隠されたホロコースト6

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二百年共に(二十数年越しに漸く英訳されたユダヤ問題のロシア史)


アレクサンドル・ソルジェニーツィン[1]は、ボルシェビキ革命以来、イディッシュ人の革命家の手にかかって約6600万人に上る「本物のロシア人」が殺害され、そして今、米国の2億人の市民が血に飢えたシオニストテロリストの屠殺場で彼らの出番を待っているのだ、と述べている。

デニス・フェイヒー神父[2]は、その著書「ロシアの支配者」で、ロシアに於いてソヴィエトの殺人機械を操作した多くのユダヤ人テロリストの本名を明らかにした。トロツキーはブロンシュタイン、マルトフはツェデルバウム、ジノビエフはアプフェルバウム、カメネフはローゼンフェルド、パルバスはヘルプハンド、ボーリンはネイサンソンなどであった。

多くの白人ロシア人は、ウラジオストックから大連港までの太平洋に向かって逃げた。ヨーロッパ文明に知られた最も優雅な宮殿を取り仕切っていたロシア人女性は、飢えた子供たちにパンを探すため売春を強要された。それ以外は、没落に耐えかね、自殺するか、或いは徐々に餓死した。ロシア革命の数十年後、白人ロシア人女性の中には、未だ上海、北京、東京の売春宿に見出される者も居た。

マルクス主義者の赤色テロの男性生存者、その多くは高度に教養のある学者、哲学者、科学者は、厳しいアジアの世界で難民としてその高度に専門化された職能が自活の手段にならないことを思い知った。あるロシアの将軍は、数日間上海で苦力として人力車を引いていたが、後に彼はその貧相な部屋で首を吊った。

ロシアでの最初のテロを生き延びた人々は、さらに過酷な死を運命づけられ、つまりユダヤ人が運営する強制収容所で囚人としてゆっくりと苦しみながらの死であった。長年にわたり、ユダヤ人はキリスト教諸国のメディアの完全な統制を通して、ソヴィエトロシアに於いてキリスト教徒に毎日為されていた恐怖が外の世界にニュースとして届かないようにして居たのである。

強制収容所送りの判決を生き延びた犠牲者の一人であるアレクサンドル・ソルジェニーツィンが遂に身の安全を得、その本「収容所列島(The Gulag Archipelago)」の中で、彼は、血に飢えたユダヤ人テロリストが1918年から1957年にロシアで6600万人の犠牲者を殺した、と言う信じられない世界の事を伝えた!

ソルジェニーツィンは、1921年1月8日に発行されたチェーカー命令第10号「ブルジョアジーの弾圧を強化すること」を引用した。恐ろしいシベリアの収容所、コリマや他の多くの収容所設立の元になったのはこの命令であった。ソルジェニーツィンは更にこれらのキャンプを運営した大量殺人者の名前をもキリスト教世界にもたらした。

それらはすべてユダヤ人であった。典型的な一人のラザー・コーガンは、白海運河建設の首領としての任務中に、何千人もの奴隷労働者が死んでいくのを見た。彼は時折、新しい囚人に向かって次の様に認めて居た。「あなたは個人的に何の罪もないと信じている。しかし、教育を受けた人間として、社会的予防手段が広く適用されていることをあなたは理解しなければならない。」

「社会的予防手段」は、ユダヤ人がキリスト教徒を虐殺するために婉曲表現として用いた悪質な決まり文句であった。ユダヤ人は他のすべての人種を非人(人間以下)だと考えていた(いる)ので、犠牲者は、いったんキャンプに引き渡されると、もはや人間とは看做されなかった。彼らは単にロシア語で「囚人」を意味する「zakluchenny」の俗語「zeks」と言う略称で認識された。

ユダヤ人は、スペイン内戦中に無力なキリスト教徒を虐殺する別の機会を与えられた。アーネスト・エルムハースト[3]は、「World Hoax(世界の捏造詐欺)」の157頁で述べて居る。「同様に重大であったのは、ジュネーブでのソヴィエトロシアの元和平代表〜ユダヤ人ローゼンベルク[4]モーセイスラエルソン)とその140人の職員~が1936年8月にスペイン大使の事務所に移籍したことであった。」

拷問と殺人のこの高度に訓練された専門家の幹部が恐怖政治をもたらしたが、世界では多くが無視された。それはスペイン戦争を取り扱ったアーネスト・ヘミングウェイなどの多くのジャーナリスト自身が共産主義者に同調的であり、スペインの愛国者である「ファシスト」、彼らが軽蔑を込めてそう名付けた、の信用失墜しか追求して居なかったためであった。

ローゼンバーグ殺人チームは「世界革命運動浄化隊」と呼ばれていた。彼らの「浄化」とは、エステル書とユダヤ人のプリムの祭礼のお祝いの場に詳しく説明されているように、主に司祭、修道女、聖歌隊、女性と子供の虐殺することにあった。

アーサー・ブライアント[5]は、彼のよく記録されている「スペインに於ける共産主義者の残虐行為」で、バルセロナドミニコ会修道院に行った殺人隊の一団について語り、女子修道院長に「暴徒の暴力の可能性があるため」に部隊に同行して安全な場所に落ち着く必要があると伝えた。その後、彼女らは郊外に連れて行かれ殺害された。

彼らのユダヤ人司令官は、「建物が必要であった。占領する前にごたごたは望まなかった」と論評した。

E.M. Godden[6]は、「スペインの紛争」72頁で「1936年7月の最後の週に、修道女の遺体は墓から掘り出され、修道院の外側の壁にもたせ掛けられた。わいせつで攻撃的な看板が遺体に付けられた。」

マドリードでは、共産主義ユダヤ人によって1939年までにスペインの人口の10分の1が殺害されたと推定された。デ・フォンテリス[7]の「マドリードに於ける赤色テロル」の中でディミトロフ[8]とローゼンベルクに組織されたチェーカ[9]の隊員が拷問と殺人の計画をどのように遂行したか伝えて居るが、それは余りにも残酷で不愉快であるため繰り返すことも描写することもできない程であった。

世界殺人計画をもっと推進するため、ユダヤ人は時折自分たちの仲間を少数犠牲にすることを容認して居た。これは、1773年のロスチャイルドの自宅での会議で「我々自身の多くの仲間を犠牲にしているが、それは十分元が取れている。我々側の一人の犠牲は千人のゴイムの死に値する」と発表されて明かされた。

この発言者が意味するところは、ユダヤ人がたまたま一人殺された場合、それは千人のキリスト教徒の死、或いは、キリスト教徒がユダヤ教カルトによってあからさまに呼ばれる「家畜」の死によって贖われる(復讐を遂げる)ということであった。

発言者は続けてうっとりした聴衆に「我々はその正反対のこと、...削減、つまりゴイムの皆殺しに関心がある」と指摘した。ロスチャイルドの家でのこの会議の記録はどのように生き残ったのであろうか?

確かに、これほど細心の注意を払って仕組まれた殺人計画や、これほど正確に実行された殺人計画はこれまでなかった。数字は分かっており、議論の余地はない。第一次世界大戦での5000万人の犠牲者。第二次世界大戦での1億5千万人の犠牲者。ボルシェビキ革命の成功以来、ロシアに居たユダヤ人の狂信者によって殺された6600万人のキリスト教徒、である。

これらのユダヤ人テロの犠牲者の大多数ではないにせよ、多くは女性と子供であった。何百万人もの人々が、彼らの住んで居た所から共産主義者による追放の運動の中で飢餓と曝露(野ざらし)で死に絶えた。典型的なのは、第二次世界大戦後のチェコスロヴァキアからのスデーテン系ドイツ人の追放であり、その間に百万人以上のドイツ人が亡くなったものと、またポーランドからの独逸人追放、恐怖の移住で二百万のドイツ人の命が失われたものである。

ユダヤ人は、これらの数百万人のキリスト教難民の死を特に喜んだ。なぜなら、その死にざまが、すべてのキリスト教徒に対するユダヤ人の憎悪の最も大事にする教義を実現したものであったからである。つまり、非ユダヤ人、非人或いは家畜、ユダヤの用語で言う「ゴイム(Goyim)」は、埋葬されるべきではないと教えるからである。

これは「動物」の埋葬を禁止するユダヤ法の違反である。これらの数百万人のキリスト教難民は、酷い共産主義者の追放の期間に行き倒れ、キリスト教の儀式で埋葬されたことがなかった。

第二次世界大戦の初期、共産主義者は大衆殺人の彼らの好きなスポーツにふける機会を喜んだ。戦争の最初の時期、国の花であった15,000人のポーランド人将校が捕らえられた。彼らは、スタロビエスク、コジエルスク、オスタシコフの3つのユダヤ人運営の共産主義収容所に連行された。わずか448人だけが再び生きて見つかり、残りは消えたが、痕跡がなかったわけではない。

コジエルスク収容所はコジエルスク駅から約5マイルの旧正教会修道院の敷地内にあり、この収容所で、約5000人が小集団に分けて送られ、それは1940年4月まで続いた。

キセレフ[10]は、1940年の春に囚人が毎日3~4台のバスでカティンの森に連れて行かれたと言った。彼の家で、彼は銃声と叫び声を聞いた。そこで10,000人のポーランド人が撃たれたと噂されていた。 1943年にドイツ軍がこの地域を占領したとき、調査が開始された。

1943年6月10日付のドイツ警察の最終報告書には、「死因は例外なく首の後ろの銃撃によるものであることが証明された。殺害されたポーランド将校の暴かれた七つの大量埋葬地は比較的狭い地域に集まっていた。日記、回顧録、遺体と共に見つかったその他のメモの翻訳から、1939年にソヴィエト軍に捕虜にされた将校たちがコジエルスク、スタロビエルスク、オスタシコフ、プティヴィエル、ボロトフ、パブリシチェフボル、シェピエトフカ、ゴロドクに送られたことが証明された。

カティンの森で殺された人々の大部分はコジエルスキ収容所にいた。 3月末から1940年5月1日までの期間にコジエルスクからの捕虜が鉄道で到着した。正確な日付は確定できない。いくつかの短い間隔を空けて、一団はほぼ毎日去った。捕虜の数は100人から300人の間で変動した。」

「それから、早朝に、囚人は特別な荷馬車でカティンの森に向かった。そこで将校はすぐに撃たれ、溝が準備されているのを見た、と言うキセレフの目撃者の証言からわかるように、用意されていた埋葬地に投げ入れられて埋められた。捕虜の一団が到着した直後に銃撃が行われたことは、そのような到着のたびに銃撃を聞いた目撃者によって証明されている。」

「限られた収容能力を持つ休憩所を除いて、森林には宿泊施設はなかった。遺体の位置から、大多数が墓の外で殺害されたと推定される。死んだ男性の多くは、背中で手を縛られていた。目撃者の証言で、森林への立ち入りが禁止されたことを確認している。現地警察長官のVoss は言う。Butz教授[11]の報告には次の様にある。「犠牲者から見つかった文書(身分証明書〜軍事パスポートではない〜日記、手紙、はがき、カレンダー、写真、絵など)が名前、年齢、職業、出身地、犠牲者の家族の続柄を示した。日記の哀れな記述は、NKVDによる犠牲者の扱いを証言している。」

「アッパーシレジア、「一般政府」、およびロシア占領地域の親族からの葉書、郵便局のスタンプから判断すると1939年秋から1940年3月または4月までの間に書かれたもの、は明確に犯罪の犯された時期を指摘する(1940年春)。」

カチンの森事件は、ドイツの「戦争犯罪」の一般裁判の一環としてニュルンベルク裁判所に提出され、ソヴィエトはこの残虐行為がドイツ人によって犯されたと主張した。それは議題にあったが、ソヴィエトはそれを判決から省略し、またそれについてはポーランド人の誰も証言することを許されなかった。

G・F・ハドソン[12]氏は「国際情勢」と言う四半期ごとの雑誌に「カティンの鎮まらない死者はまだ地球を歩いている」と書いている。その後の数年間、ジョージ・A・ドンデロ議員、レイ・マッデン議員などを含む多くの議員がこの事件を再捜査しようとした。

1952年7月2日の米国議会選考委員会は、「委員会は、調査の第1段階に取り扱った証拠により、ソヴィエトNKVD(内務人民委員会)がロシアのスモレンスク近くのカティンの森で1940年の春までの時期にポーランド陸軍将校の虐殺を行ったことが決定的かつ最終的に証明されたことに全会一致で合意した」と報告した。

「委員会はさらに、ソヴィエトがポーランドの知的指導層のこの犯罪的絶滅を、最も早い場合1939年の秋、つまりロシアのポーランド国境への叛逆的な侵略の直後に画策したと結論付けている。この虐殺は、ポーランドを共産化するというソヴィエトの計画に後に反対したであろうすべてのポーランドの指導者を排除するための計算された謀略であったことは疑いの余地がない。

 

[1] 旧ソ連の反体制派作家。1977年にアメリカへの亡命を許された。数ある彼の作品の中でロシアに於ける猶太人との200年を描いた「200年間共に」と言う小説だけは、未だに英語への翻訳出版がされないと言われる。

[2] デニス・フェイヒー神父(1883~1954)はアイルランドカトリック司祭。

[3] Ernst F. Elmhurst の著作。William Dudley Pelley (ウィリアム・ダッドリー・ペリー)により1938年に出版された。著者の詳細は不明。

[4] マルセル・ローゼンベルク(Marcel Rosenberg)はソ連の外交官。ソ連最初のスペイン大使でスペイン内戦中もそうであった。1937年に呼び戻され、スターリンにより粛清された。

[5] サー・アーサー・ウィン・モーガン・ブライアント(1899~1985)は、英国の歴史家、The Illustrated London Newsのコラムニスト。

[6] この著者については詳細不明。

[7] Luis de. Fonteriz この著者については詳細不明。

[8] ゲオルギ・ディミトロフ(Georgi Dimitrov)は、ブルガリアコミンテルン書記長であった人物。

[9] チェーカーは、ウラジーミル・レーニンによって十月革命直後の1917年12月20日に人民委員会議直属の機関として設立された秘密警察組織の通称、NKVD、KGBの前身。

[10] Parfeon Kisselev カティンの森虐殺事件の証言者。

[11] アーサー・R・バッツ (Arthur R. Butz)教授は、ロベール・フォリソンと共にホロコースト否定論者として有名なノースウェスタン大学の教授である。

[12] Geoffrey Francis Hudson(1903~1972)は、国際ジャーナリスト。「共産主義の五十年(Fifty years of communism : theory and practice, 1917-1967)」「世界政治に於ける極東(The Far East in world politics : a study in recent history)」などの著作で有名。それ以外詳細不明。

 

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