国際秘密力17

第18章  シオニズム出現

         『そのとき、ユダとエレサレムの献げ物は主にとって

                    好ましいものとなる・・・<19>

 

この本の中で常に覚えておくべき重要な人名があるとすれば、それはテオドール・ヘルツルである。1970年代の始めごろに一冊の本を見つけた時から私はこの名前に馴染みとなった。その本は、ニューヨークのダイアル・プレス社から1956年に発行された、『マービン・ローエンソール監訳紹介による、テオドール・ヘルツルの日記』である。

ローエンソールはその『序文』で次の様に述べている。

『テオドール・ヘルツルの日記は、1895年の五旬節<20> (2月2日)のころから始まり、1904年5月16日で終わっている。手書きの原稿は、四つ折りおよび八つ折り版の習字帳で16冊あり、エルサレムシオニズム中央公文書保管所に完全な形で保管されている。

1904年のヘルツルの死後すぐに、生原稿のタイプ原稿が作成された。それはヘルツルの後継者で、シオニスト組織の議長であるダビデ・ウォルフソーンに提出され保管された。そしてこのタイプ原稿も現在、エルサレムの公文書保管所に置かれている』

また紹介文は次の様に述べている。

『テオドール・ヘルツルは1860年5月2日にブタペストで生まれ、ハンガリーユダヤ人たちが穏やかに過ごしていた時代に育った。ユダヤの最も家柄の良い家族たちはドイツ語を話し、ヘブライ語ユダヤ系ドイツ語(著者註:イーディッシュ語)などには精通していなかったが、それでも自分たちをマジャール人<21>血族に属する者だと言及し始めているころでもあった』。

ローエンソールは後にこうも述べている。

『彼は1884年にウィーンで法律の学位を得ているが、このこと自体がすでに腰を据えているということである。そして10年後、彼は「ユダヤ国家」を創造的情熱の中で書いた』

パンフレット形式で発行されたこの文書は、ヨーロッパで迫害されていたユダヤ人たちの集合と、おおよそキリストの時代から離れていたパレスチナの地への帰還を唱導した。ローエンソールを含むユダヤの作家たちは、彼らのエルサレムへの帰還とイスラエル建国は聖書で約束されていると言っているが、私の弁護士としての感覚から言えば、1900年間というのは長期不在であり、それほどの長期の後にその土地を取り返すことは征服でしか有り得ない。私たちはこれを征服と認める。

私たちはこの本の最初で訴訟の上訴期限について論じており、その主義によって文明化社会のすべての人々は生活している。読者はこの主義の公平さに理解を示して頂けると信じている。別の言い方をすれば、アイヌの神々が返還を要求しているという理由で、日本のすべてをアイヌに返さなければならないであろうということと同じである。これは時間的にはおよそ同程度の話だ。*

*これは今では否定されている。この本が書かれた頃はアイヌが日本の先住民族と信じられていた。しかしアイヌは13世紀以降にモンゴルに追われて大陸から蝦夷地にやって来たツングース系の民族であることが判明しており、それまで蝦夷地に居た擦文文化の大和民族と同一祖先の和人たちは殆ど絶滅させられた。この件に関してwiki故意に最近のDNA分析の結果を無視し、真実を書いていないと思われる。(燈照隅註)

熱心に英雄を創り出そうとする中で、IJCの手下たちは、19世紀の中ごろモーゼス・ヘスと名乗るベルリンのユダヤ人が同じ考え方を強く唱導していたという事実を見落としていた。19世紀の中ごろでは、部分的であってもテーブルの下から出てくるには、IJCは財政的な、また特に政治的な影響力をまだ持っていなかったと私は思う。19世紀の終わりに、彼らはその影響力を持つに至った。

彼らの視野でものを見るために、スエズ運河の建設を思い出して欲しい。フェルディナンド・ド・レセップスは19世紀の中ごろ、フランスのルイ・ナポレオン皇帝の財政援助の下でスエズ運河計画を始めた。しかしエジプト政府に財政的困難が訪れた時、ユダヤ人である英国首相ディズレーリと英国女王ヴィクトリアはエジプトのキディヴ(Khedive)<22> の株を買い取る原因を作り、それによって大英帝国のプロジェクトとした。私の記憶が正しければ、それらはロスチャイルドのロンドン銀行からの借り入れ金で賄われた。

さて、ヘルツルがその運動を唱導し、ヨーロッパの首都を訪ねて回った時、ロスチャイルド家パレスチナには帰らないという『意見を翻し』、『温和な植民者たち』が、当時支配力のあったトルコ人たちから土地を買うことができるように、目立たないように経済的援助の手を差しのべている。

もし私が人間性の歴史の観察者であるなら、支配者であるトルコ人たちは、手に金を持って近づいた者たちにうまく篭絡されて土地を手放したとするだろう。中央アフリカユダヤ人国家を建設する計画を公表していたセシル・ローズ<23> でさえヘルツルの案に屈した。それは駆け引きと見せかけであったかも知れないが、それより実際にはパレスチナ回帰がユダヤの基本的政略であったためと私は思うし、そう信じている。

『1897年8月29日から31日にかけて、第一回シオニスト会議がスイス・バーゼルにおいて開催された』

とローエンソールは述べている。私の持っている彼の本によれば、ヘルツルはそれに先立つ5月に次の様に書いている。

『この活動は米国において始まりつつある。新しい週刊紙「トレレンツ」の編集者であるミッシェル・シンガーが、ニューヨーク市他で開かれた会合に関する報告書を送ってくれた。グスタヴ・ゴットハィル博士主催のラビたちの会議は私の活動に賛成となった。ニューヨーク・サン紙は、5月4日にシオニズム活動に関する記事を載せている。私がニューヨーク・サン紙の記事をベネディクトに見せたところ、彼はおどけて、『君はすべての人を熱狂させてしまう。まさにハーメルンのネズミ捕獲人だ』

(著者註:
この言葉に馴染みのない人のために説明しておきたい。この話を『ハーメルンの笛吹き』で覚えておられる方が多いかも知れない。これはヨーロッパの子供たちに語られた物語で、フルートを吹き、チンドン屋のような服を着た人物が、1500年ごろのドイツの町ハーメルンを荒らしていたネズミたちすべてを、いかに誘惑して彼の後に従わせたかというものである。
それは町全体が黒死病に冒されていた時で、その病気はネズミに付いた蚤によって運ばれていた。ヘルツルの友人の比喩は、ペストを運んだネズミの大群のようにヘルツルに従ったユダヤ人たちに言及したものである。
ただ、ヘルツルに騙されている非ユダヤ人たちに関しても注釈が加えられて良いのであろうが。ともかく、ヘルツルが日記に自分を登場させて誉め讃えているそれは、強く非難されるべきものであった。友人ベネディクトによって表現されたヘルツルの不誠実性を、彼は誇りにしていたに違いなかった)

私の持っている本の216頁で、ローエンソールはバーゼルでの第一回シオニスト会議の様子を記述しているが、その中でこう述べている。

『出席者の誰も今まで見ることのできなかった一つのさらなる仕上げが、その姿を現した。その会場であった娯楽場の主たる入り口の左右に白地に二本の青い線の入った旗が掲げてあったのである。そして入り口の上部にはダビデ六芒星があった。その旗は古代のユダヤの旗の複製であろうと多くの人は思った。

  (古代のユダヤ人たちがその様な旗を持っていたとしたらの話である) 

 しかしそれはデヴィド・ウォルフソンが発案したものであった。彼は、ユダヤの伝統的な祈祷用肩掛の色と線を旗の中に使用するという巧妙なアイディアを思いついた。50年後、その旗は線の間にダビデ六芒星を入れてイスラエル国旗となった』

このことは私に少なくとも三つのことを示した。一つ目は、この催し物はすべて、群衆のためのジェスチャーゲームであったということである。二つ目は、ヘルツルではなくウォルフソンまたはその他の人物が事を運んでいたということである。三番目は、イスラエル国家を建設するという計画の結末は50年後と決められ、彼らはその目標通り正確に成し遂げたということである。人間の一生と比較すると、何と短い期間で国家建設を成し遂げたことかと改めて思い起こされる。ちなみに昭和天皇の在位は62年間であった。

私にとってもう一つ大事であったことを加えよう。それはIJCの陰謀に関する状況証拠から推定すると、ヘルツルはシオニストの仕事に乗り出すまでは日記をつけていなかったということである。それはあたかも、彼が上位者から記録を残すように指令を受けていたようであった。そしてその記録というのは、首尾良く行くであろうと予見されたことの記録であって、その『物語』が子孫、特にユダヤの子孫にとって、証拠として有用となるようにするためであったと考えられる**。私が本章の始めで、ローエンソールの紹介文から注意深く引用したのは、このためである。私が何故この様な些細な事でヘルツルを突いていたのか、読者はお分かり頂けたと思う。それは多分、すべてにつながる核の中心であるのだ。

**このような仕組みが、聖書の「預言」の真実であろうと思われる。(燈照隅註)

その日記は、彼の企みを売り込むべく骨を折った旅行について延々と記述している。しかし、政治家、統治者、そして特に当時の権力者たちに近づくために利用した裏口の名前を読むにつれ、会うべき人物に関する彼の知識に私はたいへん驚かされた。しかし、権力者たちに会うことを可能にした関係先には、さらに強く驚かされた。というのは、その多くは強い反ユダヤ派なのである。

これはIJCおよびその力の存在を証明し、私の主張を有利にする一つの事柄である。IJCはその富と財力を介して、権力の地位にある者たちがIJCのために活動せざるを得ないように仕向けているのである。

1897年にバーゼルシオニスト会議が開催されていた時でさえそうであったが、ロシアにおいては分裂させられた反IJC勢力が猛反撃を開始すべく準備していたのであるが、この話に移る前に私たちは歴史の話に再び戻ろう。

 

【訳注】

 <19>  旧約聖書 マラキ書3.4より。

 <20>  五旬節(Pentecost):過ぎ越しの祝(Passover :エホバの神の使がエジプト人の長子をことごとく殺した時、小羊の血を塗ったユダヤ人の家は通り越したことを記念するユダヤ人の祭。ユダヤ歴1月14日の夜およびその翌日から1週間)の後50日目

に行うユダヤの刈り入れ祭。聖霊降臨節

 <21>  マジャール人:現在ハンガリー人の主流をなす蒙古族の一種族。原住地はボルガ川ウラル山脈との間。

 <22>  キディヴ(Khedive):エジプト副王。オスマン帝国政府が、1867年~1914年の間のエジプト統治者に与えた称号。 

 <23>  セシル・ローズ南アフリカにおけるロスチャイルド家の表看板。三百人委員会のメンバーであり、悪名高いボーア戦争を仕掛けた中心的人物。世界的政変に大きな影響を与えた円卓会議を設立した。なお、円卓会議は、三百人委員会によって設立された英国情報部MI6の一作戦部局であると言われている。
                        (『三百人委員会徳間書店)1994』)