国際秘密力22

第22章  マスコミ

         『彼は精錬する者、銀を清める者として座し・・・<6>

 

1444年、可動式の活字からなる印刷機が初めて西洋に渡来した。1400年ごろに生まれ、1468年ごろに死んだドイツ・ファルツのヨハン・グーテンベルクは、私たちの世代も含めて一般の生徒たちには印刷機の『発明者』と信じられている。事実彼は中国の発明を改良し、何世代にも亘ってぎこちなく使用されてきた『木版本や木版画』をすっかり排除した。

私の経験からすれば、この様な中国式印刷機とそのサンプルは、マルコ・ポーロの偵察旅行の後でポーロ兄弟によってヨーロッパに持ち帰られ流布されたと推定される。ともかくこうして、長時間を要し骨の折れる書写が印刷機に置き替わり、安価で容易に思想を広めることが可能となった。修道院で修道士たちが書写したその見事な美しさは別としてであるが。

ここで再びギルバートの地図書に戻って、地図12を引用する。この地図は、ヨーロッパにおいてユダヤ人が所有していた初期の印刷機械と新聞を示している。

この中で1444年のフランス・アヴィニョン印刷機は特に興味深い。その年は印刷機が発明されたとされている年であり、また、教皇権がローマから逃れてアヴィニョンに再来した年のすぐ後である。この地図を良くご覧頂きたい。その後でまた話に戻ることにしよう。

地図 12 ユダヤ人所有の印刷機械と新聞社(1441~1860年

手組み活字方式は19世紀にライノタイプ(行鋳植組版)方式が発明されるまで、何世紀も続いた。ライノタイプにより、本、新聞、パンフレット、そして雑誌等のコストは大幅に削減された。各々異なる視点を持つ経営者たちが所有していた、あらゆるタイプの定期刊行物の間で猛烈な競争が行われ、それに伴って印刷業界における支配者たちが浮上してきた。

またロイターがナポレオン戦争の中をくぐり抜けて、当時すでにニュース・サービス業を開設していた。ロイターはニュースを伝書鳩で運び、早馬の背に乗ってニュースを運んでいた急使たちを打ち負かした。彼らも早かったが、鳥にはかなわなかった。これはロスチャイルドの銀行業務における情報通信手段を習ったものであった。

19世紀の半ばまでに、世界中の都市にまたがる文字通り数百の大型定期刊行物が発刊された。こうして報道界はこれまでに無く自由に活動を始めたのであった。

国家利益のために検閲はあったが、余り意味を持たなかった。例えばドイツで検閲により出版できない場合、隣のフランスに行くと、ニュース性があると判断されれば簡単に出版が許可されるといった具合であった。米国においては出版の自由があり、文書による中傷や虚偽宣伝に関する法律は大英帝国のそれよりもずっと緩いものであった。また、人類の思想に関するある主題についての編集や、過去の事実の記録である歴史の書き換えについて、世界的に管理するということは無かった。

19世紀には多くの発明がなされた。本書ですでに顔を見せていた電信、それに加えて『蓄音機』、電話、エジソンのキネスコープ式の映画、さらに世紀末までにはラジオが発明された。ここに驚嘆すべきほどの商売の機会と共に、人間の心を操作する新しい武力、新しい権力が生まれた。ユダヤ人のアドルフ・オクス*は南北戦争のころにニューヨーク・タイムズ紙を獲得し、それによって彼は、そして後にはその家族も、メディア帝国を築いた。
*アドルフ・サイモン・オックス(Adolph Simon Ochs、1858~1935)は、アメリカ合衆国の新聞発行人であり、『ニューヨーク・タイムズ』紙などのオーナーであった。
オックスはオハイオ州シンシナティのドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれた。両親ともにドイツからの移民だった。父のユリウス(Julius)はバイエルンの出身で、1846年に渡米した。ユリウスは高度な教育を受け、6つの言語に堪能であり、南部各地の学校で教師をしていた。南北戦争中は北軍を支持していた。母のベルタ(Bertha、旧姓レビ(Levy))はプファルツ地方の出身で、1848年革命の際に難民として渡米した。1853年にユリウスと結婚するまではアメリカ南部に住んでおり、南北戦争では南部に同情的だった。しかし、考え方の違いはあっても2人が離婚することはなかった。(wikiより)

偶然の一致であることは確かなのであるが、世界中の殆どの国において、あらゆる新しい発明に関する特許と権利が、殆どすべてと言って良いほどユダヤ人の発明家たちの手中に落ちてしまった。そして1920年代遅くまでには、最後の大きな日刊新聞紙が、拡張用融資を通してユダヤ人たちの集団によって所有または支配されるに至った。

『映画』は近所の『5セント劇場』として始まっていたが、その映画の制作と上映を演出し支配することによって合法的に金を儲けられることを見つけたのもまた彼らの集団であった。1920年代遅く『トーキー(発声映画)』の時代が訪れるまでに、彼らの集団は完璧な世界的映画システムを支配下に置いていた。

当然ながらそれは利益のためであったが、それ自体は何も悪いことではなく、賞賛に値することであった。しかし、彼らはその利益を作る能力を発揮するのと並行して、不文律の道徳的義務をあらゆる面で負うべきである、ということがまさしく正確に露呈してきた。すなわち、ある目的のための宣伝をしたり、また名前を英国風に変えた純粋なユダヤ人役者を使って大衆を愚弄したりすべきではなかったのである。

推定ではあるが、当時の映画の監督の優に90%はユダヤ人であったことを付け加えておきたい。その90%に入っていない人物が彼らの命令に従わなかった時、どれだけ持ちこたえられるか、読者には想像できることと思う。

電信およびラジオも映画等と同様であったが、特に米国では早々と彼らの支配下に落ちた。現在では全世界で支配されてしまったが、第二次世界大戦が終了するまではその支配は完全ではなかった。

思惑や悪意があって紹介する訳ではないが、次の逸話は興味深い。『タイタニック号』が沈んだ当時、ニューヨークの大衆にはまだラジオは受け入れられておらず、また、ワナメーカーズ**という百貨店を経営していたユダヤ人が、新商品の実演を手助けさせるためにデイヴィッド・サーノフ<7> という名の若いユダヤ人を雇っていた。
**ジョン・ワナメーカー(John Wanamaker、1838~1922)はペンシルバニア州フィラデルフィア出身の百貨店経営者、宗教指導者、政治家。「マーケティングにおける先駆者」ともいわれる。アメリカで郵政長官も務めた。ワナメーカーはのちに南フィラデルフィア地区として知られるようになる地方の合併されていない地域で1838年7月11日に生まれた。1861年、ワナメーカーは兄弟のN・ブラウンと協力して、フィラデルフィアジョージ・ワシントン邸宅横に彼の最初の紳士物衣料店ブラウン・ワナメーカー商会を開いた。店の名前は「オークホール」と呼ばれた。彼は「1つの価格と返品可能な商品」という新しい商売方法で店を発展させ、1869年に2号店をオープンさせた。その後、1875年にワナメーカーは使われていない鉄道車庫を購入し、「グランドデポー」と呼ばれるデパートを建設した。この「グランドデポット」は1つの敷地内に各種専門店を集めたフィラデルフィアにおける最初の百貨店といわれている。1860年にワナメーカーはメアリー・エリンジャー・ブラウン(Mary Erringer Brown)と結婚して6人の子を得たが、うち2人は幼少期に死亡している。また熱心なキリスト教徒(クリプトユダヤ? 燈照隅註)であり、フィラデルフィアYMCAの発展に大きく寄与した。ワナメーカーは1896年にニューヨークに百貨店を出店させた。またヨーロッパのワナメーカー家と協力してロンドンとパリにも出店し、海外でビジネスを拡大させた。(wikiより)

タイタニック号の事故が起きて手助けの指示が出ると、サーノフは粗末なラジオを携えてその百貨店の屋上に登った。新聞、政府そして船会社が、嘘や誤った状報を流すか、または事故の事実を無視していた中で、大衆が知り得た信頼のおける情報はサーノフのものだけであった。彼は船舶と陸地間、および船舶間の通信を傍受してその情報を知ったのであった。

その経験から彼はナショナル放送会社(National Broadcasting Company)と米国ラジオ会社(Radio Corporation of America)を設立した。それは今日、NBCとRCAの名で良く知られている。1930年代に競争を作り出す必要が生じた時、彼はNBCのいくつかの放送局をREDとBLUEの二つの放送網に分割した。後にその一つは相互放送会社(Mutual Broadcasting Company)とあだ名を付けられ、何も知らない騙され易い大衆は、本当の競争が生み出されていると軽率にも無邪気に確信し続けた。

彼はエレノア・ルーズベルト<8> の後継者の一人であり、1930年代の大不況の時に、ラジオの気のおけない小さなインタビュー番組の中で彼女を紹介した。

(エレノアの結婚前の姓がルーズベルトであったことを思い出して欲しい。彼女はセオドル・ルーズベルトの姪であった。私たちは国際連合に関する章の処で、彼女を詳しく取り扱うことにしよう。

その国際連合で、彼女は『人権宣言』の1948年版草案を準備したのであるが、彼女はそれを世界のための大憲章(the MAGNA CARTA FOR THE WORLD)と呼んでいた。

サーノフについては後日談がある。第二次世界大戦中に彼は将軍の地位を得て、この戦争の宣伝活動において幅広い役割を演じた。それ以降彼は、自分への宛名には『サーノフ将軍』と書くよう強要したのであった。

  ラジオの放送網に関して進行していたことは、民間経営が可能な世界の他の放送網においても進行中であった。そして民間経営が不可能なところでは、IJCによる政府への後援が鍵であった。

私たちはその例を日本のNHKに見ることができる。NHKでは最初の『訓練』が1950年代から1960年代にかけてイタリアで行われた。そしてテレビの登場とともに、番組の制作に外人が起用され、1995年の今日、NHKはIJCに合うように歴史を書き換える作業を行っている。

私たちは一足飛びに現代まで来てしまったが、過去の事実が示すようにテレビはラジオと同じ道を歩み、世界にまたがるこのゲームへの新規参入は許されなかった。それはまさしく、日本のNHKの歴史そのものであった。IJCはNHKというくさび石を通して、日本の国会を管理してきたのである。

雑誌類は新聞と同じ道を歩み、今日では巨大な世界的連鎖を形成して、IJCのために鍵を握っている、と私は強く確信している。これらの代表例としては、ラッパート・マードックが所有権を握っている、マルチメディアを駆使する企業集団がある。ニューヨーク・タイムズ紙はIJCの王冠の中の宝の地位を維持しており、疑いなく、世界中の意思決定を行う人たちに最も影響力が強く、その人たちに最も『尊重』されている新聞である。但しその意思決定を行う人たちとは、ニューヨーク・タイムズ紙の欄間から毎日忠告を貰うべきことを知っている人々か、または真相を知らない人々である。『ジャパン・タイムズ紙』は今や、ニューヨーク・タイムズ紙の東洋における鏡に過ぎない。

世界中の書籍・雑誌類の出版社についてはその数が非常に多いため、IJCにとってその支配権を獲得するにはより長い期間が必要であった。この支配は日刊新聞紙の支配よりも遥かに重要であるが、1950年代にはほぼ完全に手中に治められた。それがいかに重要な事であるかは、プロトコルに関する章と米国での出版活動に関する本章を通して十分に示されてきた。唯一頼らざるを得ない書籍類がIJCの見解のために書かれていたり、またその著者がその経歴から判断して彼らの手先でしかあり得ないといった状況が起こってくると、その支配は一層重みを増してくる。

バーバラ・タッチマン*女史が良い例である。彼女の結婚前の名前はワルトハイムであり、1912年にニューヨーク市の裕福なユダヤ銀行家一族の家に生まれた。彼女はハーバード大学の姉妹校であるラドクリフ大学を文学士として卒業した。両校は共にマサチューセッツ州ケンブリッジにある。彼女は、共和国軍アブラハム・リンカーン旅団(Republican Army Abraham Lincoln Brigade)に所属するアメリ義勇軍(American Volunteers )<9> に参加しつつ、共産主義者またはボルシェビキ主義者の視点からスペイン内乱<10> を研究した。それらの活動を通して彼女はユダヤ人の医者であるレスター・R・タッチマン*と結婚し、そして子育てを終えてから成功作家としての道を歩み出した。
*Tachman タックマン

彼女は本当の事実を掴んだ上で、IJCが世界をそう信じさせたいと思っている方向に沿って偏見を加えた、と私は信じている。彼女の作品はすべて、多くの事実を散りばめていかにも歴史書であるかの様に見せかけたものであった。

彼女は最後にはラドクリフ大学の理事にまでなり、またピューリッツァ賞を二度も授賞した。最初は1963年に前出の『8月の銃声(Guns Of August)』で、そして二度目は1970年に『中国におけるスティルウェルと米国の経験(Stillwell And The American  Experience In China)』によってであった。 

読者はルシタニア号事件に関する事実を見てこられたが、それに反するものとして、1994年にバラードと名乗る人物が、ナショナル・ジオグラフィック・マガジン誌に写真を添えた解説記事を書いている。この記事はすべての関連記事を極めて丹念に読んだ結果だとして、本来『芸術家の演出』というべきものを、軍需品が積載されていなかった証拠として示している。

私はここで、ナショナル・ジオグラフィック・マガジン誌のような敬意を払われているであろう出版物が、IJCへの攻撃が行われそうな時には背信行為を示す証拠として、この中の絵を証拠Fとして添付しておく。

証拠 F ルシタニア号に関するナショナル・ジオグラフィック・マガジンの
解説記事(1994年)

 

 

            爆発の徴候なし

 

 

我々の小さなロボット、ホーマー号 --- 音響式距離測定装置により作成された格子状の海底地図により誘導されている --- は、下側になっている一部を含めてルシタニア号の船首部分を調査した。

我々は、U20の魚雷が積荷船倉(図中、破線で示された部分)内部での爆発を引き起こしたのではないかという疑いについて、何の証拠も発見できなかった。この調査結果により、この定期船の沈没理由に関する一つの説が危うくなっている。

昨年(1993)の7月、私たちがルシタニア号を最初に見た時、それは豪華な定期船というより、廃品置き場のようであった。

最初に船首を水深 295フィートの海中に突っ込み、全長 785フィートの船体を海底に強く打ち付けた。その時、船尾はまだ海面上にあった。衝突の衝撃により船首がつぶれ、続いて船体中央部に亀裂が走った。右舷側に崩れ落ちた後、甲板が崩壊し、残骸が海底に投げ出された。

キンセイルの古岬(0ld Head of Kinsale、上図)に立つ燈台の南方 13マイルの地点で、かぎ裂きとなった漁網の残りに包まれて、ルシタニア号は横たわっている。強い潮の流れと濁った水が、我々の3隻の水中船の行く手を阻む。

この絵の中で、ジェイソン号はルシタニアの名前の写真を撮っている。一方、海洋学協会支部(Harbor Branch Oceanographic Institution) の小さなロボット、ホーマー号は船体の下で検視を続けており、またデルタ海洋学調査会社(Delta Oceanographics)の黄色の潜水船デルタ号は船体中央部の亀裂を調査している。

定期船の巨大な煙突はずっと以前に錆と化し、救命ボートは朽ち果て、そして船に残された人々は海の生物たちによって食い尽くされていた。

ルシタニア号への攻撃前48時間以内に、ドイツの潜水艦U20はアイルランド南海岸沖で3隻の船を沈没させていた。ターナー船長は英国海軍本部から無線で警告を受け取っていたにもかかわらず、少し用心しただけで現場海域に近付いて行った。キュナード汽船会社が指示していたとおりに、燃料節約のためにルシタニア号は4台のボイラーのうち、3台しか使用していなかった。攻撃された時、ルシタニア号の船速はたった18ノットであった。

 

 

私はこの協会誌はIJCが所有していると信じている。なお、この絵の中のルシタニア号はまだ損傷を受けていない時のものである。この記事はシンプソンによってすでに公表されている話を隠し、あたかも新しい知見を始めて提供するが如くに記述しており、公正を欠いている。ここでの問題点は、シンプソンの本がごく一部にしか流布されていないために、殆どの人が情報を与えられておらず、その一方でこの協会誌は科学的発見と学術的研究の端緒を開いたとして再認識され敬意を払われるということである。

米国のすべての学校の生徒は、低学年の始めからこの様なことを絶対的真実として教えられるのである。米国東部の大学、特に『アイビー・リーグの大学』に代表される学術的機関においては、この百年間を通してIJCのメンバーおよびその手先たちによって、徐々にゆっくりとその理事会が支配されてきたのであった。早い時期に、J.P.モルガンがこの事を暗に警告していたにも拘らず!

さらなる証明のために、シンプソンの本のルシタニア号への積載時における積荷の分配に関する章の主要部分を、『証拠G』として添付しておく。この積荷目録の証拠には何点かの重複があるが、私はこの記録が正確で充実したものであって欲しいと思っている。

特にIJCによる意図的な歴史の歪曲が行われてきている状況下では、読者がその証拠の完全性を要求するのは当然である。IJCは『ナショナル・ジオグラフィック・マガジン誌』のような手口を通して歴史の歪曲をずっと行ってきていると、私は信じている。

証拠 G-1 英国汽船『ルシタニア号』の船荷(一部抜粋)

 

証拠 G-2 船頭部分の積荷図

出版業界が世界中の出来事を隠蔽することにいかに使われてきたか、ということの最も良い例は、真珠湾攻撃を扱った『夜明けに我々は眠っていた(At Dawn We Slept)』の著者ゴードン・プランジの件である。

第二次世界大戦終了後、彼は占領軍総司令部(GHQ)の歴史部門に参加し、終戦後すぐに、戦時中の日本の指導者の大部分を知り得た。その時代の日本は国家にとっても、かっての指導者たちにとっても、あらゆる意味で窮乏と荒廃の極にあった。プランジは諜報員、またはリーダース・ダイジェスト誌の駐在員として日本に帰って来た。

リーダース・ダイジェスト誌は、ナショナル・ジオグラフィック・マガジン誌のような学究的なものではないが、米国で人気があり信用されている雑誌である。彼は、かっての日本の指導者たちから可能な限りの国内外版権をことごとく僅かな金で買い取り、その版権の上に居座ったまま何等の出版もせずに死を迎えたのであった。

リーダース・ダイジェスト誌はこの本が出版される今日でもその版権の上に居座っており、永久に、または法的に保護されている限り、彼らはその上に居座り続けるに違いない。そうしているうちに、それらの本は役に立たなくなるか、疑わしいものとなってしまうであろう。

私から見ればこのやり口は法律の新奇な使用法であり、私はこれを表現する新語を作った。その言葉は、『プランジする(PRANGED/悪戯)』<11>である。プランジが実行したこの方法については、私が持っている彼の本の中の、ペーパーバック位の厚さの本の付録に彼が記述しているのを見た以外、記憶が無い。

メディアに関してはこの位にして、次章では教育もまたいかに影響を受けているかについて、議論を深めたい。毎年ピューリッツァ賞委員会から一連の賞が授与されるが、この賞はジョセフ・ピューリッツァのために設立された基金に由来している。ピューリッツァは1847年生まれのハンガリーユダヤ人であり、1911年にセントルイス・ポスト・ディスパッチ新聞社の経営者として死んだ。彼はニューヨーク・タイムズ紙のオクスと同様、この業界の草分けの一人である。

報道関係での『卓越した業績』に授与されるこの賞と似たものとして、この分野では、映画の『オスカー賞』、テレビの『エミー賞』、レコードの『グラミー賞』等々々、吐き気を催すほど様々な賞がある。これらは、すでに見られたノーベル基金ノーベル賞と全く同様のものである。

有益なるものの規準を考えるとすれば、その大きな要素として、少なくとも賞を授与されていないことが挙げられるであろう、と私は言いたい。セオドア・ルーズベルトの突撃の新聞報告の例で言えば、邪悪の丘と名付けて賞を逃がすことである。

本章で言及すべき最後の点は広告に関することである。すべてのメディアは狂乱状態に追いやられ、今日大衆に直結するあらゆる人は、役者であろうと、政治家であろうと、また福音伝道者であろうと、一つの『イメージ』を持たなければならない。それは、大衆がその人物を見て気に入るものでさえあれば、実体を本当に映し出していようといまいと、どうでも良いのである。それは人でも、物でも、製品でも同じことである。売り込みの時に使用される言葉は『知名度(Publicity)』 であり、それは好評の場合も不評の場合もある。

ドイツのゲッペルス宣伝相は宣伝に関しては素人であった。フランクリンとエレノアのルーズベルト夫妻は、チャーチルと同様、この道の名人であった。一方、マッカーサーは、部下の情報局長ウィロビーと同様、第二次世界大戦中とGHQとして日本を占領していた時代においてのみ、非常に好評であった。

(コートニー・ホイットニー<12> は、日本において彼の下で民政局長を勤めたが、彼については別の機会に書きたいと思っている)

アイゼンハワー第二次世界大戦前のフィリピン戦役において、ダクラス・マッカーサー将軍の下で参謀長として従事したが、彼がその時の任務について言った言葉を、私は決して忘れないであろう。

『私はマッカーサーの下で3年間、演出法を学んだ』

 

【訳注】

 <6>  旧約聖書 マラキ書3.3より

 <7>  デイヴィッド・サーノフ:ロシア系ユダヤ人。通信機メーカーRCAとその子会社であるNBC放送の経営者。元英国情報機関員。
彼は英国サセックス大学のタヴィストック研究所(世界最大の洗脳施設)の番犬的な存在であり、タヴィストック研究所が設立したスタンフォード研究所(SRI:世界最大の軍事シンクタンク)の社会政策研究センター所長・ウィリス・ハーモン教授のチームと25年以上密接な関係を保っていたと言われている。
また、サーモンは、クーン・ロエブ社や他のロスチャイルド関連の金融機関から資金援助を得ていた。外交問題評議会(CFR)会員でもある。(『三百人委員会徳間書店)1994』他)

 <8>  エレノア・ルーズベルトフランクリン・ルーズベルト大統領夫人。国連において活動し、国際主義・社会主義共産主義的企みを強力に支援した。

 <9>  アメリ義勇軍:1896年、Ballington Booth夫妻が救世軍を辞して組織した、救世軍類似の宗教的社会事業団体。

 <10>  スペイン内乱(Spain Civil War) :(1936~1939)1931年4月、都市部での群衆の蜂起を機に革命委員会が権力を奪取し、第二共和政を施行。国王アルフォンソ十三世はフランスに亡命。共和制施行後、修道院焼き討ち、ゼネスト、農村騒擾などが相次ぐ。1936年9月、フランシスコ・フランコ将軍を中心とする軍部がクーデターを起こし、その後内乱状態となる。1939年4月、ドイツとイタリアの支援を受けたフランコ側の勝利で内乱終結
一般的歴史書ではフランコ将軍はファシスト的独裁者として描かれている。

 <11>  プランジする(Pranged):ゴードン・プランジの名前(Prange)とprank(悪ふざけ)を掛けた言葉。

 <12>  コートニー・ホイットニー(Courtney Whitney):GHQの民政局長(准將)。共産主義的戦後改革を直接の手足となって推進したグループの中心的人物と言われている。ケーディスらとともに、日本国憲法の作成および教育勅語の抹殺などに従事した。