フリーメーソンと世界革命07(原文)

7.フリーメーソンと猶太主義

 

フリーメーソンの事に精通して居る人は、夫れに就て簡潔に次の様に述べて居る。『其の起源は英國に在り、其の上級階級は佛國に於て創設せられ、其精神的養成は獨逸に於て行はれたが其形式は大部分其の濫觴を猶太主義に發して居る』と。之は正當であるが、唯最後の事項に關しては完全とは云へない。

精神的メーソンは人も知る如く「ソロモン」の殿堂建設と、密接なる關係を持つて居て、此賢明なる王はフリーメーソンの中で、重要なる地位を占めて居る。瑞典の教義に依ると、ソロモン王は結社の創設者、及第一代大棟梁として尊崇を受けて居る。而して大棟梁の位は、ソロモンの子孫に限らるべきものとされて居る。組合の長及顧問だけは、全組織の首長を識つて居るが、其他の結社員は誰も之を識らない。各國(瑞典、諾威、丁抹、獨逸)の頭には組合長が居つて、其の命令は生けるソロモンの命令と同様に服行すべきものとされて居る。

ソロモンの殿堂は「人道の殿堂」を構築せんとするフリーメーソンに取り、一の象徴的のものであるが、實際「バイブル」の記述に由つて人が想像する程宏大なものではなかつた。ソロモン王を第一代の大棟梁と追稱する様になつたのは、1730年頃のことであつて、それより以前古代の職工メーソンは何等之に關係がない。爾後フリーメーソンは種々ソロモンの殿堂に因んだ名稱を採用した。先づ殿堂なる語は組合、工場等の名稱に代りて、結社員の式場の名稱となつた。此殿堂の中には祭壇があつて、其前に膝を屈めて誓を爲し、聖職に任ぜられる。此處にはヤヒン及ボアスと云ふヘブライ語の名を有する二本の柱、七個の臂(ひじ)を有する燭台(メノーラ)、及約匱(猶太人の聖書を納むる箱)がある。此約匱に就いては次の様な逸話がある。フリードリッヒ三世は、皇太子時代に獨逸の大地方組合の大棟梁であつたので、組合の事に就て萬事根本的の研究を遂げ、且信ずるに足らない様な事は凡て之を取り除かうと苦心した。彼は大棟梁として其秘密を知るの權ありと考へ、或日約匱の内容品を見たいと云ひ出した。組合の顧問は非常に驚いて極力之に反對したが、皇太子は頑として聴かないので、萬策盡きて箱の蓋を開いた。其内に何があつたらうか?何もなかつた、全然空虚であつた。事實何もなかつたのか。或は結社員が豫め此事あるを察して、内容品を他へ移したのであるかは、恐らく永久の秘密であらう。

此約匱の外にもソロモン殿堂、若しくは猶太の風習、施設から、多くの事をフリーメーソンの中に取り入れて居る。例へば階級によりて差異を有する絨氈(絨毯)、ソロモン殿堂の前庭を意味するモザイク鋪石道の如きは、猶太の思想から出て居る。又英國の教制では、ソロモン殿堂の螺梯を採用し、且崇高なる精神的完全を象徴せらる階段を昇ることも、同じく猶太の思想に基くものである。七個の階段を以て通ずる神聖なる場所の扉の上には、猶太主義と最密接の關係を有する象徴たる「火焔を有する星」がある。徒弟階級のものは五角形の星を有し、仲間階級の者はダヴィドの六角形の星(✡)を有する規定である。六角形の星は、神の言葉の働き、及神の力の自由を象徴して居る。此星は常に結社の廣間の東方の扉の上に附けられて居る。

上に述べた所は、フリーメーソンと猶太主義との關係の一二を 述べたに過ぎないが、實際には尚無數の例があるのである、例へばソロモンの玉座は、アンダーソンの憲法書では、大棟梁の椅子とせられ、ソロモンの封印は、結社内ではソロモンの印附指環と同じく重視せられて居る。ソロモン殿堂の建設者にして理想のフリーメーソン結社員たるヒラムに關しても、各種の秘密の風習がある。

結社員の用ふる合言葉は、多くはヘブライ語から出て居る。

フリーメーソンは基督主義とは甚だ關係が少いのであるが、聖書の影響を受けて居る事が少くない。例へば問答原教の第十七は『フリーメーソンの三個の大なる光とは何ぞや』の問いに對する答え『聖書、直角定木、コンパス』とあり。第十八には『其意義如何』の問に對し『聖書は吾人の信仰を、直角定木は吾人の行ひを規整し、コンパスは全人類就中兄弟(結社員)に對する吾人の關係を定める』と答へてある。此事はフリーメーソンが常に唱道する所の、フリーメーソンは唯だ全人類の一致する宗教を希望し、且信仰及良心の完全なる自由を要すると云ふ教訓とは、表面上全く矛盾して居る。フリーメーソン社員の内で之を感知した人は、聖書は單に「信仰の象徴」に過ぎないと解釋して居る。

之等の事を考へると、フリーメーソンは猶太人に依りて創設せられたものではないかと云ふ想像も起こり得るのであるが、之は歴史上其根據が薄弱である。此結社の創設者は、皆英國式に舊約全書を喜んだ基督教徒であつた。其一人はフリーメーソン憲法書を書いた英國宣教師ドクター・ジェームス・アンダーソン[1]である。其外科學者、Thophil Dasaguiliers[2]、 George Payne[3]、其他の姓名も、今日迄わかつて居るが、其中には猶太人は居らない様である。而も茲に既に猶太主義との關係の認むべきものがある。即ちイライアス・アシュモール[4]と云ふ好古家の英國猶太人は、1646年當時の職工メーソンに入社してフリーメーソンに關する多數の書類を集め、之等の書類は1717年英國の大組合の創立に方(あた)り利用せられたのである。

フリーメーソン結社員は、フリーメーソンと猶太主義との關係を知つて居るだろうか?之を知つて居るに違ひないが、彼等は此の問題に触れることを避けて居る。結社員の中には「樹多くして森を見ない」類で、両者の關係に就て、何等気にも留めない様になつて居る者も少くない。しかし猶太人の社員は、御互の間では得々として此事實を言明して居る。猶太人の社員グスターフ・カルペレスは、1902年次の様に記述した。『フリーメーソンの思想は、猶太主義から出たものである。イスラエル(猶太)の最高貴の花たるソロモン王が、其創設者と目せられる。其風習の重要なる部分は、ソロモンの殿堂に關係を有し、言葉や、記號は大部分ヘブライ語から取つて居る』と。尚英國の一著述家は説明して曰く、『フリーメーソン社員は人爲的の猶太人である』と。

 

[1] 原典ではJakob Anderson。

[2] ジョン・デサグリエ(John Theophilus Desaguliers)またはジャン・デサグリエ(Jean-Théophile Desaguliers)(1683~1744)は仏国でユグノー教徒の家に生まれ、後に英国に渡った科学者。

[3] ジョージ・ペインGeorge Payne (c.1685~1757)は英国の大蔵官僚。

[4] Elias Ashmole(1617~1692)イライアス・アシュモール。英国の古物商、政治家、軍の将校、占星術師、錬金術の研究家。

 

8.フリーメーソン内に於ける猶太人の地位

 

フリーメーソン創立の當初に於て、猶太人は早くも其内に鞏固なる地位を獲得しやうと試みたが、其事は勿論容易ではなかつた。即ち當初は猶太人は結社に入ることを謝絶せられた。1780年頃に至り始めてフランクフルト・アム・マイン市に、二個の猶太人のフリーメーソン組合が出來たが、他の組合からは承認されなかつた。而も猶太人の入社に賛成する意見は漸次多くなつた。例へばフォン・コルトゥム[5]は1786年に猶太人採用賛成の意見を公表した。1783年フランクフルト・アム・マインに創立された『折衷的フリーメーソン同盟』は、最初は猶太人を採用したが、1811年に至り、非基督教徒を排除するに決した(其理由は不明)。併し其後1844年には再び最初の原則に復帰し、猶太人の加入を許すに至つた。今日では該組合の重要なる地位に在る者は殆ど猶太人ばかりである。

匈牙利では、1860年代に新たに猶太人を採用する組合が創設せられた。1870年代には、既に猶太人で指導者の地位に就く者が出來たが、多數の基督教徒は此の組合を去つた。今日では匈牙利のフリーメーソン結社では、猶太人が大多數を占め、其長たる者は殆ど全部猶太人である。此事に就いては1871年乃至1876年の間、結社員となり、棟梁の地位にも就き、其後結社を脱したカール・コーラー[6]が述べて居る。『猶太人は一たび結社内に於て勢力を占むるに至るや、彼等の迅速なる計畫的發展を阻止せんとする者に對して、攻撃の態度に出でた。即ち匈牙利の多數の猶太人の結社員は、非セメティック主義[7]に對し、猛烈なる反對攻撃の態度を執つた。(1823年)佛國のフリーメーソン雑誌アカシアは「猶太人なき組合なし」と書いたが、匈牙利では其程度は一層甚しい。誤解を避けるために云ふが、アカシア雑誌が上記の文句を書いたのは、決して猶太人を軽蔑する意味で書いたのではない。否な全く反對に之を以て成功と認め、且猶太主義に就いては次の如く賞讃して居る。「猶太の教會には書類なく、單に象徴を有することフリーメーソンと同様である。之が爲め猶太教會は吾人の自然的同盟者であり、之が爲め猶太人は吾人を支援し、又之が爲め多數の猶太人が吾人の同僚となつて居るのである」と。斯くの如く両者互に相助けて居るのは、上記の理由に依るのであるが、或は尚他の一層深き理由に基くものであるかに就ては、茲には判決を差控へて置く。唯匈牙利のフリーメーソンは、殆ど全く猶太人の勢力下に在ること、及獨逸のフリーメーソンに於ても、略ぼ同様の状態に在ることを注意して置きたい。三個のプロシャのフリーメーソンは成る可く猶太人を遠ざけ、下級の外、社員に採用しない、ハンブルグの大組合は、1900年伯林に其支部を作つた所が、プロシャの組合の劇烈なる反對を蒙つたが、1900年には猶太人の完全なる無差別待遇の要求は充されたのであつた。

プロシャの組合は無慮42,000人の會員を有して居つて、國家観念が旺盛であるが、ハンブルク及びフランクフルト・アム・マインの組合は、猶太人の勢力大なる爲め、より多く國際的色彩を帯びて居る。此事は1909年、伯林における第三十四回會議の際にも現れて居る。此際フランクフルトの組合は、巴里のグラントリアン組合と親交を回復すべしとの議案を出し五對三の多數決を以て採用せられた。ハンブルグ及びフランクフルトの両組合を合しても會員數約9,350人に過ぎない。而して其他の三個の組合の會員は、10,650人、合計20,000人を有することゝなる。是に於てか獨逸のフリーメーソンの全數の三分の一が、三分の二に對し勝利を得た事になる。之は組合同盟組織上の缺陥に基くのである(其組織に依ると、各組合は其會員の多少に拘はらず、一様に一組の代表者を出すことになつて居る)。尚又此獨逸フリーメーソン中、執拗勤勉なる會員、即ち猶太人を包含する一派の活躍及攻撃的精神にも依ると云はざるを得ない。

されど之は独り獨逸國に止まらず、世界各國に於て、最も活動的なるフリーメーソン社員は猶太人であつて、彼等は、結社に彼等の精神を吹き込み、且結社をば彼等固有の目的を遂行する一手段たらしむべき道をも心得て居る。

波蘭に始めて彼等の現はれたのは、1815年の頃であつたが、當時既に八組の猶太人の社員(凡て商人)があつた。土耳古フリーメーソン高級社員中にも、最近(1909年)二名の猶太人を見る。サロニカの結社の棟梁カラッソ[8]も猶太人である。カラッソはスルタン・アブドゥルハミッドに廃位を通告した使節中の一人であつた。此スルタンの廃位は、青年土耳古黨の仕事であつたが、青年土耳古黨なるものは、全然フリーメーソン社員のみから成立して居る。其本部はサロニカにあつた。「サロニカ」は陰謀の策源地として、最も恰好の地である。何となればサロニカの人口十一萬中、七萬は猶太人であるからである。[フリーメーソン雑誌アカシア(1907年第57號)所載]

伊太利の最有名なるフリーメーソン社員たるエルネスト・ナタンは、マッツィーニと猶太婦人の間に設けた私生兒であつて、1896年には伊太利フリーメーソンの長となり、次で羅馬市長となり、世界大戦に際しては劇烈なる参戦論者として、熱烈に獨逸に對する開戦を主張した。伊太利に於ては、フリーメーソンは大なる勢力を占めて居るが、其フリーメーソンの中では、猶太人が主要の地位を占めて居る。佛國のフリーメーソン新聞によると、猶太人は伊太利の議會に多數の代表者を有して居り、此伊太利に於ては他國に比して一層良くヘブライ精神が其目的を達成したとの事である。しかし吾人の観る所を以てすれば、他國に於ても同様である。

例へば佛國に於ては、フリーメーソン組合の創立者、及勤勉なる代表者として、幾多の猶太人を見るのである。一例を擧ぐれば、巴里出身の猶太人モーリン[9]は、所謂スコットランド式システムを廣めるのに、大なる功績のあつた者である。此教義の最上の地位にある者は、「東方及西方の皇帝」と自稱したが、モーリンは此帝王から高き稱號を受くると同時に、フリーメーソンを亜米利加に宣布すべき任を受け、サントドミンゴ、ジャマイカ、及サウスカロライナ州チャールストンに此教義を廣めた。佛國革命後、此教義はチャールストンより佛國に逆輸入せられ、茲に三十三階級より成るConseil Supreme組合の創設を見るに至つた。此高級組合の組織が、聖書の歴史と密接なる關係を有し、且其中に猶太精神の浸潤して居ることは、其各階級の稱號を一見すれば明瞭である。かくて各國の貴族王侯は、逐次其地位を失ふに引換へ、有爲なる猶太人には、フリーメーソンの貴族的稱號が附與せられつゝある。又猶太の世界支配の爲に、吾人を売らんとする猶太人の爲には、自由なる進路が開かれて居るのである。其外佛國の二組合を創設した猶太人に、軍隊御用商人「ベダーライド[10]」兄弟、及サミュエル・ホニス[11]がある。之を要するに佛・伊・墺・独及匈牙利等、到る處フリーメーソンに於て、猶太人は重要なる地位を占めて居るのである。

佛國二月革命(1848)の際、臨時政府員たりしクレミュー[12]は、佛國フリーメーソンの有力なる一領袖で、猶太人であつた。猶太人ガムベッタ[13]は、1869年教會と國家の分離を主張した。世界のフリーメーソンの政治上の目的の一は、教會と國家との分離を實現するにある。而して既に両者の分離を實行した國では、主としてフリーメーソンが之を爲し、而もフリーメーソン内の猶太人が、之を成し遂げたことは爭ふべからざる事實である。

英國フリーメーソン社員総數225,000人中、43,000人、即ち殆んど五分の一は猶太人である。而して組合によりて殆ど全く猶太人より成るもの(例へば「シェリ[14]」組合の如きは、猶太人の數四分の三に達して居る)。又は全然猶太人より成るヒラム組合の如きも有る。此のヒラム組合には「エドワード・アルバート親王(後エドワード七世)が、長となりて居たが、組合員が色々不都合を働いた爲め、遂に解散を命ぜらるゝに至つた。1870~1871年普佛戦役後、多數の猶太人が組合にはいり、基督教徒は組合を脱退するに至つた。當時に在りては、猶太人の便宜の爲に、幾多の組合が創設せられた。例へば猶太人の俳優を後援するドゥルーリー・レーン[15]俳優組合、黄色紙[16]を支持し、若き新聞關係者(Newspaperman)を養成する爲のサヴェッジ・クラブ[17]組合の如き此類である。古代の職工メーソン時代に於て何等組合と關係なかりし猶太人が、十八世紀には、漸次組合に採用せられ、今や凱歌を奏して居る。英國フリーメーソンが、チェンバレンの帝國主義の基礎をなせることは明らかで有るが、フリーメーソンの指導振も、非常に猶太的であることは看過してはならぬ。エドワード七世の弟コンノート公が、フリーメーソンの頭首となつて居ることも、何等上記の事實に變化を及ぼさない。

英國では「誰がフリーメーソン社員か」と問ふよりも、「誰が同社員でないか」と聞く方が早い。何となれば英國で少しでも知られて居る人々、例へば王族、大臣、貴族、代議士、新聞記者、大商人、銀行支配人等は、殆ど例外なしにフリーメーソンに加入して居る。彼の有名なるタイムス新聞社は、其入口の上に、公然フリーメーソンの徽章を掲げて居る。英國の或る著述家が、「フリーメーソンとは、人爲的猶太人に外ならず」と云つて居る位、英國ではフリーメーソンと猶太主義とが緊密の關係にある。英國新聞「The Eye Witness」の記事に「今日英國に於ける猶太人の地位は猶太人が秘密結社、即ち「フリーメーソン」内で優勢[18]の地位を占めて居ることに依つて、尤も明瞭に表はされて居る」といふことがあつた。

エドワール・デュマシー[19]が、「ロスチャイルド家」に就て記述した所によると、ロスチャイルド家は、1809年以來、独・佛・英のフリーメーソンに加入して居つた爲に、此一家に對して害を加へんとする者あれば、兄弟(社員)は直ちに之を密告して、其企圖を無効に終らせたのである。之は結社員は、兄弟の危険を知る時は直ちに之を知らせる義務を有して居るのに因るのであつて、此事は猶太主義に取りて、フリーメーソンが重大なる價値を有する所以である。無數の非猶太人を、猶太人固有の組織の爲に利用して行かうとするに於て、特に然りである。此猶太主義本來の組織は、イスラエル同盟(Alliance Israelite)と稱し、其代表者はモーゼス・モンテフィオーレ[20]と云ふ者である。モーゼス・モンテフィオーレは、伊太利のリヴォルノ(Livorno)に生れ、英國に永住し、英國女王の寵を受けて、貴族に列せられた。彼は全世界に於ける猶太主義の爲めに、大なる功績を擧げた。又彼は同族の利益を擁護し拡張せんが爲に、屡々旅行をしたが、彼がフリーメーソンに属して居る事は之が爲めに多大の利益を齎(もたら)した。

フリーメーソン結社内の猶太人が、其員數に比して大なる勢力を有して居るのは、猶太人の結社員が到る所に於て勤勉に働いて居るからである。彼等は又結社内で指導する者の地位を得る事を勉め、且つ多くの國では、已に其目的を達し、其の同族の利益の爲めに、其地位を利用して居る。又結社内に政治上の事を持ち込んだのも主として猶太人である。果して上記の事實があるとしたならば、獨逸國に於て之を洞察して、猶太主義に反抗せんとするものが無いであらうかとの問を生ずるのは自然であるが、之に就ては多數の人はよく知つては居るが、たゞ沈黙を守つて居るのである。之は組合の誓約に依つて束縛せられてをるのにも因るし、苟も反抗の態度を取る者は、其社會的地位を失ひ、又は経済的の打撃を與えられる事になり、或は生命上の危害をも蒙るの虞れがあることにも因るのである。

フリーメーソン社員フィンデル[21]は、最初猶太人の入社を許さない基督教主義に反對したのであるが、其後全然其意見を變更して、次の様に云ふて居る。

フリーメーソンは世界同胞を趣意として居るに拘らず、其猶太人は依然猶太人として他の種族をば、其利益の爲の材料と見做して居る。

予は嘗て猶太人は虐げられたる民族と考へて、之に對して同情を持つて居つたのであるが、今や反對に彼等が吾人を虐げるものであるといふ事を知つたので、之に反對して反抗の態度を取るに至つたのである』と。

尚彼は猶太人が賄賂を以て、司法の範囲にまでも干渉せる證據があると云ひ、又聖書の中に猶太人は各國民を支配すべきものだといふ意義を書き表はした點を指摘して居る。

世界大戦勃發當時に於ける獨逸のフリーメーソン結社長の氏名は、何故か秘密に附せられて居たが、實はコーン[22]と云ふ猶太人であつた。

 

[5] Carl Arnold von Kortum(1745~1824)ドイツの医師。

[6] Karl Koller(詳細不明)。ウィーンで棟梁にまでなったが、1897年3~4月、反メーソン会議を開催している。

[7] Anti-Semitic(反ユダヤ主義)のこと。

[8] Emmanuel Carasso 又は Emanuel Karasu(1862 in Salonica~1934 in Trieste)エマニュエル・カラッソは著名なオスマントルコのセファルディ・ユダヤ人家系の一人である。青年トルコ党は彼が立ち上げた。後にバルセロナでヨーグルトの事業(後のダノン)を始めた、Isaac Carasso はEmmanuel の甥。ダノンの会社名はIsaac の息子、Daniel Carassoの愛称から来ているらしい。

[9] Étienne Morin(1717~1771)エティエンヌ・モリンは、カリブ海ボルドーで活躍した商人。フリーメーソンスコットランド儀式の確立に貢献した。(アンターマイヤーが米福音教会のスコフィールド聖書に影響したことと似ているかも知れない一件。)

[10] Michel Bédarride。マルコ、ジュゼッペ、ミヒェルのベダーライド三兄弟。

[11] Samuel Honis脚註38参照。

[12] Isaac-Jacob AdolpheCrémieux(1796~1880)フランスのユダヤ人政治家。法務大臣ユダヤ人の権利の強力な擁護者。

[13] Léon Gambetta(1838~1882)は、19世紀フランスの政治家。

[14] Shelley Lodge。

[15] Drury Laneは ロンドンの コヴェントガーデンエリアの東の境界にある通り。シアターロイヤルやニューロンドンシアターが面している。

[16] Yellow Journalism のこと。発行部数を伸ばすために扇情的な内容を売る二流三流新聞。迅速さ、誇張を売り物にし、醜聞・捏造ネタを織り込み、事実の検証には殆ど頓着しない。日本で言えば朝日新聞の様な新聞のこと

[17] Savage Club。

[18] 原文:優勝

[19] 原典:Eduard Demarche(間違いか?)。Édouard Demachy(1854~1927)エドワール・デュマシーはフランスのジャーナリスト。

[20] Sir Moses Haim Montefiore, 1st Baronet(1784~1885)

[21] Gottfried Joseph Gabriel Findel(1828~1905)はドイツの作家。

[22] 原典:Kohn(詳しくは序説参照のこと)https://caritaspes.hatenablog.com/entry/2019/12/01/025130

 

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