マッカーサー元帥に代りて詫びる ~元駐日米大使 ダグラス・マッカーサー

心ある米国人は、昭和バカ憲法の押しつけを非常に後悔していた。

彼らは、憲法改正ではなく、憲法の破棄、明治憲法の改正を望んでいた。何故なら、昭和バカ憲法は、同時にアメリカの恥でもあるからであった。(燈照隅感想)

 

昭和三十五年二月九日、当時のマッカーサー駐日大使は、汎洋婦人友好会理事長山野千枝子女史ら七名と会見し、アメリカの占領政策の失敗は、一つには日本に「アメリカ流民主主義」を採用したことであり、二つには歴史と伝統を無視した「人間天皇宣言」を行なわしめたことであり、三つには主権在民の「占領憲法」を強制したことであることを説明、日本占領軍司令官であった伯父マッカーサー元帥にかわって、「日本国民に心からお詫びする」といい、さらに「日本はすみやかに改憲に着手すべきである」との勧告をすら切々と訴えたのである。以下はその時の会見に同席した故蜂須賀年子女史の記録手記である。

 

昭和三十五年二月九日のことですが、当時の駐日米国大使マッカーサー氏は、藤沢親男博士*と懇親の間柄であり、ことに同大使館文化部長ハートレット氏は、父君が米国領事として永年神戸に在住されて、神戸で生れ、十二歳まで育った方であって、日本語もよくわかり、日本精神もよく理解されておりましたので、私達「汎洋婦人友好会」の幹部七名が大使館を訪れて、マッカーサー大使らと会見いたしました。

その席上、同大使から、彼の伯父に当るマッカーサー元帥が連合軍司令官として、日本占領政策を指令した当時の事情について、色々説明を聞きましたが、私達を引見した同大使は、まず冒頭の第一声において、次のように申されました。

*藤沢 親雄(ふじさわ ちかお、1893(明治26年)~1962(昭和37年))は、日本の農商官僚、政治学者、国家主義者。エスペランティストベルリン大学哲学博士。
数学者、数学教育者の藤沢利喜太郎の子として東京に生まれる。開成中学校(現・開成中学校・高等学校)を経て、1911年、第一高等学校入学。1917年、東京帝国大学法学部法律学科卒業、農商務省入省。
1919年、ジュネーヴ国際連盟会議に出席し、連盟事務局員を務める。文部省在外研究員としてベルリン大学に学び、1923年に哲学博士を取得する。
帰国後は東京帝国大学講師を経て、1925年より九州帝国大学法文学部教授。1931年に九大を辞職し、北京大学に勤務する。1934年より文部省国民精神文化研究所嘱託として同研究所の運営に当たる。1935年、大東文化協会理事、大東文化学院教授。1938年、日独同志会思想部長としてドイツに行く。1942年大政翼賛会東亜局長。1943年、国民精神文化研究所辞任。陸軍省の委嘱により、北京の燕京大学に赴任する。
戦後、公職追放となり、日本大学国士舘大学で教鞭を執る。1955年、日本大学教授。1958年、日本文化連合会結成。1961年、国士舘大学教授。国家主義者としてファシズム、ナチズムの讃美紹介に努める。また、皇国思想を広めるうちに、契丹古伝、竹内文献ムー大陸などを評価するようになった。

伯父マ元帥に代って詫びる

「個人的には私の伯父にあたるマッカーサー元帥ですが、彼の日本占領政策は根本から間違っておりました。日本国民に対して、まことに申しわけないことをしてしまい、そのために現在、日本国民が心のよりどころを失ってしまったことを、私はここに深くお詫びするものです。

米国は、戦争には勝って日本を占領したが、その占領政策をどうすればよいのかという方針がたたず、また日本の国情に対する認識も不十分でありました。そこで、アメリカ本国では一応成果をあげたアメリカ流の民主主義を、日本においても実施したらよかろうということになったのです。

もとより、アメリカとしては、それが日本においても成功するだろうと考えたからでありまして、いささかの悪意をも持ったわけではありません。ただ米国において成功したのだから、必ず日本においても成功するだろうという善意から出たものでありました。

しかし、今にして思えば、それが日本占領政策のまちがいの第一歩でありまして、アメリカの日本研究が足らなかったからであります。

天皇人間宣言もまちがいだった

そのために、アメリカは「主権在民」を根本原理として、「現人神」であられる天皇陛下に対して、一瞬のあいだに「人間天皇宣言」を行わしめた**のでありますが、これが第二のまちがいでありました。

ところが、アメリ国務省は、日本の天皇は「現人神」であって、日本はすべて天皇中心でなければならぬことを十五年後の今日になって、はっきりと知ったのであります。

主権在民」が根本原理となったために、今まで「すめらみこと」「現人神」として天皇に帰一してきた国民の心が動揺して、国民統合の中心がなくなって、国民は個々にたよるより仕方がなくなってしまいました。

たとえば、全学連などの学生運動の思想の中に、共産主義思想が入りこむ間隙を与えてしまったのでありまして、これはかえすがえすも残念なことであり、まことに申しわけないこととして、アメリカでも大変心配しているのです。

**燈照隅のコメント:
メディアが大々的に宣伝・喧伝するこの「天皇人間宣言」は、1946年の年初に昭和天皇がお下しになられた詔であるが、実際に詔勅の原文を読むと、メディアが言うような「自分は現人神ではなく人間である」と言う文言は全く無く、「(然し乍ら自分は国民と共にあり、いつも国民と利害を共にし、その幸不幸をも分かち合うものである。)その紐帯(結びつき)は、国民との互いの信頼と敬愛に基づくもので、神話や伝説から生じたものではない。そして、天皇を現人神として、且つ(その上)日本国民が他民族に優越し、延いては(それ故に)支配する運命にある、などと言う架空の概念に基づくものではない。」となっており、それを英語に訳す時に誤訳され、その誤訳を見た日本の白痴メディアが「天皇人間宣言した」と言って喜んだに過ぎないことが分かる。
要するに、
天皇を現人神として、且つ日本国民が他民族に優越し、
延いては他民族を支配する運命にある、などと言う架空の概念に基づくものではない」の部分を
天皇が現人神」、「日本民族が他民族に優越する」、「日本民族が他民族を支配する運命にある」がそれぞれ独立に架空の概念で、それに基づくものではないと、言う風に誤訳した。

日本語(漢文)に達者な人が本文を読めばここでの解釈に間違いないことが分かる。

詔書原文:https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056/056tx.html

日本国民団結の中心を失った

第三のまちがいは、主権在民を民主主義原則としてGHQが作成した憲法草案を日本政府に押しつけたことです。そして帰一すべきよりどころを失った日本国民は、困惑の果てに猜疑心に駆られ、自分の信念をも疑うようになり、ついには自分一人のことしか考えない利己主義に走り、自分だけの偏狭な考えを正しいものと信じて押し通して行かなければ、生きて行かれないことになり、国家もなければ、天皇もない、そして他人も信じることのできぬという不安な状態におちいってしまったのです。

実は、民主主義が、日本においてこんな姿になるとは誰も想像しなかったのでありまして、全く驚きのほかありません。アメリカは色々な民族の寄り合い国家でありますから、それらを統一して新しい国を建てるのには民主主義が役立ったからといって、日本のように昔から堅く団結した国民に対しては、逆にその結合をばらばらにしてしまうという不思議な反対現象が起るものであることをはじめて知って驚いたのです。

以上のべたように、第一にはアメリカ流の民主主義の採用、第二には日本の國體を無視した人間天皇の宣言、第三に日本の国柄に合わぬ異質の民主主義憲法の強制が、根本から間違っていたのでありまして、まことに申しわけないことですが、今日ではお詫びをしてももはやどうにもならぬ状態になってしまいました。

それゆえに私が願うことは、日本の皆さんが一日も速やかに現在の占領憲法をとりかえて、日本のかがやかしい伝統のもとに立ちかえって、再出発していただくことです。それが私の何よりの念願なのです。どうか今日お出でいただきました各位が率先されて、一日も早く憲法を日本の歴史と伝統の土台に立ったもとの姿に還元して下さい。お願いいたします。」

速やかに占領憲法改正を望む

マッカーサー大使は一言一句、切々として以上のように話されました。そこで私達は、この真心のこもった大使の言葉に感動して、次のようなお願いをしてみたのです。それは大使のお言葉通りのいきさつで行われた三つの政策がまちがっていたということを、全国民に知らせて、天皇制の復元や、憲法の改正を実現するきっかけとしたいから、アメリカの日本占領政策はまちがっていたという何らかのメッセージをいただけないでしょうか、とお願いしてみたのです。

すると大使は、「日本はすでに独立しているのですから、もしそこまでのことを公けに表明すると、日本への内政干渉として非難されるでしょう。過去のあやまちは認めますが、大使としてそこまでのことはできません。ですから、今日ここにお出でいただきました皆さんや、心ある方々が起ちあがって、どうか一日もはやくGHQの押しつけ憲法を捨てて、日本の歴史と伝統に合った憲法を制定して昔の姿に回復してください。それが何よりの急務だと信じています。(燈照隅強調)

私が今日かく申しあげることが、アメリカの対日政策の過誤を正す意味にもなり、また個人的には伯父マッカーサー元帥のおかしたあやまちのお詫びになろうかと考えて、あえて申しあげた次第ですから、どうかご了解ください。」

と大使は懇切鄭重に申されて、頭をさげられたのであります。  終