隠されたホロコースト7

第二次世界大戦の終わりは、戦争中に彼らに反対したすべての人に復讐する機会を共産主義者に与えた。その結果、フランス、イタリア、チェコスロバキア、および共産党がすべての反共主義者或いは「ファシスト」の殺人を意の儘にすることを連合国が黙認した他の国々で、200万から500万人の犠牲者がユダヤ人テロリストによって虐殺された。

1973年1月21日、サンデー・オクラホマン紙(The Sunday Oklahoman)はこの恐怖に光を当て「連合国側の何千もの死を伝える文書」:「ホワイトハウスの前大統領顧問がサンデー・オクラホマン紙に初めて秘密の文書を提供した。それによると第二次世界大戦後、何千人もの無実の『釈放された戦争捕虜と避難民』の死に連合国側が加担している。」

「この文書は、10頁の英国軍の報告書であり、1944年から1948年までに推定200万から500万人の反共主義者ソヴィエト連邦への強制送還に関する膨大な英米ファイルの一部であると考えられている。暗号名キールホール作戦は、事実上第二次世界大戦の最後の主要な秘密として、ロンドンとワシントンで厳重な機密下に置かれている。」

「英国の秘密報告書は、ロシアの戦争捕虜と情報参謀が赤軍に引き渡されたイタリアでのある本国帰還作戦と、イギリスに騙されて西側への亡命が認められると信じた後のほぼ確実な処刑とについて要約している。囚人が経験した苦痛と恐怖を物語っている。」

この200万から500万人の反共主義者の大量処刑の指導的犯罪者は、我々の笑顔のアイク、連合軍の欧州方面軍の長、またはご存知のように、我々の前大統領アイゼンハワーであった。キールホール作戦の犯罪はニュルンベルクでの問題にはならなかった。

第二次世界大戦中のキリスト教諸国に対するユダヤ人の勝利の直接の結果として創設されたイスラエル国家に資金を供給するために、すべての残虐行為を行ったユダヤ人は、今度は征服されたドイツ人に莫大な「賠償」要求を課した。

これまでに、彼らはドイツの労働者から350億ドル以上を強請り取った。その金額は銃剣を向けられて集められたもの、それもイスラエルの銃剣ではなく、西ドイツにほぼ40年もの間、ドイツ傀儡政府の後ろで軍事力を提供する為だけの占領軍として維持されたアメリカ軍の銃剣であり、それはイスラエル寄生国家の為に資金を供給することをその第一の役目としたものである。

第二次世界大戦の約20年後、戦争中のユダヤ人が指揮する軍隊による女性と子供の恐ろしい虐殺に学者が焦点を当てることをユダヤ人は恐れ始めた。ケルン、ハンブルク、ベルリン、ドレスデン、その他の西欧文化の中心に対する大規模な爆撃による何千もの家族の灰化、東京の何千もの家族を殺した火炎嵐、更に帝国軍幹部が既に和平を訴えていた対日戦の最後の時期、広島と長崎の民間人に解き放たれた核ホロコーストユダヤ人は新しいユダヤ人地獄爆弾を試すために人間をターゲットにしたこの機会を失いたくなかった)、これらと他の多くの戦争犯罪(が明るみに出ること)に、ユダヤ人は懸念し始めたのである。

彼らの罪悪感は避けようがなかった。彼らの犯罪が被害者らの頭に報復を呼びかけるまで、それは単なる時間の問題に思われた。この可能性を未然に防ぐために、ユダヤ人は自分たち自身の猛烈な運動を始めた。 600万人のユダヤ人が焼かれたと言われている彼らの新しい神話「ホロコースト」を宣伝する、高度に同期され調整された世界的な運動である。

600万人のユダヤ人はガス処刑もされたと言われている。これが実際に「殺された」1200万人のユダヤ人がいたことを意味したかどうかは、誰も知らないようである。第二次世界大戦中に発生したホロコースト、或いは火による大量殺人は、歴史的記録の問題であった。

連合国の航空機によるこれらの都市の大規模な火災爆撃の後にケルン、ハンブルク、およびドレスデンで空襲の結果の焼死体の折り重なった写真があった。ユダヤ人が直面した問題は、第二次世界大戦中にユダヤ人が犠牲者のホロコーストがなかったこと、更に焼かれたユダヤ人の遺体の写真がなかったことであった。

心配には及ばず -ユダヤ人は、ドイツ人犠牲者の遺体の写真を単に流用した。それは今日、死んだユダヤ人の展示としてドイツの悍ましい「博物館」に展示されている。ユダヤ人が第二次世界大戦中に実際には非常にうまくやっていたことは記録の問題であった。

ドイツでは、家の前での賄賂と腐敗の信じられない武勇伝が、爆撃が始まる直前にドイツの都市からすべてのユダヤ人の大量避難を確保した。言語道断の恐怖の後継の中でドイツの家族全員が死んだとき、ユダヤ人はアウシュヴィッツのような難民キャンプの快適な区画に安全に収まっていたのである。

大量爆撃による襲撃の危険からは程遠いこれらの遠隔収容所に隔離されることによる彼らの救助に関する究極の証言は、他の誰から来ようか、ユダヤ人自身から来たのである。我々を納得させることを決してやめないので、彼らは「生き残った」のである。

彼らは多くの国で大量虐殺または非ユダヤ人の虐殺の場面の中で生き残ったが、数十年後、彼らは自分たちが「駆除」されたと主張することが自分たちの目的に必要であることに気づいた。

第二次世界大戦中にドイツ人によって安全に隔離されていた保護収容所は、現在「死の収容所」となった。それらは死の収容所のみならず、1981年9月に月刊アトランティック誌で記念されたアウシュヴィッツなどの収容所であり、「独自のサッカースタジアム、独自の図書館、独自の写真館、独自の交響楽団」を有しているようなものであった。

同じ記事は誇らしげに「アウシュヴィッツの病院はかなりの規模に成長し、約20人の医師と300人以上の看護師がいる」と自慢している。これが「死の収容所」だった? 事実、アウシュヴィッツの「死の収容所」にある病院ほど規模が大きく、または装備の整ったドイツ軍の野戦病院は一つも戦場附近にはなかったが、アウシュヴィッツは数百万のユダヤ人が「死に追いやられた」場所として常にユダヤ人によって引き合いに出されているのである。

ユダヤ人は今ではアウシュヴィッツに到着してから数時間以内に「ガス室」に急かされたと主張しているため、大規模な近代病院の目的が充分に説明されたことはなかった。この主張は、ユダヤ人による不運な見落としがなければ、より有効であった可能性があるが。彼らは(結局)第二次世界大戦が終了するまで、アウシュヴィッツガス室を建設しなかったのである。

ナチスによって600万人のユダヤ人が殺害された」戦争のほぼ40年後、彼らが主張するように、何千人もの「死の収容所の生存者」の毎年恒例のお祭り、会議・大会、および他にも大衆集会がある。 さらに奇妙なことには、これらの繁栄し、健康で、充分に栄養を与えられた「犠牲者」は、たった1つの「死の収容所」の生存者であったと主張することだ。

彼らのほぼ全員が5つまたは6つの収容所に収容されていたと主張するが、これはドイツが2つの前線戦争を戦っており、軍隊を戦闘エリアに供給し続けることができなかった頃の話である。ユダヤ人は、数ヶ月ごとに彼らが1つの収容所から列車に乗せられ、数百マイル移送して別の「死の収容所」に殺されるために運ばれ、それから数ヶ月後に明らかに殺されなかった彼らは更にもう一つの「死の収容所」に向けて列車に乗せられ、そこで終戦を迎えるまで危害を加えられることなく残った、と言うことを信じろと言うのである。

彼らが多くの異なる「死の収容所」にいたというユダヤ人の「生存者」のそれ以外の場合は不可解な主張をする理由は、単純な説明「ゲルト」によって明らかにされます。 「生存者」は、征服されたドイツ人から毎月の支払いを定期的に受け取ります。

「Garfinckel(ガーフィンケル)」は、アウシュヴィッツの囚人だったので、ドイツから毎月支払いをイスラエルで受け取る。

「Rosenfeld(ローゼンフェルド)」はトレブリンカの囚人だったため、ドイツから毎月の支払いをイスラエルで受け取る。-

Steinberg(シュタインベルク)」は、ダッハウの囚人だったため、ドイツから定期の月払いをイスラエルで受け取ります。

Garfinckel、Steinberg、およびRosenfeld… 彼らを知らないのか? ホロコースト条約のニュース報道であなたが見た、同じ太った、笑顔の(したり顔の)ユダヤ人である。

 

 

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ユダヤ人の作り話には要注意」。 ローマ皇帝ティトゥス1:14

 

ホロコースト神話或いは「消えた600万人のユダヤ人」は、敗北した敵から収入を集めるだけの問題ではない。 それは又、全世界の権力を追い求めるユダヤ人が手に入れた宣伝工作の最も強力な武器の一つなのである。

今日、米国での職務を継続しようとする、または米国でより高い職を求めることを望むすべての役人は、ホロコースト神話に対する永遠の、疑う余地のない信仰の儀式的な誓約をしなければならないのだ。 ホロコースト神話に疑問を呈することは、ユダヤ人の世界独裁体制に対する挑戦を意味し、最も厳しい刑により直ちに処罰されなければならない。 したがって、「600万人」の基本的な嘘に関する最も幻想的な詳細の話は、アメリカの宗教番組、教育書、および新聞に日常的に掲載されている。

ホロコースト神話に勇敢に疑問を投げかけた稀な公人の中には、「六百万人」についての質問に答えて、エスクァイアの記者に、「そう、ユダヤ人は言う」と語った俳優のロバート・ミッチャムのような個人主義者が居る。 「そう、ユダヤ人は言う(だと)?」恐怖の記者は叫んだ。「うん、」とミッチャムはうなり、「そう、ユダヤ人は言うんだよ」と続けた。

もう一人の俳優、ロナルド・レーガンは公職を求めている間、カリフォルニアのユダヤ人聴衆に向かって、「犠牲者の(数の)主張を実際に証明できる数に制限すれば、あなた方の大義に役立つかもしれない」と語った。取材していた記者は、「聴衆は(非難の意味で)ガチョウのように音を立てるようになり、突如として不協和音が鳴り響き、向上心に満ちたその政治家(レーガン)は飛行機に向かって突進し、その特定の講堂に現れることは決してなかった」と述べた。

「600万人」についてのレーガンの疑いが何であれ、彼はそれ以来沈黙を守ってきた。レーガン政権は、「最終的な解決策」の究極の神聖化をしたとして記憶されるであろう。ワシントンモールの2つの政府の建物が、「ホロコースト記念館」のために「政府」からユダヤ人に贈られたのである。

ワシントンモールは、フォロ・ロマーノのように我々の国家アメリカの志の中心であり、主要な装飾の壮大なワシントン記念塔を含め、ホワイトハウスから中心地まで通っている。殆どのアメリカ人が驚くことに、今やワシントン記念塔は「ユダヤ人の路地」とも呼ばれるものである。

多くの生まれながらのワシントンっ子は、この驚くべき展開に対する批判を表明し始めた。 1983年4月25日付ワシントンポストでは、ウィリアム・ラズベリーが社説に次のように書いている。「単純に、私には理解できない。」これは公認のアメリカの記念碑であると彼は指摘する。加害者も犠牲者もアメリカ人ではなかったのでる。

彼は、ハワード大学の教授を引用し、では奴隷の記憶を称えるために奴隷記念碑、またはインディアン(北米先住民)のためのウーンデッド・ニーの記念碑もモールにあるべきではないか疑問に思って居ると言う。しかし、ワシントンモールにユダヤ人の記念碑が建立されたことは絶対的な力の誇りであり、ユダヤ人がアメリカのゴイム奴隷に対して絶対的な力を達成したことなのに、彼はそれに関しては言わないのである。

モスクワの赤の広場にカールマルクスの記念碑が建立されていることは理解できる。ワシントンモールにユダヤ人の記念碑が何故建立されたか、理解することはできないのであろうか?

黒人のラズベリーは続けて「この種のことは二度と起こらないという誓約」が心配だ、何故ならそれは今當に起こっているからだ、と言って、自分を雇ってくれているワシントンポストを所有するマイヤー家の人間の大きな鼻を誤魔化すのである。

彼は明らかな例であるレバノンで起こったロッシュ・ハシャナの虐殺、アラブ女性と子供の虐殺について言及しなかったが、勿論ラズベリーは2つの重要な要素を理解していない。第一に、「それ」が決して起こらなかったこと、そして第二に、ユダヤ人は「選ばれた人々」が神聖であり、誰もその髪の毛すら傷つけてはならないと言う警告を世界中に出そうと目論んで居ることである。

カンボジアベトナム、アフリカ、或いはレバノンで、すべてのゴイム、つまり非ユダヤ人の家畜を虐殺することはまったく問題ない。これは、ユダヤ人の「神聖な」存在とは何の関係もないのである。

「二度と起こさない?」ホロコースト神話に言及するユダヤ人のよく知られたスローガンは、より適切には「起こさない」ではなく、それは決して起こらなかったことだけでなく、ユダヤ人の目的に合致すればいつでも異邦人の家畜を虐殺しても良いことをも意味するのである。何故ならホロコースト神話は、できるだけ多くの異邦人を殺すためにユダヤ人に白紙委任状を与えているからである。「削減、ゴイムの皆殺し」、古いアムシェル(ロスチャイルド)がそれを貪欲に述べているように、殺される異教徒が多いほど、ユダヤ人に対する潜在的な脅威として生き残る人が少ないのである。

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