フリーメーソンと世界革命15(原文)

25.フリーメーソン及び世界戦爭

 

読者は既述せる所に依りて、フリーメーソンは、世界共和國の建設を目的とし、之を達する手段として、到る所に革命を畫策せることの疑ひなきことを知られたであらう。然らば今次の大々的革命、即ち世界戦に就ても、フリーメーソンは、必ずや其責を負ふべきものであることは推定に難からざる所である。

平和主義者のフリーメーソンが、世界平和の標語を民衆に説ける一方に於て、英佛のフリーメーソンは、世界革命、即ち世界戦爭を馴致[1]すべき政策を實行しつゝあつた。フリーメーソン社員ウィルヘルム・オール(嘗ては平和主義者であつたが、今次大戦に於ける経験の結果、國民的自覺を得た人)は、よく佛國の國民精神を會得し、躊躇なく言明して居る、「佛國民全部は、獨逸國民を諒解しやうともしないのみならず、極めて危険なる偏見に囚はれて、アルザス問題を論議せること、恰も子供が火器を弄ぶに等しきものがある。且つ獨逸の事物に就て、甚しき誤解を懐いて居た故に、佛國民全部は世界戦の責任を負はねばならぬ。而して一大勢力たるフリーメーソンは第一に此責に任ずるべきである」と。即ちオールは、單に佛國フリーメーソンが此佛國民の謬見を正し、世界戦爭を抑止することに努力しなかつたら、いけないと云つて居るが、實際に於て墺國皇儲の殺害を畫策したのは、佛國のフリーメーソンであることは知らないと見える。而もオールと雖も、佛國フリーメーソンが、獨逸の倒潰を確信して居たことは之を認めて次の様に云つて居る。

「教育或る佛國人は、獨逸國を以て粘土の足を有する巨像に比し、早晩倒潰すべき運命にあるものとの見解を有して居た。彼等が、獨逸國に關する新聞記事に依つて知つた所は、權勢欲に駆られて、領土を拡張せんとするカイザーの帝國主義と、社會主義的革命との衝突であつた」と。

而して佛國のフリーメーソンは、巧に此の革命を促進することを圖つたのである。

當時佛國のフリーメーソンは、次の様に考へて居たらしい。「墺國皇儲の死と共に、総ての障碍は取り除かれることになる。何となれば八十四歳の高齢にある墺國皇帝は、感動の結果、此上生きながらへることは難かしからうし、後継者は弱年で無経験で餘りにお人好しだ。約言すれば、墺匈國は崩壊する。獨逸國も亦戦爭を始めることはあるまい。何となれば社會主義者や共和主義者はホーエンツォレルン家を廃して、君主々義に結末をつけ、以て戦爭を防止するであらう」と。

獨逸國の労働者が、革命をやるだらうとは、外國のフリーメーソンが、一般に嘱望し、且つ屡々言明したことである。要するにフリーメーソンは、世界共和國の爲めに、世界革命を期待して居た。而も世界戦爭其物は、一の悪事として寧ろ之を避けんことを欲した。此行爲は、丁度墺國の刑法にある「殺害の意思はなかつたが、敵意を有して爲した行爲の爲に、相手の人が死んだなら、其犯罪は殺人である」に該當する。(訳者註:フリーメーソンは世界戦爭を起す気はなかつたが、世界革命を欲したので世界戦爭が起きた。即ちフリーメーソンは、世界戦爭を起したと云はれても仕方がない)。

フリーメーソンの高級幹部は、「チェコ」、「ユーゴスラブ」、其他墺匈帝國内の異民族は皆蹶起すべきことを豫期し、又社會民主黨、両帝國の自由主義の新聞、及び獨逸國のフリーメーソンが、平和維持、戦爭防止に力を盡すべき事を胸算して居たが、唯墺國皇儲の暗殺に對する民衆の激昂だけは、彼等の意想外のことであつた。チュートン民族の國ではラテン民族の國に比し、政治的暗殺は極めて稀有のことであるので、皇儲の暗殺事件は、大なる激昂を買ひ、独り墺匈國内の獨逸民族のみならず、異種民族の一部にも、セルビアに對する墺匈國の宣戦を以て自由の爲め當然の事と感じたのである。

佛國のフリーメーソンが戦爭を欲し、且つ之を敢行したことに就ては、二個の主なる原因がある。其第一は、獨逸以外、一般のフリーメーソンの希望たりし専制君主及び貴族を廃して、共和政體を以て之に代へんとすること。第二はアルザス・ロレーヌの奪回であつた。佛國フリーメーソンが、復讐心の養成に努めたことは、頗る著しいものであつて、組合の名稱に依つて、アルザス・ロレーヌ奪回の理想を明確に維持せんとし、例へばアルザス・ロレーヌ復讐等の名稱を有するものもある。因にアルザスに於て、佛語を話すものは僅かに4%で、ロレーヌでは29%以下で、1871年に依然佛國人たるべき權利を實用したものは、約3%に過ぎなかつた。然るに佛國フリーメーソンの高級の者は、此古代より純粋の獨逸人の國たるアルザス・ロレーヌの割譲を以て、許すべからざる不正當の事となし、今次大戦中にも「アルザス・ロレーヌ」、「ザール河谷」、「ライン地方」の併合を熱心に主張したのも、主として佛國フリーメーソンであつた。1917年12月19日のハヴァス通信[2]は、佛國フリーメーソンの最高部の檄を發表した。之れに依ると「佛國は各國民(敵國民を含む)の解放の爲めに戦ふのである。故にアルザス・ロレーヌを要求するのは、壓迫せられた權利を要求するのであつて、両州の恢復は安全及幸福の象徴である」とのことである。これは即ち今次の戦爭は、佛國側がフリーメーソンの理想の下に、實行したものである事を明瞭に告白して居るものである。

獨逸フリーメーソンは、佛國政治家ポアンカレ、クレマンソー、ブリアン、デルカッセ等は結社員ではないと主張して居るが、此方面に精通せるシーマン博士[3]、及びカール・ハイス[4]は、最近彼等のフリーメーソン社員なることを證言して居るから、何も附け加へる必要はなからう。尤も彼等が獨逸のフリーメーソンの認めて居らぬ組合に属して居たことは、あり得ることであるが、之を以て彼等は結社員でないとすることは出來ない。佛國の政治家の殆ど全部が、階級の上下の差こそあれ、何れもフリーメーソン結社に属して居る事は事實である。独り政治家のみならず、各方面の有力なる、及び収入多き地位は、主としてフリーメーソン社員の占むる所で、高級軍人にも多數の結社員がある。佛國では獨逸の倒潰を豫言した者が少くなかつた。例へば1912年發行ド=シヴリュー少佐[5]著軍事小説「獨逸帝國の没落」では、獨逸はホーエンツォレルン三代目のカイザーと共に、佛、露、英、白耳義の協同動作に依り、全然倒潰するであらうと記述して居る。此著者は恐らくフリーメーソン社員であつて、民衆の思想を漸次恐るべき戦爭に馴らすのを目的としたのではないかと思はれる。事の成行を如何にも自然らしく避くべからざる運命であるかの如く見せるのは、フリーメーソンの慣用手段である。

佛國フリーメーソン第33階級猶太人イサーク・クレミュー[6]は、普佛戦爭の際も、ウィルヘルム一世の首に百萬フランの懸賞をかけ、巴里の組合が「ウィルヘルム」、「モルトケ」、「ビスマルク」の三人を、フリーメーソンの裁判に召喚しやうとしたが、今次の世界戦爭にも似よつたことがあつた。佛國の新聞は筆を揃へて「ホーエンツォレルンが獨逸に君臨する間は平和は成立しない」と書いたが、其後間もなく1912年4月に開かれたフリーメーソン會議の重要なる議題は、「如何にして獨逸内に君主政治反對の運動を起こし得べきか、世界平和の基礎は獨逸及び墺匈國皇帝を廃するにあり」と云ふにあつた。此思想は極めて神速に全世界に普及した。獨逸國民中にも、此思想浸潤し、先づ勝利に對する信念を失ふに至つた。當時の宰相ベートマン・ホルヴェーク[7]は、最初の時期に於て、此思想を防遏(ぼうあつ)することに努めなかつたことに就て、責を負はねばならぬ。彼は自身フリーメーソン社員であつた。

独墺両帝國社會民主黨は、平和招徠の爲めストックホルムに往來することを許された。彼等の持ち帰つたものは平和ではなく、純フリーメーソン式なる一新標語「民衆化」であつた。即ち彼等は、敵國が日々吾人を滅ぼさうと計圖(計画)して居る時に、独墺両國に於て選擧權の民衆化を唱へた。然るに民衆化なる標語の背後には「共和化」、或は「独墺両帝室出の君主を廃する」と云ふ眞の目的があつたのである。即ち此標語は、巴里よりストックホルムを迂回して、獨逸に輸入せられ、半年後1918年正月末、ロイド・ジョージ英國下院に於て演説して云つた。「最も信ずべき情報に依ると、獨逸内の革命は近づいた。協商國は確實に戦爭の目的を達することが出來る。従つて英國の戦爭目的は獨逸に知らるゝことなく、完全に達成せらるゝ事となる」と。墺國皇儲の暗殺、戦爭の煽動は、巴里のフリーメーソン中央部の畫策した所であるから、彼等が「無併合無賠償の平和」に反對するのは無論のことである。即ち佛國フリーメーソンアルザス・ロレーヌの獲得及び獨逸共和國の建設の爲めに戦爭を起したのであるから、此二大要件を充足しない平和は、彼等の容認し得ない所である。獨逸が平和を得やうとした意思が、佛國のフリーメーソン戦爭継続の意思の爲めに破られたことは、ベルンストルフ伯[8]が、調査委員會に於て平和の可能なりしことに就て次の様に説明したことを見れば明瞭である。「1916年1月米國のハウス大佐は第二回の伯林訪問を爲したが、彼は帰還後、私に對し、平和に對する主なる反對は巴里にあることを説明した。此證據により、佛國フリーメーソンの戦爭に關する働らき振り、及び其戦爭に關する責任は明瞭となつた訳である。

伊太利に於ては、フリーメーソンが、世界戦爭の開始を促進した事實を、特に明瞭に看取することが出來る。1902年、伊太利王ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が、伊佛の接近を圖つた時、既に三國(独、墺匈、伊)同盟は、少なからぬ打撃を蒙つたのである。此際伊、佛の接近を畫策したのは三人のフリーメーソン社員、即ち伊國宰相ザナルデリ[9]、駐伊佛國大使バレール[10]、及び佛國外相デルカッセであつた。次で1914年4月3日、伊、英、佛間の協定は、独墺両國の包囲を完成したもので、紐育ヘラルドの巴里版は、當時露國は動員を實施して居たことを報告して居る。此協定に参與した者も、皆フリーメーソン結社員たる伊太利のサンジュリアーノ[11]、佛蘭西のポアンカレ、及び英國エドワード・グレイ[12]であつた。

墺國皇儲暗殺の翌日(1914年6月29日)、伊太利フリーメーソンは集會を開いて、新に生じたる世界の情勢に就て協議し、越えて同年7月31日伊國内の460個の組合に對して通牒を出し、伊國のフリーメーソンは、世界のフリーメーソンの一致決議せる原則に従ひ行動すべきことを告知した。其意義は歐洲の「貴族主義國」即ち獨逸に對し敵對することにあつたのである。之れと殆ど同時に瑞典フリーメーソンの長たる同國王グスタフ五世は、伊太利王に電報して、伊國の独墺側に加擔せざることを切望した。1914年9月6日、伊太利フリーメーソンの長フェラーリ[13]は社員に對し、伊國は好機に接し参戦すべきを以て、國民を戦爭に對し準備すべきことを訓示した。同年9月13日には、反墺的大示威運動が行はれ、トリエステ及びトレンティーノ[14]の獲得を高唱した。其主なる演説者は、結社員シヴィニーニ[15]であつた。同年11月、獨逸前宰相ビューロー公が、伊墺間に斡旋して、墺國をしてとレンティーノを伊國に割譲せしめやうとした時、之を妨げたのはフリーメーソンであつた。

1914年12月3日、後の首相にて結社員たるサランドラ[16]は、内國に於て、伊太利は舊歐洲の改造に際し、重大なる要求を爲さねばならぬことに就て語つた。伊國で参戦の煽動を行つたのは、フリーメーソンに限られたことは、同國内でも認められて居ることで、現に参戦反對の新聞ヴィットリア[17]は、1915年3月初め「フリーメーソンは、1870年以來國家の解體を勉めて居るものであるが、今やフリーメーソンの初めた戦爭に、吾人を引き入れやうとして居る。彼等は巴里及び倫敦のフリーメーソンから命令を受けて居るのである」との記事を掲げた。無所属の人々に對し、伊國フリーメーソンは、暴力的手段を用ひた。例へばジョリッティ[18]は羅馬に於て其生命の安全を期することが出來なくなり、伊國参謀総長ポリオ将軍[19]は戦爭反對論者であつたが、不意に變死を遂げた。中立の新聞は漸次少くなつた。之より先き戦爭前、既に多くの新聞は駐伊佛國大使バレールの媒介で、多額の買収金を受取つた。伊太利の社會主義者ベンチーニ[20]は、内國に於て佛國は戦爭前既に伊國新聞の爲め、2,500萬リラを支出したことを主張したが、誰も之を否認する者はなかつた。[21]

伊國フリーメーソン社員第33階級ヴァカルッチ[22]博士は1915年3月10日マッツィーニの命日(マッツィーニは1872年3月10日に死せり)に際し激烈なる戦爭演説を行ひ、マッツィーニのプログラムを回想し、吾人は彼の遺業を完成せねばならぬと述べた(トリエステトレンティーノの占領を意味する)。

参戦宣傳の最高度に達したのは、1915年5月5日、ジェノヴァの附近に行はれた参戦大示威運動當日であつた。ガブリエーレ・ダヌンチオ[23]は戦爭演説を爲し、イタリアの493個の組合は全部其旗を持つて之に参集した。其後三週間を経ずして伊太利の對墺戦線の實現を見るに至つた。1916年5月24日参戦一周年記念日に際し、伊國フリーメーソンの長たるフェラーリは明瞭に説明した「宣戦は伊國フリーメーソンの命令に基づきて行はれた」と。此言葉は稍や異様に聞こえるかも知れないが、當時の伊國の首相として、伊國の中立を宣言したサランドラはフリーメーソン社員で、フェラーリの命令に従ふのは當然の事であつたのである。以上により伊國をして参戦せしめたのは、全く伊國フリーメーソンの力であつたことを知ることが出來る。

今次の世界大戦間、佛國系瑞西人が全力を擧げて伊國に加擔したのに反し、獨逸系瑞西人は獨逸に對し餘り同情を表はさなかつた。之に就てもフリーメーソンの影響を看過することは出來ない。瑞西には総計35個の組合があるが、其内獨逸の組合は11個、佛國のが23個、伊太利のが1個である。又組合員4,300人中、獨逸人は1,500、佛國人は2,700、伊國人は100名である。一體瑞西に於ける此三國人の人口は、独64%、佛28%、伊8%であるが、フリーメーソン結社員の數は、佛64%、独34%、伊2%である。斯く佛國フリーメーソンの數の勝つて居ることは、大戦間に於ける瑞西フリーメーソンの態度に照應して居るのである。白耳義の親佛的態度も主としてフリーメーソンの仕事である。同國々王アルベールは、フリーメーソン社員であるが、同國のフリーメーソンは、世界の共和政體を理想として居る。

西班牙に於てもフリーメーソンは、1914年以來百方同國の参戦を促すに努めた。1917年8月下旬、マドリード其他の各地に行はれた参戦要求の示威運動では、400人の死者を生ずる程の騒動を演じた。而も労働階級がフリーメーソン指導の下に對独開戦を主張したのは、墺匈國の労働者が、同じくフリーメーソンの指導を受けて「平和」を要求したのと對比し、誠に面白い現象と云はねばならぬ。是れ全く両帝國を倒して共和國を以て之に代へんとするフリーメーソンの希望に出たことである。

西班牙が戦爭の惨禍を蒙らずに終つたのは、主として親独家たる同國首相マウラ[24]と、同國王との功である。之も戦爭を煽動するものは帝王ではなくて、フリーメーソンであると云ふことに對する一つの例證である。

葡萄牙に於ても、フリーメーソンは開戦以來、親佛的輿論の喚起に努めた。中立の同國人社員の一人[25]は言つた。「英國(の組合)は獨逸の勝利が自由の喪失を意味することを宣傳し、此目的の爲葡萄牙に2500萬[26]の金を投入した。金は輿論以上の仕事をする。何となれば輿論とは、新聞のことで、新聞は金でどうにでもなるものだからである」と。實に英國は同一手段を全世界に施し、且つ成功した。

1915年5月中旬、リスボンに行はれた革命は英國の金で、フリーメーソンの行つた威力行爲であつて、其目的は葡萄牙の大戦参加を實現せしむるにあつた。

フリーメーソンが戦爭を煽動した一つの好適例を示せるは羅馬尼亜である。1913年夏羅馬尼亜、希臘、塞耳比亜間に、對墺國秘密同盟が成立した。羅馬尼亜のコアンドラ将軍[27]は、1914年1月に云つた「羅馬尼亜は羅・塞両國の砲を匈牙利に送り、且つ數百年來吾人の領土たる彼の(匈牙利内の)地方を併合する爲め、既に所要の措置を取つた」と。羅馬尼亜に於ても戦爭煽動者はフリーメーソン社員であつた。戦爭勃發當時、同國には16個の組合があつて「内5個宛は佛國及び伊國の大組合に属して居た。前の羅馬尼亜王カロル[28]は、中欧両國の味方であつたが、1914年10月11日、毒を入れた珈琲で殺された。是に於て戦爭煽動者は、全然勝手に振舞ふことゝなつた。新に立つた女王は、英國の王室出で、戦爭煽動者の一人であつた。

同國に獨逸人の一組があつて、佛國式の名稱を有し、佛國の大組合に属して居たが、大組合は之を獨逸人の組合と知らずに羅馬尼亜に反獨逸気分を煽るべき記事(同文通牒)を送附し來り、且つ之を新聞に公布すべきことを要求して來た。組合は之を拒絶し、爾後佛組合との關係を絶つた。之は佛國フリーメーソンの戦爭煽動の一好例である。

希臘でも戦爭煽動を行つたのは、フリーメーソンであつた。結社員ヴェニゼロスは、1914年の冬以來、希臘を對独墺戦爭に牽き入れやうと努めた。協商側は彼を介して色々希臘を誘惑すべく試みた。即ち1914年11月22日にはアルバニア土耳古領を希臘に與へることを約し、1915年1月12日には、小亜細亜の沿岸に領地を得させると云ひ、次にはキプロス島までも與へると約したが、コンスタンティノス王が、其國民の爲め平和を維持することに努め、ヴェニゼロスを却けたので、如上の誘惑は不成功に終つた。そこで協商側は、コンスタンティノス王に對し、脅迫的態度を執るに至り、結局1917年6月11日、英・佛海軍委員は希臘の首相に對し「國王退位するにあらざれば雅典市を廃墟と化せしめるであらう」との英佛の最後の通牒を交附した。コンスタンティノス王は遂に退位し、ヴェニゼロスは同月28日執政官となつた。

英國、即ち最高の大組合、又は世界組合の目的は、全世界の支配である。彼の有名なるセシル・ローズ[29]は嘗て云つた「アフリカ全部、パレスチナ、ユーフラテス河谷、南米全部、太平洋上の諸島嶼、蘭領印度、支那の海岸、及び日本、並に北米合衆國は英領とならねばならぬ。然らば世界に戦爭はなくなるだらう」と。英國フリーメーソンの傑物ロード・キッチナー[30]は1911年に説明して云つた。「歐洲に於ける英國の國境は、運河にあらずしてマース河[31]の線である」と。之等英國フリーメーソンの計畫は、頗る冒険的に聞えるが、世界戦の結果、彼等は著しく其目的に接近することが出來た。ロイド・ジョージは、1917年6月末此計畫の精神に於て、独領植民地メソポタミア、及びアルメニアを英領たらしむべく要求した(丁度此時独露両國の社會民主黨はストックホルムに於て無併合の平和に就て談判をして居た)。而して1917年、英軍がパレスチナを占領した時、ロイド・ジョージは、英國下院に於て、英國は決して再びパレスチナを手離さないと聲明した。英國では、領土の獲得と、フリーメーソンとは密接なる關係があつて、英國領土の拡張と、英國フリーメーソンの發展とは相互に相助輔け合つて居ると云ふことが出來る*。*嘗てのキリスト教とスペイン・ポルトガル植民地の関係を彷彿させる -燈照隅)

英國の大を成したのは、フリーメーソンの事業であるとは、英國人自身の云ふ所である。英國の将帥、占領者は、凡てフリーメーソン社員であつた。例へばゴードン将軍[32]、ボーア戦爭司令官ロード・ロバーツ[33]、南阿(アフリカ)高級委員のロード・ミルナー、今次世界戦に於けるフレンチ将軍、ロード・キッチナー等は何れもフリーメーソン社員である。従つて英本國及其植民地には、之等の人々の名を冠した組合が多數にある。全世界に行き渡つて居る英國組合は、英國の帝國主義の爲めに盡したのであつて、今次の大戦間、英國の組合は羅馬、巴里で開かれたラテン・フリーメーソンの政治的の會議に加はつた。斯くて伊太利の参戦以前、英・佛・伊三國のフリーメーソンの高級幹部の間には、政治上の談合が行はれたのである。(1915年2月12日、巴里に於ける協商側のフリーメーソン最高幹部の會合に於て、伊太利の参戦を決定した)。

英國フリーメーソン内の猶太主義の影響に就ては、既に書いたから、此處には英國では多數の猶太人のフリーメーソン社員が、貴族に列せられ、其一部の者は同國上院議員になつて居ることを記するに止めて置く。例へばロード・ビーコンスフィールド[34]、ロード・ロスチャイルド[35]、デーリーテレグラフ新聞社長ロード・バーナム[36]、ロード・ノースクリフ[37]其他である。之等猶太人の貴族連が、英國フリーメーソン内で特種の地位を占めて居ることは、多數の組合が、此人々の名稱を冠して居るのを見てもわかる。英國に於ける猶太人のフリーメーソン社員が、獨逸を憎悪して居たことは、ノースクリフの新聞に依る獨逸攻撃を見れば明瞭である。

王室とフリーメーソンと關係の密接なること、英國の如きは世界に其比がない。故エドワード七世も、現在のジョージ五世も、フリーメーソン社員である。尤もエドワード七世の崩御の後は、コンノート大公が、大棟梁となつて居るので、ジョージ五世は、フリーメーソン内では餘り重要な役目を有して居らない。皇太子プリンス・オブ・ウェールズも既にフリーメーソン社員となつた。彼は1919年6月27日に行はれたフリーメーソンの戦勝祝賀式に参列した。英國の政治家は、全部フリーメーソン社員である。

英國の世界強國政策を促進する爲め、1885年にEmpire Lodge No.2108が組織せられ、ザンジバル國王[38]ジョホール國王[39]等其會員となつた。第二回日英同盟の締結に主として参與したる日本政治家林氏(林 董子爵)も、亦此組合に加入した。世界戦に際し、印度の王侯が、英國側に附いたことに就ては、此組合の活動の結果に待つ所が多い様である。世界戦に於ける協商側の戦勝は又英國の新聞雑誌記者組合の活動に待つ所が大きかつた。此種の或組合[40]の一領袖カルヴァート[41]の云つたことは實際である。曰く「ペンを以てする新聞は、其他の方法と同じく重要である。故に此ロッヂの會員は、フリーメーソンの原則の防禦の爲めに、其最後の一〇(インキの)に至るまでを注ぐことを覺悟して居る[42]」と。

此世界戦爭が、明瞭にフリーメーソンの戦爭であつたことは、英國フリーメーソン新聞の自ら云ふ所である。彼等は此戦爭は貴族主義・専制政治オートクラシー、即ち両帝國)と民主主義・民主政治(デモクラシー)との決戦であつたと主張して居るが、實際は彼等獨逸のカイザーの爲め脅威を受けたと稱するデモクラシーの爲めではなく、却つて世界資本主義のオートクラシーの爲めに戦つたのである。デモクラシーとは、何ぞやの問いに對し、英國の代議士ポンソンビー[43]は、下院に於て次の如く云つて居る。「デモクラシーとは國家の統治に、決定的に参與する、教育完全にして、其政治上の自己の地位を自覺せる國民の政治的状態である。我が英國人は、斯の如き状態にはまだ中々達して居らぬ。我等は戦爭前にもかゝるデモクラシーは有して居なかつた」と。

デイリー・テレグラフ新聞も英國民は英佛協定、日英同盟、英露協約に就て何等關與する所なかつたことを認めて居る、曰く「之等は凡て英國政府の締結したもので、國民は締結に先立ち、此種のことが考慮せられて居るといふことさえも知らなかつたのである。英、佛、露は1913年秘密協約を結び、獨逸と戦爭の際、佛國の獲得し得べき土地(アルザス・ロレーヌ、ライン等)を協定した。英國のタウンスヘンド将軍[44]は、英、佛、露及び白耳義の軍事全權間に獨逸を滅ぼすべき秘密軍事會議が行はれ、将軍も之れに参列したことを語つた。英國の開戦後第一週中に15萬人を白耳義に上陸せしめ、且つ直に白耳義の軍属と共に、ライン地方に侵入すべきことに定められ、同時に佛軍はフォゲーゼン[45]を超え、露軍は東プロシャを経て進撃すべきことに成つて居た。既に當時に於て、ボーア人[46]に對し、其援助の報酬として、獨逸領南阿弗利加を與ふべきことを約した。

他の一證を擧ぐれば、英國の前陸相ホールデン卿(Lord Haldane)は、1915年7月15日、ロンドンにおける演説の際、英國をして目立たぬ様に、獨逸との戦爭の爲めに準備したことを以て、自己の功績として居る。英國労働者の指導者マクドナルド[47]は、戦爭勃發直後、英國外務大臣グレーに對し、グレーが1906年以來、獨逸との戦爭を準備し、且つ此際協商側は、毫も白耳義の中立を意に介さないのは當然のことゝ考へて居たことを非難した。國境要塞モブージュ[48]が、既に1913年に於て十分に英佛の弾薬を持つて居たことは注目に値する。

英國の大組合は、戦爭勃發後直ちに獨逸出身の會員を全部逐ひ出し、サンダーハムの領事たる獨逸のフリーメーソン結社員を、反逆罪の名の下に死刑の宣告をなした(が、これは恐らく非合法である)[49]英國大組合は、ラテン民族のフリーメーソン會議には、常に全權代表者を送つたが、獨逸の平和提議は侮辱を以て突き返した。英國フリーメーソンは、逐次各國特に米國を戦爭に引き入れることに全力を盡した。戦爭前英帝國内のフリーメーソン社員の數は、250,000乃至300,000であつたが、戦爭中に450,000に上つた。かくの如き劇増をなしたことに就いては、英米フリーメーソン新聞が自ら云ふ如く、今次の大戦はフリーメーソンの戦爭であることに考へ及んだならば、自づから合點の行くことである。

英國フリーメーソンの平和祝賀會は、事實上盛大なる戦勝祝賀會であつた。此日は1914年6月28日より、満五個年に當たる1919年6月27日と定め、倫敦のローヤル・アルバートホールで行はれた。8,500人の社員は室に溢れ、加奈陀、新西蘭、豪州、南支那錫蘭(セイロン)、英領ギニア等の大組合の多數の代表者も、之に参列した。米國の16個の大組合も、高級幹事を代表として、式に参列せしめた。寔(まこと)に未曽有の英米フリーメーソンの一大観兵式とも云ふべきものであつた。

中欧強國を撃滅せんとした世界組合の計畫が成功したる後、次で來るべきものは、英國、猶太、米國の指導の下に於ける世界フリーメーソンの世界統治であつて、今日既に其兆が認められるのである。

世界フリーメーソンの關係に就て深刻なる研究を遂げ、崩潰せる各國の廃墟の上に、世界共和國を打ち建てんが爲めに、世界革命、即ち世界戦爭を起した所の本來の力は、世界フリーメーソンなることを知るに及んでは、吾人は獨逸のフリーメーソンに對しても、不満の念を禁ずることが出來ない。獨逸のフリーメーソンは、其一員たる「オール(Ohr)」の言に依れば、高き理想に憧憬するの餘り、現實を見失つたとの事であるが、予は獨逸の「フリーメーソン」が「ラテン」民族の大組合の、政治的革命的性質を承知して居つた筈なるに拘はらず、之と關係を保持するに至つたのは、獨逸人の馬鹿正直の然らしむる所だと云はざるを得ない。1913年8月、ハーグに於て開かれたフリーメーソン平和會議に於て、白耳義結社員が、佛、独両國民の接近を妨げるものは、獨逸の軍國主義であると言ひ、且つ獨逸フリーメーソンの任務は、獨逸をして再び哲學者、詩人、芸術家の國民たるべき古代の理想に引き戻すにあると云ふたのに對して、獨逸の結社員は、當然佛國が三年兵役を採用して、獨逸をして軍備拡張を餘儀なくせしめたことを指摘すべきであつたにも拘はらず、何等之に對し抗言するところが無かつたのは、佛國フリーメーソン社員の意見に賛意を表したものと云はざるを得ない。のみならず、佛國のフリーメーソンの政治的精神に眩惑されて、獨逸國内に革命を起し、或は少くも之を促進する考へであつたと観る外はない。是に於てか、戦時中獨逸のフリーメーソンがとつた曖昧なる態度、並に佛國フリーメーソンの攻撃に對する其の防禦の薄弱なりし原因を了解することが出來る。

米國には、60個の大組合があつて、其下に14,000個の組合があり、棟梁會員(マスターメーソン)(第三階級以上)だけでも170萬人に達して居る。其外フリーメーソンと關係ある秘密結社の會員數は、約400萬人ある(獨逸の大組合同盟の承認して居るものは大組合16、會員約50萬人である)。有色人種の大組合は32個あつて、組合は約千個である。以上の數字を見ただけでも、米國に於けるフリーメーソンの價値を知ることが出來るであらう(紐育州だけの會員數92,460人である)。(セオドア)ルーズベルトが、フリーメーソン社員であつた事は人の知る所であるが、ウィルソンが同社員なりや否やに就ては、色々説があつたが、米人の證明する所によれば、彼もブライアンも共に確實に社員である。色々矛盾した報道のあるのは、重に獨逸側の承認を得て居らぬ大組合に属する者に就てである。米國で有力な地位に居る人は、大概は社員である。何となれば、米國では社員でない者は、政治上でも、實業上でも、發展を遂げることが殆ど不可能であるからである。米國議員の三分の二(232名)は、フリーメーソンであり、元老院(上院)でも、フリーメーソン社員が過半數(48名)を占めて居る[50]米國フリーメーソンの態度は、大戦の初期に於ては不定であつた。例へば兵器弾薬の輸出に就て、最初は猛烈な反對があつたが、間もなく共和國としては、共和政體、及各國民の融和に賛成する聯合國の方に加擔する外はないと云ふ思想が優勢となつた。尤も聯合國の一員として、ツァーリの露國があると云ふので、之に反對するものも少くなかつたのは事實である。是に於て第33階級の「モーア」は、慎重の態度を執つて、先づ次の様な事を云つた。「吾人は獨逸國民に對しては、最大の敬意を表するものである。……併しながらフリーメーソンはミリタリズムには反對であつて、且つ米國人の理想は國王神權なるものを尊重しない」(1915年10月華盛頓フリーメーソン新聞The Newage)と。之に對し獨逸系米國フリーメーソン社員中、誰も反對するものがなかつた。そこで漸次反独的煽動が始まつた。例へば「歐洲聯邦の建設に依つて、永久に戦爭を豫防することが出來る」。或は「フリーメーソン」は正義權利及眞理の爲の戦爭の先駆者として、世界同胞の黄金時代を招來するのであらう」。など云ふ宣傳が行はれた。之は米西戦爭、或はフリーメーソン葡萄牙に、内國戦や、政治的殺人の絶え間ない事等を引合に出すまでもなく、馬鹿気切つた事であるが、事實に於ては頗る効果があつたのである。フリーメーソンは、此如くして漸次米國大戦参加の素地を作り、1915年2月には、伊太利の大棟梁「フェラーリ」「ナタン」の両人は、伊太利政府の委任を受けて、米國渡航し、數か月間同國に滞在して、反独墺熱を煽り、且米國を大戦に引き入れることに努めたのであつた。米國フリーメーソンは世界大戦の結果に甚大なる寄與をして居ることは、どうフリーメーソンが大戦間其會員の増加に非常な努力をしたことに依つて知ることが出來る。即ち戦爭中だけで、無慮50萬人の會員を増加し、現在會員は計200萬に達して居る。佛國の歴史家ハノトー[51]は、次の様に記述して居る。「1914年マルヌ戦の前に佛國の人心萎靡し、多數の政治家は直に獨逸と講和すべきことを希望したる時に方(あた)り、三名の米國使節は佛國政府に對し、戦爭継続を希望すると共に、米國も戦爭に参加すべきことを約し、且米國には目下の處、米國の参戦を希望する者は、五萬人しきやないが、軈(やが)ては一億に達するであらうと述べた」と。尚ほ最近「ウィルソン」が、元老院(上院)に於ける説明中に、彼は如何なる状況に於ても戦爭に参加したであらうと述べた。即ち潜水艇戦が無くても、米國は参戦したであらう。猶ほ西方戦場(西部戦線)に於ける軍隊中、米國フリーメーソン社員の數は、25萬に達したことは注意に値する。米軍総司令官「パーシング」将軍は、同じく結社員である。それで佛國フリーメーソンは、權利擁護の戦爭の爲めに歐洲に來たパーシング将軍[52]、及其の勇敢なる部下に對して「サン=ミエル[53]」に於ける美事なる戦勝を稱賛した。

此の今次の世界大戦は、フリーメーソンの戦爭であつたといつても決して過言では無い。米國英國フリーメーソン新聞は、當に世界戦爭は純然たるフリーメーソンの戦爭であつて、其の理想の爲めに行はれたものだと主張して居る。

ケベック」(カナダ)の大組合は1917年年報に、米國フリーメーソンは、世界戦の最初より協商側であつたと記述して居る。又倫敦發行のフリーメーソン新聞The Freemasonには「開戦後第一週に於て、米國フリーメーソン大會は、英國及其與國に爲し得る限り援助を與へることを決議した」と報じ、又同紙は、次の様に書いて居る。「米國の結社員は、200萬人以上に達し、而も其各社員は該結社が共和國の安全及存立上、如何なる價値を有せるかをよく承知して居る。世界戦爭は、貴族主義と、民主主義の戦であつて、世界の将來は民主的となるであらう。之は獨逸のカイザーが之を知ると否とに關しないのである」と。

米國労働同盟首領サミュエル・ゴンパースの米國に於ける勢力は大したものである。彼は富豪で、フリーメーソン社員で、猶太人である。彼は米國労働者の間に少しでも戦爭反對の気分が見えると、すぐ之を抑へつけた。米國の猶太人は、皆な心身を擧げて協商側となり、對独戦爭に従事するとは、或る有力なる米國猶太人(オスカー・ストラウス[54])の言であつた。

北米、中米、南米の諸國を通じ、二三の例外を除く外、相踵(つ)いで獨逸に對し宣戦を布告した。而してこれ等諸國の参戦に最も力を致したものは各國のフリーメーソン社員であつたことは、米國(北米合衆國)と全く其揆を一にして居る。アフリカの黒人共和國リベリアが獨逸に對し、宣戦するに至つたのも、同國フリーメーソンの力であつて、又同國は彼の偽善者ウィルソンの爲め、米國側に立つて参戦するか、其独立を失ふか、二者其一を選ぶべく強要せられたのであつた。支那の参戦も、英米フリーメーソン系の政策に基くものである。北京には、高級組合があつて、支那の有力者は之に加入し、同組合は華盛頓にある高級第33階級社員の団體に属し、此の団體は米國政府と密接な關係を持つてをる。其他、支那には英國の大組合に属する二十數個の組合がある。

日本には、英國系統のフリーメーソン結社員がある。即ち英國大組合に属する4個の組合の外、横浜、神戸、長崎に各一個宛のスコットランド組合がある。林子爵が結社員であつたことは有名なことだ。暹羅(シャム)は獨逸とは常に良好の關係にあつて、何等戦爭の原因たるべきものはなかつたに拘らず、やはり獨逸に對し宣戦した。英國が、各國の有力者と親密な關係を保持する爲に、世界各地の貿易場に、自國の組合を配置して居ることは人の知る所で、暹羅も其顕著なる一例で、同國の財政は、英國人が監督の任に當たつて居る。要するにアジアの大部も獨逸に對し敵對の關係に立つたものであつて、之は主として組合の事績であつたのである。

現時政治に關するスコットランド式高級フリーメーソン(即ちグラントリアンConseil Supreme(佛蘭西大東社最高會議))のある國は、総計31箇國であつて、内27箇國は、独墺に對し宣戦した。残餘四箇國は、獨逸、匈牙利(墺太利)、ボリヴィア、アルゼンチンである。英米フリーメーソン新聞は、今次の世界大戦を以て、フリーメーソン戦爭だと稱して居るのは、正當の事である。即ち此戦爭の動機たりし墺國皇儲の暗殺は、フリーメーソンの仕事で、各國宣戦の動機をなしたものも、フリーメーソンの力が主であつた。彼等は、戦爭の目的は貴族主義國家、君主國の没落、獨逸ミリタリズムの倒潰にあることを唱へ、大戦の結果は、彼等の希望通り、墺匈の崩潰は、ハプスブルグ、及びホーエンツォレルン両王家の駆逐、アルザス・ロレーヌの奪還、ライン地方の分離、波蘭の新設、土耳古の分割等となつたのである。

 

[1] 徐々に馴らしてある状態になるよう仕向けること。

[2] Havas ハヴァスは1835年創立のフランスで最初の報道局。AFP もここから派生した。1998年にVivendi に買収された。

[3] Dr. Theodor Schiemann(1847~1921)はドイツの歴史家。バルトドイツ人の家系に生まれた、保守的国家主義的思考の、プロテスタント

[4] 原文カールハイゼ。Karl Heise(1872~1939)は、神秘主義的、陰謀論的作品で知られるドイツの人文科学者。「協商のフリーメーソンと世界大戦(1919)」は反ユダヤ・反メーソンの陰謀論の古典。

[5] Louis Marie Sylvain Pierre Larreguy de Civrieux(1859~1941)ド=シヴリュー少佐はフランスの作家。

[6] 原典:Isaak Cremieux、原文イ・クレミエー。Isaac Adolphe Cremieux(1796~1880)は、1830~40年代の政治犯裁判で名を馳せたフランスの弁護士、政治家。1848年の革命後、臨時政府の法務大臣、1871~1875年国民会議代理、1785年以降終身元老員議員。

[7] 原文:ベートマンホルウェヒ。Theobald Theodor Friedrich Alfred von Bethmann Hollweg(1856~1921)はドイツ帝国第五代宰相。

[8] 原文:ベルンスドルフ伯。Johann Heinrich Graf von Bernstorff(1862~1939)はドイツの政治家。プロシャ王国で最強の政治家の息子。父親が1862年より英国大使となったので、1873年の父の死まで英国で過ごした。1908~1917年駐米大使。1887年、父の反対で出来なかった結婚をビスマルクの計らいで実現した。配偶者はニューヨークの裕福な絹商人の娘だった。

[9] Giuseppe Zanardelli(1826~1903)フリーメーソン

[10] 原文:パレール。Camille Barrère(1851~1940)バレール。駐伊フランス大使。フリーメーソン

[11] 原文:サンギュラノ。Antonino Paternò Castello, Marchese di San Giuliano(1852~1914)マルケゼ(侯爵)・サンジュリアーノはシチリアの古い貴族の家系に生まれ、1909~10在仏外交官、1910~14年イタリア外務大臣フリーメーソン

[12] Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon(1862~1933)初代ファロドン・グレイ子爵は、英国の政治家。

[13] Ettore Ferrari(1845~1929)はイタリアの彫刻家。イタリア大東社の大棟梁。

[14] 原典:Triest und Trient。トリエステアドリア海港湾都市。トレンティノ=アルト・アディジェは長くオーストリアの領土であったイタリア北東部の州。

[15] Guelph Civinini(1873~1954)はイタリアの作家・詩人・ジャーナリスト・探検家。フリーメーソン。 

[16] Antonio Salandra(1853~1931)はイタリア保守の政治家。1914~16年第33代首相。彼はイタリアの領土恢復主義に立って、第一次大戦で協商側に就くことを確約した。 フリーメーソン

[17] Vittoria(イタリアの新聞社、詳細不明)

[18] 原文;ギオリッチ。Giovanni Giolitti(1842~1928)はイタリアの自由主義的政治家。1892年~1921年まで断続的に5回に亘って首相を務めた。ファシズム台頭期にはこれに協調的であったが、のちに反対者となる。

[19] Alberto Pollio(1852~1914)はイタリアの将軍。1908年よりその死までイタリア陸軍参謀総長を務めた。

[20] Genuzio Bentini(1874~1943)はイタリアの弁護士、政治家。社会主義者フリーメーソン

[21] 「Internationale Rundschau」チューリッヒ、1917年11月。

[22] 原典:Vaccaluzzi。(詳細不明)

[23] 原文:ガブリエル・ダヌンチオ。Gabriele D'Annunzio, Prince of Montenevoso, Duke of Gallese(1863~1938)ガブリエーレ・ダヌンチオ・モンテネヴォーソ公・ガレーゼ伯はイタリアの詩人・劇作家・ジャーナリスト。第一次大戦に従軍。1914年以降政治家としても活躍。自身ファシストと宣した事は無いがその思想はムッソリーニに影響を与えたと言われている。フリーメーソン

[24] Antonio Maura Montaner(1853~1925)はスペインの首相を1903~04、1907~09、1918、1919、1921~22の期間、五回務めた。常に憲法を守り、スペイン特有の悪い政治風土を避けて議会制度を守った首相。マウラはフリーメーソンではない(原典脚註)。

[25] 原文:エルプリウアー。原典:El Privaz。引用元のカール・ハイスの「協商フリーメーソンと世界大戦」を読むと、英国のロッジが金を積んでポルトガルのロッジに働きかけていることが読み取れると共に、このEl Privaz と言うのは特定されない一個人、程度の意味であることが分かる。それで、「社員の一人」とした。

[26] 原文は二百五十萬。原典は25 Millionen なので、2500万の間違いと思われる。

[27] Constantin Coandă(1857~1932)はルーマニアの兵士で政治家。将軍まで上り詰め、1918年には短期ルーマニアの首相兼外相となった。息子の一人は数学者でコアンドラ効果で有名。

[28] カロル一世(1839~1914)は本名Karl Eitel Friedrich Zephyrinus Ludwigでホーエンツォレルン家の侯爵の息子。ルーマニア公(1866~1881)、ルーマニア王(1881~1914)。正史には毒殺のことは一切触れられて居ない。

[29] Cecil John Rhodes(1853~1902)は英国の植民地政治家。南アフリカの金・ダイヤモンド鉱山で巨富を得て英国のアフリカ植民地政策の一翼を担った。嘗てのローデシア(現ジンバブウェ)は彼の名前から命名された。

[30] The Right Honourable Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl Kitchener(1850~1916)は英国の陸軍軍人。最終階級は元帥。初代キッチナー伯ホレイショ・ハーバート・キッチナー。第一次大戦中、陸軍大臣で死去。

[31]マース川(オランダ語:Maas、フランス語:Meuse ムーズ)は、フランス北東部を水源としベルギーを流れオランダで北海へ注ぐ川である。 9世紀頃よりアルザス、ロレーヌ地方がフランスに併合されることとなるヴェストファーレン条約が締結された1648年まで、神聖ローマ帝国の西の国境線がこの河川であった。

[32] Charles George Gordon(1833~1885)英国の軍人。太平天国の乱の時、民兵組織の常勝軍を率いて活躍、その後、スーダンハルツームで戦死。

[33] Field Marshal Frederick Sleigh Roberts, 1st Earl Roberts(1832~1914)初代ロバーツ伯爵・陸軍元帥。

[34] ヴィクトリア女王の寵愛を受けた首相ベンジャミン・ディズレーリのために1876年に創設された称号。

[35] Nathaniel Mayer Rothschild, 1st Baron Rothschild(1840~1915)英国の銀行家・政治家・初代ロスチャイルド男爵

[36] 原文:バーンハム。Edward Levy-Lawson, 1st Baron Burnham(1833~1916)本名エドワード・レヴィ‐ローソン。初代バーナム男爵。

[37] Alfred Charles William Harmsworth, 1st Viscount Northcliffe(1865~1922)本名アルフレッド・ハームズワース。初代ノースクリフ子爵。1896年5月にイギリス最初のタブロイド紙『デイリー・メール』を創刊、1903年には『デイリー・ミラー』を創刊し、『ザ・タイムズ』と『オブザーバー』を買収した新聞王。輿論に多大な影響を与えた。

[38] Sayyid Faisal bin Turki(1864~1913)ザンジバルタンザニアの沖にある島でイスラム系スワヒリ文化の地域。16世紀ポルトガル、17世紀以降オマーン帝國が支配していた。19世紀になり、英国の保護下に置かれた。

[39] Sultan Sir Ibrahim Al Masyhur Ibni Almarhum Sultan Abu Bakar Al-Khalil Ibrahim Shah(1873~1959)は22代ジョホールのスルタン。ジョホールマラッカ海峡周辺のマレーシア側の地名。

[40] ロンドンの「Gallery Lodge No. 1928」や「Fratres Calami Lodge No. 3791」等の組合のこと。(原典より)

[41] Albert Frederick Calvert(1872~1946)は英国の著述家、技師、探検家。

[42] 「そのインキの最後の一滴までもかける覚悟が出来ている」(原典直訳)出典:Germania 17. Juli 1919

[43] Edward Ponsonby, 8th Earl of Bessborough(1851~1920)第8代ベスバラ伯爵。ダンカノン子爵としても知られる。1884~1895年英國下院議長を務めた。

[44] Sir Charles Vere Ferrers Townshend(1861~1924)は第一次大戦メソポタミアで連合軍最悪の戦いを行ったと言われる将軍。1918年まで戦争捕虜として過ごした。クート・アル・アマラをトルコに渡した同一人物。

[45] ヴォージュ山脈(フランス語)のドイツ名。ロレーヌ(ロートリンゲン)の南に位置する1000m級の山脈。

[46] 又はブール人。Boerはオランダ語で「農民」の意。17世紀に南アフリカケープタウンに移住したオランダ人やナントの勅令以後迫害されたフランス人プロテスタントの亡命者の子孫。今ではアフリカーナーと呼ぶ。

[47] James Ramsay MacDonald(1866~1937)英国の政治家。労働党党首。英国初の労働党の首相。

[48] Maubeugeはベルギー国境にあるフランスの要塞の町。元スペイン領オランダの町で17世紀仏領となり、ルイ14世によって要塞が補強された。第一次大戦初期にドイツの手に陥ちた。

[49] 原文では原典の(これは恐らく非合法である)が略されている。原文:「サンダーハムの領事たるドイツのフリーメーソン結社員に対し、反逆罪の名の下に死刑の宣告をなした。」Sunderham の地名については不明。

[50] 当時はアラスカ・ハワイが合衆国でなかった爲、全米48州であった。(つまり上院議員は96名)

[51] Albert Auguste Gabriel Hanotaux(853~1944)ガブリエル・アノトーはフランスの政治家・歴史家。1894~1895、1896~1898年外相、1898年植民地相を務めた。

[52] John Joseph "Black Jack" Pershing(1860~1948)はアメリカの陸軍軍人。第一次大戦欧州派遣軍の総司令官。この時パーシングの副官の一人だったのがジョージ・C・マーシャルとダグラス・マッカーサー

[53] 原文:サンシーエル。原典でSt. Mihiel(サン=ミエル)と確認。サン=ミエルはヴェルダンの南約30キロにあるロレーヌ(ロートリンゲン)地方ミューズ県の町。独仏の係争地であったロレーヌの西端にあたる。

[54] Oscar Solomon Straus(1850~1926)はアメリカ合衆国の政治家。セオドア・ルーズベルト大統領の下で1906~1909年、合衆国商務長官を務めた。

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