ウヱスト博士の想ひ出 その1

 



天皇陛下にお仕へしたい”

(I would like to be one of the loyal subjects in Nippon and Sacrifice myself for his Majesty the Emperor.)
「私は日本の忠良なる臣民となり、わが身を賭して天皇陛下に滅私奉公したい」(燈照隅訳)

註:「天皇陛下に滅私奉公する」というのは、決して天皇陛下の僕となる、とか天皇陛下の奴隷になる、という意味ではありません。それは、教育勅語に書いてある通りのことを実践し、当たり前の善良な日本人として日本国の伝統を守り、祖先を尊崇して生きて行く、という意味であります。(燈照隅)

教育勅語に書いてあることについて疑問がある方は、

帝國公民教育協會編 教育勅語のお話(昭和9年(1934年)3月20日発行)現代仮名遣い版 - 燈照隅のブログ

をご覧ください。(燈照隅)

 

 

=ウヱスト博士の想ひ出=

嘗てわが国を訪れた外国人、その殆どが日本に敬意を表し、日本人に親愛の情を示し、尊き国日本として深く日本を理解してくれてゐました。

古くはグリフィス博士[1]あり、或はケーベル博士[2]あり、また、ポンソンビー博士[3]帰化して日本人「本尊美」と名乗り、ラフカディオ・ハーン帰化して日本人「小泉八雲」と改名し、いづれも日本及び日本人を心より敬愛してくれたことでありました。

 

[1] ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis, 1843~1928)は、アメリカ合衆国出身のお雇い外国人、理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者である。明治時代初期に来日し、福井と東京で教鞭をとった。帰国後は日本の紹介につとめたほか、朝鮮についても紹介した。

[2] ラファエル・フォン・ケーベル(ドイツ語: Raphael von Koeber, 1848~1923)は、ロシア出身(ドイツ系ロシア人)の哲学者・音楽家。明治政府のお雇い外国人として東京帝国大学で哲学、西洋古典学を講じた。ロシア語名ラファエリ・グスタヴォヴィチ・フォン・キョーベル(Рафаэ́ль Густа́вович фон Кёбер)。

[3] リチャード・アーサー・ブラバゾン・ポンソンビー=フェイン(Richard Arthur Brabazon Ponsonby-Fane, 1878~1937(昭和12年))は、イギリス生まれの日本研究家である。日本の神道・神社・皇室・陵墓・習俗・教育などについて、主に英文で著作を発表した。本尊美利茶道とも名乗った。日本では「ポンソンビ博士」とも呼ばれる。

ところが、戦後の日本を訪れる外国人の実態はどうでせうか?

昭和四十六年の十一月中旬のことでした。上品な日本語でズッコケの司会をされたロイ・ジェームス[1]さんが『この頃思ふこと』といふテレビ番組にゲストとして数名の人と登場されました。その時、ロイ・ジェームスさんは

「私は長い間の希望がかなって、先日、日本に帰化することが出来ました。しかし私は、日本に帰化して日本人になれましても、今の日本では何も嬉しくないのです。」

と言ってポケットから何か取り出されて

「これは『教育勅語』です。私は、いつも持ってゐるのです。私は、本当は、この『教育勅語』が行はれてゐる日本に帰化したかったのです。」

と言って、その一節を暗唱してゆかれました。

御覧になれれた方もおありと思ひますが、昭和四十七年の一月十九日の中日新聞夕刊に、名古屋大学のカーカップ教授[2](イギリス人)が

「私は日本の国に憧れて来たのであったけれど、今の日本には失望してしまった。」

と言って本国へ寂しく帰られるといふ記事が出てゐました。

アイ・ジョージ[3]さんは昭和四十九年十一月、某誌に『サムライ日本』と題して

「我が愛する祖国日本に、心ない人間がいかに多いことか」

と嘆き

「真の日本人再建のリーダーとしての『サムライ』になって欲しい」と要求して居られました。

また、メールランド大学教授のウヱスト博士も、少年の頃から日本に憧れて、日本人になりたい、日本に帰化したい、といふ希望を懐いて日本に来られました。しかし、今の日本には失望して居られる様です。

一口に言へば、日本に来る外国人は、みんな、戦前の素晴しかった日本に憧れて日本に来てゐる様です。そして今の日本人を見て飽れ果てて失望してゐる様です。(燈照隅強調)

 

[1] ロイ・ジェームス(Roy James、1929~ 1982)は、日本のタレント、俳優、コメンテーターである。出生名はハンナン・サファ(タタール語: Габделхәннан Сафа)。1971年に日本国籍を取得し、六条 祐道に改名。1975年に結婚し湯浅姓となる。

[2] ジェイムズ・カーカップ(James Falconer Kirkup, 1918~2009)は、英国の詩人・劇作家。英国ダーラム州生まれ。ダーラム大学卒。1959~1961年東北大学英文学講師。1963年再来日し、日本女子大学名古屋大学などで教えた。1964年東京オリンピック記念日本ペンクラブ文学賞に連作詩「海の日本」で最優秀賞。日本との関係が深く、その文章は高校、大学の英語教科書に多く採用された。

[3] アイ・ジョージ(本名:石松 譲冶(いしまつ じょうじ)、1933年9月27日 - )は日本の元歌手、俳優。芸名は本名の苗字のイニシャル「I」と名前である「じょうじ」が由来である。

そこで皆さんに考へて頂きたい。外国の人たちは、日本のどういふところが素晴しかったと言ってゐるのでせう? そして、今の日本人の、どういふところがつまらないと言ってゐるのでせう? これを皆さんたち自身、はっきりと見分けて頂きたい。そして頑張って頂きたい。いや、それは私自身もさうなのだけれど、戦後の日本人はオンボロ日本人だ、と言はれてそのまま黙って引き退(さが)ってしまふべきではないのだ。われわれは、世界中の人から尊敬される日本人になって、外国の人たちが心の底から憧れ、期待し、理想と仰ぐ日本の国を、再び復活実現させようではないか。

しかし、それを実行するとなれば、その道は遠く険しいものであることを覚悟しなければならない。従ってわれわれは、これを断行する勇気と忍耐力を持たねばならないであらう。そしてわれわれは日常の生活において、すなはち言語応対において、横柄であったり、下品野卑であってはならない。それはすべてを破壊する以外の何ものでもないであらう。

皆さん、一緒に頑張らう。そして世界の誰からも尊敬される『最も理想的な真の日本人』にならうではありませんか。

先き程、少し触れましたウヱスト(ジョージ・ランボーン・ウヱスト)博士は、一九二九年(昭和四年)、米国テキサス州サン・アントニオに生まれ、テキサス士官学校、テキサス法科大学を卒業(一九五四年-昭和二十九年)されて法学博士の学位を取得、その後、地方検事を歴任、一九六六年(昭和四十一年)に南部メソジスト法科大学で国際法を研究、メールランド大学など数校の大学教授を歴任、少年時代にラフカディオ・ハーン小泉八雲)の手紙を図書館で読んだことが機縁で日本に憧れ、昭和四十四年秋、日本マネージメント協会の顧問として日本に来られました。

昭和四十五年の日記を調べてみますと、私はウヱストさんと五回会って居ります。

第一回は三月八日(日曜日)でして、その翌日の九日(月)には、当時の一年生の皆さん達に教室で少し話をしてもらったことでした。

第二回は四月二十五日(土)で、この日は武道館で、アラブ連盟代表のモハメッド・サラーハ・エルディン・ファリード[1]さんと御一緒に皆さん達に講演をされました。その内容は“皇學館高等学校講演叢書第二輯”に収められてあります。

第三回目は五月二十日(水)、二十一日(木)で、日本書紀撰上千二百五十年祭に参列せられて平泉[2]先生の記念講演を聴講して居られます。そしてその夜(二十日夜)は私の家に一泊して下さいました。

第四回は六月二十六日(金)朝、約十分間ほどでしたが、当時、皇學館大學に居られた故船越正道先生[3]のお宅でお目にかかって居ります。

そして第五回目は八月七日(金)、八日(土)、九日(日)の三日間でして、この時は、伊勢市で開かれました日本教師会全国大会の記念講演を聴講せられた後、私の家に二泊して下さいました。そしてその晩秋には、御尊父様が危篤との報に接しアメリカへ帰られました。

そして年末に寄せられた手紙には「伊勢で正月を迎へられなかったことが残念で堪らない」とありました。三月八日から八月九日まで五か月間、直接には僅か九日のおつきあひでしたが、日本人である私が、却(かへ)って此のウヱストさんから教へられるところが沢山ありました。

題は『天皇陛下にお仕へしたい』としましたが、これはウヱストさんが常に言ってゐる言葉でして、それはウヱストさんの心情の吐露であると言って過言ではないと思ひます。正確に言へば

「私は忠義な日本人になって、天皇陛下のお役に立ちたい。

(I would like to be one of the loyal subjects in Nippon and sacrifice myself for His Majesty the Emperor.)」

と言ふ言葉でありました。

 

[1] 詳細不明

[2]平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)~1984年(昭和59年))は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、代表的な皇国史観の歴史家といわれており、彼の歴史研究は「平泉史学」と称されている。福井県大野郡平泉寺村(現在の福井県勝山市)生まれ。東京帝国大学元教授。公職追放される。平泉寺白山神社第4代宮司、名誉宮司。玄成院第二十四世。皇學館大学学事顧問。文学博士。号は布布木の屋・寒林子・白山隠士。

[3] 皇學館大學助教授で剣士であった。詳細不明。

昭和四十五年の二月中旬でした。卒業生の奥野満治氏[1]から

「近いうちに外人を二人お連れしますから、宜しくお願ひ致します。」

といふ電話がありました。

「お二人ご一緒ですか?」

「いや、別々です。」

「どういふ方ですか?」

「一人はテッドさんと言ひまして、早稲田大学に留学中の青年で、建築技師です。一人はウヱスト博士で国際法の専門家です。」

「どこの人ですか?」

「二人ともアメリカ人です。」

「どういふ用件ですか?」

「日本のよさ、本当の日本、と言ったらいいでせうか、最も純粋な日本を求めて居られるのです。」

「いつ頃来られますか?」

「三月の初です。」

「承知しました。お連れして下さい。」

受話器を置いて、家の者にお雛様を飾ったり、桜餅を作ったりしておくやうに、気のついた事をいくつか指示して、その日の来るのを待って居りました。

三月一日に、奥野氏から電話で

「明日テッドさんをお連れしますがよろしいでせうか?」

といふ連絡がありました。

「明日ですか、卒業式なのですよ。残念ですがお会ひ出来ないでせう。しかし、私の家へは御案内して下さい。歓迎の準備はしておきますから。

テッドさんは建築専門の方ですから、ブルーノ・タウトを知って居られると思ひます。ですから、一緒に神宮に参拝されて、神宮は世界で最も素晴しい建築だとブルーノ・タウトが感激して参拝したことを話してあげなさい。そして皇室と神宮について説明してあげて下さい。」

と頼んでおきました。テッドさんは、神宮参拝、お雛様、桜餅、抹茶などみんな嬉しかった、楽しかったと喜んで帰って行かれたさうです。

さうした直後、再び奥野氏から電話がありました。

「三月八日は先生何かご用がおありですか?」

「日曜日ですね。今のところ別にこれといふ用事はありませんが、何ですか?」

「ウヱストさんをお連れしてよろしいでせうか?」

「いいですよ。何時頃見えられますか?」

「夕方の四時か五時頃の予定です。」

「どうぞご案内して下さい。お待ちして居ります。」

お雛様を片付けようとしてゐた家の者に

「一寸待って欲しい。実はこれこれだ。」

と言って、お雛様をそのままにして、その日の来るのを待って居りました。

やがて三月八日になりました。四時、五時、六時。いくら待っても誰も見えませぬ。今日はもう見えられないのだらうかと思ってゐましたところ、七時過ぎに玄関先きが賑かですので出て見ますと、背の高い大きな西洋人と奥野氏が姿を現はしました。

「遅くなりました。予定が延びて延びてこんな時間になりました。」

と奥野氏が言って居る傍から大きな声で

“Good evening!  How are you?  I am George West.”

と言ふ様なことを言ってその西洋人は握手を求めて来ました。とても大きい手です。

“さて、このアメリカ人。日本語がわかるのだらうか、どうなのだらうか?”

と思ひながら、黙ってゐるわけにもゆきませぬので

「(日本語で)お待ちして居りました。どうぞこちらへ。」

 

[1] 詳細不明 文脈から(皇學館での?)難波江氏の教え子と思われる。

部屋へ入った途端、ウヱストさんは「おーッ!!」と大声を出してお雛様の前に立ったまま、上から下へ、下から上へ、暫く眺めて居りました。やがて坐蒲団を薦めて挨拶をしましたが、その時、ウヱストさんは正坐をして挨拶されました。私は“あ、この人は心得て居られる。”と思ひながら、奥野氏に通訳を頼んで挨拶をして足を楽にして頂きました。

何を話して行けばいいのか? 一瞬、沈黙の後、ウヱストさんの身の上について質問をしました。

アメリカはどちらのご出身ですか?」

テキサス州、サン・アントニオです。」

「いつ日本に見えられたのですか?」

「昨年の秋です。」

「今、どちらにお住ひですか?」

「東京に居ります。」

「いつまで日本に御滞在ですか?」

「いつまででも居ります。」

「?……アメリカへはもう帰られないのですか?」

「私を日本人にして下さるのでしたら、いつまでも日本に居ります。」

ここで奥野氏の注釈が入りました。

私(奥野氏)がテキサス(パリス大学)で苦学をして栄養失調で仆(たほ)れた時、ウヱストさんが引きとって卒業するまで世話をして下さった。ウヱストさんの家は、いはば名門旧家であって、大きな牧場が方々にあり、テキサスにある所有地だけでも三重県よりも広い。さうした家に生まれて育ったウヱストさんは、十六歳の少年のある日、図書館に保管されてあったラフカディオ・ハーン小泉八雲)の数通の手紙を読んで非常に日本に 憧れ、いつかは必らず日本へ行かうと心に決めた。その後ウヱストポイントの陸軍士官学校を卒業、ついでテキサス大学で法律を学んで法学博士の称号を得、やがて日本婦人と結婚された。それが八重子夫人である。そして四年前の昭和四十一年に、日本に行くことを具体的に計画して、昨年(昭和四十四年)秋、やっと念願が叶って憧れの日本へ来ることが出来た。ウヱストさんは日本(日本人)が大好きなので、それで仆(たほ)れた私が日本人だとわかると、すぐに自動車を飛ばして引きとって世話をしてくれたのである。また、ウヱストさんは、アメリカから来たと言はれることが大嫌ひで、どこへ行っても、誰にでも、自分は東京から来たと言ってゐる。それは、ウヱストさん自身は日本語が出来ないけれども、気分の上では日本人になってしまってゐるからなのです。

 

奥野氏のこの説明を聞きまして、同氏が苦しいときにお世話になったお礼を述べたり、ラフカディオ・ハーンのことなどを話したりしましたが、しかし、このアメリカ人、日本が好きだとは言ってゐるが、一体、日本のどういふところが気に入ったのであるか、また、どの程度に日本を理解してゐるのであるか、特に大東亜戦争占領政策についてはどういふ考へ方をしてゐるのであるか。そしてこれらの事をどの様にして話して行けばよいだらうか。などと思ひながら暫く雑談をして居りました。