アメリカの國民性6(完)-和辻哲郎1943.12

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5. 開拓者的性格

以上によつて見ると、ホッブス的性格とベーコン的性格とは相結んでアメリカ開拓亊業の中に生き、さうしてこの開拓亊業を通じてアメリカの國民性を作り上げて行つたのである。從つて前述の二つの性格は開拓者的性格に於て統一せられてゐるといふことが出來る。

アメリカ開拓の仕亊は、アメリカの自然と土人とに對する戰ひであつた。この兩方面から來る危險は移民たちがアメリカの國土に足をつけたその日から彼らを脅かし、彼らの生活を緊張せしめた。從つて彼らの生活はこの危險を冒して突進するといふ努力の態度を基調とする。しかもこの努力を彼らは原始的にまた素朴に遂行したのではなくして、永い苦勞の果實たるベーコン的・ホッブス的性格を以てしたのである。そこでここには、一面に於て青年の如く新鮮な活氣を帯びると共に他面に於て老熟した手段を擇ぶことの出來る獨特な闘爭的性格が出來上つてくる。これを以て彼らは新大陸に根をおろすことに成功し、その成功に自信を得てますます闘爭的になつた。彼らと同じ頃に移住したラテン系の民族が東海岸に故國と同じやうな平和な農牧の地を作つて滿足してゐる間に、アングロ・サクソンの移民たちは猛烈な勢で大陸の奥へ奥へと進軍して行き、遂に二百年足らずの間に厖大な大陸を太平洋岸まで突きぬけてしまつたのである。がこのやうに前進そのものが性格的になつてくると、太平洋まで出れば滿足するといふわけには行かない。太平洋岸が正式に合衆國に合併されたのは一八五〇年であるが、その三年後には既にペリーがアフリカ廻りで浦賀にやつて來てゐる。その後の半世紀にはハワイからフィリピンにまで進出して來た。

この間に勿論アメリカへアングロ・サクソン以外の移民が多數に流れ込んでゐる。しかしそれらは開拓者アングロ・サクソンの作つた風習のるつぼの中で忽ちの内にアメリカ人に化せられたと云はれてゐる。血よりも風習の力の方が強いのである。

が同時に、本國では、沈着で辛抱強い、むしろ鈍重であつたアングロ・サクソンの性格も、輕躁で向ふ見ずな、敏捷を好む性格に變つてしまつた。この性格はアメリカ人の求める「幸福」が何であるかを見れば好く解る。それは何よりも先づ強烈な刺戟や精力の放出なのである。從つて行動の喜び、緊張の喜びなのである。それを直觀的に示してゐるのがアメリカ式のスポーツであると云はれる。その結果アメリカ人は力を出し切ることを好む。力を出し切つてぐつたりするのが彼らには快感なのである。それと共にそこから立上る時の爆發を必要とする。でファイは『アメリカでの生存は爆發の連續から成つてゐる』といふ。

ここでも我々は、機械の場合と同じく、新大陸開拓に必要であつた性格が、今や逆に人間とその亊業とを支配してゐるのを見る。人倫的な意義が彼らに根限りの努力をなさしめるのではない。さういふ意義は彼らにとつては敵をやつつけるための手段的效用を持つに過ぎぬ。それほど彼らの生活は人倫的意義を喪失してゐるのである。彼らはただ強烈な刺戟を得んがために根限り働き、機械を作り、その力を以て自然と人間を支配しようとする。その亊業の成功が彼らの求める強烈な刺戟を與へる。成功の有頂天から失敗のどん底へ突き落されても、その強烈な刺戟がまた彼らには滿足なのである。つまり彼らにとつては亊業の究極の意義は賭博の持つ魅力と變りはないと云へるであらう。アメリカ名物のギャングは、アメリカの國民性から云へば、決して偶然ではないのである。

アメリカ人の世界制覇の野望なるものもここから理解されなくてはならぬ。それは何ら高邁な道義的理想から出たものでもなく、また彼らの國民的生存のための必要から生れたものでもない。平和條約と機械力とを以て土人と風土とを征服した彼らの歴史的行動は、謂はば彼らの「性癖」となつて定着した。從つて彼らは、理由もなく必要もないところででも、同じ行動を繰り返さねば氣がすまないのである。それは強烈な刺戟を求めて亊業に沒頭する態度の一つの現れに過ぎぬ。しかしこのやうな賭博的無頼漢的態度を以て太平洋に進出しアジアを制壓しようとすることは、アジア數億の人間の運命をアメリ土人のそれと同じく蹂躙し去らうとするにほかならず、明かに非人道的であり、人倫の破壊である。彼らのふりかざす平和條約の裏にはかかる罪惡がひそんでゐる。にも拘らず彼らが平和條約を楯に己が立場の正義を確信するとすれば、それは彼らの無反省と厚顔とを示すに過ぎぬのである。今や彼らは冷静な思惟を失つて衝動的となり、厚顔な自己正義感に浸りつつ、唯一の頼みの綱として機械力に縋りついてゐる。しかし彼らが機械力で勝つたのは機械を持たない土人に對してであつた。今彼らが對してゐるのはその機械を使ふこと己よりも遥に巧妙な敵である。彼らは同じ柳の下にどぜうのゐないことを初めて經驗した。慌て出したアメリカ人が最後の切札として出したのは、純粋なアメリカ精神、卽ち「量」の精神である。アメリカの民衆は「數字」が彼らを護つてくれることを頼りとしてゐる。アメリカの軍隊は「量」が敵を壓倒してくれると考へる。かういふ文明的な迷信の下に彼らはその力を出しつくすまで戰ふであらう。がその先に彼らを待つてゐるのは所謂 nervous breakdown である。民族の眞の底力は道義的精神力であつて量の力ではない。焦燥しつつ一切を賭けてくる賭博者は案外に脆く倒れるものである。

(昭和十八年十二月)

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