日本の臣道3 -和辻哲郎1943.04

次に儒教と結びついた場合を問題と致します。それは初めから儒教に教へられて生じた傾向ではなく、武士たち自身の體驗の中から漸次形をなしてまゐりまして、後に儒教と結びついたものであります。前に申しました様に武士の生活が主從關係だけでは解決がつかず、主從の道よりも深いものを求めてまゐりました時に、赤裸々の實力の競爭そのものが一つの道を自覺させたのであります。それは主從關係と獨立に身命を惜まない潔さそのものを尊重することであります。實力の競爭に於て、勝ちさへすれば手段を擇ばぬといふのではない。卑しいこと、穢いことは、死んでもやらない。自分の潔さ、清さ、貴さを護るためには身命をも平然として捨てる。ここに自分の身命よりも貴いものがはつきりと見出されてゐるのであります。命を助かるためにはどんなことでもするといふ態度とは正反對のものであります。ここにも死生を超えた立場が實現されました。戰國末期の武士の氣風には、この立場から出た氣節、廉恥がにじみ出てゐたのであります。さうしてこの氣風が江戸時代初期にはつきりと儒教に結びついたのでありました。

武士と儒教との連絡は何も江戸時代に至つて初めてついたといふわけではありません。信玄家法などには濃厚に儒教を取入れて居ります。しかし當時にはまだ儒教と引放し難い程強くは結びついてゐなかつたのであります。それは佛教とでも、また基督教とでも、自由に結びつき得たのであります。特に當時の吉支丹との關係は、當時の日本の武士の氣風がヨーロッパ人の眼にどう映つたかを示してゐて、興味深いものであります。耶蘇會の傑物フランシスコ・シャビエルが日本へ參りましたのはコロンブスの第三囘航海(南米發見)やヴァスコ・ダ・ガマの印度上陸から五十年程後でありますが、また英國がスペインの無敵艦隊を破りました時よりも四十年程前であります。從つてスペインがアメリカ大陸を抑へ、ヨーロッパの覇權を握つてゐた時代であります。そのスペインでもシャビエルは有數な傑物の一人でありましたが、耶蘇會としてはポルトガルの勢力と結びついて居ります。その彼がポルトガルの船で日本へ參つて間もなく日本人を讃美した手紙を書いて居ります。日本人は今までに發見せられたうちの最良の民族である。異教徒の中には日本人より優れたものは見出せまいと思ふ。この國民は人づき合がよく善良であるが、特に驚くべきほど名譽を重んずる民で、いかなるものよりも名譽を大切にしてゐる。貧乏はここでは恥ではない。富よりも名譽の方が重いのである。從つて貧乏な武士でも裕福な庶民よりは貴い。これは基督教諸國にもない美風である。庶民は武士を敬愛し、武士は領主に仕へることを喜んでゐる。これはさうしないと罰せられるからではなく、さうしないことが恥づべきことだからである。またこの國民の間には盗賊が少い。盗みを憎むことが甚だしいからである。基督教國であると否とを問はず、これほど盗みを憎むところを見たことがない。またこの國民は道理を好み、道理に適ふことを聞けばすぐに承認する。いけないのはむしろ坊主の類である。(耶蘇會士日本通信上巻序説一九頁以下参照)かういふ風に申して居る のであります。この種の意見は他の場合にも色々な形で述べて居ります。シャビエルにとりましては、日本民族が優秀であるといふことと、基督教に適してゐるといふこととが同義なのであります。ところでその優秀性として把捉せられたところは、取もなほさず身命よりも貴いものをはつきり摑んでゐる點であります。右の手紙より十六年後にルイス・フロイスが京都で書きました手紙には、シャビエルが日本へ來たのは聖靈のうながしによるのである。何故ならシャビエルの云つてゐる通り日本國民は文化・風俗及び習慣に於ては多くの點でイスパニヤ人よ りも遥に優れてゐるからである。と申して居ります(同上二四八頁)。フロイスは日本の歴史を書殘しましたかなりの傑物でありますが、それが當時の世界の最強國民であるスペイン人よりも日本人の方が優れてゐるとはつきり云ひ切つてゐるのであります。さうして日本民族の優秀性がシャビエルの日本傳道の理由であつたと解してゐるのであります。これらの傳道師の見當は當つて居りました。ヨーロッパにはもう千年も殉教者が途絶えて居りましたが、日本ではこの後間もなく續々と殉教者が輩出致しました。これは當時のヨーロッパ人が實際驚嘆したところでありますが、日本にとつては危險この上もなかつたのであります。スペイン人がメキシコやペルー(インカ帝國)に於て何をしたかを知つてゐる者にとつては、全く冷汗を催さざるを得ません。幸にして我々の祖先は、インカ帝國の運命などを詳しくは知らないながらも、勘で以てこの危險を防ぎました。その際この防禦の方法が消極的でなく積極的であつたら、と我々は考へますが、しかし當時の亊情としては止むを得なかつたかも知れません。

さういふ武士の氣風に對して國家を危うくしない健全な理論的根據を與へたのが儒教なのであります。儒教は本來君子道德を説いて居ります。君子は本來は文字通りの意義、卽ち民衆を統率する立場のものを意味してゐるのでありますが、その君子の任務は道を實現するところにあると儒教は説くのであります。その君子の道が武士の道として理解されました。武士は士であり、士大夫なのであります。山鹿素行の『士道』はかかる考への代表的なものと云つてよからうと思ひます。かくして武士の任務は道を實現することに認められました。身命よりも重い貴いものは道として把捉されたのであります。

この立場では武士の古風な主從關係は儒教風の君臣關係として活かされて居ります。しかしそれは主として封建的な君臣關係であつて、未だ十分に尊皇の道とはなつて居りません。たとひその點に目ざめる人がありましても、初めはただ儒教風の大義名分の思想を媒介として、從つて尊皇論ではなく『尊王論』として自覺されたのであります。

次回 日本の臣道4(完)   前回 日本の臣道2