アメリカの國民性2 -和辻哲郎1943.12

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ベーコンと同じ精神を特に實踐的な側面で顕著に表現してゐるのがホッブスである。

ホッブスによると、人には自然天賦の權利(jus naturale)がある。それは自己の生命を保持するためにしたいままのことをしてよいといふ自由である。かかる自由人を自然は平等に作つた。體力に於ても心力に於ても人々の間の差別はごく僅少なもので、大體は平等である、と彼は主張する。能力が平等であれば目的達成の希望もまた平等である。從つて一つの物を二人が平等の權利を以て欲求するといふ亊態が、絶えず起つてくる。勢ひ彼らは相互に敵となつて爭はざるを得ない。そこに『あらゆる人と人との間の戰爭』がある。これが自然狀態である。ここではいかなる行ひも自然の權利に基いてなされるのであるから不正といふことは存しない。戰爭狀態に於ける德は、力と詐欺とである。

しかしこのやうな自然狀態は、自己の生命を保持するには最も都合が惡い。人は常に生命の危險にさらされ不安を感じてゐなくてはならぬ。從つて人は、理性によつて、この悲慘な生活からの脱却、生命の安全保障を要求する。そこに自然法(lex naturalis)が見出される。卽ち生命に害ある行爲を禁ずる一般的法則である。ここに初めて人の行爲に對する拘束、卽ち義務が現れる。

ホッブスはかかる法則として十九ヶ條を數へてゐるが、重要なのは最初の數ヶ條である。自然法の第一則は右の平和の要求そのものを云ひ現してゐる。「各人は平和に努めなくてはならぬ、平和の望みがある限りは。しかし平和が得られなければ、戰爭のいかなる手段方法を用ゐてもよい。」これは平和の要求ではあるが、また戰爭の冷酷な遂行の決意でもある。これは後に新大陸に於て露骨にその意義を發揮する點である。

自然法の第二則は、右の平和の要求が當然含意すべき内容を展開する。人が自然の權利を行使しあらゆる物に對して自由に振舞ふならば、當然人々は戰爭狀態に陥り、慘苦不安を嘗めねばならぬ。從つて平和を要求する者は自然の權利を行使するわけに行かない。『人が他の人々と共に、平和と自己防衞とを欲するならば、彼はあらゆる物への權利の放棄を必要と認め、己に對して他者に許容すると同程度の自由を他者に對して己が保持することに滿足しなくてはならぬ。』棄權したものには他者の邪魔をしない義務が生ずる。かかる人が再び手を出せばそれは不正である。正不正の問題はここに初めて現れてくる。

この自然法に基いて契約が可能になる。人々は自然の權利を放棄した上で、限定された權利を互に認め合ふのである。ここに初めて人々は戰爭狀態を脱し、人間社會の成立する緒が開かれる。

自然法の第三則はこの契約の保證である。『人々は結ばれた契約を守らなくてはならぬ。』これが正義の根據である。勿論契約は、都合の惡い時に破ることも出來る。しかし破れば見方を失ひ戰爭に負ける。卽ち契約は守らなくては損である。これがホッブスにとつては理性の法則たる所以なのである。

ホッブスはなほその他多くの法則を數へるが、それらを總括して、『己の欲するところを人に施せ』と云ひ得るとしてゐる。これは第二則の後半が云ひ現してゐるところで、同時に契約の基礎をなすものである。從つてホッブス自然法は契約を中樞問題としてゐると云つてよい。近代に於ける自然狀態の説及び契約社會説はここに始まり、この後ヨーロッパの思想界を支配した。

ホッブスはこのやうな形で植民地略取に於けるイギリス的良心を供給したのである。ショウの云ふ如く、イギリス人はどんなことをしても不正であつたことはないと云はれる所以は、右の如き倫理觀に存する。

以上ベーコンやホッブスに表現せられたやうな特性が、アメリカの土地に移され、そこでアメリカ的に發展したのである。

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