敗北を拒否した男 ~ダグラス・マッカーサー~ E. マリンズ

世界情報再吟味・第73号

1989年1月発行   

                            敗北を拒否した男

                                                                    ユースタス・マリンズ(Eustace Mullins)

 

ダグラス・マッカーサー将軍
彼は勝利を欲した 併し彼の政府はそうではなかった…

 

 

何千人もの若いアメリカの青年が第二次大戦中、太平洋の不毛の砂浜で死んでいった、共産主義者が彼等の司令官、ダグラス・マッカーサーを憎んだために死を宣告されたということも一向に知らないまま…  ときに、この憎しみが苦しみを経て生まれた地、ワシントンに話を移してみよう。1932年7月28日、この国(合衆国)は古典的な、国際銀行家の黄金の移動に因る深い経済不況の中に居た。ニューヨーク連銀の金庫のある部分の金の延べ棒が僅か数メートルもない先の別の部分に移動された。この一見何の重要性もないと思われる行為が信用の縮退をもたらし、ウォール街の絶好の好景気を萎めてしまった。850億ドルの膨れ上がった株の価値が銀行家の金庫に潰え去り、アメリカの中産階級は強盗され、打ちのめされた民となり果てた。仕事を供給して居たのが、この中産階級が為、労働者は今や雇用を失い、醜悪な雰囲気の中にあった。これが背景にあって、共産主義者のワシントンへの特別工作部隊が米国の元軍人のボーナス行進[1]を乗っ取り、地元警察と軍隊による虐殺を惹き起こし、国中を一瞬にして席巻する炎上の始まりとなり、そして我々を共産主義者の待ち構える手中に送り出したのであった。

-------------------
[1] ボーナス軍とも呼ばれる。第一次大戦に従軍した軍人は政府の恩給(ボーナス)を受けて居たが、その恩給の支払が大恐慌の爲1945年まで中断されることになり、ただでさえ失業で喘いでいる元兵隊の家庭を直撃した。この中断措置を止める様に要求する全国の第一次大戦従軍者がワシントンに抗議活動の爲に集まった事件のこと。
-------------------

それは単純な手法で、帝政ロシアに於いては驚くほどうまく行った。パン屋の前にたむろする人々が居り、その群衆の中の少数の共産主義者が帝國守備隊に石を投げつけ、応戦して銃火が放たれ、少数の人々が殺された。何週間かのうちに、帝政は潰えた。ツァーリ(皇帝)とその家族は小部屋に幽閉され、捕獲者による処刑を待つこととなった。

この手法が米国でうまく行かない理由はなかった。米国では既に共産主義者はよく組織化され、民兵組織となっていた。彼等は1920年代の「パーマー強制捜査(Palmer Raid[2]」を革命組織を残して生き延びた。市民の自由が侵害されたという傷心の苦しみに拘わらず、少数のつき纏い(追っかけ)と同調者になったかもしれない者たち -彼等は真剣に取り組んでいる策謀者達にとってはどの道恥であったが- が逮捕されて党は強化されたのであった。

-------------------
[2] ロシアのボリシェヴィキ革命を受けて当時の司法長官アレキサンダー・ミッチェル・パーマーの指揮で行われた無政府主義者共産主義者移民の一斉取り締まりで、1919年11月から1920年1月実施され、500人以上の外国人市民が国外追放され、その中には有名な左派の指導者が何人もいた。
-------------------

ジョージ・パットン少佐*(文末註参照!)と当時陸軍参謀総長であったダグラス・マッカーサー将軍に率いられた米軍の部隊は、ワシントンの通りを、整った服装で完全に整列して行進して来た。兵士たちは群衆の中に散らばった共産主義者の冷やかしや脅しを無視して居た。その時、急に太った男が、よく訓練された兵士たちに突入して来て「撃ってみろ!くそったれが。撃ってみろよ!」と叫んだ。兵士たちはその男をライフルの銃尾で其の突き出た腹を突くこともなく、脇に押しやった。その男は意気消沈してその怒りの拳を振った。「この仕返しはしてやるからな、マッカーサー!」と叫んだ。将軍は彼の挑発にまっすぐ前を凝視して直立した。将軍はその男の脅しが自分の輝かしい経歴の最後の二十年を曇らせ、麾下の何千人の将兵の命を犠牲にする事など、つゆ知らなかったであろう。

この男の名前はデイヴィッド・ネイハス[3]で、彼はニューヨークから共産主義者の大きな部隊を伴って来た。革命活動家はよく知られた共産主義者の指導者であるエマヌエル・レヴィンの指揮下にあったが、ネイハスはモスクワ連絡員で、この作戦の戦略を指令して居たのである。レヴィンは歴史上から姿を消したが、ネイハスは、デイヴィッド・ナイルズと言う名を使って影響力のあるホワイトハウスの補佐官となり、トルーマン政権の間は主な国政の立案者となった。

-------------------
[3] 両親はロシアからのアシュケナジムユダヤ人移民。
-------------------

ボーナス行進者(ボーナス軍)は、1929年の株価大暴落により破産した第一次大戦の失業した退役軍人であった。六万人とも言われる彼等は、軍務に対する臨時収入を支払うことに消極的な議会に対する整然とした抗議行動をする為にワシントンに来ていた。警察長官のペルハム・グラスフォード(Pelham Glassford[4])はこの巨大な勢力を抑え込むのにたったの600人の警察官しか居なかったが、彼は自分の懐から733ドルを彼らに与え、ボクシングの試合を興行することで更に2,500ドルを彼等の食費の爲に集め、彼等の救済のためにエヴァリン・ウォルシュ・マクリーン[5]の賛助を得たのである。

-------------------
[4] 原文はGlass となって居るがGlassford の間違いと思われる

[5] Evalyn Walsh McLean 呪いのダイヤモンドと言われるホープ・ダイヤモンドの最後の個人所有者として有名なワシントン・ポストシンシナティ・エンクワイラーの新聞王に嫁いだ女性。
-------------------

ボーナス軍の指導者、ウォルター・W・ウォーターズは整然とした抗議行動の維持に専念したが、1932年6月1日、騒乱を起こす指令を受けた共産主義者の部隊がニューヨークから到着した。ウォーターズは部下に彼等を捕縛させた。彼等は軍法会議に掛けられ、それぞれ15回のむち打ち刑を言い渡され、持っていた本を焼かれた。しかしながら、彼等は引き続き付近をうろつき、仲間が幻滅するに従って自分たちの方に事が向いてくるのを願った。彼等共産主義者は、自分たちの集団の代表にジョン・T・ペースを選び、口の悪いはみ出し者と見做されるよりも良い印象を与える様に願った。ペースは1949年に下院非米活動委員会に於て証言し、「私はボーナス軍の共産主義者部隊を指導した。私は赤の上司から騒乱を起こすように命令を受けていた。本に載っているあらゆる策略で流血を起こす様に告げられた… マッカーサー将軍はモスクワの命令による革命を流血なしに収拾してしまった、だから共産主義者は皆彼を憎んで居るのだ。」

ドゥワイト・アイゼンハワーのような軍人がワシントンに居た軍の司令官であったら、狼狽して銃撃し、革命の引き金を引いたかもしれなかったと思うと、寒気を覚える。マッカーサー将軍は完全に抑制を守り、銃弾は一発も撃たなかった。共産主義者の中には造兵廠(兵器工場)を占拠する者も居り、これも革命の古典的な手法であった。警察が彼等を排除しようとすると、グラスフォード警察署長が襲撃され、制服を引き裂かれた。共産主義者は彼の衣服からもぎ取った金色の胸章を嬉しそうに掲げた。コロンビア特別区公安委員会がフーバー大統領に軍隊の出動を依頼したのはその時であった。フーバーは戦争長官[6]のパトリック・ハーレイ(Patrick Hurley)に命令を下し、ハーレイは参謀総長マッカーサー将軍にそれを要請した。参謀総長が合衆国陸軍を指揮して騒乱の警戒をするなど、聞いたこともなかったが、マッカーサーは抗議行動者の誰一人として傷つけてはならないことを堅く心に決めていた。というのは、彼等の多くが、フランスに於いて虹師団[7]マッカーサーの指揮の下にあった将兵であったからだ。万が一災難が起れば彼が個人的に責任を取らされるであろうことから自分の威信がかかって居ることをマッカーサーは知って居た。しかしながら、彼は自身の経歴を危険に晒すことを躊躇しなかった。約一千名の兵士を率いて彼は抗議行動している群衆の中を突っ切り、抗議行動者が陣地にして居るアナコスティアフラットに向かって行軍した。陣地は整然と解体され、ボーナス軍は終わった。

-------------------

[6] Secretary of War:今の国防長官(昔は国防総省ではなく戦争省であった)

[7] マッカーサーが設立し、第一次大戦のフランス戦線で活躍した第42歩兵師団のこと。虹の腕章を着けていたところからこう呼ばれた。
-------------------

共産主義者達は自分たちの計画がアナコスティアの燃える陣地の煙と消えてしまったことに激怒の発作状態に陥った。彼等は間もなく、フーバー大統領をボーナス軍の「大量虐殺者」で平和なデモ活動家に対して軍隊を投入した暴君であると烙印を押し、悪者にする恐ろしい選挙運動を展開した。これはアメリカの政治史の中で最初の実際に悪意ある選挙運動であったろう。完全な嘘が根拠のフーバーに対する個人的な攻撃により、フーバーは(再選されることなく)失職し、その後フランクリン・D・ルーズベルトが大統領に就任したのであった。

定評ある現職(フーバー)大統領に対するルーズベルトの輝きに欠ける選挙戦を全国的な圧勝にひっくり返したのが共産主義者の支持であったことをルーズベルトが忘れることはなかった。ルーズベルト政権の初年度の間、ボーナス軍に潜入して居た共産党員のうち40名を政府の官職に指名したのである。一方でルーズベルト政権の国家政策は、ルーズベルトホワイトハウスの地下内閣を構成して居る共産党の最高機密ハロルド・ウェア支部[8]の構成員に依って多くが策定され実行されていたのである。ハロルド・ウェア支部の最初の目標の一つは、既に小規模のアメリカ軍をさらに縮小することにあった。共産党は正規軍をコサック、或いは(ロシア)帝國防衛軍と考え、しかもそれは勿論ボーナス軍の期間中に彼等の計画を妨害した反革命軍であった。

-------------------
[8] ハロルド・ウェアと言う共産党員を指導者とするアメリカ政府に潜入したソ連の情報部GRUの地下組織で、実際に米政府内部に浸透して工作し、米政府の政策そのものをソ連に有利に変更・歪曲した。ウェア・グループとも呼ばれる。
-------------------

ルーズベルトホワイトハウス入りして間もなく、マッカーサー将軍を呼び出し、陸軍は50%縮小する積もりだと知らせたのであった。マッカーサーはその車椅子で青筋を立てる足萎えのルーズベルトに議論を仕掛け、直ちにその決定に論争した。最後にルーズベルトは彼の決定を再考することに同意し、戦争長官(国防長官)のジョージ・ダーン(George Dern)はマッカーサーに「君は今陸軍を救った」と言って褒めた。しかしながら、マッカーサーは自身の回顧録で、この偉大な足萎えに対抗したことで体に異変を生じ、自分の祖国が此の男に転覆されつつあることに対する吐き気と嫌悪に圧倒され、ホワイトハウスの階段で嘔吐したと、記述している。

1941年、ルーズベルトは日本の攻撃を期待して太平洋艦隊を真珠湾に(移す)工作をし、一方マッカーサーは大統領に日本の増強を警告したが、ホワイトハウスからの応答を受けないことに当惑して居た。マッカーサーはフィリピン防衛の指揮官を引き受けた時、日本軍の侵攻を食い止めるのに少しも困難を予期して居なかった。日本軍の戦略のすべては何年も前にアメリカの輝かしい戦略家であるホーマー・リーにより、具体化して居た。日本軍の作戦を知ってマッカーサーは抑え込む準備が出来て居た。しかしながら、彼は一度もワシントンからの高官レベルの決定を知らされず、真珠湾の直ぐ後、米軍の軍事力は、ソヴィエトロシアとユダヤ人をドイツ軍から救うため、ドイツを打ち負かすことに集中されることになった。マッカーサー将軍は荷物を背負わされたまま、フィリピンに置いてきぼりにされ、その間にチャーチル、マーシャルとルーズベルトアメリカの軍事援助をロシアに送った。この結果、何千ものマッカーサーの部下の将兵が日本軍に捕らわれた後、あの悪名高いバターン死の行進[9]で死ぬことになったのである。それは彼ら自身の大統領が敵に対して彼らを見捨てた為であった。

-------------------
[9] バターン死の行進は日本軍を貶める為の情報工作であったことが知られている(ユースタス・マリンズも知らなかったのか?)
-------------------

その間、アメリカの支配的新聞をしっかりとその指揮下に置いて居た共産主義者マッカーサーに対する憎悪の猛烈な(宣伝)活動を実施した。ルーズベルトマッカーサーにフィリピンを去ってオーストラリアに行くように命令し、間髪を入れず、新聞にマッカーサーが逃げたと情報漏洩した。将軍は去る時、自分のグランドピアノや他の所有物を一緒に飛行機で運んだ、というトンデモ話を記者たちは印刷した。実際のところ、マッカーサーはカバン一つの衣服だけを持って去り、殆どの彼の個人の所有物をフィリピンに残してきたのだった。共産主義者の新聞がマッカーサーが卑怯者であることを暗示する、「ダグアウト、ダグ[10]」という最も残酷な悪口を作り出したのはこの時で、実際には将軍が敵の銃砲撃の前に何度も命を危険に晒している時であった。マッカーサー自身は新聞の悪意に満ちた憎悪を理解出来ないでいた。彼は1932年のデイヴィッド・ナイルズや他の共産主義者との行きがかりを忘れてしまっており、それに何れにしても彼にはそのような人間に悖るような感情を理解することは出来なかった。

-------------------
[10] 「Dugout Doug!」Dugoutは防空壕、Dougはマッカーサーの呼び名。「卑怯(臆病)者のダウグ、防空壕から出ておいで!」と言う意味に取れる語呂。
-------------------

マッカーサーは1930年までにアメリカの最も輝かしい軍人精神と考えられて居たけれども第二次大戦を通じて彼は一度も高級会議に招待されなかった! 戦争はルーズベルト共産主義者の補佐官、主にロークリン・カリー[11]リトアニア[12]の本名ワイスであるハリー・デクスター・ホワイトに厳密に遂行された。太平洋の戦線の悪名高き「島嶼跳び石(島跳び)」計画を思いついたのがこの「ホワイト」であった。日本軍はハワイと日本の間の多くの太平洋の島々を占領し強化して居た。マッカーサーは大規模な攻撃部隊をフィリピンと日本本土に対して仕掛けて戦争の早期終了に持ち込む作戦を考案した。ルーズベルトはそのようなめざましい勝利はマッカーサーを強力な政敵にしてしまうことを予測してその作戦に立腹した。ワイスは即座に(マッカーサーの計画に)対抗する計画を考案し、それはルーズベルトを喜ばせた。日本軍の小さなマジノ線(防衛線)をその繋がりの中で萎ませる代わりに、(故意に)日本軍の手に乗ってそれぞれの小島に大規模な攻撃を仕掛けようとした。マッカーサーの作戦は決してホワイトハウスに認められず、それに取って代わって、太平洋軍は後に「魚の餌やり」と呼ばれる一連の作戦行動に専心し、そこで何千人と言うアメリカの若者が日本軍の殆ど難攻不落の島要塞を襲撃しようとして太平洋に散って行ったのである。硫黄島やタラワの名前は、これ等の要塞を攻撃するために命を捧げたアメリカの若者の信じられない勇気を想起させるが、同様に、それはいつの日にか共産主義が勝利する為の、この国の流血の死と弱体化が目的だけの悪意に満ちたリトアニア人の男の信じられない恥辱をも想起させるのである。島跳び作戦は、マッカーサーが偉大な勝利を得られないことと、或いはこれらの戦闘での損失が理由で彼が貧弱な戦略家であるとアメリカ人が思うこととを保証したのである。しかしながら、常に卑怯であったルーズベルトは、それでもマッカーサーを政敵として恐れ続けた。1944年にルーズベルトは驚くマッカーサーからその年の大統領選挙に立候補しない誓約を無理やり取り付けたのであった。

-------------------

[11] マッカーシーの非米活動委員会でソ連のスパイ容疑をかけられ、コロンビアに移住。後にヴェノナファイルでやはりソ連のスパイであったことが確認されている

[12] ワイスという名前から類推できる通り彼はリトアニア出身のユダヤ人である。ソ連のスパイ。
-------------------

限られた資源にもかかわらず、マッカーサーは第二次大戦を通じて見事に活躍した。彼はルーズベルトの命令でフィリピンを去る時、「私は帰って来る」というその予言の言葉をうまく残すことが出来た。彼のフィリピン奪還の成功した作戦は軍事戦略の古典と見做されている。

共産主義者の新聞の中傷にも拘らず、彼は第二次大戦中その勝利と戦闘に於ける勇敢さを何度も顕彰されている。例えば彼はフィリピンの防衛に対して議会名誉勲章を、1943年9月9日のナザブ滑走路[13]の攻撃を個人的に指揮したことに対して空軍勲章を与えられ、更に彼は三度功労勲章を受けて居る。勿論、マッカーサー自身と同様にアメリカの公衆は、新聞が戦時中を通じて飽くことなく彼を攻撃した背景について全く分からずにいた。

-------------------

[13] ニューギニア戦線でマッカーサーポートモレスビー防衛のために空挺師団で占拠した空港(滑走路)。

-------------------

戦争が終わっても共産主義者勝利者マッカーサーアメリカ帰還にそれまで以上に恐怖を抱いた。再度「ホワイト」は占領した国家日本の司令官をマッカーサーに命じるという素晴らしい計画を考え、効果的に彼をアメリカの政治舞台から取り除いたのであった。例に漏れず、この命令を何の疑いもなく受け入れ、マッカーサーは、一方で彼自身の国がその増大する共産主義者の力に対抗する為にまさに彼を必要とした時にその仕事を否定され、破壊された日本の再建に専心したのであった。

1949年の6月からマッカーサーはワシントンに北朝鮮共産主義者南朝鮮の非共産国家を攻撃する為に軍事力を増強して居ることを報告し始めた。これ等の警告はすべて無視された。共産主義者南朝鮮を席捲したとき、マッカーサーは彼等を止める様に要請されたが、1941年以来、不十分な戦力しか与えられなかった。戦力の不足を補うため、マッカーサーは仁川上陸と言う偉大な一撃で共産主義者の攻撃を粉砕した。ハルゼー提督は彼に「おめでとう、特筆すべきで見事だ。仁川上陸は歴史の中で最も大胆で見事な戦略的一撃だ。」と手紙を書いた。トルーマン大統領は「私は貴官の朝鮮における指揮の下に成し遂げられた勝利に、すべてのアメリカ人民の声として心からの祝福を送りたい。」と電信した。それから数週間後、トルーマンは彼を解任した。一体何が起こったのか? マッカーサーは許し難いことをしたのであった、つまり彼は共産主義者を打ち負かしたのである。トルーマンマッカーサーウェーク島の会議に呼び出した。トルーマンは後になってこの会議に関して、上空で何度も旋回してマッカーサーを待たせたと言って自慢したり、また別版ではマッカーサーが彼を待たせるために上空で飛行機を旋回させた、などと多くの嘘をついた。現地に居た他の人々は彼等は同時に到着したと言っている。この会議では何も話し合われなかった。そしてマッカーサートルーマンが彼を招請したのは単に本国で敗戦しつつあった下院議員選挙を元気づける為であったと推察した。

この頃、マッカーサーが敵攻撃者の「深追い」や鉄道操車場の爆撃、それに北朝鮮水力発電所の爆撃を禁止する一連の命令がワシントンから下された。戦争の全体の指揮が、アメリカの司令官が敵の共産主義者に対して実質的損害を与えることを禁止したヴェトナム戦争の舞台リハーサルのようになった。マッカーサーは、このような制限の下では戦えないので、指揮官から外してもらう様に請願したが、マーシャルは彼を慰留した。其の間、ウォーカー将軍が自分の作戦がワシントンの情報元を通して前もって敵に知られている、という苦情をマッカーサーに申し立てた。マッカーサーはワシントンに計画を明かすことなく共産軍を攻撃し始めた。彼は、一連の素晴らしい勝利を収めたが、それにより共産主義者達はマッカーサーの解任を主張した。

さあ、そこでデイヴィッド・ナイルズが1932年の復讐を果たす。マッカーサーを指揮官から解任するようにトルーマンに命令したのは彼であった。1957年4月17日、トルーマンは悪意をもって、ワシントンで記者会見を開き、マッカーサーを呼び戻して指揮官の職を解任すると発表した。マッカーサーはラジオ日本でその決定のことを聞いた。マッカーサーはその回顧録に重要な感想を記している、「モスクワと北京は喜び、鐘が鳴ってさながら祝日のような雰囲気が広がったろう」と。

確かに共産主義者は喜ぶ理由があった。世界で最も偉大な反共の兵士が解任されたのであった。これで彼等は安全であった。斯くして我々はこの英雄の人生の最後の偉大な行動に至るのである。軍用機が太平洋からカリフォルニアの海岸を臨みながら唸って居る。搭乗者は世界中で有名な兵士、ダグラス・マッカーサー将軍とその信頼する側近である。機は更に国の空高く、ワシントン目指して飛び続ける。マッカーサーは、彼が着陸すれば忠実な議員の代表が彼に会い、臨時軍事政権を形成するように依頼し、そして彼は自分が排除するように要求する哀れな共産主義者の裏切り者を捕縛しなければならないだろう、と信じて居る。ワシントンは、中世の病気のネズミのペストのように国の首都の官庁に伝染した人間以下の汚物の中にあり、それぞれが其の不潔な裏側で恐ろしい汚染を抱え、反逆の屑が救いようのない恐ろしさに縮こまり、その駆除者の避けられない到着を待って居るのである。デブの酒浸りでマッカーサーの解任を命令したモスクワの共産主義者、デイヴィッド・ナイルズは今頃ホワイトハウスの自室で酔って昏睡して居るだろう。1933年以来アメリカの国家政策を牛耳ってきた共産主義者、ハロルド・ウェア支部の構成員は、予てからの計画通り潜んでいるだろう。ハリー・トルーマンホワイトハウスの二階で二三の旧友とポーカーをしながら終わりの時を平然と待っている。詩人エズラ・パウンドがその詩Cantos の中で表現したように「常にその同類、地下世界に忠実に」トルーマンは逮捕される恐れが殆どなく、それは犯罪の経歴の一部である。彼はその人生をカンザスシティーの売春宿の取り立て屋として始め、彼の師匠、ペンダーガスト親分は4千万ドルを盗んだ疑いで起訴され、長年刑務所に居る。しかしながら共産主義者の中には諦めていない者もいる。絶望的な約束が為された…脅迫、買収、恐喝。マッカーサーが到着して見ると、期待して居た議会の代表はいなかった。既に臨時政府代表に指名されたと想像しながらマッカーサーはキャピタル・ヒル(国会議事堂)に向かった。彼が驚いたことには何事も為されて居なかった!(彼が予測したような)宣言もなく、下院の彼の強力な支持者も妙によそよそしかった。最も偉大な軍事戦略家マッカーサーは、自分には政府を形作る戦略がないことに気付いた。何時間かさまよった後、彼は他でもない、ロバート・タフト上院議員に思いとどまらせられた。タフトははっきりとアメリカはその問題を投票箱(選挙)で解決しなければならないこと、マッカーサーは国の病気を治すために大統領選挙に出ることが出来ることを宣言した。タフトがその師匠であるラビ・ヒレル・シルバーの助言をそのまま述べて居ることを知って居たなら、彼はワシントンはトレントンやヴァレー・フォージの投票箱を使わないと言って反論できたかもしれなかった。然しマッカーサーは長年に亙って国から離れていた。彼には未だもって、舞台裏で何が起こって居るか知らなかった。彼はトルーマンの後ろには数人の主要な共産主義者が居るだけだと想像して居た。彼はハロルド・ウェア支部の事も聞いたことがなかった。彼はあらゆる主要な政府官庁に戦略的に配置された共産主義者について何も知らなかった。

暫く時が経ち、マッカーサーは下院で感動する演説を行い、ニューヨークに引き下がって国の機関からの呼び出しを未だ期待して待った。それは決して来なかった。それどころか、マッカーサーに強硬手段から転向させるために大統領職を約束した共産主義者の裏切り者、タフトは彼に替えて卑屈なアイゼンハワーを持ち出してきた。アイゼンハワーは既に共産主義者の御主人様にでも、彼の自分を売る職業行為を受け容れてくれるものなら誰にでも喜んで奉仕することを証明して居た。マッカーサーが下院で演説をしている間に共産主義者は其の隠れ場所から既に出てきて、ワシントンの元の官職に戻っていたのである。何も変わらなかったのだ。振り返ってみると、我々アメリカ人は今こそ、共産主義者のネズミどもをその穴から追放することにより、マッカーサーを記念して称える為の国を挙げての運動をしなければならないことが分かるのである。我々は共産主義の策謀者ハリー・ワイスに殺されて硫黄島やタラワで死んでいった者たちの無念を晴らす為にどれだけの血を流さなければならないのであろうか? マッカーサー記念博物館の建設がワシントンで提案されたとき、共産主義者どもは開館から一週間以内に爆破されるだろうと、自慢していたことを思い出すだけである。そこでこれを恐れた政府官僚はマッカーサー博物館をノーフォークに移し、今もそこにある。死して後もマッカーサー共産主義者の裏切り者に勝てないでいるのだ。彼の記憶を振り返り、そして我々自身を救うために、我々の中にいる裏切り者を打ち負かす大規模な国を挙げての行動で我々は団結しなければならない。今日、危険に晒されて居るのはマッカーサーではなく、日々、我々の最後に残った個人財産と自尊心を我々から引き剥がそうと、ワシントンから悪質な共産主義者官僚の攻撃を受けて居る我々のすべてなのである。

英国の一流軍事作家であるアランブルック卿は第二次世界大戦のことを次の様に書いている、「マッカーサーは最も偉大な将軍であり、戦争が生み出した最高の戦略家であった。彼は確かにマーシャル、アイゼンハワー、および他のアメリカの将軍、それにモンゴメリーよりも抜きんでて居た。これらの作戦のすべてにおいて彼がアメリカの参謀本部の完全な支持を得ているとは決して感じなかった。戦争がより良い視点から観られるに従い、マッカーサーによって示された戦略的能力はその最たるものであったことに同意できるであろうと納得するのである。

 

註:パットン少佐は、第二次大戦の欧州戦線で活躍後、ドイツ軍に対する連合国の醜悪な仕打ちを指摘し、またドイツがその宣伝工作の様な悪の帝國でなかった事を指摘して居た。彼は、1945年12月9日、不慮の事故で全身麻痺になった後、21日に肺塞栓症で急死した。彼も当然、共産主義者に嫌われていたはずであり、この急死には疑義があるとブログ主は感じている。パットン少佐に対するアメリカ軍上層部とワシントンの理不尽な処遇については、ウィキの「ジョージ・パットン」の記述にも触れられている。また、ベントン・ブラッドベリー「ドイツ悪玉論の神話」22章の章末(https://caritaspes.hatenablog.com/entry/2019/06/21/021356)にも簡単に触れられている。