国際秘密力15

第16章  日本に入る

         『・・・主が御目にかなうとおりに行われるように。<10>

 

私たちは日本を離れ、フィリピンに入りこんだスペイン人とともにマゼランの帆船に乗って西の方向に進み、東洋を離れることにする。私たちとほぼ同じころ、ヴァスコ・ダ・ガマはバーソロミュー・ディアスの後を追ってアフリカ最南端の岬を回り、本当のインドに向かって航海をしていた。今やヨーロッパの主要権力の正体を顕にして、植民開拓者たちがやって来た。彼らは航路における有利な立場と支配権を獲得するために張り合い、騙し合った。

アフリカ回りの航路が始まったため、IJCは運用管理のために『支局』の準備を始めた。私はこの本の準備のために、ニューヨークのE.P.ダットン社から1968年に発行されたスタンリー・ジャクソン著の『サッスーン家』を読んだ。このユダヤ一家はバクダットの小形絨毯商人の外見を装っていたが、ダビデ王の血統であると主張していることを除いて、一家のそれ以前の歴史を私は知らない。一家は、ヨーロッパ人による東洋征服の各段階に応じて移動していった。最初はカルカッタへ、次にインドを回ってシンガポールへ、次に北上して香港へ、そして遅くとも1830年代の始めには上海にいた。彼らは買収した諜報員を、京都御所江戸幕府の両方に忍び込ませていた。

その間、英国は英国東インド会社を通して征服を押し進めており、中国は屈服させられた。中国は、大量の安価な阿片を供給されることによって麻痺させられ、服従するに至ったのである。その阿片はインドから運ばれ、中国で取引された。IJCが新世界で大量虐殺を実行したとしても、それはそれで十分過ぎるほどの悪であった。しかし、この国民全体を麻薬漬けにしたことは、誰に責任があったかは関係なく、さらに遥かに憎むべきことであったと私は思う!

日本では、16世紀および17世紀の鎖国の初期にキリスト教と小ぜりあいがあった。その結果日本人は、IJCとまでは分からなかったとしても、ヨーロッパ人の意図を正確に見抜き、キリスト教を禁止した。そして、年に一隻のオランダ船のみが交易上許可されたが、その戸棚の中にはIJCの蛇がいた。今や、日本の防壁を破るために一致協力することが求められていた。

1840年代、太平洋の日本近海での捕鯨船の多くは米国のニューベッドフォードから来ていたが、捕鯨漁が盛んになるにつれてごく小数の船が日本の海岸に座礁した。そして、孤立させられた船乗りたちは米国では手ひどい扱いを受けたと見なされていた。さらに重要なことには、捕鯨船隊はその長く厳しい航海の途中で、補給のため日本に上陸したがっていた。そして最も重要なことは、そして彼らがどんな下手な言い訳をしようとも、これがすべてを解く本当の鍵なのであるが、IJCは日本を欲しがっていたということである。そしてそれは後の時代の話ではなく、すでに当時からそうであった。

彼らはスパイ活動によって日本国内での金と銀の換算比率を知っており、日本では『相対的に価値が低かった』金と取引するために、彼らの銀貨ペソを準備していた。メキシコドルと呼ばれるようになっていたペソは、メキシコ市で鋳造され、当時は50セントと等価であった。

1850年代の始め、ロシアの船隊は日本に入ろうとして追い返された。また英国船隊は鹿児島に上陸を試みたが、旧式の大砲からの派手で激しい砲火に出会っただけであった。しばらく続いた襲撃で多くの日本人死者を出した後に、彼らも追い返された。

今度は、ブキャナン大統領の親類の提督ペリ-の出番であった。日本および世界中の人々は黒船とタウンゼンド・ハリス<11> の話を知っている。しかし、明治天皇がどのように帝位に就いたかは知られていない。

私は最近発行されている公平なある小冊子<12> の記事を信用している。それは良く知られている日本人著者・太田龍氏によるものである。1994年に私は日本で、太田氏と長時間の会話を交わした。彼は医者である父の日記を見たという人の説明をしてくれた。その人の父は孝明天皇の下に出頭するように呼び付けられ、そして天皇が白衣を血で染めているのを見たという。天皇の浴室から寝室までの廊下は血で溢れており、天皇の鼠蹊(股の付け根)には刃物傷があった。この事件は確かに発生し、その場所で天皇の体にそのような状況が起こっていたと、私自身は信じている。

天皇一家と廷臣たちはこの事件を恥入り、すべてを黙秘し、今日までこの事件は闇の中にあった。その父の日記は謎めいて消失してしまったが、そうであったとしても、この話は発生した事件を正確に伝えている。これは単に推論した結果であるが、暗殺者はサッスーン家の諜報員で、上海から操作されていたのではないだろうか。私はそう信じている。孝明天皇が亡くなられた結果、たいへん若い明治天皇が帝位に就任せざるを得なくなった。彼には后太后が摂政として教育の監督役に就いているだけで、即位前に孝明天皇から何らの引継も受けてはいなかった。

私はさらに次のことを信じている。彼らIJCは、マッカーサーが日本に来て、現天皇の教育を米国市民に引き継がせた時に試みたことを、この孝明天皇の時には見事にやり遂げた。昭和天皇の時の大きな違いは、昭和天皇が十分に勇敢で、彼の帝位を自分の意志で守り続け、マッカーサーを当時の皇太子の摂政にするというIJCの計画を妨げたことであった。さらに重要なことは、昭和天皇は存命しており、準備と教育目的のために彼の皇太子の周囲にできるだけいたということである。若い天皇に確かな情報が引き継がれるべき時期に、孝明天皇明治天皇間の継承の断絶を考慮しての行動であったはずである。

明治維新または明治における西洋社会への復帰として知られていることに深く立ち入る前に、この時代の、そして現在の日本にもまだ存在している軍事力の背景について少し探求してみよう。

薩摩の英国に対する英雄的行為を見る時、私はいつも長州の薩摩に対する優先意識を感じる。私がある情報を得たのは、平成6年の東京訪問を終えた後であった。その情報は信頼のおける情報源からのもので、薩摩は、キリスト生誕前の極めて早い時期のIJCの浸透にも拘らず、日本のどの集団よりも純粋性を保持していたというものである。

一方長州は早くからIJCの影響を受けて堕落していた。そして海軍を設立する時期が到来し、英国から訓練のために顧問を招いた時から長州はIJCの影響下に入った。しかし薩摩は大和精神に対し純粋であり続けた。これは、陸軍と海軍は何故常に分裂するのか、ということの理由であった。この分裂は今日でも存在しており、日本の防衛庁、いわゆる自衛隊の中にも存在している。  

日本の人々はこのことをこれほど詳細には気付いていない。そして軍隊にいる人々の多くはこの分裂を本当には理解していないか、または分裂が存在することすら知らない。今日その分裂は、IJCを支持する者たちの『現代的価値観』に従うか、大和の精神を持つ人々の『古典的価値観』に従うか、の違いにより起因することに私は気付いた。

ここで先程展開していた歴史の所に戻ろう。幕府との一連の戦いが行われ、そして明治維新が実現した。大和の民たちも、思わしくない事態を活かすべく手を尽くすことを決意し、国家を前面に押し出すことに心より参画した。すべての事に関して、彼らは西洋流のルールでゲームを戦わねばならなかった。そう、IJCは主たる目標である変革を成し遂げたのであった。

IJCの手下たちは大和の民を引き連れて世界中を旅行し、日本に激しい変化をもたらすものを各々持ち帰った。明治憲法教育勅語およびその他の重要な勅令が発布された1890年ごろまでに、明治天皇自身は、彼および日本に対する危険性を十分に認識していたと私は堅く信じている。危険性に対する明治天皇の知識は、彼の帝位就任の早い時期にまで遡るのかも知れない。

白人たちから日本人は同等であると言われ続け、日本人たちは同等であるかの様に行動し始め、ヨーロッパ人たちがしてきた様に振る舞い始めた。そして日本は、早期に中国から取り上げた土地を掌握し、さらに朝鮮に植民地を求めて行った。白人たちはこの厚かましさに憤激し、ロシアは戦争に入って行った。

すべての人々は対馬海峡、東郷大将および敵艦隊前での『Tの字』横断を教えた彼の教科書、そして旅順でのセルゲイ・ウィッテ<13> を知っている。しかし、IJCのために働いていたセオドル・ルーズベルト米国大統領が、平和のために『しぶしぶ』仲裁を申し入れ、これを日本に受け入れさせた時、彼は日本をロシアに売り飛ばしたことを殆どの人は理解していない。

当時のロシアは、まだ完全にはIJCに取り込まれてはいなかった。ロシアがまた取り込まれていなかった証拠の一つとして、ロシア内の銀行では、利子取り立ては『暴利』だとしてまだ認められていなかったという事実がある。私たちが前に見たように、ユダヤ人たちの利子取り立ては大憲章によりすでに許可されていたのである。私の見解では、日本に対する取引は、ロシアがIJCに対して求愛したものであった。もう一つの理由は白人の優位性を示すためであった。

しかしこの時、ロシアの翼の中にはさらに何物かが潜んでいた。1850年ごろ、別の一人のユダヤ人が多忙であった。私たちはすぐ後の章で、彼の仕事の結末に出会うことになる。彼の名はカール・マルクス。そして彼は『資本論(DAS KAPITAL)』を著述した。

 

【訳注】

 <10>  旧約聖書 サムエル記 上3.18より。 

 <11>  タウンゼンド・ハリス:初代アメリカ駐日総領事。1856年8月、下田に着任。

 <12>  小冊子:月刊誌「マントラ(宇宙の真理)」。

 <13>  セルゲイ・ウィッテ:日清戦争後の三国干渉ではロシア蔵相として、また日露戦争ポーツマス日露講和条約会議ではロシア全権として交渉にあたる。この人物は、日清戦争後に李鴻章を買収して露清密約を締結したと言われている。この密約は、満州里からウラジオストックに抜ける鉄道敷設権および付随権益をロシアに渡すというもので、また日露講和条約に於いても日本側に大きな不利益を与えた。