国際秘密力11

第12章  土着民族

         『・・・主は広大な地をしかばねで覆われる・・・<1>

 

多くのことが前節までに書かれないで残ったが、これには理由がある。旧世界で起きた出来事の多くは新しい時代に持ち越されたからであり、また新しい時代の出来事と類似性があり、それらの事件を何となく結びつけたくなる感覚にさせるからである。これまでは順序良く年代順に記述してきたが、これからは私の主張を明らかにするために年代を飛び越えて記述する。読者はこの点を我慢して頂きたい。またこれまでの様に、適当な本というよりは陪審議論的スタイルに近い形で記述する。

(私は、世界の歴史に関する自分の著述や視点が中立だと主張する歴史家を否定する。もし彼が中立性を要求するなら、彼は偽善者である。彼が自分が偽善者であるということを知らないなら、彼はその上に無学である)

13世紀の帰来した十字軍に話を戻すと、彼らは単一世界支配*よりさらに恐ろしいものを連れて来た。彼らは恐ろしい、殆ど致命的な病気を連れて来たのである。その病気は犠牲者の外観のゆえに黒死病と呼ばれているもので、その病名は短くペストとされた。およそ1200年から1600年代の半ばまでに繰り返し流行したこの病気のために、すべての村、町、州そして国の大きさにも相当する広大な地域の住民が一掃されてしまった。

*今でいうNWO(New World Order新世界秩序)体制である。(燈照隅註)

続いていた戦争はこの病気のために下火となり、多少なりとも存在していた産業は停止した。細菌が生物進化によって今日肺ペストとして知られ良く封じ込められているものに変わり、そのいくつかの毒性を自然に失ってしまうまで、この様な状態は約4世紀の間続いた。

13世紀の初め、ヨーロッパ人たち自身に襲いかかったことよりもさらに恐ろしいことが起こった。彼らは猩紅熱、腸チフス天然痘の様な危険な病気とともに、はしか、水痘、百日咳といった比較的無害な幼児病をことごとく新世界に持ち込んだが、これらの病気は、血流中に抗体を持っていなかった土着インディアンの住民たちには一様に致命的であったのである。

私たちが西インド諸島として知っている北米の島々では、征服者たちがインディアンたちを労働者として奴隷化しようと計画していたが、これらの島々の住民たちはこれらの病気により絶滅してしまった。黒死病がヨーロッパを一掃したよりも遥かに悪く、病気は原住民たちを一掃してしまったのである。

そのため、中世では珍しくたいへん尊重されていた砂糖キビを耕作させる者の代用として、アフリカの黒人奴隷たちが速やかに輸入されたと言われている。砂糖キビは蜂蜜の改良品用や砂糖として、ヨーロッパでは常に高価で売買されていた。

歴史の話を先に進めても、そこにはアメリカインディアンたちの話が、南太平洋の住民たちと同様に続いていく。白人たちは破壊と死をもたらしたが、それは彼らの馬、武器、鉄剣によるばかりでなく、彼らの存在自体がその一因なのである。細菌はまだ見極められておらず、白人とインディアンの出合の際に細菌は常に存在し、病は野火の様に広がっていった。

この状態は20世紀に入るまで続いた。南米の僻地では、それは今日まだ進行中であることを私は理解している。そのことは、その事態が7世紀以上に亘って続いていることを意味する。マッケベディーは、ヴェネチアが取り扱った商売を歴史上最大であると言ったが、私は、これらの流行病は世界の歴史の中で人類が人類自身に課した最大の破壊行為であると信じている。

今日では、前記と同様またはそれ以上の悲惨な事態を引き起こすには、誰かがボタンを一つ押すだけでいい。今日の人類は、核兵器を発射することによりこの惑星を煙と灰で覆い隠すことができる。煙と灰の犠牲者となったと思われる恐竜とは異なり、人類は核爆発による大量の塵を宇宙空間に放置することによって、人類自身に同様のことを成し得るであろう。

 いささか冗談めいたが、それは何も可笑しなことではない。この様な方法によらないとしても、貪欲なIJCは環境汚染をうまく利用して同様の悲惨な事態を招いていくであろう。環境汚染は今日、野火の様に、というよりペストの様にと言うべきであろうが、広がっている。

私たちの主テーマに戻って、私が最も興味を引かれる征服者はエルナン・コルテスであり、従って新世界での征服事件ではメキシコの征服が最も興味深い。1519年にコルテスは上陸し、当時メキシコを統治していたアステカ族に好意的に迎えられた。私の世代の米国人は子供のころ学校で、モンテスマの策略による妨害を乗り越えて、コルテスは粘り強く奥地に進んだと教えられた。しかし私は子供ながらにモンテスマを敬慕した。自己の欲望を滾らせて略奪することに夢中になっている、風呂にも入らない外国人に自分の国が侵略されるのを、誰が喜ぶであろうか。

(当時のヨーロッパ人は、入浴を不健康で危険なものと考えていたことを思い出して欲しい)  

征服者たちは、おそらく当時でさえ彼らがかって見たことのあるどの都市よりも大きかったメキシコ市に到着した。征服者たちにとっては、これまでインディアンたちが見たことも無かった馬や兵器を持っていたことも大いに役立ったが、それ以上にインディアンたちが征服者たちを神々の来訪と考えたためにメキシコ入りは容易であった。

私の子供時代にも、それ以前にブレンダン一味とその一行が近付いた時、インディアンたちは彼らを偉大な神の訪れと間違えたという話を聞いた。このブレンダンの航海については、前11章ですでに触れている。以来半世紀以上いろいろと考えてきたが、今私はインディアンたちがこの征服者たちを一度去った日本人たちがまた戻って来たと思い違いしたのではないかということ、それは大いに有り得たと信じている。この信念は、中央メキシコの僻地の山村で神道の奉納儀式を目撃したことが確固たる基礎となっている。その儀式での彼らは、彼らがかって持っていた、そしてさらに重要なことに、征服されていない精神と誇りをすべて携えていた。

数年前に私は小説風に書かれた一冊の本を手に入れた。但し、その内容を史実として引用することは、学会から価値無きものと突っ張ねられている。この本はゲリー・ジェニングス著・『アステカ人』であり、1980年にアテナ学術振興機関から第一版が発行された。私のペーパーバック本は、1982年にアボン・ブックス社が発行した第一版である。この本は、アステカ人たちの帝国がコルテスの手に崩落していったころの、アステカ人たちの歴史に関係した歴史小説であり、奉納儀式が行われていた僻地の山村で私が見た人々の風情や本質を捉えている。

この本は特に信頼できる情報源で、アステカ人の神々に関する知識を得るには手ごろであり、読者にも推薦する。ただ一つ問題なのは  ジェニングス氏には神道の素養がないことであり、二つを結び付けられないことである。私もまたアステカ人の宗教の基礎がないため、二つを適切に結び付けることはできない。私がこれからしようとするのは、日本の山容に良く似た山々の峰に囲まれた、谷合いの町で私が見たことをもっと記述することである。

1540年ごろ、カトリック教会は修道会の一つを、伝道または前哨基地を確立するためにメキシコに派遣したが、それは実に奇妙なものであった。この修道会は、同じ時期に日本に派遣されたものと同じものであったと、私は信じている。これがIJCの主要な常套手段の一つであることは、私としては全く疑いないことである。もちろん兵士たちが修道士たちに同行し、今日私たちが見るのと同様の激しい戦闘を行った。このころはメキシコ南部のチアパス州で戦闘を行っていた。

この様な兵士たちをも含んでいたのが当時の修道会であった。当時スペインは、その広大な領地内でインディアンを服従させるために、武力と十字架を結合させるやり方を展開中であった。これらの状況は後日、伝道者たちによる精緻な美術品として残った。これらは歴史の証拠品ともなっているが、サン・アントニオ、その中でも特にアラモ、そしてカリフォルニア州西海岸で今日容易に見ることができる。

1980年ごろ、私が始めてこの谷に車で乗り入れた時、私は山頂に多くの礼拝堂があることに気が付いた。質問したところ、ローマのカトリック教会の様々な聖徒に捧げられたものであるとのことであった。私はその答えを割り引いて受け取った(懐疑的に)。というのは、以前日本で見たのと似過ぎていたのである。

しかしその時は、神道と何かしら共通点があるアニミズム(物活論的)崇拝の一形態としてのみ考えていた。しかし、後にこれらのインディアンたちによる奉納儀式を見た時、私はもう一つの閃光が頭の中で爆発するのを覚えた。熱海の時よりはずっと小さかったが、同様のものであった。これらのインディアンたちはあの修道士たち、それはフランシスコ修道会であると私は信じているが、と妥協する道を選んだのだと私は理解した。

インディアンたちは教会とその聖徒たちを受け入れたが、彼らの古い神々の場所に聖堂を建てることを要求した。彼らは、彼らの神々のこの世における代用として、聖徒たちをそこに収納したのであった。従って彼らがこれらの聖徒を拝む時、実際には彼ら自身の古い神々を拝んでいたのであった。

強制的占領の間のインディアンたちの態度は、私にとって何と勉強になったことか。これらのインディアンたちを、私がどれだけ誇りに思ったことか。そして、私が日本人たちを何と恥に思ったことか。これらのインディアンたちは接触を避けて遠隔地に留まっていた。彼らは征服者たちの生活様式およびスペイン語を学ぶことを拒絶し、今だに彼らの原語を話していた。

日本人たちは、彼らの征服者たちの施し物、癖、気紛れ、物好きにもて遊ばされる小犬の如く振る舞っていた。日本人たちはもっとこの本当の教訓を学ぶべきである。私は、これらのインディアンたちだけが抵抗する力を教えることができ、またその資格があると強く信じる。彼らは、単なる50年<2> ではなく、およそ500年もの間、征服勢力に抵抗してきた。

ほんの数年前メキシコでは法律改訂がなされたが、これはIJCの北米自由貿易協定(NAFTA)に対する準備以外の何物でもなかった。メキシコでは、1910年の革命に由来する法律によってローマカトリック教会の資産を削減し、他の信仰や外国の伝道団を除外したが、今回の法律改訂の中でこの法律を変更または緩和した。

今や、十分に確立した外国の信仰や外国の伝道団は認められると思われる。そこで私は、メキシコのこの様な人里離れた山地に、これらのインディアンたちが利用できるような神社を建立すべきであり、彼らの信仰にたいへん似ている日本はこれを申し入れるべきであると確信している。

またその付近に、ひっそりとした中で神々と一体となって、神道の神官と信心深い世俗人とが親しく語り合える隠遁的な閉居所を同時に設置すべきである。そこではまた、インディアンたちから、征服者たちに抵抗する力や宗教について知っていることを学ぶのである。世界のすべての人、特にIJCは、この様な独特で普通ではない連合の出現に驚かされるかも知れない。

在日していた1994年(平成6年)に、私は本州西部の米子市近くの、日本海隠岐の島が見渡せる大神山神社に大神山様(大山)を訪ねた。私は大神山様の神々と、何年か前にメキシコで体験した感触とが似ていることを発見した。私はそのメキシコにしばしば帰っている。現在では大山と呼ばれている大神山様からは、多くのことを学ばねばならない。私は、そこは3、4万年ほど前から人類が連綿と崇拝し続けていた神地であったと感じている。

その伝統からすれば、ヘブライ人たちまたはユダヤ人たちが彼らのヤーヴェ神やエホバ神の高々六千年を自惚れ、まして今日それを日本に掴ませようとしているなどはお笑い沙汰である。

大山は、日本において神道が始まり発展してきた始源の神地の一つを構成している。私が見たところ、この神地はIJCの陰謀に汚されず純粋のまま残されている。IJCは、前に述べた様に仏教をでっちあげ、またはでっちあげる立場におり、そしてまた純正神道を妨害しようとしていた。彼らはそれを実践したと信じている。そして彼らの方法・手段については他章で説明してきた。

私にとって、大神山様はあらゆる力の中で最強であり、猶且つすっかり落ち着いた雰囲気の中で親しく語り合える相手である。この神は受容性に富み、人間的な情緒に溢れ、ユーモアの鋭い感性を持った親しみのある神であり、信仰を超えて愉快である。それはおどけていると言っても良いほどである。

(ある夜私が米子市の彼のお膝下で寝ていると、私の所から約15Km離れた大神山の頂上付近でたいへん大きな稲光と雷音を伴った物凄い雷雨があり、まぶしい閃光と物音に私は起こされた。私は彼に、私または誰かを怒っているのかと尋ねた。彼は答えた。

『もちろん違う。これは、お前たち人間が花火を眺めて楽しむのと同じ様に、我々神々が楽しむやり方である』)

私は古代ギリシャやローマの神々の物語を読んで、全人類のすべての神々は同じ親族から出たものではないのではないかと思っている。その中のあるものは、今まで人類に啓示されてきた神々よりも強いのではないか。より重要なことは、今まで日本人とおそらく他の人々に啓示されてきた神々よりも、いくつかの点で強いのではないか。宗教を利己的にでっち上げたIJCの過去28世紀間に亘る操作によってこれらの神々は消失してきたのではないだろうか。

 

【訳注】

 

 <1>  旧約聖書 詩編110.6より。

 <2>  日本の戦後50年を指す。