、Rosenberg,Rosenbaum,Rosenbarium,Rosevelt 等々を名乗っていた。
この中のヤコブス・ローズベルトがオランダに移住し、この一家のみが諜者(agent)となるために改宗した。この一家は1649年にオランダからニューアムステルダム(現ニューヨーク)に移住したという。 (『日本人に謝りたい(日新報道)1980』)