国際秘密力14

第15章  西方に進む

           『諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。

            あなたたちが喜びの国となるからだと <1>

 

1789年という年はIJCにとって実り多い年であった。フランスでは革命と第一共和制が始まり、北米ではアメリカ合衆国が始動を始めた。権利章典として知られる十箇条の修正条項を付加することにより、合衆国憲法がやっと批准されたのである。それは西部居留地の要求に応じたものであった。彼らは数々の試練や苦しみ、および血によって得た権利を容易に受け渡そうとはしなかった。

十箇条の修正条項は、『大きな兄貴(Big Brother)』(ジョージ・オーウェル<2> が小説『1984年』の中で、圧制的政府に付けた名前)から小さな人を守るのを助けた。『大きな兄貴』は『1984年』の目標日には少し遅れたが、まさに今日優勢になってきた。

私は1995年5月5日にこの本の出版社への準備を終えたが、今日私たちはこれと同じ米国西部の考え方を『市民軍*』の中に見る。この『市民軍』に対し、米国内のメディアはたいそう恐ろしがって報道し批判している。これら『市民軍』の人々の殆どは米国西部出身者であるが、米国憲法に対する権利章典、または十箇条の修正条項の時代に存在したのと同じ考え方を持っている。

*恐らくMilitia 民間軍事組織のことと思われる(燈照隅註)

連邦政府ビルを爆破したオクラホマ市の暴力事件は、専門家たちには驚くには値しない、当然起こるべくして起こった事件である。米国初期の時代にウィスキーに対する課税が初めて導入された時、武装した『ウィスキー暴動』事件に専門家たちが驚かなかったのと同様である。

(おおよそ一世代前に発生したこの事件は、米国史では『ボストン茶会』として知られており、殆どの人はアメリカ独立戦争の始まりと考えている。新たに課税された紅茶を運んでいた英国船がボストン港に停泊していたところ、インディアンを装った居留民たちが船によじ登り、護衛を打ち倒して紅茶を船外に投げ捨てたのであった)

米国の殆どの人はオクラホマでの爆破事件を、1993年の同じ日にテキサス州ワコで起こったブランチ・デビディアン・コンパウンド焼き討ち事件<3> の報復と考えている。私自身はすべての平和的な人々と同様にこの爆破事件を嘆き、法定制度を通してできるだけの法改正を試みている。しかし私はワコでのBDCへの襲撃事件によって引き起こされた激しい憎悪は理解できる。

これは司法省の指示下で、ATF(財務省のアルコール・税金・火器グループ所属の連邦職員)とFBIが実行した一群の家屋に対する包囲攻撃であり、それは約51日間に亘って続いた。この事件は、ATFの攻撃が撃退される中で数人の職員が殺されたことから始まり、FBI主導の強襲において装甲車が発砲することで頂点に達した。意図的か事故かどうかは議論されるにしろ、強風の吹きつのる日のまる一日の攻撃で、およそ75人の人々が全滅させられた。その中の殆どは罪のない婦人や子供たちであった。

先程の『市民軍』の人々にとって、この事件はまさに現実的なものであった。そして私には恐ろしい出来事であった。この強襲行為における本当の犯罪人たちは決して逮捕されることはなく、その中の何人かは昇進したのである。

これらの『市民軍』の人々にとって、この昇進は多数の罪もない婦女子を虐殺した報償と見える。ワコでの死亡者数は、オクラホマ市での死亡者数の約半数で、十分対比し得る多さであり、明らかに報復を狙ったものであった。両事件とも悲惨なものであり、私は、スペクター上院議員主催の委員会が聴聞会において明かりを放つであろうことを願う。そしてさらに重要なことであるが、これらの事件に特有で、エスカレートしつつある暴力によって引き起こされるであろう悲劇と緊張状態が、少しでも減少することを願うばかりである。

クリントン大統領と彼の顧問団は、この問題の深さを直視する選択枝を選ばなかった。これらは単に氷山の一角に過ぎない。それらの氷山は、内国歳入庁(所得税および固定資産税)や住宅都市開発省<4> に対する不満から流れ出て来る。それらについては、『市民軍』よりも『不満分子』の言葉が使われるべきであろう。

4月19日は両悲劇の記念日であるが、1980年代に北西部のモンタナ州のある集団に対するATFの攻撃から始まった、敵対する両者に対する攻撃の日付は意図的に選択されたと私は信じている。私はテレビ報道を録画していなかったので断言はできないが、1980年代に殺人を犯したATF職員は、1995年4月19日に処刑されたと信じている。 

私は日本人の考え方を理解していると自負するつもりはないし、日本の地下トンネルで毒ガスをばらまいた集団についても何も知らない。しかしこの事件に拘り合いのある人々または集団は、米国西部諸州の一人としての私に、ある権力者たちを思い出させる。その権力者たちは、自らを表に出すべき時が来たと感じた時に、自らをそれに適した状態にすることができる力を持っている。

『市民軍』と呼ばれているような米国西部居留地の住民たち、およびトンネル内で毒ガスを散布した連中は、今日の紛争に拘っている連中と同様、高度に訓練された集団ではなかった。西部居留地の住民の大半は読み書きができなかったが、彼らは抜け目がなく、そう簡単には騙されなかった。今日の米国では、彼らは『抜け目のない都会人(Street Smart<5>)』と呼ばれる方が良いのであろう。今日、教育を受けていない米国都市部のゲットーの住民たちもそう呼ばれている。そこには、社会不安や反社会のもう一つの勢力が潜んでいる。

居留民たちの多くがそうであったが、英国に忠実な居留民たちはより高い教育を受けており、より裕福な傾向が強かった。彼らは『トーリー党員(Tories)』と呼ばれていた。それは風変わりな言葉『トーリー党<6> 』から来ており、それは今日、英国政府の一つの党の名前である。彼らの多くは去り、カナダに移住した。また一部は西インド諸島に移り、小数はイギリス諸島の故郷に帰った。

ジョージ・ワシントンは彼の国を導いてきたが、彼自身の奉仕に対しては一ドルの支払いも要求しなかった。彼は『大統領としての必要経費だけを自由に使えること』という条件で承諾していたのである。大陸会議が彼の出費に関する勘定書または請求書を受け取った時、議会はその総額の大きさに衝撃を受け、度を失った。そのため、彼が今度は大統領として『しぶしぶ』勤めることに承諾した時、議会は『出費』規模に関しては拒否し、厳格に切り詰めた給与を彼に与えることにした。それも『出費』に関しては支払わないという条件付きで。

ワシントンは上院の承認を受けて、アレクサンダー・ハミルトンなる人物を彼の財務長官に指名した。

(何人かの人はハミルトンが、ワシントンが英国領西インド諸島に仕事で滞在していた時に、その地で生まれたワシントンの私生児であると主張している。しかし私はこれは疑わしいと思っている。というのは、生誕と旅行の日付が一致するという証拠がなく、またワシントンの崇拝者たちが約3年の差があると主張しているからである。私が知っている限り、これらを論破し私生児説を立証する何ものも提出されていない。ハミルトンは私生児として生まれたというのは、受け入れられた事実である。しかし当時、それは現在よりもありふれたことであった) 

ハミルトンの一般に知られている人生の目的は国立中央銀行を設立することであった。そして、それはIJCが国家経済を支配する時に最初に手掛けてきた方法であった。西部の植民者たちはこれを直感的に悟り、米国創立当初においてその設立を防止した。この試みは1830年代のアドリュー・ジャクソン政権の時に、立法化という形で再び行われたが、ジャクソン大統領はこれを否認*した。

*恐らく原文は「VETO」と思われる。つまり、大統領拒否権を行使して立法化を阻止した。

話を先取りすると、リンカーン大統領の暗殺は多くの観点からIJCによると考えられる。IJCは国家負債のために利子付き債権の発行を望んでいた。

リンカーン大統領はこれの立法化を否認し、その数週間後に暗殺された) 

リンカーンの後継者、アンドリュー・ジョンソンは就任するや直ちにこの法案に署名した。1913年の『改善*』政策までは、IJCは国立中央銀行を所有していなかった。その『改善』政策下で、ニューヨーク市連邦準備銀行(Federal Reserve Bank)を実質的な米国の中央銀行とする、米国全土にまたがる幾つかの中央銀行が生み出された。そしてこの後に、ウォール街およびIJCから発せられた一連の財政的『パニック』が続くのである。

*恐らく原文はprogressive policy 或いはProgressivism、進歩主義政策と思われる。(燈照隅註)

話を元に戻そう。ワシントン大統領より二代後の第三代米国大統領、トーマス・ジェファーソンは西部植民者たちの味方をして彼らの票を集めたが、彼もまたIJCの道具であった。ワシントンとハミルトンは例外として、道具である彼らはすべて自分がIJCの道具であることすら知らなかった。ジェファーソンも似たようなものであった。これらの自らを道具とも知らない人々はIJCにより冷酷に酷使された。そしてこのやり方はエジプトにおいて始まったに違いないが、それは読者がこの本を読んでいるまさに今日まで延々と途切れることなく継続している。そしてそれは少なくとも私たちが生きている間は続くであろう。

ジェファーソンの生涯における計画立案と業績を見ると、彼は疑いなく天才であった。彼は歴史の中でより賞賛されるに値する。彼が成し遂げた最大の業績は、ナポレオンのフランスから米国西部を含む地域を購入したことと、メリウェザ・ルイスとジョージ・ロジャース・クラークの両陸軍将校を太平洋までの西部遠征に派遣したこと*であった。彼らは現シアトル付近の海岸を発見し、彼らが横断した豊かな大地の報を持ち帰った。そしてこの壮大な大地に向かって植民者たちの幌馬車隊が進んで行った。読者が映画館やテレビで見た、ハリウッドの西部劇やマカロニウェスタンの中とおおかた同様である。風雨にも休むことなく、また見知らぬ野道の自然の危険に晒されながら彼らは進んだ。

*ルイス・クラーク探検隊(英語名:Lewis and Clark Expedition)は、アメリカ陸軍大尉メリウェザー・ルイスと少尉ウィリアム・クラークによって率いられ、太平洋へ陸路での探検をして帰還した白人アメリカ人で最初の探検隊である。探検隊は発見隊(英語名:Corps of Discovery)としても知られる。(wikiより)

ここで特筆すべきは、コロンブスの直後からスペイン人たちにより続けられてきたのと同様の住民の置換、がまた一つなされたことである。それもより多くの大量虐殺を伴って。

この大量虐殺はマサチューセッツバージニア居留地から始まり、北米において約200年間進行していた。そして今、アメリカインディアンたちは、これら北米地域において殆ど絶滅してしまった。大草原のインディアンたちにとって今度は、避けようとしていた『文明』と真っ向から衝突する時が訪れた。

1812年の英国の上陸とワシントン市の焼き討ち*は時代の流れに殆ど小波も立てなかった。そして1814年に平和条約が結ばれた後のニューオーリンズでの戦闘は、アンドリュー・ジャクソンを政治的に急速に盛り立てただけであった。彼は大統領に押し立てられ、前に記述したように国立銀行の設立を阻んだ。

*日本人は殆ど知らないと思われるが、米国は独立戦争に続いて英米戦争(1812~1815)を戦い、その中で首都ワシントンを英海軍に急襲され、焼討に遭っている。

300年ばかり逆戻りしてみよう。スペイン人たちが黄金と伝説に聞く都市シボロ、クイベラを捜し求めてメキシコから北部への探検を行ったことを、私たちは知っている。この様な伝説的な都市は、インディアンたちが自分たちの土地から異邦人を追い出していたころには、アメリカの至る所に同じようにあるいは異なった形で存在していた。スペイン人たちがアメリカ西南部を通過する中で、道を失ったり、盗まれたりした馬の群れは、果てしなく続く大草原をさまよい迷っていた。その草原は、小さな三本指の足を持った馬の祖先であるエオヒップス<7> がかって繁殖し、またそれ以前にも長い年月生命を維持していた所であった。

以前にスペイン人たちからはぐれたこれらの馬たちは繁殖し、インディアンたちは彼らの運搬用犬とこれらの馬とをすぐに取り替えた。しかしもっと重要なことは、インディアンたちが軽快な騎兵隊となったことである。フン族、モンゴル人、日本人を含めて、彼らは世界で最も軽快な騎兵隊になったのである。それは将来ともそう言えるであろう。彼らは弓矢および槍で武装し、遠距離間での合図に煙や鏡を使用した。そしてしばらくの間、彼らは自らの領域を統治した。

その後、今日彼らの手先は愛国心を極めて声高に叫んでいるが、彼ら一族は愛国心など完全に無視している。私たちが話をしている人物にも確かにそれは言える。コンスタンス・バターシィ夫人によれば、後の英国のロスチャイルド家の一人は『小さなメシア(ユダヤの救世主)』のあだ名で呼ばれていたことを思い出す。が、そして物質欲に固まった心ない連中がそれに続いてやって来た。またそれに続く踏みにじる連中の群れがやって来た。特に1848年、カリフォルニアで金鉱が発見され、その知らせが東海岸に届くや、1849年のゴールドラッシュが引き起こされた。

ここで、米国のその他の地域や世界の動向に目を向けてみよう。特に、1861年に南部連盟を結成するに至る米国南部諸州を見てみる。ここでは1600年以来、土地を枯渇させるタバコの栽培のために、土地耕作用の労働者を必要としてきた。またより多くのタバコ栽培のために、新たな土地を耕作する労働者を必要としていた。奴隷たち、すなわち黒人の男女や子供たちはニューイングランドの船で連れてこられ、砂糖きびや糖蜜製造に従事した。

そこではラム酒が作られ、奴隷との交換のためにアフリカに運ばれた。南部諸州では黒人の人口が急に膨れ上がり、殆どの地域で白人の人口を大きく上回った。そしてハイチでの奴隷反乱の例に見られるように、南部の奴隷たちは恐怖の中で日々を過ごしていた。独立戦争において北軍を結成した諸州には黒人は殆どおらず、殆どが自由人であった。

当時の宗教的扇動者たちは、今日でも堕胎問題に関してはそうであるが、狂信者たちであった。それとは異なった事柄、例えば『不自然な性行為の取り締まり』に思いわずらうような事、において同じようなことを言っている、現米国下院議長ニュート・ギングリッチ<8> も同様の狂信者である。彼らはすべての自由を欲している。私から見れば、これはカザール王国の場合と同様、IJCがまた鍋の中をかき回していたのであった。1850年までに、米国は半分は奴隷、半分は自由人の二層に分離した。

19世紀の始め、スペインがナポレオンに屈服した時、スペイン領アメリカでは、地域から次の地域へと連続して革命に突入していき、それはほぼ今日の地図で見るような国々が誕生するまで継続した。米国はフロリダを購入した。テキサスは、IJCの別の計略の中である集団に取り込まれた。その集団の指導者たちの中には、ワシントンと同様の階級にいた複数のフリーメーソン員がいた。南西地方は10年後に、誰も望まなかった戦争の中で取り込まれた。

こうして地球の半分の国境線は小規模の変更を除きほぼ落ち着いた。小規模の変更は何年にもわたる武力または購入により行われた。いくつか整頓すべき事項は残っているが、米国は運命顕示説*<9> の準備を終えたのであった。それは1850年ごろ上院で演説され、その教義は北米に適用され米国の西海岸への拡張を正当化した。しかしそれは実は、米国は世界を支配すべく『選ばれた』、または後の米国大統領たちによって何度となく言われてきたような、『世界中の民主的な人々を助けるべき時が来た』ということを実質的に宣言したものであった。

*運命顕示説:Manifest Destiny (マニフェスト・デスティニー)の邦訳。

 

【訳注】

 

 <1>  旧約聖書・マラキ書3.12より。

 <2>  ジョージ・オーウェル:(1903~1950)作家。代表作は「1984年」と「動物農場」。「1984年」の中では、私たちが追い込まれるかも知れない、憎しみと恐れと残虐欲とがあるばかりの、慈悲も喜びもない世界を描いている。

 その中では「身元情報確認システム」や「サイコテクノロジー(人間を武器化する洗脳技術)」等々その後現実化する組織・システムを的確に描いている。これは統一世界政府実現のための大衆宣伝であるとする見方も強い。 

 <3>  ワコ事件:デーヴィッド・コレシュを教祖とする小教団が、米国法務省FBI,軍により皆殺しにされた事件(1993年4月19日)。コレシュの小教団は、「アイデンティテイー派」の一種で、本来のユダヤ人はアングロサクソンであって、現在ユダヤ人と自称している人々は本物のユダヤ人ではないと主張していると言われている。

 <4>  住宅都市開発省:1965年に、大きな政府による社会福祉向上を目指したジョンソン政権(民主党)により設置された。小さな政府を目指す共和党系の保守派には、住宅都市開発は本来民間の事業であるとして、政府機関による大規模な介入に反発する考え方が強い。

 <5>  ストリート・スマート:大都市で外を歩くときに身を守るための知識を持っていることをいう。

 <6>  トーリー党:1688年にジェームス二世を擁護し革命に反対した王権派。その後はスチュアート王家に味方し、アン王女死後ジョージ一世の即位に反対。1832年の選挙法改正法案反対後は保守党になる。

 <7>  エオヒップス:暁馬。馬の進化の初期を示すものと考えられる狐大の動物。米国西部の第三紀始新世の地層からその化石が発掘された。

 <8>  ニュート・ギングリッチ:現米国下院議長。自称保守主義者。十箇条の修正条項を無効にする法案を通すべく尽力している人物と言われている。罪悪との戦いの美名の元に、健全な市民が凶暴な政府から身を守るための権利を放棄させようとしてしており、背後に支配的な勢力がいると指摘されている。

 <9>  運命顕示説:米国が北米全体にわたって政治的・社会的・経済的支配を行うのは明白な運命だという帝国主義的思想。19世紀の中ごろから後半にかけて受け入れられた。