国際秘密力16

第17章  南北戦争と再構築

          『同胞の間に立って言い分をよく聞きなさい・・・<14>

 

1850年代の始め、ルイ・ナポレオンがフランスの帝位に就き、1853年に美しいユージェニーと結婚した。彼はナポレオン・ボナパルトの子孫であり、国民にボナパルトの名前の不思議さを感じさせた。この王と后はパリの街に美しさと文化と光を回復させ、パリを世界一とは言わないまでもヨーロッパの首都に真にふさわしい都市にした。その美しさはほぼ20年に亘って続いた。

ビクトリアは1837年に英国女王に就任して大英帝国の帝王となり、1901年までの長きに亘って統治を続けた。IJCにとって遥かに重要だったことは、彼女がヨーロッパのある国々の将来の君主の母となったことであり、また婚姻を通してロシアのロマノフ朝とさえ結合したことあった。彼女の息子エドワード七世の姪はロシア皇帝(ツァー)・ニコライと結婚し、ロシア皇后アレクサンドラとなった。彼女からすればこの皇后は孫娘になるのであろう。

ビクトリア女王のすべての子供たちの父親である皇族アルバートは、『女王の夫君(Prince Consort)』の称号を持っていた。彼もまた前に言及した小さなドイツの公国、ザックス・コーブルグ・ゴータの出身であった。

読者のために各国での出来事を結び付けてみると、フランスは文化を構築し、英国は支配家族を確立し、米国は海外の冒険を行っていた。米国は1845年にメキシコ戦争を開始し、1850年代に西部領土を完成させた。IJCは処理すべき一つの課題を抱えていた。それは密かに支配している米国において分裂を引き起こすことであった。現代の殆どの著述家は、この分裂を奴隷制に起因するとしている。しかし当時この問題に関係していた人々はその様には見ていなかった。

南北分裂の要因は数限りなくあり、それらは相互に絡み合っていた。奴隷制に対する賛否は確かに要因の一つではあったが、もっと大きな要因は南部の田園的性格と北部の工業的性格の違いであった。ジェームズ・ワットは世紀の変わり目のころに蒸気エンジンを発明し、それは北部の工場群、南部の綿織り機械、そして両者の鉄道機関車に動力を供給した。電信機も発明された。通信手段が迅速化されたため、距離の魅力は失せていった。

南部と北部の社会の違いについて私が最も重要だと思うのは、南部における農園主階級の存在である。それは1939年の映画『風と共に去りぬ』の中で描かれていたような空想的なものでこそなかったが、彼らは富裕であり、特に重要なことに、彼らの子孫は伝統的な方法で教育されていた。伝統的な教育方法は保たれ、現代フランス語とともに古典的なギリシャ語、ラテン語が付随的言語として学ばれ、各人の書斎にはそれらの言語で書かれた良識ある図書が置かれていた。さらに殆どの場合、各農園の家族毎に一人の個人教師が雇われ、一対一での教育がなされていた。当時は長子相続権制であったため、それらの教師は最も多くの教育時間を最年長の息子に費やした。

この教育システムのお陰で、南部の指導者たちは北部の指導者たちよりも良く教育されていた。そしてユダヤ人たちは、最下級を除くいかなる地位に就くことも全く認められなかった。この事実ゆえに、そして私はこの事実のみが原因と信じているが、南北戦争は勃発すべく企てられていた。

奴隷制は1789年の憲法制定時に撤廃されていたにも拘らず、戦争が起こされたのである。その憲法の中ではその撤廃が明記されており、妥協案として黒人一人が5分の3人分として扱われていた。

このことに関して興味深いのは、南北戦争勃発以来約150年を経ても、米国南部では伝統ある私立学校がまだ存在し、良家の子女が利用していることである。これら南部の富裕家族は今日でも残っており、黒人・白人、ユダヤ人・非ユダヤ人を比較的差別している。彼らは人種差別は名目のみだと称し、またIJCは個人的および政府・国家・州・地方行政を通しての両面で彼らをより一層支配すべく常に努めているにも拘らずである。

ともかく奴隷制は存続しており、リンカーン大統領の選出により、南部連盟諸州を形成していた諸州は連邦から離脱を始めた。そして南部の人々が戦争を選択したこともあって、南部諸州離脱のための戦争、南北戦争が始まった。

戦争は、古典的なナポレオン時代のやり方で、幾つかの断片的な戦いから始められた。劣勢な軍勢を率いたロバート・E・リー将軍は、多数並んでいた北軍の将軍たちを策略によって圧倒し、名声を挙げた。連邦軍北軍)の前進が為されたのは、かっての飲んだくれU.S.グラント将軍がリンカーン大統領に全北軍の指揮を取るよう指示された時が始めであった。それは彼が当時としては『新しい』戦法を採用したからである。その『新しい』戦法とは、敵に白兵戦を挑んで、ブルドックのように敵にしがみつき、リー将軍の得意とする機動戦法を防ぐ方法であった。

1865年までに南北戦争は終息し、IJCは古い秩序を破壊することによって南部を征服することを始めた。その征服は、『再建』と呼ばれる合法的な詐欺行為を内包する政策を通して行われた。

1863年の宣言および戦後の憲法修正により奴隷たちは解放された。黒人の投票権を造り出すために自由民のための事務局<15> が設置された。そして共和党の雇われ人たちは、政府のあらゆる階層で南部中に事務所を開いた。旧土地所有者の財産および農園には税金が課され、彼らは滞納した税金のためにそれらを二足三文で売り飛ばした。これらの人々および彼らの文化が徹底して破壊されることを、リンカーン大統領なら防げたであろうと私は信じている。しかしIJCと銀行業務について述べた時に見たように、彼は1865年の4月に暗殺されてしまった。

米国西部を防衛していた軍隊はこの戦争のために引き戻され、5年間の戦争の殆どの期間、アメリカインディアンたちは放置された。しかし戦争が終わって、今度は彼らの番であった。大陸に橋を架けるために横断鉄道敷設が開始され、軍隊が大量に投入され、そしてインディアンたちを飢えさせる意図を持って野牛たち*が屠殺された。これらは軍および米国政府の方針であった。ウォール街を通して米国の力を支配していた強欲なIJCは、再び大量虐殺の指令を発した。
*Bisonsの邦訳と思われる。アメリバッファロー激減の原因の真実はインディアン飢餓作戦だったのだ。(燈照隅註)

彼ら自身の銀行と仲買業者は殆ど存在せず、ごく目立たないようにしていたが、彼らの手下たちはひそかに彼らの命令を実行していた。無邪気な役者たちが自分たち自身の貪欲さゆえに再び利用され、利用されているとも知らずに、与えられた役割を演じたのであった。特にジャック・モルガンは伝説的と言えるほどにすべてのユダヤ人を憎み、ハーバードやチョート**のような東部の強力な学校の管理組織からユダヤ人たちを遠ざけようと絶え間無く努力していたにも拘らず、彼とモルガン家はIJCの罠に落ちて行った。

**チョート・ローズマリー・ホール(Choate Rosemary Hall)は、1890年代創立のアメリカ合衆国コネチカット州ウォリングフォードにある共学の中高一貫校(全寮制校)。寄宿制私立高等学校(いわゆる「プレップ・スクール」)の中で「テン・スクール(The 10 Schools)」に属する名門校。(wikiより)

南北戦争前の北部の工業力は小さかったが、戦争が終了するころまでには工業化国家群の中で高位にランクされるまでに急成長し、新しい富裕層が誕生した。それは米国の企業経営者たちであった。彼らは世紀の変わり目の前にトーマス・ナストの時事漫画を通して、強盗男爵として知られることになった。この漫画の男爵は、昔の強盗男爵と同様、無頓着で、利己的で、『忌まわしい大衆』の態度で、金持ちを越える生活を送り、社会的地位を誇示するために惜しげもなく浪費をした。この男爵の類は1930年代に入るまで存在していた。彼らがいかにIJCに操作されていたかを確かめてみよう。

ある政府の下で商売を行っている人々は、もし彼らについて何らかの規制が行われるとしたら、彼らの内輪の人物を調整者に指名することが自分たちにとって非常に好ましいことを学んでいた。このことはIJCの活動や圧力に関連していようといまいと、何世紀も前から、そして千年前でさえ、世界のどの国でもおそらく当てはまることであった。その様にして政府が直接に規制するのではなく、商人らは統制されてきたのである。

IJCの後援は無かったと信じているが、リンカーン大統領の行政下で一つの法案が議会を通過し、農務省が設立された。1956年ごろ、この農務省の『精肉業者・家畜養育収容所部(PSD)』がテキサス州の家畜競売市場を統制しようとした時、私は個人的に農務省と関わりを持つようになった。その時、私の上級パートナーと私はテキサス家畜競売市場組合の代表者となり、テキサス州ワコのカイルホテルで開催された農務省および小売委託業者主催の会議に出席した。

小売委託業者はテキサス家畜置場で仕事をしており、1870年代よりPSDの管轄下にあった。問題点は、競売市場との絶望的な競争闘争を強いられていたこれらの小売委託業者が、厄介で、誤適用された法律や規則によって競売市場を止めさせたいと望んでいたことであった。

法律や規則は意図的に誤適用されていると私は感じていた。これらの法律や規則、および農務省の競売市場に対する『恩典』を『説明』しようとする主要演説者が、小売委託業者組合の人によって紹介された。その演説者は次の様な言葉で紹介されたが、私はこの紹介の言葉を忘れられないだろう

『この方をご紹介できることを大変喜びに感じております。農務省の精肉業者・家畜養育収容所部(PSD)長でおられる名誉あるリー・D.シンクレア氏です。氏の父上は同じ部長を勤められました。また氏の父上の父上は、この部長職位が創設された時に局長を勤められました。』

私は我々の立場を知っていたし、その時何をすべきであったかも知っていた。我々は仲介者を介してリンドン・ジョンソンに連絡を取った。彼は上院における一票差の多数党の党首であり、また我々の隣の下院議員選挙区のサム・レイバーンが米国下院議長であったため、いくつかの不可解な方法を経て、テキサス市場を彼らの統制下に置くために、その年およびその後多年に亘る歳出予算をすべて削除した。

私がこの件から学んだことの一つは、十分長く待つことによって、支配権は結局私が対立したグループに握られたということであった。この様に、忍耐と固執によって、IJCは簡単に支配権を握ることができた。

人々の要求によって競売市場は統制が大幅に緩和されて継続され、小売取扱業者が競売者に変わるか、忘却の中に消えた時にこの話は結局終わったようである。この結末を知って読者は興味を覚えるかも知れない。もし人々が問題に気づけば、その問題は修正されるものだということが、最終的学習として明らかになった。それが私がこの本を書いた理由である。情報を与えられた人々は、用心深くなり、すべての誤った点を修正していくであろう。(強調表示は燈照隅による)

1870年代、人々は適切に情報を与えられておらず、強欲男爵たちはセオドル(テディ)・ルーズベルトが公職に就任するまで彼らのやり方を続けた。彼は米国で反トラスト法および独占禁止法を通過させ、そして一連の指摘を行い、複数の政府機関を創設した。それらの機関は今日でも驚くほど急激に成長している。この点に関しては後程、新しく創設された役職ポスト、特に意思決定に拘るポストを占める、不釣り合いで驚くほどの数のユダヤ姓の人々の議論をしたい。

南北戦争の間、企業経営者たちの強い圧力にも拘らず英国とフランスは中立を守った。彼らは北部の封鎖によって綿花に窮乏しており、綿花は平均して1ポンド当たり1米ドルにもなった。これは当時としては途方もない価格であった。1933年にはその価格は1ポント当たり3セントであった!

財務長官に抜け目のないユダヤ人、ユダ・P・ベンジャミンを配していた南部連合は、南北間での『平和協定締結』の6ヶ月後に綿花の売り上げから支払う約束で、戦争期間全般に亘る資金を融通していた。これらの言葉は実際に紙幣に印刷されていた。そして正貨、金、銀は極端に不足しており、実際手には入らなかった。太平洋戦争当時日本の婦人たちがしたのと同様に、南部連合の婦人たちは戦争遂行のために結婚指輪や宝石類を寄付した。

南北戦争の当初、メキシコはフランス軍によって『保護』された。フランス軍は、ハプスブルグ公爵がメキシコの帝王であると『認めた』マキシミリアンが帝位を維持すること、および負債取り立てが実行されていることを監視するために駐留していた。アメリカ軍がテキサスとメキシコの国境であるリオ・グランデ川に到着するや、フランス軍は直ちに帰国し、マキシミリアンは処刑された。そしてインディアンであるベニト・フアレスがメキシコの大統領となった。

しかし、これらのフランス軍は殆どフランスには到着しなかった。当時はプロシャとなっていたドイツと、彼らの祖国フランスの両者とも好戦的になっていたのである。1870年に普仏戦争が起こり、数日にうちにフランス軍は包囲され、セダンで敗北した。パリは取り囲まれ、有名なパリ包囲が始まった。そして、飢えた市民たちがネズミを食べようとした時フランスは降伏した。

IJCによる旧秩序破壊の次の段階はパリコミューン<16> であった。それは無政府状態下における政府の一形態で、パリには赤旗が翻っていた。これは約50年後にロシアにおいて成功を成し遂げた運動を予示していた。ロシアでは1830年代半ばから、『革命党員』によるロシア皇帝爆破事件が発生しており、それはしばしば成功していた。この運動はカール・マルクス以後は共産主義革命に向かっていき、その後ボルシェビキ(分離派)とメンシェビキ(主流派)<17> に分かれた。19世紀後半、世界は彼らをまだ『無政府主義者』の名で呼んでいた。体制が自由主義化された後には、彼らすべてはロシアから強制退去させられた。

IJCに躾られた今日の作者たちは、1905年に発生した反乱と殺人は日露戦争が原因していると考えている。しかし実際にはこの事件はもっと大きい計略の一部であって、その計略は地下で潜行しており、ロシアがIJCにより羊の檻の中に連れて来られるまでロシアを少しずつ削り続けていた。

望遠鏡で見るような後知恵的なことではあるが、今にして驚きなのは当時の人々がこれらの動きが何であるのかを理解していなかったことである。また19世紀遅く、シカゴでの『ヘイマーケット広場爆破事件<18> 』に始まった、米国でのIJCの共産主義者たちの活動が、非ユダヤ系新聞社では労働不安のせいに、IJC系新聞社では『無政府主義者』のせいにされてしまったことに驚かされる。

さらに驚くことには、当時の米国の司法長官ルイス・B・パーマーまでが1920年代の共産党の全活動を、『無政府主義者』の名で呼んでいた。彼は米国の刑事訴追機関の長官であると同時に、法律執行機関の長官であり、無意識的な反IJCであった。彼はたいへん無知ではあったが、1920年代の言葉で言えば、断固とした反ユダヤであったと私は思う。

これらのすべてを通しての真実は、共産主義誕生期の創設者たちや指導者たちが最後の一人に至るまでユダヤ人であったということである。彼らは、おそらくそれまでは知られていなかった外装の中に隠れたIJCの道具であった。

その外装は実際にはキリストおよびそれ以前の時代にまで遡るのである。共同生活体(Communes)および共産主義(Communism)は遥か古代の人々にはすでに知られ使われていた。キリスト自身、生涯の一時期を共同生活体で過ごしていたことがあり、IJCの指導者たちには良く知られていた。

そして今日IJCはこれらの知識を最も効率良く利用した。私たちがすぐ見ることになるように、この生活共同体は、道具として使われていたユダヤ人たちが考え、または夢見ていたよりも遥かに早く、彼らに背いて急旋回させられていく。

 

【訳注】

 <14>  旧約聖書 申命記1.16より。

 <15>  自由民のための事務局(Freedman's Bureaus) :ここでの自由民は、特に南北戦争後に解放された米国の黒人を指す。

 <16>  パリコミューン(The Commune) :パリ市に暴動を起こして市政を支配した、世界初の社会主義政権(1871年3月~1871年5月)

 <17>  ボルシェビキ:多数派、過激派。ロシア社会民主労働党の急進派で1917年の革命を経て、第三インターナショナルを組織し、1918年以来共産党(Communist Party) と称した。
      メンシェビキ:少数派。ロシア社会民主労働党の穏健派。1917年、レーニン
一派のボルシェビキに圧倒された。

 <18>  ヘイマーケット広場爆破事件:1886年5月4日、8時間制確立のため労働者が集会を行ったが、暴動となり、爆弾により11名が死亡した事件。