日本の臣道2 -和辻哲郎1943.04

f:id:caritaspes:20191013073246p:plain

 


話の便宜上まづ佛教と結びついた場合を取上げますが、所謂鎌倉佛教を作り出した根本の力は武士の不惜身命の立場であります。鎌倉佛教は佛教の日本化に相違ありませぬが、しかし日本人はこの時佛教の地盤から世界宗教の代表的な類型を悉く刻み出したのであります。念佛宗に於て基督教的類型を、禪宗に於て佛教的類型を、法華宗に於て囘教的類型を。これは日本の文化史上相當重大な仕亊であります。ところでこの大亊業をなし遂げた不惜身命の立場は、この仕亊を媒介として死生を超える立場に成熟致しました。武士たちは自分の身命などと比べものにならない絶對の境地に導き入れられたのであります。特に武士の生活と深く結びついたのは禪宗でありました。それは武士の日常生活の隅々にまでも浸み込みました。一例を擧げますと、劔の技術であります。劔術は敵を斬伏せる技術でありますから宗教とまるで領分が違ふと西洋人なら考へるところでありますが、日本の武士たちは劔の技術の極致を禪宗に於て體得したのであります。劔禪一致と云はれるのがそれであります。自分の命がどうの、敵の命がどうのといふやうな小さい問題でなく、絶對の境地に突き入つてしまうのであります。勿論これは劔の達人のことであつて、誰でもがそのやうな妙境に達し得たのではないかも知れません。しかし戰國時代の日本の武士の劔術が全體として非常に高い程度に達してゐたといふことは認めなくてはならないと思ひます。

少し枝道に入りますが、その點について一つのエピソードを申上げませう。日本人自身は國内だけを見て記錄して居りますから、名人を語るときには多數の凡手のあることを前提として居りますが、その凡手と雖も、他國人に比すれば段違ひに優れてゐたことを示す亊實があるのであります。英國のジョン・デヴィス航海記(Voyages and Works of John Davis)によりますと、一六〇五年の暮にこの有名な航海家をビンタン島附近で殺したのは日本の武士であります。デヴィスはパタニへ行くつもりで風待ちをしてゐたのでありますが、同様に逆風で歸國出來ないでゐる日本人の船に出逢つたのであります。その船は七十噸位のジャンクで、中に九十人の日本武士が乘つてゐた。その大多數は船乘としてはあまりにも立派な堂々とした身なりで、また皆が同輩であるかのやうに互の間の行儀作法がいかにも平等であつた。話し合つて見るとこれは支那やカンボヂャの沿岸を荒す武士たちで、自分たちの船をボルネオの海岸で痛めたために、パタニ人の乘つてゐた今のジャンクを乘取つたとのことであつた、などと記されて居ります。デヴィスの船タイガーは二百四十噸で、六吋半の大砲を備へて居りますから、見かけた船はすべて捕へて積荷を調べ、欲しい貨物があれば取上げるのであります。日本人の船もその臨検に逢つたのでありますが、積荷は米ばかりで、しかも濕つてゐる。でデヴィスは、支那への航路について知識を得たいとの考へから、貨物は何も取上げずに、鄭重に日本人を款待した。『しかるにこの惡漢どもは、風向や運の向きに絶望して、卽ちこのボロ船で本國へ歸る望がないので、我船を取るか或は死ぬかだと決意した。』これは航海記の記者の解釋であります。貨物も取上げず鄭重にもてなしてやつた。卽ち何の害も加へなかつたのに、刃向つてくるとは怪しからぬ。責任は日本人の側にある。といふのでありますが、捕へて臨検した彼らの態度が如何に人を憤慨させたかは反省しないのであります。のみならず款待と稱して二十五六人の日本人を英船へ呼んだ代りに、二十五六人の英人をジャンクへ派して一日中米の中を捜索させて居ります。米の中に貴重な貨物が隠されてゐはしないかと疑つたのであります。この際航海記の記者は、デヴィスの失敗として日本人の武器を取上げなかつたことを力説して居ります。英船へ呼んだ方は、六人以上に武器を持つことを許さなかつた。日本船の方でも、武器を取上げて皆をマストの前に集め、取上げた武器には張番をつけて、米の捜索を始むべきであつた。そのことは繰返しデヴィスに注意したのであつたが、デヴィスは日本人の謙遜な様子に欺かれて遂に武器を取上げなかつた。『かくして一日中英人は米の中をさがし、日本人はそれを眺めてゐた。』この油斷の間に日本人はすつかり手筈を整へたといふのであります。かういふ英人の心構へが、日本人を眞に鄭重に取扱つたものでなかつたことは云ふまでもありませぬ。一日中米の中を捜した英人たちが何物をも見つけ出し得ないで日が暮れかかつたとき、突如日本人たちが英人を攻撃し始めたのは、如何にも當然であります。さてここで申上げたいと思ふのは、この時の闘爭であります。『合圖と共に突如日本人はその船にゐた英人たちを悉く殺しまた追ひ拂つた。』これが日本船上の闘爭で、一瞬間に片づきました。然るに英船上にゐた同數の日本人は、それから四時間半戰つて居ります。合圖と共に彼らはケビンから打つて出ました。丁度そこへデヴィスがガンルームから出て來たので、ケビンへ引張り込んで簡單に片づけ、放り出しました。さうして中甲板へ出ようとしましたが、上から船員たちが槍で防いで上らせまいとします。それをたぐり寄せて劔で切らうと猛烈に迫つて行きます。かくして半時間近く戰ひましたが、日本人は三、四人やられて、あと二十二人はケビンへ退きました。劔を持つてゐるのは五、六人で、あとは手當り次第のものを武器としてゐるのです。ケビンでは四時間以上ねばり、しばしば夜具その他に火をつけて船を焚かうとしましたので、英人は遂に六吋半の大砲二門に小銃彈、霰彈、クロッスバーなどを込めてケビンに打ち込みました。それで隔壁を打ち砕いて消防を可能にすると共に、二十一人の日本武士を文字通り打ち砕いたのであります。以上二つの船の上の爭闘が武道の優劣について好き比較を與へると思ひます。雙方とも數は二十五六人であります。それに對する味方の人數は英人の方がずつと多いのであります。しかも日本船の上では一瞬間に片づき、英船の上では船の危機が起りさうになりました。亊實この亊件のために間もなくタイガーは本國へ引返すことになつたのであります。全くの段違ひと思はれるのであります。名もなき日本武士と雖も、他國人と比較した場合にはこれほど程度が違つてゐたのであります。

なほデヴィス航海記の記者は右の記亊のあとに、『この爭闘の間、彼らはのがれる望みなきに拘らず決して助からうとはしなかつた。この日本人たちのdesperateness はそんな風であつた。』と云つて居ります。この時一人だけは海へ飛び込んだのですが、泳ぎ歸つて救ひ上げられ、我々は英船を乘取るつもりであつたと白狀しました。しかしそれ以外には何にも云はず、早く殺せといふ態度をとりました。この日本人の態度、全然命を惜しがらぬ態度を、英人はdesperate と呼ぶのですが、ここにこそ死生を超えた立場があるのであります。名もなき日本の武士たちすらも右の如くこの立場を我がものとしてゐたのであります。

しかしこの立場に於きましては、武士たちは具體的な任務を自覺することは出來ませんでした。絶對の境地なるものは、具體的な特殊な任務の實現として己れを現してくるのでなければ、單に抽象的に過ぎません。その結果、無數の優れた武士たちが國内で互に殺し合ひ、國外では無駄死致しました。さうしてヨーロッパ人よりも二三百年も立遅れることになつたのであります。

次回 日本の臣道3   前回 日本の臣道1