フリーメーソンと世界革命05(原文)

5.フリーメーソンの服装、徽章、認識號及び援助記號

 

フリーメーソン結社員は、社内で仕事をする時は、通常の服の上に胸掛を着る。これを普通單にフリーメーソンの服装と云つてゐる。此胸掛は、既に1723年に造られたもので、石工時代に起因してゐる。従つて此事だけでも、フリーメーソンの眞の起源を語る一證となつてゐるわけである。此胸掛は白い羊の皮で出來てゐる。此白色並に材料は人が生れ出た時の清浄無垢を意味する。之に附ける藍色の装飾は、階級の進むに従つて大きくなり、其人の同盟及教義に對する忠誠が段々深くなつて行つた事を象徴する。しかし色及縁には色々の差異がある。二、三のフリーメーソン結社の役員は、緑色の胸掛を着けてゐる。棟梁の色は藍色及金色である。棟梁の長年月勤続記念祝賀會の時には、銀色の穂で装飾をした胸掛を贈呈することがある。白耳義の大組合の規定によると、其高級者は眞の金属の縁をつけた空色の胸掛を着ることになつてゐる。上級の階級では、藍色の縁の代りに赤、緑、或は黒色の縁を用ひる。即ち薔薇十字階級では、赤色スコットランド棟梁は緑、リッテルカドッシ階級[1]は黒色を用ひる。又上級の階級では、多くは制服を着用する。服制には、此外に金属製の役員記章(宝石)、及組合の記章を附ける帯があつて、圓形の縫箔(ぬいはく)又は絵畫を以て装飾されてゐる。例へば白耳義の大棟梁は、其帯の上に太陽を、又或る棟梁はペリカンを附けてゐる。

もとは結社の仕事の際は、食事の時でも帽子をかぶつたまゝであつた。しかし今日では此習慣は漸次廃れ初めた。例へばプロシャの大組合「友誼」(組合の名)は、最近會員は仕事の際は、帽子は被らないでもいゝと規定し、又或る他の大組合では、大戦後シルクハットの代りに普通の帽子をかぶつても差支ないことにした。しかし白色の手袋は、今日でもフリーメーソンの服装になつてゐる。新入會者には本人用の外、その妻又は許嫁(婚約者)の爲め、一對の婦人用白色手袋を渡される。之は結社が夫婦を尊重する一のしるしだとしてある。

フリーメーソンの或一定の階級の完全なる装備には刀及斧がある。刀を帯ぶる様になつた起原は不明であるが、恐らく其最初は貴族出の仮のフリーメーソンから起つたものであらう。フリーメーソン各派の中でスコットランド式、瑞典式、及獨逸地方大組合の如き上級階級を認めて居るものは、帯刀を墨守してゐる。其他二、三の独立組合も同様である。即ち各種の式ある場合、例へば採用式、宣誓式、行列等の場合に、刀は一定の役目を演ずる。(ライプチッヒのフリーメーソン社員パウル・メンスドルフ[2]の説明によると、仲間の行列の際、監督者は先頭の者を支へ、且此者の心臓に刀尖を向けつゝ歩いて行くと(力を象徴する斧は上級の棟梁、即ち長及二人の監督者だけが帯びることになつて居る)。

會員が脱會すると、役員記章(宝石)と胸掛を取りのける。フリーメーソン結社員は、通常外部の認識記章を好まない。職を罷めた棟梁は、往々時計の鎖に金製の小形の杓子、ボタン孔に小形の直角定木を着けて居る。結社員同志がお互に認識するのは、通常其他の記號、即ち握手一定の言語、お互に特種の足の置き方、及其他一定の記號(頸、胸、腹の記號、危急信號、援助記號)に依るのである。頸の記號は徒弟の認識記號であるが、一様に結社の認識記號にもなつて居る。其の記號を如何に行ふかは、此處に詳細に説明することは出來ない。頸の記號は、同時に重い刑罰「断首」を示して居る。此刑罰は沈黙を守るべき義務を破つた場合に科せらるべきものである。仲間の爲の記號には、胸部の記號、棟梁の記號には、腹部の記號を用ひる。胸部の記號は、心臓の摘出、腹部の記號は、棟梁が其の身體を自ら沈黙の抵當に供してゐることを意味するのである。以上は手で行ふ記號であつて、階級の上るに従い、一定の變化がある。握手の方法も、階級に依つて多少の差異がある。しかし驚駭(けいがい:おどろき)の記號は、認識の記號ではなく、組合内で棟梁ヒラムの死を演劇的に演出する場合に行ふものである。之れ以上詳細の事を此處で記述する必要はあるまい。5P.d.v.M.Gr.[3] ある記號は、棟梁の任命の際、その意義を有するもので之を了解する爲には自ら之を経験するか、或は之を感得し、且十分考へるかせねばならぬ。

認識用の語句は殆んど凡てヘブライ語から來て居り、永続的のものもあり、又單に一時的の合言葉もある。此種の通用語は、既に1746年に始められ、其の通用期限を一年、又は半年間と限定して居つた。それで此記號は、棟梁自ら社員に口達したものである。しかし此記號は組合に依つて差異があつた爲め、色々な間違や誤解を生じた。之等記號及其意義は研究の目的を有せざる素人に取りては全然どうでもいゝ事である。従つて又新舊のM. W.の意義を知ること、M. B.式はJ…の背後に隠れたるものを穿鑿する必要はあるまい。[4]

然れども茲に注意すべきはフリーメーソン結社員が、生命上の危急に際して爲す所の危険記號援助記號である。之は元來棟梁階級に限られたものであるが、實際的の價値があるので、徒弟階級にも知らせることになつた。フリーメーソンの新聞にも時々載つて居ることであるが、戦爭中フリーメーソン社員中の或者は、此記號に依つて命を助けられた。お互に敵對行爲を取つても、一度同結社員だといふことがわかると共に、最早や全く敵ではなく、兄弟となつた。此種の場合に就て、フリーメーソン新聞グローベ[5](第二巻496頁)に次の記事がある。

戦場に於て、敵味方の間に記號を交はし……武器を投じて、互に接吻せるを見た。今までの敵同志は、其宣誓に遵據し、瞬時にして朋友及兄弟となつた。

1896年5月、ナンシー[6]に於けるフリーメーソンの會議では、次の如き明瞭なる實例を出して居る。

 

1801年の戦爭中、或る佛艦は、英艦の爲に劇しく射撃せられたが、武装の不充分なる爲防禦することが出來なかつた。佛艦の乗組員半旅団は、數に於ては敵に對し優勢なりしに拘はらず、最早や滅亡を免る能はざることが明瞭となつた。佛國旗は卸されたが、英艦の砲撃は依然其猛威を逞しくした。此時フリーメーソン結社員たる佛國将校連は、艦の前部に突進し敵の砲火に身を曝してフリーメーソンの危急信號をなし、且救助を叫び求めた。是に於て人道の達成し得ざりし所を、フリーメーソン結社は達成し得た。即ち英國将校中にも同じく結社員が居つたので、砲撃は直ち中止せられ、次で降伏の條件は議決せられた。

 

右の如き事は屡々行はれたのであつて、1841年結社員ブイイ(Bouilly)[7]は、結社員に對し「戦時にあつては國籍、軍服の別を區別する必要はない。唯兄弟を見分け、且宣誓を銘記すべきである」と教へて居る。此教訓は、1870年~71年戦役でも、又今度の世界戦でも、遵守せられたことが確實である。

危急信號(Signe de détresse)は、其他の危急の場合にも用ふることの出來るもので、若し誰でも結社員が危急信號を為た時は、居り合せた兄弟は、皆此結社員の救助に馳せ向はねばならぬのである。しかし此同胞観念は、結社員以外には及ぼされまいのであつて、人道も亦同様である。結社員ヘンネ・アム・リンが、此偏狭な考へを罵つてゐるのは尤もの事であつて、彼は次の如き言葉を以て其鬱憤を漏して居る。

 

危急信號を受けて救助に赴く人も、同一の場合に於て救助を求むる人が、フリーメーソンに非ざる時は、何等の處置をも取らないのであつて、取りもなほさず場合に依つては、平気で人を見殺しにするのである。人道は果してこんなものか。フリーメーソンが軽蔑的に「素人」と呼ぶ人々は、何等の信號や報酬がなくても、單に人として他の危急を救ふのである。此方が遥に高尚ではないか。

 

ヘンネ・アム・リンは、危急、援助信號を以て眞の人道と何等關係なき發見物なりとなし、其廃止を希望して居る。フリーメーソン結社員が援助を求むる爲の記號は、援助記號と同じく、両脚を直角に置くのである。然る時は棟梁でも、又國王でも、其要求に應ぜなければならない。

世の中の色々な不可解な出來事、大赦の問題等も、之に依つて分明して來る。

フリーメーソンの認識記號ともなり、又シンボルともなるのは、アカシアの枝である。アカシアは、フリーメーソンの爲め神聖な樹としてある。社員はアカシアの小枝を徽章として身に着ける。例へば1908年6月4日結社員たりし小説家エミール・ゾラ[8]の遺骸をパンテオンに移した時に、多數の結社員はアカシアの小枝を着けて、此儀式に参列した。

扉の叩き方でも、結社員を識別し得る様になつて居るが、階級や教義の異なるにつれて、其方法にも各種の差異がある。

フリーメーソンの少なくも一部には、年號を數ふるに方(あた)りて、1782年のウィルヘルムスバードの會議以來、年數に四千を加へて計算する習慣がある。

 

[1] ドイツ語原典Ritter Kadosch Grad。Kadoschは「神聖な」と言う意味のヘブライ語。英語(ヘブライ語)のKaddish のことか? 「聖なる騎士階級」の意?

[2] Paul Mensdorf(1863~1946)ライプツィヒの学校の校長先生?(詳細不明)

[3] 原典による。日本語訳原文では5Pd.v.UCr.(いずれにしても意味不明)

[4] 原典による。日本語原文では、「M. W.式はY…の背後に隠れたるものを穿鑿する必要はあるまい。」(これもいずれにしても意味不明)

[5] 原典:die freimaurerische Zeitung, “Globe”

[6] Nancyはフランス北部、グラン・テスト地域圏の鉄鋼業で有名な都市。

[7] Jean-Nicolas Bouilly(1763~1842)はフランスの政治家、劇作家。ベートーヴェンフィデリオの原作で知られるが、この人物である確認が取れず、詳細不明。

[8] Émile Zola(1840~1902)はフランスの著名な小説家。

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