フリーメーソンと世界革命12(原文)

20.ロシアに於ける革命的フリーメーソン

 

ピョートル大帝が、フリーメーソンに属して居たと主張する者があるが、此事に就ては證據はなく、又諸種の理由により、どうも事實とは思はれない。尤も彼の治世の終期(大帝は1725年死す)には、既に露國及び波蘭に、フリーメーソンの組合があつたらうと思はれる。フリーメーソン紙の記述に依ると、1743年、露都の組合は解散を命ぜられたとある。露國に於けるフリーメーソンの全盛時代は、エカチェリーナ二世の時であつた。女帝はフリーメーソンを愛した。従つてヨーゼフ二世と同じく、多くのフリーメーソン社員が、彼女の周囲に集まつた。之に就て1862年發行の或るフリーメーソン機關紙は、次の一挿話を掲げて居る。

 

女帝は或時警視総監に對し、フリーメーソンの長は誰であるかと尋ねた。警視総監は答へて「私は其長を知つて居ります。若し陛下が御希望ならば、彼は即刻御前に罷り出るでありませう。」と云つた、そこで女帝は訝しげに「どうして汝はそれを知つて居るか」と尋ねたところ警視総監は答へた、「私自身が結社に属して居りますから、それを知らぬ筈はありません。」そこで女帝は笑ひながら「そんなら私は全くお前たち結社員から、取り囲まれて居るのだね」と云はれた。

 

此時分、露國には145の組合が有つたといふ事が信ぜられる。其内には「トルベツコイ[1]」公を長とする露國組合の外、「ガガーリン[2]」侯を長とする瑞典地方組合、及びエラーギン[3]を長とする英國地方組合があつた。そこでフリーメーソンは一種の流行となつたが、其仕事、即ち個人の向上、社會事業の如きは、そつちのけで、宴會其他の馬鹿騒ぎを演ずるに過ぎなかつた。又社員となるものの銓衡(選考)も行はず、金を拂つた爲めに採用される者も珍しくなかつたので、終にはペテルブルグに於て、何れかの組合に属して居らぬ者は、殆ど全く無いといふ状態となり、馭者(御者)や、召使に至る迄組合を組織し、會員を集めるに至つた。當時詐欺師及、掏摸(すり)の王と稱せられたヨーゼフ・バルサモは、其生地パレルモを逃れ出でたる後、カリオストロ伯と稱して其妻の美人ロレンザを伴ひて、全歐洲を遍歴し、上流の善男善女に、埃及(エジプト)式フリーメーソンを傳授した。此夫婦の爲めに誘惑された男女は少くなかつた。其品行に於て餘り評判のよくなかつたエカチェリーナ女帝さへも、此夫婦の犠牲となつた者について、皮肉な喜劇を書いて、最も露骨に此詐欺師及び其被害者を痛烈に攻撃し、同時にフリーメーソンの事もよくは書いて居らぬ。

1789年の佛蘭西革命の際、露國に於ても、一般にフリーメーソンを以て、革命の主謀者と見做して居る。

エカチェリーナ女帝は聡明且つ注意深き婦人であつたので、自分で目撃もし、又は他國に起つた出來事を見て、1794年露國に於ける組合に解散を命じたが、1796年の11月17日崩御した。エカチェリーナ女帝の子パーヴェル一世は、フリーメーソン社員であつたので、同社員は彼に依つて結社の禁止が解かれるだらうと思つた。又同皇帝はフリーメーソンを召集して、親しく今後の處置に就て相談した。然るに帝は、其後更に新たなる禁令を出し、而かも厳に之を勵行した。此の如く急劇に、皇帝が態度を替へた原因は不明であるが、其後、間も無くパーヴェル一世は殺害された。パーヴェル一世の子アレクサンドル一世は、彼自身フリーメーソン結社員であつたとのことで、同帝の時代になつてから、露國のフリーメーソンは再び活動を始め、其會員の數も急劇に増加し、露國一流の人物は概ね同會員と成つた。然るに同結社の勢力が餘りに有力となつたので、アレクサンドル一世は之に就て不安を感じ、殊に「アストライアー(ギリシャの女神)」と言う名の新しい組合が、フランスのスコットランド式高級組合に近づいたことから、それは取りも直さず組合が高級政治に関係すると言うのと同じことなので、帝はなおさらその将来を憂慮し[4]、遂に1822年8月6日、厳重な勅令を下し、凡ての秘密結社(フリーメーソンを含む)を禁止した。其理由とする所は、諸種の陰謀は、皆秘密結社の計畫する所だと云ふのであつた。此禁止と同時に、官吏にしてフリーメーソン結社員たる者は之を脱退するにあらざれば、職を免ぜられる事となつた。

當時の露國結社員の活動振りに就ては、社員フリードリッヒス[5]の書いた左記の文を見ると略ぼ之を諒解することが出來る。

 

1826年ニコライ一世は、更に禁令を發した。當時組合は、最早露國内に現存しなかつたのである。それにも拘らず、此禁令を出したのは1825年に於ける十二月黨の陰謀(デカブリストの亂)に基くものである。

此黨の領袖は「ペステリ[6]」、「セルゲイ・トルベツコイ[7]」公、「ニキータ・ムラヴィヨフ[8]」、「セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル[9]」、「ハコフスコイ[10]」侯、「ベストゥージェフ[11]」等で、何れもフリーメーソン社員であつた。

 

右の事實に依つて、陰謀者は凡てフリーメーソンであつたことが分かる。而かも彼等は何れも政治的秘密結社公益同盟の首領株で、此秘密結社は理想を實行する爲には、暗殺をも辞せなかつたものであつて、アレクサンドル一世は此結社の犠牲となつたのである(1825年12月1日)。ニコライ一世は、其兄の暗殺者を厳刑に處し、多數の犯人は死刑に處せられ、其他の連累者は遠く西伯利(シベリア)に流され、其地に悲惨なる終りを告げたのである。

1826年以後、露國のフリーメーソンに就ては何等聞く所がない。其代りに其外の秘密結社がいくつも現はれ、爆弾其他を以て其理想を實現せんことに勉めた。而して其背後には、常に猶太人が在つた。例へば冬宮に於ける爆弾事件の主謀者は、猶太人ハートマン[12]であり、1881年3月13日アレクサンドル二世を爆弾を以て暗殺したのは、猶太婦人イェッセ・ヘルフマン[13]であり、市司令官トゥレポフは猶太婦人ヴェラ・サスリッチに殺され[14]、内務大臣シピャーギンは、猶太人ボゴレロフに殺された[15]。(*注意:猶太人バルマショフの間違ひである。脚註参照)

1905年の革命後、露國のフリーメーソンは、再び露國内の事件に活發に参與する様になつた。1905年4月發行の佛國フリーメーソン新聞アカシアは、「共和黨及び佛國フリーメーソン全部は、露國革命が間もなく成功を収むべきことに就て、多大の望を属するものである」と記述して居る。1905年の革命が、フリーメーソンの事業であることに就ては、ブトミー兄弟[16]が其著書「フリーメーソン内の猶太人及び革命」、「フリーメーソンと売國」(1905、1906年露都發行)中に記述して居る。

又獨逸猶太人ベルンスタイン[17]は、1906年の社會主義雑誌中に「露國革命の爲め猶太人が如何に活動したか、又現に活動しつゝあるかは、世間周知の事である」と、述べて居る。

1905年の露國革命は、當時露國民が尚革命の洗禮を享受すべき程度に進んで居なかつたので、前記アカシア紙の希望は實現されなかつた。其代りフリーメーソンは、露國政府に對し公然フリーメーソンを承認すべきことを要求したが、首相ストルイピンは頑として此要求を却(しりぞ)けた。其理由とする所は「フリーメーソンの目的とする社會事業は、政府の監督下にある公然の結社でも十分其目的を達成することが出來る。然るにフリーメーソンの政治上の目的は、露國に於て禁止された十九世紀の始以來、今日に至る迄、豪も變更されていない」といふにあつた。此ストルイピンは、1911年9月14日暗殺された。暗殺者は、猶太人ヘルシコウィツケ・ボグロフ[18](ディミトリ・モーテルと稱した)である。彼は秘密警察の一員にもぐり込み、或る劇場で皇帝の目前でストルイピンを射殺した。此暗殺に因つて、誰が利益を得たかは読者の判断にまかせやう。

1906年~07年の露英協定と共に、フリーメーソンの國家、英・佛・伊と絶對的に密接なる連繋を採るべしと主張する組合が、露國内に創設された。フリーメーソンは、獨逸を仇敵となし、計畫的に露國間の關係を疎隔せんことを試みた。

1917年2月28日に於けるニコライ二世の失脚も、露國のフリーメーソンが、英、佛の結社員の援助の下に、やつた仕事である。政府の首班となつたリヴォフ公[19]は、フリーメーソン結社員であり、之に代つた猶太人ケレンスキー[20]も同じく結社員である。

 

[1] 原典:Fürsten Trubetzkoi。 有名な言語学者のニコライ・トルベツコイは1892年生まれのため別人で、その父のセルゲイ・ニコラエーヴィチと思われる。(未確認)

[2] 原典:Fürsten Gagarin。詳細不明。ガガーリンはロシアでも有力な貴族の家系。

[3] 原典:Elagin。詳細不明

[4] 原文:殊に或る新らしい組合が、佛國がスコットランド式高級組合の式を採用したのは、取りも直さず組合が高級政治に關係することになるので、帝は尚更其将來を憂慮し、(原典参照し訳変更。)

[5] 原典:Friedrichs。詳細不明

[6] 原典:Pestel。Pavel Ivanovich Pestel(1793~1826)は帝政ロシアの軍人。陸軍大佐。

[7] 原典:Sergei Trubezkoi。Sergei Petrovich Trubetskoy(1790~1860)は叛乱に参加せず、オーストリア大使館に亡命を求めた。

[8] 原典:Nikita Murawew。Nikita Mikhailovich Muravyov(1796~1843)は穏健派で直接叛乱には参加しなかったが首謀者であり、死刑を宣告されたが後に強制労働20年に減刑され、1835年にイルクーツクに追放となった。そこで死亡した。

[9] 原典:Sergei Murawew-Apostol。Sergey Ivanovich Muravyov-Apostol(1796~1826)は帝政ロシアの軍人。陸軍中佐。

[10] 原典:Fürst Chakowskoi。Petr Grigorievich Kakhovskii(1797~1826)カホフスキーの間違いではないかと思われる。帝政ロシアの軍人でミハイル・ミロラドヴィチ伯爵とシュトゥルレル大佐を殺害した。

[11] 原典:Bestuschew。Mikhail Pavlovich Bestuzhev-Ryumin(1801~1826)ベストゥージェフ=リューミンは帝政ロシアの軍人。陸軍大佐。

[12] 原典:Hartmann

[13] 原典:Jesse Helfmann。Hesya Helfman(1855~1882)ヘルフマンはアレクサンドル二世を暗殺した犯人。死刑の判決を受けたが、公判で自身が身重(4か月)であることを告げ、出産後40日までの執行猶予となり、その後、西側の社会主義者の死刑執行反対運動と新聞報道のため、刑は終身カトリガ(シベリアでの強制労働)に減刑された。しかし、1881年10月に出産時の合併症がもとで死亡。嬰児も程なく死亡した。

[14] 原典:Wera Sassulitsch。Vera Ivanovna Sasulich(1849~1919)ヴェラ・ザスーリチは政治犯の扱いをめぐる恨みからペテルブルグの市長フィオドル・トレポフを殺害した。

[15] 原典:Bogolepow。Nikolay Bogolepov(1846~1901)ボゴレポフはロシアの人民教育大臣でPyotr Karpovichに暗殺された。(注意:ここでの記述とは異なる。)また、ロシア内務大臣Dmitry Sipyagin(原典:Szipjagin)は、ステファン・バルマショフと言う革命家(ユダヤ人)に暗殺された。

[16] 原典:G. und A. L. Butmi。Georgy Butmi(1856~1919)はシオン長老の議定書をロシア語で出版した著述家。A. L. Butomiは詳細不明。

[17] 原典:Genosse Bernstein。詳細不明。

[18] 原典:Herschkowitsch Begrow。Dmitry Bogrov(1887~1911)はロシアの秘密警察に潜入し、ストルイピンを暗殺したが、その動機は、ストルイピンの改革を行き詰まらせて穏健な改革を阻止することにより、極左による革命を惹起することにあったことが、20世紀末にソルジェニーツィンによって明らかにされた。

[19] 原典:Fürst Lwow。Georgii Evgenevich Ľvov(1861~1925)はロシアの政治家。1917年の二月革命でニコライ二世が退位した後に成立した臨時政府の初代首相3月23日~7月21日)。

十月革命勃発後、ボリシェヴィキによりチュメニで逮捕されエカテリンブルクに連行されるが脱走に成功し、オムスクのシベリア共和国に合流した。リヴォフはシベリア共和国首相ピョートル・ヴォロゴーツキイ(ロシア語版)の指示を受け、1918年10月にアメリカに渡りシベリア共和国への支援を取り付けようとした。しかし、アメリカとの交渉に失敗したためフランスに渡り、1918年から1920年にかけてロシアへの支援と亡命者の援助を訴える集会を数度に渡り開催した。その後は政治活動から引退し、パリに居住し回顧録を執筆しながら余生を過ごし、1925年に同地で死去した。

[20] Aleksandr Fyodorovich Kerenskii(1881~1970)はロシアの政治家。ユダヤ人。ロシア革命の指導者の一人で、リヴォフ公がボリシェヴィキの蜂起で失脚した後、臨時政府の首相を務めた。しかし、対独戦の失敗、皇帝が退位すれば戦争が終わると考えていた兵士たちの失望、共和国宣言に対する社会主義者からの反発、そして戦争離脱による英仏からの食糧供給遮断の恐れから戦争継続を主張する中で、急速にその支持を失い、十月革命ボリシェヴィキが蜂起すると冬宮殿を脱出し、プスコフに逃れ、同地の騎兵部隊を率いてペトログラードを奪還しようと試みたが失敗し、フランスに亡命した。

ケレンスキーは亡命後も政治活動を続け、1939年にオーストラリア人の元ジャーナリストであるリディア・"ネル"・トリットンと再婚した。1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻が開始すると、ケレンスキーアメリカ合衆国に脱出し、1945年からはオーストラリアのブリスベンに移住し、彼女の家族と共に生活していた。

1946年4月にリディアとの死別後、ケレンスキーは再びアメリカに戻りニューヨークに居住するが、多くの時間をカリフォルニア州で過ごし、スタンフォード大学の講師やフーヴァー戦争・革命・平和研究所の研究員としてロシアの歴史や政治史に関する記録を残した。また、革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいてユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。

1970年にニューヨークの自宅で死去した。

 

 

21.英國の革命的フリーメーソン

 

英國フリーメーソンは、他國のそれと趣を異にし、自國に對しては革命的の仕事を行はず、反對に英國の爲めに必要なる場合に、外國に於ける革命を援助するといふ特色を持つて居る。

英國フリーメーソンは、世界中に於て最も鞏固な組織である。(米國は數字に於て世界最大であるが、各州の大組合は、全く独立して居るので、団結に於て缺くる所がある)。

1918年、倫敦の組合數は、729個以上に達し、地方の組合は其數1,749、植民地及び外國に677個がある。其の外英本國内の地方大組合の數46、印度、豪州、南洋等の植民地、アルゼンチン、日本及び支那等に合計30個の大組合がある。地方若くは領土大組合と、組合との中間機關にChapter [21](Kapitel)と云ふのがあつて、倫敦だけでも256、地方に620、植民地及び外國に191ある。以上の外に、教育組合が倫敦に286、地方に345ある。會員の數も以上の數に相應して多い上に、世界大戦間、急劇に増加したので今では無慮45萬人に達して居る。(植民地及び外國に在る會員を含む)。此外、別に蘇格蘭に50,000人、アイルランドに18,000人の會員がある。

英國聯合大組合の大棟梁は、現在先帝エドワード第七世の弟コンノート大公である。エドワード七世は、英國の各組合の長となり、他の王侯が社員となり、高級に擧げられても、單に表面だけの待遇を受け、フリーメーソンの眞相を知らなかつた者の多いのと異なり、實際に其内情にも精通して居た。元來英國王は1689年以來、政治上の實勢力を持たない[22]のであるが、エドワード七世は王としてではなく、フリーメーソンの長として、英國の上下に實勢力を有して居た。英國では多少地位名望を有するものにして、フリーメーソン社員でないものはない。「英國が今日の大を成したのはフリーメーソンの功績である」とは、フリーメーソン・クロニクル紙(1902年)の書いた所であるが、以て英國フリーメーソンの活動振りを想像することが出來やう。

英國は常に他國内の動亂を助長し、謀叛者に對し、豊富なる資金を給した。英國の豫算には年々五百萬ポンドの機密費を計上して居るが、此金額は他國に對する宣傳煽動等に使用せられるのである。従來英國が外國の元首、或は重なる政治家の首にかけた多額の懸賞金も、此中より支出されたのである。英國フリーメーソンは、最も有効に同國の世界統治を促進した。従つて同國の帝國主義に反抗する國に對しては大なる打撃を加へた。

英國フリーメーソンは、共和主義的の傾向を持つて居らない。之は同國が1689年以來事實上の共和國となつて居るからである。英國フリーメーソンと其國家とが斯くの如く密接な關係にあるのは、両者が其目標及利害を一にして居るからである。即ちフリーメーソンも、英國々家も、共に世界統治を成就せようと努力して居り、両者の利害は全く一致してをる。両者の活動振りも、共に類似して居る。例へばフリーメーソンは自由平等を唱へ、其實際には極度の服従及び束縛の存するが如く、英國は今次大戦に際し壓迫せられたる小國家の解放、壓制及び野蛮に對する戦爭、正義人道及び文明擁護の戦爭等の標語を以て宣傳をしたが、其宣傳はあらゆる虚構捏造を以て満されて居つた。

フリーメーソン社員は、其目的を達する爲めには、其社員を利用することを怠らない。英國の今次大戦に於て執つた政策も亦同様であつて、英國は其の支那は勿論、比較的關係の浅い國をも、自己の味方として戦爭に引き入れる事を努めた。葡萄牙、中米諸國、日本、リベリア等は其例である。此目的を達する爲めには、英國政府はフリーメーソンをして、諸國の同社員を動かさせたのである。即ち各植民地、アルゼンチン、日本及び支那に於ける三十個の英國大組合は、克(よ)く其任務を完うしたのである。其他外國にある677の英國組合は、之に關して大なる援助を與へた。之が爲め英國フリーメーソンは、随時諸外國の元首、又は有力者を英國組合員、又は其客分として誘致することを怠らなかつた。(例へばザンジバル[23]アフガニスタンのエミール・ショホール王、日本政治家林子爵[24]等)。

既述の如く全世界に於けるフリーメーソン社員の數は、235萬8140人を算するが、其内獨逸人及び親独的の者は僅に十萬人に過ぎない。独墺両國が世界を敵として戦はねばならなくしたのは、誰の仕事であつたか。フリーメーソンに關し、其本質範囲、價値等を判断した者は頗る少數の者であつて、此少數の者の聲は、衆愚の叫聲の爲めに打消されてしまつたのである。然しながら二百年來、英國が指導して來つた所のフリーメーソンこそ、獨逸を窮地に陥れたる者に外ならないのである。

 

 [21] Kapitel:ローマ・カトリック教会の機関(英語でchapter,ドイツ語でKapitel,フランス語でchapitre)。個々の聖堂に属する聖職者canoniciによって構成される合議体的組織。

[22] 1688年名誉革命:英国議会はローマ教会派のジェームズ二世追放し、長女のメアリーと、その夫のオラニエ公ウィレム三世(ネーデルランド統領)をロンドンに招聘した。この時から英国は王国ではなく共和国(立憲君主国)。

[23] ザンジバルタンザニアの沖にある島。

[24] 林子爵:林 董(はやし ただす、嘉永3年2月29日(1850年4月11日) - 大正2年(1913年)7月10日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣、明治時代の日本の外交官、政治家。伯爵。蘭方医佐藤泰然の五男で初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。幼名は信五郎、名は董三郎(とうさぶろう)とも。変名、佐藤 東三郎(さとう とうさぶろう)。

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