国際秘密力24

第24章  第二次世界大戦到来

             『神に逆らう者の道は闇に閉ざされ・・・<1>

  

1920年代の数年に亘る外国干渉を経て、ロシアは今やソ連と呼ばれるようになったが、この1920年代を締めくくる事件が、ソ連において起こった。レーニンが死に、ジョセフ・スターリンが権力を掌握したのである。スターリンの登場は、IJCにとってはたいへんな驚きであった。私は文書の形で提出すべき何の証拠も持っておらず、また他の人が同じ考えを表明したのを聞いたことも無いが、スターリンは反ユダヤかつ反IJCであったと強く確信している。

私が持っている一つの証拠は、1930年代中ごろにスターリンが、あたかもロシア皇帝(ツァー)の時代のようにユダヤ人たちの虐殺を開始し、IJC要員で軍上層部を汚染していると思われる人物を大量に粛清したことである。

もう一つの証拠は、レーニン統治時代のソ連では西洋のIJC側各団体が利権を求めて徘徊していたのに対し、スターリンが権力を握っている間は彼らは諦めて利権を求めようとはしなかった、という事実である。

最後の証拠はスターリンの毒殺であり、この事件はゴルバチョフエリツィンにまで続く継承権を介して、ロシアをIJCに贈呈する結果となった<2>

スターリンがアーマンド・ハマー*(Armand Hammer) などの人物を介して、IJCと公然とした商売上の連携を保持していたのは本当である。ハマー自身が名声を得たのはオクシデンタル石油会社によってであったが、彼の父はロシア系ユダヤ人で、1900年ごろに米国に社会労働党を創立した人物であった。

*アーマンド・ハマー(Armand Hammer、1898~1990)はアメリカの大富豪で1957年から晩年まで石油会社オクシデンタルを経営し、美術品収集家、社会事業家、親ロシアの財界人である。ドクター・ハマーの愛称で知られた。ニューヨーク州マンハッタンのロシア系ユダヤ人の家に生まれ、父ジュリアス・ハマーは熱烈な共産主義者で、アメリ共産党の元となった社会主義労働党 (SLP) の創設者である。1924年コロンビア大学の医学部を卒業し、医師の資格を持つ事から、以降「ドクター・ハマー」と呼ばれるようになる。

その父は、ハンマー(hammer)を握った腕を党のシンボルマークにした。このマークは、登録商標としてハマーの重曹製品の入った箱にも付けられた。また、彼の息子が生まれた時、息子はアーム・アンド・ハマー(Arm And Hammer)と名付けられた。非IJCの専門家たちは、米国の社会労働党は当時もそして党が存在する限り、レーニン配下のボルシェビキ支部であると考えていたことを付け加えておきたい。

本書の範囲を越えて先に飛んでしまうのだが、私はまた、毛沢東版の共産主義は過去、そして現在でも引き続き反IJCの仕掛けとして使われていると信じている。周恩来がIJCを理解していたかどうかは定かではないが、もし国を清めようとするならすべての外国人を排除する必要があったことを、彼は間違いなく理解していた。そしてそれは実行された。問題は、現在の彼らは入り口の扉のすぐ後に立っており、速やかに歩調を変えて自分たちの前進を抑えないと、IJCに侵入され支配されるのは確実だということである。

メキシコでは1910年に、IJCとその配下の会社をポルフィリオ・ディアス大統領とともに国外退去させる活動が始まり、1930年代までにそれは達成された。1930年代の初めにはラサロ・カルデナス大統領の下で、真のメキシコに向けての最大の進展が図られた。しかしIJCは、1928年のポ-テス・ギル大統領選出の時から少しずつ再侵入を開始していた。そして1946年、ミゲル・アレマンの大統領就任によりすべては完全にIJCの手中に戻ってしまった。

1995年の今日、メキシコでは反IJCグループの復活が見受けられるが、彼ら『反逆人たち』に対する支援・補給は現在殆ど無く、その成果は不確かである。彼らは、モレロス州からの自主独立における英雄であったエミリアーノ・サパタ<3> にちなんでサパタ主義者と名乗っている。サパタは殆ど完全な文盲で、権力取得時には自分の内閣に翻弄されていた。彼らの乏しい財政状態と補給状況は殆ど改善の兆しが見えていないと、私は感じている。政府にとって彼らを鎮圧するのは容易であろうが、確かではない。

1929年は、10月のウォール街株式市場大暴落に端を発して、世界が甚大な影響を被った年であった。それは株の『信用取引』の極端な不振から始まり、その結果として株価の下落が一旦発生すると、株価は下値の底が割れた状態となった。そして米国に続いて世界中が金融大恐慌に突入して行った。私はこの暴落について、IJCが仕組んだものかどうかの考察はしないでおこう。但し、IJCの関係者たちは株価大暴落の前に自株を売り払い、続いて起こった大恐慌でも彼らとしては何の問題も生じなかったことだけは述べておく。

この議論に反対する説明として、抜け目のない投資家なら誰でもその大暴落の到来を見通して防衛上株を売ることはできたはずであり、いやしくもIJCの関係者たちは抜け目がない投資家たちであった、というのはたいへんもっともらしくはあるが。1933年までの米国銀行破産の最中に、彼らが苦境に陥らないようにいかに処置したかはまた別の話である。これについて私はまだ調査していないが、十分研究に値することであろう。

大恐慌、反ユダヤ的人々のベルサイユ条約に対する憎悪、そして全ユダヤ人によるワイマール憲法への署名の結果として、ドイツにおいてヒトラーが権力の座に登場した。彼は国家を武装化し、戦争の準備をした。

ヒトラーが実行したもう一つの事は、ドイツ全土の大学でユダヤ人たち、そして私がIJCと呼んでいるものについて強烈な研究を始めたことであった。このことについて、私はまだ最終的な見解を持てないでいる。第二次世界大戦が終了した時、連合国側の軍隊はこれらの場所を訪れすべての書類を押収した。それらは秘密裏に分類され、そして米国軍隊の監視下でベルリン市内に保管され、学者を始めとして誰も利用できない状態に置かれた。今日東西ドイツは再統合し、占領していたすべての外国の軍隊は退去させられたと考えられている。

ここにおいて、私を悩ましているのは次の問題である。ヒトラー時代のユダヤ研究に関する文書類はどうなったのか? 

1932年の選挙と1933年の大統領就任に伴い、フランクリン・ルーズベルトは米国の大恐慌に対して過酷な治療法を開始した。政府は生活のあらゆる領域に押し入り、その活動や管理はことごとく猛烈なものであった。それは今日に至るまで続くある世情の始まりであった。

今日におけるその世情を象徴するような逸話を紹介しておきたい。1995年の2月、新しく下院議長となった共和党ニュート・ギングリッチは、フランクリン・ルーズベルトに似たタイプの現職の民主党女性議員を指して、『フェティッシュを支配している<4> 』と言ったのである。私も私の友人も、これはサド・マゾ的な異常性愛を意味する言葉として使われたものだと理解した。ギングリッチはこの女性議員を同性愛者であると思っていて、おそらくそのことを彼女に暗示したかったのである。

フランクリン・ルーズベルトは今日描かれているほど人気があったわけでは決してなかった。1936年の選挙の前には、ルイジアナ州出身の上院議員を大統領に選出するための活動が始められていた。その名前はヒュ-・ピアス・ロング。1893年ルイジアナ州ウィンフィールドに生まれ、人民党員として立ち上がってきた。彼は貧民層にとって期待のすべてであった。彼は、同じ州の牢固とした政治家たち、および電力会社、石油会社、保険業界などのIJC関連事業に対抗し、多くの敵を作りながら活動を進めていた。

彼が作った敵の一人はルーズベルトであり、米国人の多くは、州会議事堂で起きたロングの暗殺事件はルーズベルトに責任があると考えていた。この建物は1935年、当時州知事をしていたロングがルイジアナ州バトン・ルージュに建てたものであった。ロングは一人の狙撃者に攻撃されたのだが、彼の身体から出てきた弾丸は彼のボディーガードの一人が所有していたものであった、と多くの情報源は語っている。偶然であろうか? 私はそうは思わない。

ヒュ-・ロングは大統領選挙に勝利する真の好機を作り出し、特に第三党による指名を確実なものとしていた。彼が作り上げたその党は、米国中に散在するクラブ的性格のもので、各々の地方で『我々の富を共有化する団体(Share Our Wealth Society)』の名で呼ばれていた。彼は、米国の99%の富は1%の人々の手中にあることを正しく明言していた。その事は、当時のドイツとイタリアと同様に、国民社会主義への力強い議論を盛り上げていた。

ここで読者には、英国にエドワード八世がいたことを思い出して頂きたい。彼は英国皇太子として、非常に早くから国王としての職務に就いていたことで良く知られている。彼は強い反IJC派であると見なされていたが、彼の退位もまた1936年に起こったのであった。それはチャーチルがある事件に関して国王に忠告した結果であった。その事件は、君主および国教会の教主としては確かに醜聞的なものではあったが、それはIJCの計略に違いなかった。

これを見て私は、後鳥羽上皇および流罪にされた後醍醐天皇の時代の日本を考えざるを得ない。国王も天皇もともにその帝位を奪取されたのだが、日本の場合は両天皇とも醜聞のかけらも無かった。英国と日本では、血筋、規範、道徳心が異なっていた。

読者にはまた、戦争のごく初期にエドワード八世を王位に復活させようという、ドイツの計画があり、彼は1939年遅くまたは1940年に会見と会議のためにスペインに出向きさえしたことを思い出して頂きたい。その様な兆しが見えたため、英国は彼をスペインから追い出した。そして、すでに彼をウィンザー公爵としていた彼らは、彼をバハマ諸島の統治者に任命して追い払った。邪魔にならず、旅行もできないようにして、実質的な自宅監禁状態に置いたのである。

本題から少し脱線してこれらの細かい事件を話している今が、ケネディ大統領の暗殺についてお話する良い機会かも知れない。『銃殺執行部隊』によるケネディ暗殺事件は、おそらくIJCの狡猾な仕業であろうと私は信じている。彼、および彼の父ジョセフ・P・ケネディの多くの反IJC的考え方、発言、行動が原因であろう。1937年から1940年11月まで米国の英国大使を勤めた彼の父は、ルーズベルトチャーチルから、ヒトラー賛成派、または少なくとも親ファシスト派と見られていた。後に暗殺されたボビー・ケネディ**、およびケネディ家の人々もそのように考えていたと信じられている。
**ロバート・ケネディ上院議員のこと

私はさらに、IJCはロックフェラー家と同様に、ケネディ家にある任務を割り付け、今日ケネディ家全員はその任務に就いたと信じている。両家とも生き続けるために服従を強いられたのである。

ある時間帯だけ消去された『ニクソンウォーターゲート・テープ』については、IJCとケネディ暗殺との関係を論議していたことを隠すために、ニクソンと彼の部下がテープを消したということが、長い間噂されている。ニクソンは、このテープを公表して彼自身の殺害に立ち会うより、テープを消去して辞職する方を選んだと私は思う。

この『ニューディール政策』は政府による仕事を与えることにより、大恐慌の最悪の被害を緩和することにはなったが、それはヒトラーがヨーロッパに戦争を起こすまでは続かなかった。米国の大恐慌を終息させ始めたのは、実はこの戦争であった。兵器関係の注文が続々と流れ込んできたからである。

英国海軍大臣に再び就任したチャーチルが、戦争事態に供えて艦隊を注文した後で実質最初に行ったことは、ウィリアム・スティブンソン<5> という一人の諜報員をニューヨークに送り込むことであった。チャーチルが英国で指導力を発揮し、またスティブンソンが活動していた時、米国は圧倒的な孤立主義者で、『ヨーロッパの紛糾に関与せず』を願っていたことを、チャーチルは知っていた。建国の父たちの時代より、米国の歴史の中ではこの言葉が何度となく使われてきたのである。

英国のための諜報機関の長としてスティブンソンの重要な任務は、米国を参戦させることであった。スティブンソンと、CIAの前身を指導していたドノバンとの関係は良く知られているが、1940年6月の早い時期に彼がルーズベルトと会っていたことはそれほど知られていない。

以下は私の論点である。

(1)スティブンソンの働きにより、チャーチルルーズベルト第一次世界大戦の時と同様、英国海軍省の秘密電信を利用した直接的な文書連絡を始めた。

(2)元海軍軍人であったルーズベルトが1945年に死ぬまでの全通信文書に記載されたチャーチルの署名は、これまで公開されたものも、今だに秘匿されているものも、確実で直接的な証明書である。それらは、彼らがルシタニア号に関する共謀を首尾良く成し遂げている時代に遡って証明している。

(3)第一次世界大戦においても、チャーチルルーズベルトの協同作業によって、米国は戦争に引きずり込まれた。

(4)かなり以前からであったと私は思っているが、遅くとも1940年6月までにチャーチルルーズベルトは、人間性の法則に反するある手段によって米国を第二次世界大戦に参入させることを計画し、実践した。それはIJCのためであり、またヒトラーに敵対して行われたものであった。IJCに関する知識を持っていたヒトラーは、IJCに関する文献類を徹底して収集したが、このヒトラーこそIJCにとって、約二千年前にユダヤ人たちがローマ人たちの奴隷とされて以来初めての真の脅威であった!。

 

【訳注】

 <1>  旧約聖書 箴言1.19より。

 <2>  スターリンユダヤ
(1)1930年代に入って、スターリンユダヤの関係は風雲急を告げて行った模様である。1932年にスターリンの愛妻、ナジェージュダ・アリルエワが謎の死を遂げ、スターリンはその後カガノビッチ(ユダヤ人)の妹を後妻にした。これはユダヤが仕掛けたものであろうと推測されている。
 また、1934年にスターリンは、「腐敗したコスモポリタンに対する闘争」を宣言。コスモポリタンとは、ユダヤフリーメーソンボルシェビキシオニストユダヤ等を指すと考えられる。
そして同年11月には、スターリンの懐刀で排ユダヤ運動の指導者をしていたキーロフ・レニングラード総督が暗殺された。

(2)1952年1月12日、ハンガリーのブタペストでユダヤの緊急ヨーロッパ・ラビ評議会が開催され、エマニュエル・ラビノヴィッチが重大な演説をした。
その骨子は次の様なものであった。
  ・ユダヤの世界征服計画の全面勝利の日は近い。
  ・5年以内にユダヤ第三次世界大戦を開始。
  ・10年以内にすべてのユダヤ人は王に、そしてすべての非ユダヤ人は奴隷となる。
この演説の秘密記録はスターリンの手元に渡り、激怒したスターリンは直ちにソ連国内でのユダヤの謀略を弾圧する指令を発した。このスターリンの処置により、ユダヤ側の計画は大幅修正を余儀なくされ、特に武力による第三次世界大戦の計画は、「沈黙の兵器(コンピュータ等)による静かなる戦争(Quiet Wars by Silent Weapons)に変更されたという。
  そして1年後の1953年3月、スターリンは何者かに暗殺された。
                                        (『ユダヤの日本占領計画(荒地出版社)1994』他)

  <3>  エミリアーノ・サパタ:(1877(?)~1919) メキシコ革命における農民軍指揮者。モレロス州の小農出身。1911年、ディアス体制打倒を唱えるフランシスコ・マデロの呼びかけに応じて、インディオ農民を率いて蜂起した。ディアスはパリに亡命し、1919年11月マデロが大統領に就任するが、サパタはマデロ政権にも満足せず、徹底した土地改革と共有地(エヒード)復活を要求した。1919年4月カランサ政権により暗殺される。

 <4>  フェティッシュ(Fetish):フェティシスト(拝物性愛者、淫物性愛者)の性欲の対象物。
盲目的崇拝物。呪物。病的執着。

 <5>  サー・ウィリアム・スティーブンソン:英国軍事情報部第6課(MI6)の高級幹部。三百人委員会のメンバー。英国情報部が常駐しているニューヨークのRCAビルを本拠地として暗躍した。
モサドの設立にも深く関与し、1951年に三つの部隊を統合して現在のモサドとし、イスラエルと英国外務省政治部の実行部隊に仕立て上げた。ケネディ暗殺の陰の指揮者とも言われている。      (『三百人委員会徳間書店)1994』)