国際秘密力23

第23章  教育

      『・・・あなたは唇に慎みを守り知識を保つことができる。<13>

 

私には早い時代の東洋の教育方式についての知見が無く、読者はそれを知っておられると思うので、話を西洋の教育方式に限定することにしよう。

古代のペルシャギリシャでは、教育はその道の権威者(masters) またはマエストロ(巨匠)によって為されていた。今日でもスペインでは教師たちをマエストロと呼んでいる。そして各教師たちは非公式の講座を持ち、生徒たちはその講座に集まるのであった。学問を普及させるための公的な協会や学級などは無かった。どこまで到達できるかは各自次第であり、また各自は自分が学びたい方向に片寄っていた。いくつかの美しい例は、ギリシャヘロドトス<14>や、何世紀も後のローマにおける大プリニウス、小プリニウス<15> などが著わした歴史物語を通して私たちに残されている。

当時西洋社会では、ユダヤのラビ養成学校を除けば公的教育と呼ばれるものは殆ど知られていなかったが、アラブ人たちが権力を得た時、彼らは芸術に関する様々な学習科目を定め、ある程度公式化した。それは、南北戦争前の古き時代の米国南部の状況に良く似ていた。当時の農園経営者たちは、ギリシャやローマでの教育に関する彼らの古典的な知識を引き出して子供たちを教育していた。それは良質で周到な学習システムを復活させ磨き上げたもので、高度に完成されていた。

全般的な知識に関する、そして宗教に強く関係していない大学は、13世紀にパリで始めて設立された。同じころ、ユダヤ人たちが英国のオックスフォードの町に大挙して押し寄せて来きていた。そしてかって彼らが所有していた土地は、またもやいくつかの奇妙な符合により、今日オックスフォード大学の敷地の多くを占めるに至っている。英国の貴族たちは子供たちを学ばせるためにその大学に送り、子供たちはそこで訓練を施された。

後にオックスフォード大学となった学校がその設立当初において、表面的にかつ一部分であろうとも、ユダヤ人により所有、統治、または支配されていたなどと言明することは、今日全く非常識なことになっている。私たちが知っているオックスフォード大学では、関係するいかなる地位もユダヤ人には占められておらず、また彼らがその地位を占めていたのは何世紀も前だからである。

彼らが遂行してきたのは、自分たちの歴史を旧約聖書に、またキリスト教に関する自分たちの経験を新約聖書に、各々書き留めるという実習訓練であった。それは彼らの歴史の中で何世紀にも亘って繰り返し実行されてきたことであり、その活動の事実は闇の中に隠されてきた。彼らはそれら改竄された聖書が、彼ら自身の利益のためにいかに使われ得るかということを、良く知っていた。

この事は、ジョン国王のマグナ・カルタ(大憲章)制定の時期と、まだ若かった彼の継承者の一人で、ユダヤ人の金貸しに大きな負債があった人物の下で、オックスフォードに王立大学が創立された時期とが符合していることから私が推定した結果である。この事に関して、私は他の情報源を持っていない。

ユダヤ人のこの面での活動について、私自身はかなりの個人的経験を持つが、ここは伝記を書く場ではないので詳細は省かせて頂く。この件に関する私の意見は、後に起こった事件によって強固なものになっている。

神学生を養成するためにボストン近郊に設立された新世界ハーバード大学(the New World Harvard College)においても、教育のシステムは殆ど変更されなかった。その設立年は1636年である。この大学は、人々の要求と植民者たちに奉仕する必要性により、他の分野にも直ちに拡張され、過去も今日も米国における最高の名門校であり続けている。この大学は厳格な男子校であり、反ユダヤ的であった。

この両方の性格は、1890年代にラドクリフ大学が女子のために設立されるまでは保持された。そして前の章で記載した様に、1890年代遅く、J.P.モルガンは警告を発した。ここにおけるユダヤ人の侵入は素早く、モルガンにはそれが確信できたのであった。そしてそのことはモルガンを最も愛されない男の一人にしてしまうことになった。

今日これらの学校は、米国における殆どすべての総合大学および単科大学と同様、そして短期大学のレベルに至るまで、ユダヤ人たちが支配または管理している。そのやり方は、世界におけるメディアシステムの支配の場合と酷似している。

この点に関する証拠の一つは本書の初めの方で示されている。読者は、マホメットの死後しばらくして起きたイスラム教の分派に関する説明の処で、私が『カリフ』について言及したのを覚えておられると思う。私はこの情報をこの数年に亘って、オックスフォードとケンブリッジの両大学の学者たちが著述し、まさに決定版であると評価されている『決定的研究』全巻から得た。

19世紀の後半、これらの学者たちの幹部グループは読者がおそらく名前を知っているどの目的地に行こうとも、いつも英国から船出をして行った。彼らは情報を収集して発表するために各地に送られたのである。この様なプロジェクトを人間の好奇心だけのために設立する必要性は、今の私には全くと言って良いほど感じられない。私はこの事をIJCの偵察活動の証拠と捉えている。

このプロジェクトに含まれていた人々は自分たちが行っていた事の真の目的を全く知らなかった、と私は強く確信している。また彼らは、誰が彼らの事実上の主人であるかについても、何も知らなかったと私は信じている。極めて多数の博学なる教授たちが全世界の各大学に分散している今日でも似たようなもので、彼らは相変わらず同じ主人のために、研究と教育の両面において昔と同様の仕事をしている。そして今日の彼らもまた、彼らの真の主人と彼らの真の存在価値については、何も知らないのである。

万が一その事に気づいた場合、彼らはそれを隠し通す必要がある。何故なら、本書の様に率直にまた無遠慮に自らの意見を表明したとすれば、彼らは、彼らが所属する共同体から、学術的にも社会的にも直ちに放逐されるであろうからである。

低学年の教育に話を移そう。世界における低学年教育に関しては、私は高等教育に比べるとより少ない知見しか持っていない。私は、米国の先駆的な団体が、国中の風景を小学1年から8年用の赤い(そのペンキは安物であるが、持ちが良い)校舎で点々と染めながら、自由教育をじわじわと発展させていることを知っている。

西部開拓地では、教科書はマガフィー読本<16> であり、また書取用紙としてはチョーク付きのスレート板が当てがわれていた。マガフィー読本には各学年に応じたものがあり、それの『三R』、すなわち『読み・書き・算術(Readin',Rritin',and 'Rithmatic)』は非常に高度で複雑な題材までを段階的に含んでいた。そこでの教育によって子供たちが到達したレベルは非常に高く、8学年においては、現在の大学2年生レベルよりも進んでいた。

しかしそれは、ジョン・デューイ方式に占拠されるまでであった<17>。 20世紀に入り、デューイが米国の子供たちの所に、そして特に教師を指導する者たちの所にやって来ると、米国の学習レベルは低下し、無教育な者が増加していった。

私は1947年、テキサス州オースチンテキサス大学2学年の時に、教師免許取得の目的もあって教育過程の初級クラスを選択した時のことを決して忘れないであろう。その科目は1922年ごろから学部長を勤めていた人物が教えていたが、彼は最初の授業の時、上着もネクタイも付けないスポーツシャツ姿で15分遅れて入って来た。

(私は教科書の第1章をすでに読み、また指定された問題集の最初も済ませており、1時間授業を受けるために完璧な準備をしていた)

彼は机にもたれかかり無頓着に腕を組んで、話し始めた。

『この科目で君たちが学ぶべきことは一つだけしかない。
君たちは、教えるべき教科内容については何も知る必要はない。
君たちが知る必要があるのは如何に教えるかだ。
君たちはそれを君たちの教育科目の中で学んでいくことになる』

そして彼は、クラスの学生たちに教科書の第1章を読んで問題集の1頁を練習するように告げると、『解散』と言ったのである。私はできるだけ早く気を取り直して立ち上がると、急いで大学の学科登録事務所に行き、この科目の登録を削除して、その年の選択科目として人類学を追加登録した。

私が今まで聞いてきた中で、彼のこの一件ほどデューイ方式を良く表しているものは無かった。デューイ方式が米国の教育現場に、そしてまたGHQにより日本にも持ち込まれて何を為したかを考える時、私は座して涙せざるを得ない。

マガフィー読本の下での米国の教育制度や、コモドール・ペリーが来日するまでは独自に存在していた、その者の程度に合わせて個々に教えるという日本の教育制度は素晴らしいものであった。どの様な刑罰を持ってしても、これらの素晴らしい制度を破壊した犯罪者たちを適切に罰することはできない。

公立、私立を問わず、幼稚園から大学までの完全なる日本の教育体系の優秀さを考察すると、私は、この体系がIJCおよびその手下であったGHQのためのものに他ならないであろうことに気づく。私を本当に悲痛な気持ちにさせるのはこの事である。

 

【訳注】

  <13>  旧約聖書 箴言5.2より。  

  <14>  ヘロドトス:(BC484(?)~BC425(?))小アジアのハリカルナッソス生まれのギリシャの歴史家。「歴史の父」と呼ばれている。物語風の歴史である「ヒストリアイ」を著した。

  <15>  大プリニウス:(23~79)ローマの将軍、政治家、著述家、百科辞典編集者。大著「博物誌」を著した。プリニウス:(62(?)~113)ローマの政治家、著述家。大プリニウスの甥かつ養子。「書簡集」を著した。

 <16>  マガフィ(William Holmes McGuffey) :(1800~1873)米国の教育家。小学校の教科書マガフィー読本(McGuffey's Readers)の編著者として、19世紀初期の初等教育に大きな影響を与えた。

 <17>  ジョン・デューイ(John Dewey):(1859~1952) 米国の哲学者・教育学者。プラグマチズム(実利主義)の継承・大成者。