フリーメーソンと世界革命01 序文(試訳)

この序文は、本文に書かれたことが集約されているので、最初読まれた時は少々理解できない部分があると思います。本文に参照された時、そしてすべて読み終わった後に是非もう一度、読み返していただきたいです。(燈照隅)

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墺國 ドクトル・ウィヒテル(Friedrich Wichtl)著

日本 東亞社編纂部訳述(ユダヤ研究叢書第二巻)

 

      フリーメーソンと世界革命
  (Weltfreimaurerei, Weltrevolution, Weltrepublik)

                   東京 東亞社発行
                   [大正12年(1923年)8月発行]

                   [1922年München: J. F. Lehmanns発行]

 

序文

第5版の序文から:
ウィーンの大組合への私の返答!

 

フリーメーソンとは何か?

「その内なるものは精神である。 その本質とは自由である。 その為すところは愛である。 その探求は光である。 その象徴は道徳的な世界秩序の深さ全体を明かしている。 その力の行使は道徳的な建物であり、内側からの静かで真剣な建物であり、それはすべての精神的および道徳的な力を目覚めさせ、信仰と忠実、愛と犠牲、正義と真実 そして、すべてのドイツの美徳が生きて作用するところの神殿を各々と全体に建てようと奮闘するのである。」

この美しい、誇り高い言葉は、組合員オスカー・レシュホルン博士が語ったこと[1]である。 2~3年前に彼らの話を聞いていたなら、私も「光の探求者」として「建築者の家」に入る事を求めていたかも知れないのだが...

今日、私にとって問題は大きく異なる。 平均的なフリーメーソンが自分の人生を自分自身(の意志と力)ですべて営んでおらず、また通常は全然営めないと言う様な、詳細な研究に基づいて、今では私自らの確信を形成したのである。

私が如何にして「王権的手法*」とやりあうようになったかについては既に第一版の最後の文章で示唆して居るところである。裏切者クラマーシュ[2]の裁判に於て、秘密・不可思議な結社と彼との繋がりについては屡々触れられたが、その結社の本質や仕業についてはそれ以上何も分からず仕舞いであった。しかし、事件を取り巻く状況に鑑みて、非常に特別なことが明かされようとする所で、繋がりの糸が突然に切れてしまう...しかし、その時には私にはかなりのことが既に明らかであった。それはクラマーシュが欧州全域に活動を広げている秘密組織に属して居るに違いない、ということであった。

*「王権的手法」königlichen Kunst(Royal Art)はフリーメーソンの手法の別名。「王の技術」とも。

更に何か外にもある。我々の世継ぎ**の暗殺は単に見かけ上、偶発的に世界大戦を起こしたものであるという以上のことが私には想像できたのである。

**サラエボで暗殺されたフランツ・フェルディナンド皇太子のこと

チェコと南スラヴの民族国家(を建設すること)の望ましさとその想定***は以前には決してないほどに形成された。数えきれないほどのオーストリアの町と市場で、毎週毎週、大量のスラヴ人大衆動員と集会が行われ、彼等の立腹した危険な状態はもはや当局にも否定できなくなったのである。しかし当局は意志薄弱な首相シュテルク伯爵が弱腰の指揮しか出来ず、「統治する」疲れた老皇帝(フランツ・ヨーゼフ一世、当時83歳)が外界との交渉を遮断するくらいお人好しな中で為す術がなかった。

***当時、オスマン帝国が手放したバルカン半島の領土の統治をめぐって、ロシアとオーストリアがしのぎを削り、そんな中で民族主義独立運動が盛り上がり、オーストリア=ハンガリー帝国は、皇太子を中心にオーストリア=ハンガリー=スラブ三重帝国の建設を画策していた。

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当時のバルカン半島

それはオーストリアのすべての地方で、南と言わず北と言わず、スラヴ人の大衆の野外集会、そしてスロヴェニアチェコ、ドイツの広場ですべてのスラヴ人がお祭り騒ぎの前代未聞の特別な日だった。それは1914年6月28日であった。その日は、誰かがささやいたように、何か常ならぬ特別な事が起こる日であった。その時(現チェコの)ブルノに居た船長が少し詳しいことを話してくれたが、それはあまりにも重大で彼にも私にも忘れ難いこととなった。特に彼が言うには群衆が電報局に詰め寄っていたそうだ。誰かが我慢出来ないほどしきりに何かの知らせを待っているように思われた。と言うのは、ひっきりなしに怒鳴り声でこんな質問をして居るのをみんなが聞いたからである、「Njeni jesche tadi telegramm?」(まだ電報は来ないのか?)と。そして、電報が届き、皇太子とその妻の暗殺が報告された…にも拘らず、お祭りは続いた。その後、ブルノでは地方政府がもっと上からの命令で介入したが、他の場所ではお祭りと喜びの騒ぎは夜が白んでくるまで続いた。

これは、皇太子がスラブ人の間で数限りない敵を抱えており、しかもドイツの皇帝の最善の友である皇太子がスラヴ人に敵対する方向で地域を再構成することを恐れていたことを思い出せば理解できることなるのである。

殺人者は誰であったか?精神的にも道徳的にも未熟な「ナロードナ・オドブラーナ(人民の守護)」の構成員で、中には体操クラブの成員の少年たちも居た。しかしながら、後で他の者も出て来た。ファロス教授の本[3]から明らかなように、フリーメーソンの側により、王位の継承が計画、決定、そして実行されたのである。主なる人物は、フリーメーソンであり、タンコシッチ少佐、カジミロヴィッチ博士、シガノヴィッチと殺人犯チャブリノヴィッチであった。これは本書の第16章で重要な部分を強調した。犯行集団が如何に巧妙に人物を採用し、徐々にそして気付かれない様に殺人の計画を練り実現したか、その方法について知りたい向きには、ファロス教授の本が明快に言及している。また枢密院法務委員会のコーラー博士(Dr. Kohler)がこれに読みやすい序説を書いている。

で、フリーメーソンは裏に居たのだろうか? 私はこれまでフリーメーソンに真剣に関わった事がなかった。レオ・タクシル[4]の眩暈(めまい)も恐らく霞んだろうし、悪名高きあのミス・ダイアナ・ヴォーハン(Diana Vaughan)やその妹、悪魔のビトルのソフィー・ヴァルダー(Sophie Walder)の名前、そして他にも多くのことが古い感情を私に呼び起した。それは出来事を疑うに充分であった。しかし、陳述は余りにも疑う余地がなかったので私は事の真相を探り当てようとした。加えてその少し前、1917年の11月に私は(内部事情に)非常に精通した信頼できる筋からカール・クラマーシュ博士がフリーメーソンで「フランス大東社」に所属すると言う情報を受けた。そこで私はメーソンの文章を研究し出したが、最初はこの、真実の深淵を切望する光の探究者の、重要な問題について自分自身に明快さを与う以外の理由ではなかった。ドイツのフリーメーソンが自分たちについて書いたことから私が学んだことによると、彼等は最も潔白で、高潔で、礼儀正しい結社であった。ところが、私はフランスのフリーメーソンからは、私が入手した、自身メーソンであるウィルヘルム・オールの「フランス・フリーメーソンの精神」と言う著書では極めて異なる印象を受けた。そこで私はフリーメーソンだけではなく彼等の敵に関する書籍・記録をも収集し、すべての正確な抜き書きを行った。最終的に集めた資料を、重要なものと取るに足らないもの、真実と思われるものと誤りと思われるものに分け、思い切ってふるいにかけ、約五千のメモが残った。それらが私の最近の論文の土台を形作った。「毒舌の」私ほど「王権的手法」について問題にして居る者はフリーメーソンの中には滅多に居ないであろう。しかし、斯く言う私も、彷徨える神秘的な人類の神殿の更に大きな謎を彼等に齎(もたら)し得たに過ぎないのである…

本書が批評を巻き起こし、新しい版が出るときはあれやこれやが訂正され、補足され、或いは違う形で表現されるべきことは予測されたことである。注目すべきは私の本に対するメーソンと非メーソンの反応の違いである。本書を非官僚的に(型に嵌った上から目線でなく)隅から隅まで読む者は直ぐにこれが時流に乗った書き物ではなく、寧ろ徹底して事実に基づいた、厳密に公平な調査であり、その光と影を正しく塗り分けたものであると納得する筈である。実際、殆どの非メーソンは政治的な立場に関係なくこの評に辿り着いた。例えば、デュッセルドルフのハインリッヒ・ウォルフ教授の詳しく誠に公平な審査の評がライプツィヒ「German Volkswart」誌に載っている。

が、ドイツのフリーメーソンは然(さ)に非ず。本書が出版される前ですら、憤慨の嵐がメーソン界隈(直訳:森の木の葉)に吹きすさんだ。ベルリンにあるハンブルク地方大組合の月刊誌「Bausteine[5](構成要素)」は未だ私の本の一行も読まないうちに中傷を始める始末だった!それは「作為的創作物」と呼ばれた、しかも再三に亘って。1919年の「Bausteine(構成要素)」1~2(月)号に出ている。私の本は3月まで出版されて居なかったのに。この無意味な興奮状態により、私の出版社は単純なお知らせをせざるを得なかった。それは、目次から明らかになったのだが、第八章の「フリーメーソンにおけるユダヤ人の役割」と言う題名が特に「挑発的」であると扱われたからだった。「Bausteine(構成要素)」は6/7月号で再び私の本を取り上げ、彼等は本書を「中傷」や「パンフレット(宣伝用小冊子)」と呼んで(こき下ろした)。彼等が最も困惑したのは、(第一次)世界大戦の勃発時のドイツのフリーメーソンの長を私が発見したことであり、非政治的な筈のドイツの大組合協会の大棟梁が、政治色の強いセルビア人メーソンである高貴なる結社員コーン氏(ユダヤ人に典型的な名前)であることが私によって証明されたことで、彼等は沈黙に陥ったのだった。(ドイツ大組合によるセルビア組合の承認の)4週間後に我々(オーストリア)の皇太子がセルビアフリーメーソンに殺害されたと言う事実に彼等は青ざめたのである。セルビアの「最高会議」が殺害を承認したことが、実際にセルビアフリーメーソンと殺人者をある種の庇い立てすることに繋がったのではないか、と言う私の示唆は、切り捨てられた。(しかし)全ドイツのフリーメーソンのその時の長であった人間がコーンと呼ばれていたことはうまく否定できなかった。彼らはこのコーン氏がユダヤ人と言われていることに、びくびくした。彼等は皆それを醜聞と考えた。そこで、ユダヤ人と思しきコーンを信仰篤きキリスト教徒に仕立てる試みをしなければならなくなった。結社員シュワーベはこれを躊躇いもなく実行した。「フランクフルトにあるガス会社の役員、ヨハン・ゴットリーブ・カール・コーン氏は、西プロシャのマリエンブルクで1837年に生まれた人で、彼は全くユダヤ人ではなく、敬虔な(!)キリスト教徒で、長らくフランクフルトの聖ペテロ教区の評議員を務めていた。彼の父親、商人ヨハン・カール・ゴットリーブ・コーンもまた、プロテスタントであり、同じく1840年にマリエンブルクで亡くなったその祖父、地方民ハインリッヒ・カール・ウィルヘルム・コーンもそう(プロテスタント)であった。」と。そうか、上等だ。だから国際ユダヤ主義は息抜きが出来るんだ。そう、コーン氏はユダヤ人ではないのだ、私が原因で!

因みに、コーンの件はまだ決着からは程遠い。何かがおかしいのである。この問題に関して私は数多くの連絡を受けた。すべて、非常に興奮した様子で、しかも殆どすべてが-ユダヤ人からである。みんなコーン氏がユダヤ人でないことを私に保証するのだ!中でも一人はコーンという名前はヘブライ語コーエン(Cohen)からではなく、クオン(Kuon)=クノ(Kuno)に由来するものであると大胆に主張するほどであった。また、コーン氏はウルガーマネ[6]だと言うものもあった。また、再度、コーン氏はポズナン(公国)のトルンから来た人で、彼の父親がそこで商人をして居たと証言した。また、他にもコーン氏を個人的に非常によく知っている(知りたいと思っている?)者がコーン大棟梁はケーニヒスブルク出身のカトリックの商人の息子で、後にプロテスタントに改宗したと証言した。この大騒動、煩雑さは考える理由になる。フリーメーソンはコーンの件に関しては何かを証明しようとし過ぎたように私には思われる。欠けているものと言えば、大棟梁コーンはずっと有名な汎ドイツ人で、(例えば)かのティルピッツ大提督の数十人の友人の一人であった事の確証の主張だけである。親愛なる読者諸君は、恐らく各位自身で意見を纏めねばならぬであろう。彼等の内のユダヤ人は引き続き、コーン氏が「キリスト教徒」であることを議論し続け、しかもキリスト教徒は、少なくともその議論の中で見つかった「証拠」を土台にコーン氏の濃厚な東方起原の可能性を認めることとなるであろう。以前東方に居たコーン!今のところ、この関係個所に関してどうしても割愛しなければならない理由は見いだせない。

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          フリーメーソン・ロッジの入り口にある敷物

ウィーンで大きな雹が降った。その塊(Lock?)が余りにも大きかったので私は嵐が止むまで不思議な敷物のある建物(フリーメーソンのロッジ)の下に雨宿りするところだった。しかし、私はキリスト教徒であり、自分の身と自分の信念を引き裂く様な事は思いもよらなかったので、私は恐らく光の探究者を受け入れる所としてウィーンのロッジを見出さなかったであろう。何故なら、ウィーンの組合には、故人のランゲリッヒ裁判長ホルツィンガーのよく知られた言葉があって、100人のフリーメーソンの中に102人のユダヤ人が居る、と言われた。でもそれは不可能では!それは誇張だろう?! いいや全然誇張じゃない。此処で証拠を挙げよう:大棟梁はリヒャルト・シュレジンジャーでユダヤ人、大棟梁代理はカール・オルンシュタインでユダヤ人、同じくアドルフ・カプラリックもユダヤ人、大議長エミル・フランクルユダヤ人、同じくグスタフ・プレイエルユダヤ人、同じくエドゥアルド・ツィナーもユダヤ人、大建築家ハインリッヒ・グリュックスマンもユダヤ人。之で充分だろうか?もっと証拠が必要だろうか?勿論、コーンの件に関しては私は無数の訂正を受けるであろうが。だが、前もって言っておくが、洗礼の聖水だけが重要なのではない。特に、彼等は石工(メーソン)なのであるから、そして或る英国人作家が教えてくれたように、メーソンとは、人造のユダヤ人なのだ(生まれつきそうでなければ!)。私がこの様な真実を今や公衆にもたらしたため、ウィーンの大組合は最悪の罵倒を私に浴びせかけた。勇敢にも自分の名前を建物の不思議な敷物の下に隠した「大組合の兄弟たち」にとって、私の本はその「捩じれた痙攣(けいれん)!を催す退屈」な「喧嘩腰の煽情主義」にも拘らず、「肥溜めの印刷物」なのである。私が彼等に書いたことは「乱暴な戯言」「粗野な不条理」「詮索好きの血に飢えた残忍」「偽善的な長談義[7]」であり、私の本は、彼等にとって「不潔な書体」「安物恋愛小説[8]」であると。私自身は、この「王権的手法[9]」の高貴なる従者を「人民を欺瞞する者」、「反動聖職君主主義者、反革命的傭兵」、「裏切者」、「偽善者」などと呼ぶが、それは私の自由であって、フリーメーソンについても私が偏見のある人間或いは偏見の無い人間として彼等を見た記述なのである。このそれ自体特徴ある性質の侮辱の果てにこの快い奴めは脅迫さえ始める始末であった。即ち、この始末に反抗出来るものなら、してみろ…と。したらどうなると言うのか?私にどういう運命(結果)が意図(計画)されていると言うのか?これは以前に暗示されている。私は排斥されるべきで、無法者だと宣言されるべきである。大組合の悪意に満ちた兄弟は、これを次の様に装って表わす。即ち「世間一般の排斥に打ちのめされることなく、(私ほど)自分自身を卑下できるとは、猿のような恥」だ。つまり、私は「打ちのめされる」べきなのだ。彼等の中にはシャムエリー[10]が居るのではないのか?

組合員レシュホルンはどう言ってる?:フリーメーソンの本質とは自由である。 その為すところは愛である。 その探求は光である。そうだ。私はアーリア的独逸人がフリーメーソンに灯したいこの「光」を知って居り、私は彼等の「愛」を知って居り、彼等の「自由」を知っている。しかしながら私はその「王権的手法」の高貴なる従者の名前を知らない。何故なら彼は自分自身をそう呼ぶには臆病すぎるからである[11]。しかし、一つだけ確かなことがある。それは、彼らがユダヤ人であることだ。何故なら、余りのグロテスクなほどの憎悪に満ち、余りにも完全に如何なる理性も欠落している、それはユダヤ人のみに可能な罵倒であり、ドイツ人には決してそんなことは出来ない。そう言えば、我々の國の偉大な詩人でユダヤ人「批評家」からの同じような経験をした、フランツ・グリルパルツァーの言葉を私は思い出した。次のようなものだ:

「悪魔は殺人者を殺したいと思った
そして動物からそのもの(性質?)を取りだした
狼、狐、ジャッカルがそれを手渡した
高貴な人間は一つのことを忘れた:それは勇気だ
そこで彼は激怒の余り鼻を押さえた
そして叫んだ:悪者よ、ユダヤ人になれ、そして批評せよ!」

同時に私に別のことが起きた。それは殺人少年チャブリノヴィッチが冷笑的に裁判所で宣言したことだ。即ち、フリーメーソンでは殺人は容認されている!その人殺しは異なる手段で可能だ。銃撃するのも一つの方法だ -我々の皇太子のように。他人を経済的に殺すこともできる -フリーメーソンのフィンデルが大胆にもユダヤ人に立ち向かおうとした時のように。そして彼等は私を別の手段、つまり道徳的に殺そうとしたのだ。彼等は自分から言っている、普通の敬意は私を殴り倒すだろう、と…

勿論、フリーメーソンの兄弟たちは私の本を出版するに至った動機に完全に気づいている。「ウィヒトゥル博士はもう少しで金儲けできるところだった。」[12]私が「金儲け」のことを気にかけていたとしたら、私は転覆の時期に素早く学んで新しい環境に適応したであろう。フリーメーソンの兄弟たちのように「王位の堅固な支持者」として眠りつつ、そして、頑強な共和主義者として目覚めたはずである。

フリーメーソンが、その仮面を脱いだ時に私が彼らの爲の本を出していたなら、そして「(革命的)プロレタリアートの血染めの赤旗を重い心で迎えていたなら[13]、そのような本は多額の金を稼いだことであろう!惜しいことよ。私は恐らく今日では、ウィーンの大組合が当然に法外な名誉と祝福を以てするもっとも有名な「前掛けをしない石工」になっていたであろう。しかし-それは想像できないことであるが-多分彼等は私を彼等の-名誉あるゴイに指名していただろう!

人は、単に真実を見抜くために憎しみや死に至る敵意とは無関係に事を行うことが出来る、と言うことは、言われる所のユダヤ人の「精緻な脳みそ」[14]には決して理解できないことなのである。

彼等がその美しい人生の言葉と規則に従うのならば、当然彼等は全く異なった行動をしなければならないであろう。「忍耐強く、互いに尊重し、素直に見ること」。例えば、「ウィーンフリーメーソン新聞」の6/7月号の30ページには、ゴットフリート・ケラーの美しい言葉もしばしば引用されている:

敵の弱さを考慮しなさい。
そして、自分自身に復讐する為によく学びなさい。
自分自身の雑草を凌ぎ(しのぎ;震えおののき)なさい(雑草に打ち勝ちなさい)。

そして他ならぬ最も尊ぶべき大棟梁シュレジンジャーその人がこの言葉を兄弟たちに思い起こさせる。「人生を共に送る相手、人、兄弟たちをお互いに見よ」とは、とても高貴な、大棟梁に任じられたカプラリック[15]の言葉である。そしてもう一人の任じられた大棟梁であるハンス・ニーファーは一般の憎しみを減じることを欲した。[16] はて、彼等がこんなに美しい原理を奉じ、教育と指導が彼等の合言葉であるなら、そして、真実を追い求め正義と寛容を教えるならば、どうして私を処刑などしようか? 何故私を憎むであろうか? 何故私を罵り、最低に低俗な種類の侮辱をするのであろうか? それは私がロマンシュ(スイス)や英米フリーメーソンの好戦的な活動を発見したからであろうか? 勿論そうではない。彼等は自身でそれをするが、計画に則ってではない。でも場合によっては、兄弟たちの耳の間だけで、計算して行うのである。「ウィーンフリーメーソン新聞」ですら、時によってはイタリアとフランスのフリーメーソンの憎しみに満ちた戦闘行為を語り、「永遠のオリエント」に入会した「手に負えない戦争屋・組合員ルーズベルト」について、等を語るのである。

更にまた、私が彼等の「秘密」を明かしたことが、この底なしの憎しみの原因となったわけでもない。何故なら第一に、彼等が言うように、彼等には「秘密」などないからである。第二に彼等は虐待や迫害されることなく、私以前にも同じことをしたのである。第三に組合員オットー・ヘンネ・アム・リンが言うように、科学的であるか、さもなくば、重要な目的であれば、人は誰でもこの様なことすべてについて話すことが出来るからである。

理由はどこか他にある。ユダヤ人の「ウィーンの大組合」と同様に構成されたドイツ國の大組合の憎しみは世界のフリーメーソンにおけるユダヤ主義の役割を私が彼等自身をして調査せしめ、容赦なくその究極の目的-ユダヤ人の主導による世界共和国の実現-を明らかにせしめたという事実で説明がつくのである。これはもはやメーソンでは全くない。組合員はどんな政治政党にも所属できるが、特に猶太問題に於て「高貴なマサルテン(黙ること)」を強いられるのである。少し筋違いであるが、フリーメーソンでない「不敬な者」がこの痛い所を衝くのである。ユダヤ人の優越性に敢て立ち向かうものは、誰もが道徳的・経済的にユダヤ人を破壊しようとすると見做すのである。結社員J・G・フィンデルがその歌の歌い方を知っている。

私の第五版への序文は、私に向けられた攻撃に対する防禦に殆ど終始してしまった。私はそれに余すところなく紙面を割かねばならなかった。何故なら今日私に起きていることは、フリーメーソンの内外を問わず、私の読者が誰でも、敢えて神聖なユダヤ教に関して何か9回(詳細)にわたって暴露すれば、その読者に明日起こり得る事だからである。彼は即座に首に重しをつけられ、再び結社から除外されるのを見ることになる。私が信じられないのであれば、試してみればよい…[17]

しかしフリーメーソンの兄弟たちは私の重たい攻撃に対して何も反対意見がないのか? ない、ない以下である。彼等は叱責し、侮辱し、邪推し、そして曲解した。しかしながら結社員ポッパーも一度14章を扱ったことがあった。私の本の中でメーソンのサラエヴォでの殺人が主題の章である。かれは、非常に浅い、レオポルトシュタット[18]の弁護士的な機知に富んだ態度で扱い、そう、彼は、メーソンシガノヴィッチ -トピシダーの森[19]で殺人者たちの射撃、後には爆弾と拳銃の訓練を指導し、シアン(青酸カリ)を手渡したシガノヴィッチと同じ人間が果たして存在したかどうかの疑問を呈する程、厚かましい傲慢さであった!!つまり、結社員ポッパーはある程度に熟練した人で、真面目に議論するには取り付く島もないような人であった。何度も言及したようにまずはとにかくファロス教授の本を読んで、それから弁護を書いて居ればそんなに表面的にならず、もう少しはましなことができたであろう。そうすれば勿論、納得したいということを条件に、確実に私と同じ確証に到達したであろう。

ところで、私はよく知られた人格者である前職の大臣に確証頂いているのだが、フリーメーソンが皇太子を死刑に処して、しかもそれを秘密にして居ないということは、あの時、当のフランツ・フェルディナンド大公もそれを知っていたとのことである。それは、フリーメーソンが非政治的で完全に無害な結社であると言うのとは如実に矛盾していることを示していた。しかしながら皇太子はメーソンが彼の命を狙っていると言う確信に拘った。五年後の1919年6月、その大臣は、フランツ・フェルディナンドがこの結社についてもっとよく知らされているべきであったと特に強調し、あからさまに、そして率直に自分の間違いを私に認めた…

ついでながら、我が皇太子の殺人はメーソンが犯した最初の殺人ではなく、また最後のものでもないであろう。今私の前に新聞の報告が広げられているが、それによるとポルトガルの大棟梁と元老院議員、組合員セバスティアン・デ・マガリャンイス・リマ がシドニオ・パエス大統領の暗殺事件に関与した疑いで逮捕された! -どこの新聞だ?勿論「ライヒポスト」だろ?- ご安心を、兄弟たちよ!それは、つまりそれは「ウィーンフリーメーソン新聞[20]」である!同時に、すべてのロマンシュ(スイスの?)フリーメーソンも間違って(!)拘束されたことも知った。何たるざま!同じ新聞の後日の紙面には、最初の伝聞は既に「修正」され、パエス大統領の暗殺に参加したのは大棟梁自身ではなく、その下の二人の結社員であったとした。更にその記事は、「イタリアではある運動は収監された大棟梁の気に入った方向に誘導された」と文字通り言及している。そこに彼らの仕事があるのである。兄弟たちよ、陥れられた者たちよ。果たして、それは「王権的手法」の大きな秘密なのであろうか? この先この件がどうなるかはおおよそ見当がつく。次の号では、逮捕された大棟梁は既に釈放され、そして、-何を賭けようか- その間に告発が全く裏付けられず、ただのうわさ話に依存したものであったと言う報告を聞くであろう。そして大棟梁とその兄弟たちへの捜査は既に終了したと…[21]

オーストリア=ハンガリーフリーメーソンはマガリャンイス・リマを非常によく知って居り、勿論彼の無実を完全に確信している。国内の兄弟たちは、西方のフリーメーソン、殊に彼等が親和性を感じる「グラントリエン・フランス(フランス大東社)」と頗る積極的な関係を維持し、その程度もドイツのフリーメーソンとの関係よりも遙かに大きい。

私のウィーンのフリーメーソンと会った経験のみからであるが、彼等は徹底してその手法を知っている。私がウィーンの大組合について尋ねられたとしたら、私は次の様にそれについて纏めるであろう。

その本質は自由ではなく奴隷制である。彼等の仕事は愛ではなく、憎しみである。彼等の追い求めるものは光ではなく暗黒である。彼等の力の行使は、激しい説教(宣伝)と侮辱、猜疑と曲解で成っている。

私の評決は、事実と、私が「ウィーンの大組合」とその新聞により個人的に得た経験を基礎にして居る。それが、組合員レシュホルンのものよりも彼等にとって好ましからぬことになったとして、それは私の責であろうか?(いや、決してそうではないだろう。)

 

1919年10月 ウィーンにて

フリードリッヒ・ウィヒトゥル博士

 

第7版の序文

私の本の初版が出版されてから丸々一年が経過した。メーソンの主人たちは一次資料により実証された私の主張に反論できずにいる。それどころか、一つの本質的な点でそれらを修正すらできずにいる。他方、メーソンの現場からは、それ以上素晴らしくは望めないほどの満足を得た。結社員エルンスト・フライマンは「国際フリーメーソンへの道」(「Mecklenburg Logenblatt」の特別版、vol.46)[22]という注目に値すべき作品を出版し、その中で彼は、屡々私と同じ資料を使って全く同じ結論に達した。注意してほしいのは、この二つの作品は完全に互いに独立して作られたということである。

結社員エルンスト・フライマンの書いたものはメーソンの限られた兄弟たちだけのもので、非フリーメーソンには入手が難しいものであるが、「我々をこの戦争と比類ない悲惨に駆り立てたのは、アメリカでもなく、英国でもフランスでもなく、協商でもなく、秘密の世界の力であり、協商の政府は道具として使われただけであった」と言う認識に到達した。この知識一つで、「我々の崩壊の謎が解け、それを封印する者は決してその原因に於て何が起こったか理解することは出来ないで、その原因に対して戦う事が出来ないままとなる」と彼は述べる。結社員フライマンは国際フリーメーソンの中に第一級の政治系力権力の要素を認識し、更にフランス、ベルギー、英国、米國ポルトガル、バルカン、中でもセルビアでの恐ろしいメーソンの影響力について議論する。彼は、国際フリーメーソンを、その目的が世界共和国の設立である、世界大戦の福音主義者として指摘する -その思考の筋は私のものと完全に一致する。結社員フライマンはまた、チェコと南スラヴをイタリアの領土回復運動と同様に世界フリーメーソンの命令であると強調する。彼はまた、国際フリーメーソンはその目的を果たすために政治的殺人を利用することを強調する!非常に巧みに広範に、結社員フライマンは世界フリーメーソンが、世界平和をもたらしたいと言う偽善的な見せかけをしながら、戦争の担い手であったことを証明する!この最も注目に値する印象的な小冊子の最後の言葉に於て、結社員フライマンは「地上で『フリーメーソン』を名乗っている者の99%が『ドイツのフリーメーソンの大敵』であり続けるであろう」という結論に達した。

さきに述べたように結社員フライマンは、その名前は仮名であるけれども現役の(活動中の)フリーメーソンであるから、これ以上良い方に解釈することは望めない。不幸にもこのメーソンの啓蒙は書店では発売して居ない。それは、私自身も、私の本「世界フリーメーソン」をその時は恐怖と自己嫌悪を以て読んだ真のドイツ人メーソン、位の高いメーソンから受け取った。彼は、ドイツの人々の他の団体の基本的な次の様な考え方を私に知らせるために、結社員フライマンの書いたものを私に手渡した時、感激してそれを隠さず表現した。即ち、その時ドイツのフリーメーソンを通じて強力で力強い動きがあり、その目標は、くっきりと別れる事であった:キリスト教国家的なものを、このユダヤ国際的なものから。

 

1920年 精霊降誕祭(5月下旬日曜日) ウィーンにて

フリードリッヒ・ウィヒトゥル博士

 

第8版の序文

第8版は驚くほど速く必要となったので、2~3の追補・修正のみしか反映できなかった。

この機会に多くの読者と働く人々の友人にお願いしたい。特に世界大戦が本質と起源に於てフリーメーソンの戦争であったと言う私の基本的な見解を受け入れる人は、その良心に於て知り合いに広めるために出来る限りこの知識を提供されんことをお願いしたいのである。その目標を成し遂げよう、ヴェルサイユの悲惨な和平の排除を!

 

1921年 新年の日 ウィーンにて

フリードリッヒ・ウィヒトゥル博士

 

[1] „Freimaurerische Außenarbeit“ von Br. Oskar Leschhorn, Leipzig Ber. d. Frmr. 1919.「フリーメーソンの外部活動」オスカー・レシュホルン ライプツィヒ 1919年

[2] Karel Kramář(1860~1937)ドイツ語ではKarl Kramarsche。1891~1915年オーストリアの王室評議会委員。第一次大戦中、オーストリア=ハンガリー帝國への反逆罪で収監されたが、後に赦免され、チェコスロヴァキアの国家委員長となった。

[3] „Der Prozeß gegen die Attentäter von Sarajewo“, aktenmäßig dargestellt von Professor Pharos, Deckers Verlag, Berlin 1918.「サラエヴォ暗殺者の裁判」(ファロス教授による記録)Deckers Verlag ベルリン 1918年。

[4] Marie Joseph Gabriel Antoine Jogand-Pagès(1854~1907)はLeo Taxilとして有名なフランスの反カトリック・反聖職者作家。フリーメーソンであるという偽暴露や彼に対するカトリック教会の反論で知られる。

[5] 建築用ブロックの意味がある。メーソンが元々建築業である所からの命名と思われる。

[6] Urgermaneは古代に今のポーランドからドイツ東部にかけて存在したとされる民族のこと。

[7] 原典:Gesalbader。辞書になし。Gesalbadernの間違いとして譯した。

[8] 原典:Fünfkreuzerroman kreuzerは19世紀に使われた低い貨幣単位、だから安物メロドラマ小説のこと?

[9] 原典:königlichen Kunst(Royal Art)を意訳してみた。

[10] Szamuelyはハンガリーのソヴィエト時代(1919.03.21~1919.08.01)の人民委員で当地での赤色テロル(大虐殺)の首謀者であった。8月2日にハンガリーからオーストリアに越境の際ピストル自殺したと言われる(国境警備隊に射殺されたという説もある)。

[11] Auf den ungenannten "Br. Von der Großloge" paßt Arthur  Schopenhauers kerniges Wort: „Anonymität ist eine literarische Gaunerei, der man gleich entgegenrufen soll: Willst du, Schuft, dich nicht zu dem bekennen, was du gegen andere Leute sagst, so halte dein Lästermäul!” 無名の「大組合の結社員」に対してはアルトゥール・ショーペンハウアーの次の心からの意見が適合する「匿名は文筆の上の詐欺行為であり、即座に声を上げるべきだ、君の様な悪党は他の人々への反論を告白するんじゃない、罰当たりの言動は慎みたまえ、と」

[12] Wiener Freimaurer-Zeitung Heft 1/3 S. 56. ウィーンフリーメーソン新聞 1/3号 56頁。

[13] „Wiener Freimaurer-Zeitung“ Heft 6/7 S.04.  ウィーンフリーメーソン新聞 6/7号 04頁。

[14] Bgl. „Wiener Freimaurer-Zeitung“ Heft 1/3 S.18. ウィーンフリーメーソン新聞 1/3号 18頁。

[15] „Wiener Freimaurer-Zeitung“ Heft 1/3 S. 25.  ウィーンフリーメーソン新聞 1/3号 25頁。

[16] Ebenda S. 14 同書 14頁。

[17] この段落は恐らくかなり頓珍漢な翻訳になっていると思われます。

[18] Leopordstadtはウィーンの地区名。神聖ローマ皇帝オポルト1世に因む。本が書かれたころはウィーンでもユダヤ系住民が多い地区であった。

[19] Topčiderは、ベオグラードにある森林公園。

[20] Heft 1-3 S.56. 1-3号 56頁

[21] Genauso ist es auch gekommen; das Verfahren gegen den unschuldigen Großmeister wurde bereits eingestellt! („Br. Freimaurer Zeitung“, Februar 1920). 実際全くそのようになった。無実の大棟梁に対する訴訟は既に中止されている。(フリーメーソン新聞結社員、1920年2月)

[22] „Auf den Pfaden der internationalen Freimaurerei“, Beitrag zur Geschichte der Gegenwort.  Auf Grund ausländischer Logen- und Presseberichte bearbeitet von Br. Ernst Freymann. Rostock 1919. 「国際フリーメーソンへの道」反語の歴史への貢献。結社員エルンスト・フライマンが編集した外国の記録と新聞の記事、ロストック 1919年。