猶太と世界戰爭(新仮名)03

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第一章 猶太魂の本質
二、猶太魂の本質(昭和17年2月)続き

猶太民族の神観

以上述べましたことが理解されますと、「タルムード」の中にあるユダヤ人の神観もまたよく理解されるのであります。そして先ず第一に注目に値する次の言葉であります。

「神ユダヤ人に言う、汝等我を世界の唯一の支配者となせり。されば我も汝等を世界の唯一の支配者となさん。」

これは前に旧約より引用致しましたもののうちに幾つか見られたのと同一の種類のものでありまして、ヤーヴェがユダヤ人に世界支配を約束する言葉なのであります。然もその約束をするだけならば、前にも幾度が申しましたように、民族の守護神の場合としては別に不都合ではないのでありますが、今度の場合の約束に於ては、神とユダヤ人との関係が相互的又は対等的であり、換言すれば、前の場合に商売的契約の感があると言っておきましたものが一層判然と現われている所に問題が生じて来るのであります。即ちヤーヴェとしては、自分は元来は一地方の土俗神であるか、或いは精々民族神であるのに過ぎないのであるが、その自分をユダヤ人がその「頭のよさ」によって宇宙神又は創造神に祭り上げて呉れたのであるから、自分の方でもユダヤ人を世界の支配者にしてやろう、と言っているのであります。一言で言いますと、ユダヤ人とヤーヴェとの関係は一種の取引なのでありまして、我々が考えるような民族神と民族との関係ではなく、況してや宇宙創造の神と人間との関係ではないのであります。そして前にも述べましたような低級な狐狸の怨霊とも言うべきものが世界の唯一神と思い上り、また幾千年の間「嘘のうまさ」で貫き通して来た民族が世界の唯一の支配者となることの不正不合理については、今更繰返して申上げる必要はないと思われますので、ここでは直ちに次へと論を進めたいと思うのであります。

ところがヤーヴェとユダヤとの関係は、単に上述の如き側面に止まるのではないのでありまして、ユダヤ魂の本質を知り、その四千年の「嘘」の歴史を解するためには、今挙げましたものと同様にタルムードの中にある次のような言葉が表明するヤーヴェとユダヤ人との関係も非常に重要なものになって来るのであります。

「神を畏敬する場合にも狡猾でなくてはならぬ。」それからまた、「あつかましくやれば、神も我々の意に従う、」というのもあるのであります。その歴史が始まると共に「嘘」に生きたとも言うべきユダヤ人は、かように神に対してすらも非ユダヤ人のように純真な帰依の心を有するのではなくて、神に対してさえも背負い投げの隙はないかとねらっているのであります。そしてこれは、ユダヤ人の神ヤーヴェが脅迫の神であり、威嚇の神であることを想起致します時に、なかなか興味深いユダヤ魂の一面なのであります。即ち猶太の歴史の証しますように、ユダヤの取った道は決して常にヤーヴェの命ずる所に叶ったとは言い難く、むしろ神命に叛いた結果として現在のユダヤの運命が生れて来ているとさえも言い得るのでありますから、ユダヤ人としては神の威嚇した滅亡を免れるためには、一面に於てあらゆる術策と嘘とを用いて神命としての世界支配の完成に進もうと努力すると同時に、他方に於てはヤーヴェそのものに対しても身を守らねばならないのであります。この後の方面の必要が前述のように神をもペテンにかけようという態度となって発現しているのではないかと考えられるのであります。それでユダヤ魂のこの二面は、ただ外見的に矛盾しているだけで、内面的には決して矛盾してはいないのであります。ユダヤ人に於てはあらゆる事に外観的には矛盾する二面が常に存在しているのでありまして、このユダヤ魂の二重性乃至二面性が理解されないでは、ユダヤ人の言行は充分に理解されず、従ってその歴史も解釈出来ず、ひいてはユダヤ対策も講ぜられ得ないのであります。かの素朴な先入主に基づく日猶同祖論とか、感傷的な人道主義に基づく似而非八紘一宇説のユダヤ抱擁論とかは、この点の認識不足から出て来る生半可なユダヤ研究家の陥り易い常套的な方向なのであります。

 

猶太人の陰謀性

ここで話を転じまして、何故にヤーヴェがかようにユダヤ人を威嚇し、脅迫するのであるかという問題に移って考えますのに、これは既に引用致しました聖書、又はタルムードの句にありましたように、ユダヤ人をして世界の支配者たらしめようというのであります。この点に関しましてタルムードからなお二三引用致しますならば、「世界はただイスラエル人のためにのみ創造されたのである」とか、「ユダヤ人は何処へ行こうとも、その地の王とならねばならぬ」とか、「あらゆるイスラエル人は王者の子供である」とかいうのがあります。しかしこれだけならば、前にも繰返し申しました通りに、如何なる民族にも許さるべき自負心の表現と認めることが出来るのでありますが、問題はその次にあるのでありまして、この世界支配を「如何にして実現するか」という点が、重大な問題を含んで来るのであります。それで先ず旧約の方を見ますと、出エジプト記の三四には、

「汝慎みて汝が往くところの國の民と契約を結ぶべからず。彼等汝等の中に住む時は、恐らく汝等の罠となることあらん。汝等反って彼等の祭壇を崩し、その偶像を毀(こぼ)ち、その聖柱をきりたおすべし。」
とあります。この「契約を結ぶべからず」という点につきましては、後にユダヤ人の人間観を述べまする際に一層明瞭になると考えますので今は論じないことに致しますが、その残余の部分は、他民族の宗教を破壊せよというのでありまして、これはユダヤの世界支配の一方策たるマルクス主義の反宗教運動を想起すれば事情は明瞭となるでありましょう。ユダヤ人は自分のユダヤ教に対しましては、前述のヤーヴェとの関係に見られます通りに、極端な信仰又は恐怖を抱いているのですが、他民族からは宗教を奪ってしまい、それによって他民族を滅亡させようとするのであります。然もそれがヤーヴェの命令としてなされる点が特に注目に値するのでありますが、この点については既に論じましたことで明らかであろうと思います。

次に申命記から引用致し度いと思いますが、その申命記は所謂トーラのうちでも最もユダヤ魂の本質を見るには大切なものでありまして、私の引用も一番多くなると思いますが、その七には、

「汝は汝の神エホバの汝に付したまわんところの民をことごとく滅しつくすべし、彼等を憫(あわれ)み見るべからず。また彼等の神に事(つか)えるべからず。その事汝の罠となればなり。…汝の神エホバ是等の國人をややに(徐々に)汝の前より逐(お)いはらい給わん。汝は急速に彼等を滅しつくすべからず。恐らくは野の獣殖(ふ)えて汝等に迫らん。汝の神エホバ彼等を汝に付し、大いにこれを惶(おそ)れ慄(おのの)かしめて、遂にこれを滅し尽し、彼等の王を汝の手に付したまわん。汝彼等の名を天の下より削り去るべし。汝には抗することを得るものなくして、汝遂に彼等を滅しつくすに至らん。」
とあるのであります。またその二〇には、

「汝の神エホバこれを汝の手に付したまうに至らば、刀もてその中の男を盡(ことごと)く撃殺すべし。ただその婦女、子供、家畜及びすべてその邑(むら)の中にて汝が奪い獲たる物は、盡く己に取るべし。抑(そもそも)汝がその敵より奪い獲たる物は汝の神エホバの汝に賜うものなれば、汝これもて楽しむべし。汝の離れること遠き邑々、即ち是等の國々に属せざる邑々には、すべてかくの如く行うべし。但し汝の神エホバの汝に与えて産業となさしめ給うこの國々の邑々に於ては、呼吸する者を一人も生かしおくべからず。」
と、書かれているのであります。即ちヤーヴェはユダヤ人に他民族の殲滅を命じているのであります。そしてその際に取るべき方策についても旧約中に於て、特に申命記に於て、詳細に教えているのでありますが、この引用の部分のみを見ましても、他民族の宗教の破壊とその王者の除去を説いているのであります。なお実際的な方策としては、急速に他民族殲滅をする時には、野の獣が殖えて汝に迫ることもあろうから、その野獣を亡ぼすためには非猶太人を利用せよとか、男は殺戮しても、婦女子家畜は享楽せよ、などというような点にまで注意が及んでいるのであります。今はこれ以上の例を挙げている暇はないのでありますが、この種の言説は旧約中には極めて多いのでありまして、一言にして言えば、他民族、他國家、他宗教の殲滅がユダヤの世界支配の前提となるのでありまして、この点では世界の各民族各國家をして各々その所を得しめる真の八紘為宇の精神とは百八十度、否、三百六十度の差異があり、一見類似するかの如くに見えたユダヤと日本との祭政一致の如きも、その本質を全く異にし、その存在の次元を全く別にしていることが判明するのであります。かように考えて参りますと、かかる信仰に幾千年を生きて来たユダヤ人に対しては、徹底的な膺懲(ようちょう:征伐してこらしめること)の外に道のないこともお分りになると存じます。

 

猶太人の人間観

ここでまた話題を転じまして、ユダヤ魂の本質を知るための第二の大問題であるユダヤ人の人間観を見る事に致したいと思います。そしてこれが明瞭になると、前の神観がまた特別な明瞭さを加えると考えられますし、また前の神観からは当然次のような人間観の出て来る理由も明らかになって来るのであります。

前にも申しましたように、ユダヤ人にはその二重性格に照応してあらゆる問題に関して二重の標準があるのでありますが、それがこの人間観に於ては特に明瞭に見られるのであります。即ち一口に人間観と言いましても、ユダヤ人に於てはユダヤ人観と非ユダヤ人観とが根本的に異なっているのであります。ではユダヤ人はユダヤ人そのものをどう見て居るかと申しますと、タルムードには「ユダヤ人は何処へ行こうともその地の王とならねばならぬ」とか、「あらゆるイスラエル人は王者の子供である」とか言うような、既に前にも引用致しましたものの外に、

ユダヤ人のみが人間と呼ばれるのであって、非ユダヤ人は動物と呼ばれる。」

「神より生れたものはユダヤ人のみであって、ユダヤ人以外の民族は悪魔の子である。」

「人間が動物よりも高等であるように、ユダヤ人は人間よりも高等である。もしこの世にユダヤ人が居ないならば、如何なる幸福もなく、輝く太陽もなく、人類も到底生存することは出来ない。」

「聖書に隣人と書かれてある場合に、非ユダヤ人はその中に含まれていない。」

というようなのがあるのであります。これらの言葉に見られる非ユダヤ人観こそユダヤ人の非ユダヤ人に対するあらゆる言行の基礎になっているのでありまして、前の神観と共にこの非ユダヤ人観が充分理解されない時には、ユダヤ人の他民族殲滅の謀略の真相は判明しないのであります。一言にして言えば、ユダヤ人から見れば非ユダヤ人は人間ではないのでありまして、ユダヤ人の非ユダヤ人に対する態度はすべてここから出発しているのであります。そこで次にはこの点に関して派生して来る諸問題を少し許り考察してみたいと思うのであります。

先ず旧約全書から材料を拾って行くことに致しましょう。既に前に引用しました部分に、「汝慎しみて汝の往くところの民と契約を結ぶべからず」とありましたが、また申命記には、「彼等と契約を結びて和することなく、また彼等を憫み見るべからず」とあるのであります。この契約を結ぶべからずという神命と冷酷たれという神命とは、ユダヤ人に於ては誠に徹底したものでありまして、契約を結ぶかに見え、また温情を示すかに見える場合は、何れも何か下心があっての場合と見做してもよいのであります。そしてこの場合にも忘れてはならないことは、ユダヤ人が非ユダヤ人を「人間」視してはいないことであって、この点からして、以上のような対非ユダヤ人態度もユダヤ人には何等良心の呵責を伴わない許りか、反って神意に叶うものとして宗教的意義を持つ敬虔な行事なのであります。即ちユダヤ人に取っては、「隣人」即ちユダヤ人同志の間には責任感はあり得るのですが、他民族に対しては我々が畜類に対する程度ほどの責任感もないようであります。勿論ユダヤ人にも種々の型がありますので、程度の差異はあるかも知れないのでありますが、しかし注目すべきことは、上述のような点はその幾千年の宗教的信仰となっておりますので、如何なる「善良な」ユダヤ人にも本能として存在しているのでありまして、平常はそんな傾向の毫もないような所謂開化ユダヤ人も、一旦自己の利害に関した事件等に際会しますと、その本能がむくむくと頭を擡(もた)げて来るようであります。この点の充分の認識がないと、或程度まで悲境に陥っている場合にはユダヤ人は得意の「頭のよさ」で正直な人をたぶらかしてしまうのであります。この点は余程注意を要するのでありまして、相当程度にユダヤ問題を研究したとうぬぼれている人でも、充分な思想的批判力がなかったり、甘い感傷主義者であります場合には、屡々直接にユダヤ人に面接するようになると丸められてしまうのであります。殊に八紘為宇がどうのこうのとうまい所を突いて来るので、いい気になってユダヤ人のお先棒をかつがされる場合もあるので注意が要るのであります。この警告は決して無駄ではなく、外國許りでなく、その例が我々の身辺にさえ幾つもあるのであります。そうした人の場合はその眼を直視すればすぐ分るのでありまして、これはフリイ・メイスン秘密結社員を識別するのには「眼を見よ」と言われているのと一致するのであります。話が多少わき道へそれて来ましたので、ここでまた旧約からの引用に戻りたいと思いますが、今後すべての引用も、上に述べました事を根本にして考えますならば、殆ど何の説明もなく理解が出来ると思われるのであります。

「他の國人よりは汝利息を取るもよし、唯汝の兄弟よりは利息を取るべからず、」と申命記にはありますが、これを同じ申命記の次の部分と結合するとなかなか興味深いのであります。

「汝の神エホバ汝に与えんと誓いたりし地に汝を導き入れ、汝が建てたるにあらざる大なる美しき品々を得させ、汝が盈(みた)せるに非ざる諸々の佳(よ)き物を盈(みた)せる家を得させ、汝が掘りたるに非ざる井戸を得させ、汝の植えたるに非ざる葡萄園、橄欖(かんらん)園*を得させ給うべし。汝は食いて飽かん。」*橄欖はオリーブのこと

序(つい)でにもう一つ引用致しますならば、イザヤ書には、

「海の富はうつりて汝につき、もろもろの國の財貨は汝に来るべし。…異邦人は汝の石垣を築き、彼等の王等は汝に事(つか)えん。…汝の門は常に開きて、夜も閉すことなし。そは人もろもろの國の財貨を汝に携へ来り、その王等を率い来らんためなり。汝に事えざる國と民は亡び、その國は全く荒れすたるべし。…汝を苦しめたるものの子等はかがみて汝に来り、汝をさげしめたる者はことごとく汝の足下に伏すべし。…汝前には捨てられ憎まれてその中を過ぎる者なりしが、今はわれ汝をとこしえの華美、代々の歓喜となさん。汝またもろもろの國の乳をすい、王たちの乳房をすわん。」

 

他民族の利用

このイザヤ書は、トーラに入っては居りませんが、申命記にも比肩すべきものでありまして、その中にはまだまだこの種の資料はあるのですが、引用はこれ位に致しましょう。要するにユダヤ人は、自分では労働を避けて、他人をして働かしめ、その生産したものは無償で自己の手に収めるのを得意とするのでありますが、それがまた宗教的信仰に基づくことがこれらの引用から判明するのであります。例えば熱烈なユダヤ教徒マルクスの案出しましたマルクス主義の如きも、その代表的なものの一つでありまして、あれはプロレタリヤなるものを利用して非ユダヤ人の資本をユダヤに捲きあげる仕掛になっておるのであります。それからまた、これらの引用からして、ユダヤ人が何故に金儲けに巧みであり、特に高利貸とか仲買とかに堪能であるかということも説明なくして明瞭であると思います。ただこの際に一言しておきたいと思いますのは、ユダヤ人の金銭欲の強いという点についてでありまして、これも成程事実には相違ないのでありますが、しかしこの搾取は、他民族殲滅をその根本の目標としているのでありますから、それに役立つと考える場合には、百年一日の如く営々として貯えた金をも何の惜しげもなく相当程度に投げだすこともあるのでありまして、これが分らないとまたユダヤ人の謀略にひっかかってしまうのであります。ユダヤ人の行動の最高方針は神命としての世界支配と、何等仮借する所のないその実行とであって、手段は選ぶことは決してないのであります。

 

⇒猶太と世界戰爭(新仮名)04 ⇐猶太と世界戰爭(新仮名)02

猶太と世界戰爭(新仮名)02

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猶太と世界戦争

汝は汝の神エホバの汝に付し給わんところの民を
ことごとく滅しつくすべし

申命記七・一六―

 

第一章 猶太魂の本質

二、猶太魂の本質(昭和17年2月)

 

猶太問題研究上の困難

お集りの皆様には既に充分お分りの事と存じますが、ユダヤ問題の研究ということはいろいろな不便を伴っております上に、時とすると一部インテリ層の間では誤解を受け易いのであります。ユダヤ自由主義マルクス主義を利用して久しく煙幕を張って来ていますので、この問題の存在することさえ分らない程にお目出度い人が所謂インテリの中には相当あるように見受けられるからであります。既に幾度かユダヤ禍のために悩まされた欧米では、一般の人々は、復讐を恐れて口には出しませんでも、この問題の存在や意味位は常識として知っておりますが、日本は幸か不幸か無経験のために上述のような状態におるのでありますが、そうした無準備のままで現在の非常時局に突入してしまったのであります。それで今迄はそれでよかったとしましても、今後はこの世界の舞台裏の秘密力にまで眼を及ぼして、皇國悠久の将来の為の計を立てねばならないのであります。それに今なお、ユダヤ問題を研究して批判を加えるのは少数民族の排撃である、などという感傷的なユダヤの宣伝が鵜呑みにされていることがありますが、一度冷静な批評眼を備えてユダヤ四千年の歴史を見るならば、こんなユダヤの常套的な宣伝にのせられる筈はないのであります。現代のような急激に進展して行く時代には、インテリというものは「本」が読めるために反って時代に遅れるという皮肉な現象が屡々起こるのでありますが、ユダヤ問題の場合はその最もよい例なのであります。

少数民族排撃云々の問題から眼を転じて、ユダヤ人のゲットー生活の問題を取り上げましても、在来は猶太人の宣伝の結果、ユダヤ人がゲットー内に隔離生活を送らされて来たのは他民族に強要された結果である、というように考えられ勝ちでありました。しかしこれは事実とは大きな差異でありまして、少数の例外の場合を除きましては、かの隔離生活はユダヤ人がみずから選んだ生活形式でありまして、所謂「國家中の國家」を形成するための一方策だったのであります。そしてその内部に於てユダヤ人特有の陰謀を他人に監視される心配なしに企てて来たのであります。それを「頭のよい」ユダヤ人は「頭の悪い」非ユダヤ人を欺くのに自己に好都合な解釈を加えて宣伝してきましたので、とかく真相が隠され勝ちで今まで来ているのであります。

以上僅か二つの著しい例を挙げただけでも判明致しますように、非ユダヤ人というものは全体として正直者でありますから、なかなかユダヤの謀略を見抜くことはむつかしいのであります。しかし正直さというものは、それに伴う正当なる批判力のないとき、所謂馬鹿正直となってしまうのであります。時として世間には、ユダヤ問題の如き世界の裏面の研究をしている時には、万事に物の裏を思う暗い習慣に陥るのではないか、という人もあるようですが、これは大抵の場合ユダヤ自由主義に染った人の言葉でありまして、正直にユダヤ問題の研究を拒否すると云う勇気の欠如している結果として、かような尤もらしい遁辞を設けるのであります。真の叡智は善も悪も解する能力を与えた良識に立脚するものでなくてはなりません。殊に今や我々の身辺には、一寸油断をすると家庭の内部にまでユダヤの魔手がなおあらゆる形でのびて来ているのでありますから、この度の世界皇化による新秩序の樹立のためには、甘い感傷主義を捨てて何処までも毅然とした態度で進まなくてはならないのであります。

 

猶太魂探求の法

そこで私が本日ここで多少皆様に申上げて見たいと思いますのは、例えば上述の二つの問題の如きでさえもかほど巧みに真相を隠すことに成功して来たユダヤ人の「頭のよさ」の基く所が何処にあるか、という点についてであります。世間ではよくユダヤ人のメシア思想と申しますが、私の本日お話し致したいのは、そのメシヤ思想の拠って立つ根本の地盤とでも云うものについてであります。それを私は本日の演題の「ユダヤ魂の本質」と称しておるのであります。所で問題は、それを研究するのには如何なる道を取るべきかという事になって参りますが、これにはいくつもの道があるのでありまして、富士に登る道が幾つもあるのと同様に、「ユダヤ魂の本質」を明らかにする道も幾つもあるのであります。先程も論及致しましたように、ユダヤの歴史四千年の推移を研究することもその一でありますし、特に現代に於けるユダヤ人の暗躍振りを跡づけるのもまたその一つであります。しかしこの二つの道ながらにそれ相当の困難が伴っているのでありまして、第一の道の如きは、現在では所謂枢軸國には相当の信頼すべき文献が存在しておりますが、それ以外では材料の入手が困難なのであります。殊にデモクラシーと称する金権支配の米英や、プロレタリヤを利用してユダヤの天下を招致しようという赤色帝國主義の國に於ては、ユダヤ人に関する研究は猶太人そのものの允可(いんか:許し)を経ないものは公刊の機会が殆どありませんし、たとえ、勇気を振るって公刊しても、決して店頭に取り次いでは貰えないのであります。これはヒットラー及びムッソリーニ以前の独伊に於ても事情は同じでありますし、フランスに於てはペタン政府以後も相当程度の旧態を残しているようであります。従ってわが國に於ては、ユダヤの歴史を見るといいましても書物に依る外はないにも拘らず、その書物がこういう制限を受けているのですから、この道に依る研究が容易でないことが、お分かり願えたかと存じます。次に現在の世界に於けるユダヤの暗躍振りを見るやり方でありますが、枢軸國以外の世界の通信機関の殆ど全部を支配しておりますユダヤのことでありますから、なかなか容易にはその正体を見せることは無いのであります。

それではこれ等の道によっては研究は不可能かと言いますのに、盟邦独伊の識者の研究に依ることも出来ますので、現在では割合に容易なのでありますが、しかし独伊のものも、それが國家的な支持を得て公然と研究し得るようになったのは僅か数年以来のことでありますので、まだ研究が完備しているとは申されないのであります。また独伊には独伊としての立場もありますので、我々にはその研究を全部そのまま受け容れることの出来ないことのあるのは言う迄もありません。

しかし独伊の研究に教えを受ける場合にしましても、また直接に現在の世界の動きから研究するに致しましても、研究が或点まで達しますと、案外容易に事の真相が明瞭に把握される時期がやって参るのであります。これはおそらく誰にも経験のあることと存じますが、或一事に相当に通じますと、それから先は道が容易に開けて来るのであります。例えば上述しましたような事情下にある外國電報の如きも、少し許り慣れて参りますと、その出所を知ることによって直ちにその含有する真偽性の程度が直感されるようになるのであります。そうしてこの程度に到達致しますと、独伊側の研究ではなく、英米側のユダヤ系の宣伝的著作にしましても、その真偽の割合が正確に把握されるようになるのであります。そしてここまで到達しないではユダヤ問題は分からないのでありますが、本日私が多少申上げ度いと存じますのは、この点にまで到達するのに役立つ一つの捷径(しょうけい:近道)に関してであります。

 

猶太教とその経典

よく世間では、ユダヤ人は宗教的な民族だと言いますが、それは全くその通りでございまして、たとえばかの「聖書」の如きがその民族の産んだものであることからも、このことは肯定されるのであります。御存じの通りユダヤ人には國家もなく、定住する國土もないのであります。しかもそのユダヤ人が現在の世界に見られるように見事な統一を持って動いておりますのは、秘密の指導者の有無は問題外と致しまして、その宗教的訓練の結果なのであります。従ってユダヤ人の場合の宗教は、我々が日常考えて居ります宗教とは異なったものでありまして、それは宗教であると同時に、政治でもあれば、経済でもあり、法律でもあれば、教育でもあるのであります。これを換言致しますと、ユダヤ人は祭政教一致の民族であるとも言い得るのであります。そして、この点ではわが國本来の姿と一面に於て類似している如くに見えるのでありますが、我國は上に万世一系の 天皇陛下を奉戴し、いまだ嘗て敵に汚されたことのない國土に國家を形成して来ているのでありますから、実質的には文字通り天地霄壤(しょうじょう:天と地)の差があるのであります。

この点の差異につきましては後にまた触れることに致し度いと存じますが、とにかく宗教がユダヤ人の生活に如何に大なる意義を持つかは以上でもお分り願えたことと存じます。然もユダヤ教の拠って立つ所は所謂聖書中の旧約聖書であり、また「タルムード」でありますので、私は「ユダヤ魂の本質」を知る捷径(近道)は第一にこれらのユダヤ聖典を研究することであると申し上げたいのであります。或著名のユダヤ人は「我々には祖國はないが、ユダヤ聖典こそはその祖國なのであって、この祖國のある限り我々は亡びることはない」と申しておりますが、ユダヤ人にとってかく國家と國土との二役を引き受けているユダヤ聖典こそは、我々が、ユダヤを知るために第一に考慮すべきものであろうと思います。従って、本日はユダヤ聖典を中心としてお話し致し度いと存じますが、それが旧約聖書と「タルムード」とであることは既に申し上げました通りであります。しかし旧約聖書と申しましても大部のものでありますので、特にユダヤ人が「トーラ」の名の下に尊崇致しております旧約聖書の初めの五巻を中心として本日はお話し致し度いのであります。

ユダヤ人がこの「トーラ」を尊崇致しますことは非常なものでありまして、「神さえもトーラを研究し給う」とさえ言い、神そのものよりも「トーラ」を重視いたしている位なのであります。同じことは今一つのユダヤ聖典「タルムード」に関しても言われているのでありまして、「神もまた夜間にはタルムードを研究し給う」と「タルムード」そのものに記されております。ではこの「タルムード」とは何であるかと申しますと、これは先程申上げましたトーラに対する「解釈」の集成をその重要部分としているのであります。その成立は大体西暦五、六世紀の頃ということになっており、既にユダヤ人が特殊の意図を有してその編纂に当っていることが歴然としているのであります。ついでにここでかの旧約聖書の成立についても一言しておきますならば、それも矢張同じ頃だという説がこの頃大分唱えられております。従ってこの旧約もまたユダヤ人が或特殊の意図を以て編纂したものであり、特に「トーラ」の第一巻の始めにある宇宙創造の話は印度からの借物なのだそうであります。

ここで話をまた「タルムード」に帰しますが、ユダヤ教聖典の一つであり、極めて屡々「トーラ」そのものよりも重視せられるこの聖典が上述の如く「解釈」をその本領と致しておりますことは、ユダヤ魂の本質を見ようとする者に取っては、極めて重大なことでありまして、独逸などでよくユダヤ人には独創はなく、その長所は単に解釈の能力のみであると言われるのは、恐らくこの点を根拠とした説であろうと思われます。ユダヤ文化の根源ともいうべき旧約の始めの宇宙創造の話が借物であることをも入れて考えて見ますと、ユダヤ人無独創説は相当の根拠を有するものと言わねばなりません。しかし事一度「解釈」の領域になりますと、ユダヤ人の独壇場でありまして、近頃の解釈学的哲学・現象学・形式社会学・純粋法学、その他文学・美術・音楽の解釈より、相対性理論に至るまで、その精神に貫かれておらないものは皆無であると言っても過言ではないのであります。この事を別の言葉で申しますと、ユダヤ人は天才的に「嘘がうまい」ということになるのであります。この事情は、「タルムード」そのものに、「彼はモーゼに立法を与え給うたが、それは、同一の事柄をそれぞれ四十九種のやり方で不潔とも清潔とも証明することを許すだけの余裕のあるものとなっている、」とあるのでも充分窺われるのであります。この言葉については後にもう一度論及致したいと思っております。

話が多少わき道へそれましたが、ここで我々は、世上往々ユダヤに頼まれたかの如くに次のような疑問乃至反対をする人がありますので、そうした疑問や反対は、ユダヤ人の豊富な報酬を当にする者以外は愼しむべきことである、と言っておき度いと存じます。即ち、「トーラ」にせよ、「タルムード」にせよ、何れも、少なくとも千幾百年以前の著作物であるから、近代文化の恩沢に浴しているユダヤ人がそんなものを文字通りに信仰している筈はないというのが、その疑問乃至反対であります。しかしこれはユダヤ魂の本質に盲目であることの証拠である許りでなく、日本の哲学界でも一時は非常に有名でありましたドイツのマルブルグ派のユダヤ哲学者コーエンその人によって反駁されているのであります。即ち彼は、一八八八年に裁判所の宣誓に於て、「タルムードに含まれている信仰並びに慣習に関する諸規則は、ユダヤ人に対して拘束力を有するものである、それらは律法と認められている、」と言っているのであります。勿論ユダヤ人は二千万近く居るのでありますから、その中には種々の傾向の者も居りますので、所謂モダーンなユダヤ人の中には、「同化ユダヤ人」と称せられて、ユダヤの慣習を捨てて近代化した者も居るのであります。しかしこの場合の大部分はそう偽装するのでありまして、ここでもユダヤ人の「頭のよさ」を見なくてはなりません。時として本人自身そう真面目に信じておりましても、なお本能的にはユダヤ根性がいざという場合には出て来るのであります。同一事を四十九種にも黒白といいくるめる術を幾千年間修行して来ているのでありますから、嘘のうまさ乃至偽装の巧みさが文字通りに超天才的であることは、前にも申上げた通りなのであります。従って口先で「タルムード」を否定するユダヤ人こそ反って生粋のユダヤ魂を持っているのかも知れないのであります。実に「タルムード」とはかような精神から生まれ、かような精神を育てて来たのであります。

なおユダヤ魂の本質の研究には、皆様ご承知の「シュルハン・アルフ」や「シオンの議定書」などもありますが、本日はこれらには論及する暇はないのであります。前者については、これもまた「タルムード」のような解釈の書であること、後者については、それの真偽はその内面的真実性を重んずる非唯物論的立場にまで高昇し得る者のみが判断し得るものである、ということだけを述べさせていただくにとどめたいと思います。

 

猶太の民族神エホバ

前置が余り長くなって参りましたので、この辺で本論へ進む事に致します。さてドイツの詩人ゲーテは、或人が如何なる人であるかはその人の神観を見れば分る、と申しておりますが、私もその意味に於て先ずユダヤ人の神観を明らかにし、これによってユダヤ魂の本質の一斑(いっぱん:一部分)を把握してみたいと思うのであります。勿論こう言いましても、唯物論者等の申しますように神の存在を否定するのではないのでありまして、実在する至高の神を如何に感受するかは感受する人間如何によって異る、という意味なのであります。例えば我々日本人の祖先のようにその神を先ず天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の如くに感受するか、或いはユダヤ人の如くにヤーヴェ(エホバ)の如き神として感受するかは、その民族の民族性如何によって定まるというのであります。

ではユダヤの神ヤーヴェとは如何なるものでありましょうか。然し我々はこの問題に答える前に、旧約聖書にはヤーヴェの外に、その最初の創世記の巻には別の神があって、この神が宇宙の創造をする、ということになっている事を想起したいのでありますが、しかしこの神に関しましては、この創世記が印度方面よりの借物であるという説もあります上に、ユダヤ人そのものはこの神をヤーヴェと同一視して来ているようでありますので、我々も今日は直ちにヤーヴェをユダヤの神として論じても差支えなかろうと信ずるのであります。

ではヤーヴェとは、通俗的に言いましてエホバとは、如何なる神でありましょうか。これを歴史的に見ますと、ヤーヴェと申しますのはユダヤ人が移住して参りましたカナーン地方の土俗神であったということであります。しかし我々は今日はユダヤ聖典によってその神観を明らかにしようとしているのでありますから、このような意味のヤーヴェについては語ることを避けたいと思うのであります。それから既に前に申しましたように、ユダヤ聖典「タルムード」に依れば、神は「トーラ」のみならず、「タルムード」そのものをも研究し給うというのでありますが、かような属性を持つヤーヴェについても今日は語ることを避けたいのであります。とにかくヤーヴェなるユダヤの神は、旧約又は「タルムード」を中心にして見ましても種々の属性を持っているのでありますが、本日はそれらの諸属性を一貫して流れているもの、或いはヤーヴェの根本特質とでもいうもののみを研究して見たいと思うのであります。

今申しましたような立場から観察致しますと、旧約全書に見られるヤーヴェというものはユダヤ人だけの民族神であって、ユダヤ人のみを偏愛する神であることが明瞭なのであります。例えば創世記の二六には、「我汝の子孫を増して天の星の如くなし、汝の子孫にこれ等の國を与えん。汝の子孫によりて天下の國民皆福祉を得べし、」とありますし、申命記の二には、「汝の神エホバ地の面の諸の民の中より汝を択びて己の宝の民となし給えり、」と書かれておりますし、所謂「トーラ」以外の部分にも例えばレビ記の二〇には、「我は汝等の神エホバにして、汝等を他の民より区別せり、」と記されているのであります。世間でよく言われるユダヤ選民思想はこれらの言葉を根拠とするものなのでありますが、とにかく以上の引用文から見て明らかなことは、エホバが決して宇宙神ではなく、世界創造の神でもなくて、ユダヤ人を偏愛する民族神に過ぎないということであります。

それでこの民族神がユダヤ人を愛するのは当然でありまして、この民族神が民族神として活動するだけで、その本性の埒(らち)を出て宇宙神だの世界の創造神だのと僭越なことを言わなければ、我々としても何等の異議はないのであります。たとえ民族に対する愛が偏愛の程度に達している時でも、我々としては辛抱出来るのであります。ところがこの神が、自分こそ世界の唯一の支配者であるとか、唯一神であるとか言って、自己の相対的な地位を忘れて絶対位を僭称するようになりますと、其処に問題が生じて来るのであります。殊にヤーヴェとユダヤ人との関係を一層詳しく調べ、ヤーヴェがユダヤ人に約束することを検討し、就中(なかんづく)その命令乃至約束の成就のために奨める所の手段方法にまで眼を及ぼして見ますと、一体このヤーヴェはユダヤの民族神であるのか、否、もっと適切に申しますと、果してこのヤーヴェは民族神程度としても神の名に値する存在であるか否かさえ、怪しくなって来るのであります。結論から先に申しますならば、ヤーヴェなるものは如何なる意味に於ても決して神の名に値しないものであり、強いて名を求めるならば、西洋人の言う悪魔か、我々日本人の考えます狐狸(こり)の怨霊の類であると考えられるのであります。勿論、旧約又は「タルムード」は大部のものでありますから、ヤーヴェには別な特性もあるのでありますが、しかし他に如何に偉(すぐ)れた属性があっても、以下に紹介しますような特性もまた存在しています以上は、矢張ヤーヴェは如何にしても余り高貴の神ではないのであります。

 

エホバと猶太民族との関係

ではまずヤーヴェの民族神としての性格を明らかにするための第一の問題としまして、この神とユダヤ人との関係そのものを見ることに致しましょう。そこで先ず考慮したいのは申命記の二八であります。

「汝もし汝の神エホバの言に従い、わが今日汝等に命ずるその一切の誡命(かいめい:いましめと命令)を守りて行わば、汝の神エホバ汝をして他の諸々の國人の上に立たしめ給うべし。汝もし汝の神エホバの言に従う時は、この諸(もろもろ)の福祉汝に臨み汝に及ばん。…汝は入るにも福祉を得、出るにも福祉を得ん。汝の敵起ちて汝を攻めるあらば、エホバ汝をしてこれを打破らしめ給うべし。彼等は一条の路より攻め来り、汝の前にて七条の路より逃げ去らん。…汝もし汝の神エホバの誡命を守りてその道に歩まば、エホバ汝に誓いし如く汝を立てて己の聖民になし給うべし。然る時は他の民みな汝がエホバの名をもて称えられるを見て汝を畏(おそ)れん。エホバが汝に与えんと汝の先祖等に誓い賜いし地に於てエホバその実の蔵なる天を啓(ひら)き、雨をその時に従いて汝の地に降し、汝の手の諸々の行為に祝福を賜わん。汝は許多の國々の民に貸すことをなすに至らんも、借りることなかるべし。エホバ汝をして首とならしめ給わん、尾とならしめ給わじ。汝は只上に居らん、下には居らじ。汝もしわが今日汝に命ずる汝の神エホバの誡命に従いてこれを守り行かば、かならずかくの如くなるべし。」

ヤーヴェとユダヤ人との関係がいま挙げたようなものだけでありますれば、ヤーヴェが民族神であることから見て、これ位の偏愛や約束は当然のこととも考えられるでありましょう。ただ今引用しました中には、「エホバ汝に誓いし如く」とか「汝等の先祖等に誓い賜いし」などという点に、ヤーヴェとユダヤ人との間柄が、真に民族を愛する民族神とその民との間の関係と見るにしては余りにも商売的な契約の感を抱かせる点がありますし、また「汝は許多(きょた:おおく)の國々の民に貸す」という言葉がユダヤ人の四千年の歴史を暗示しているような点もありますし、またもう一つ「汝をして首とならしめ」とか、「汝は只上に居らん」とかいう言葉でユダヤの世界支配欲を表示しているような点もありますが、これ等の点については後にもう一度触れることに致しまして、ここではただ、以上だけがヤーヴェとユダヤ人の関係でありますならば、先にも旧約より引用しました際に申しましたように、我々他民族も大体に於て異議はなく、従って民族神とその民との関係としてもそう不思議ではないのであります。しかし事情は、今の引用の続きの部分を見ますと大いに変って来るのであります。

「汝わが今日汝に命ずるこの言葉をはなれて、右又は左に曲がりて、他の神々に仕えることをすべからず。汝もし汝の神エホバの言に従わずして、わが今日汝に命ずるその一切の誡命と法度(はっと)とを守り行わずば、この諸々の呪詛(じゅそ)汝に臨み、汝に及ぶべし。汝は邑(むら)の内にても詛(のろ)われ、田野にても詛われん。…汝は入るにも詛われ、出るにも詛われん。エホバ汝をしてその凡ての手をもて為す所に於て呪詛と恐懼(きょうく:おそれかしこまること)と譴責(けんせき:戒めて責めること)とを蒙らしめ給うべければ、汝は滅びて、速かにうせはてん。こは汝悪しき事を行いて、我を棄てるによりてなり。 …汝はエホバの汝を遣わし給う國々にて人の怪しむ者となり、諺となり、諷刺とならん。汝の中にある他國の人々はますます高くなり行きて、汝の上に出で、汝はますます卑くなり行かん。彼は汝に貸す事をし、汝は彼に貸すことを得じ。彼は首となり、汝は尾とならん。この諸の災禍汝に臨み、汝を追い汝に及びて、遂に汝を亡ぼさん。 …汝万の物の豊饒なる中にて心に歓び楽しみて汝の神エホバに仕えざるに因り、汝は飢え渇き、かつ裸になり、万の物に乏しくして、エホバの汝に攻め来らしめ給うところの敵に仕えるに至らん。 …エホバ先に汝等を美しくし、汝等を多くすることを喜びし如く、今はエホバ汝等を滅し絶すことを喜び給わん。 …エホバ地のこの極よりかの極まで汝等を散し給わん。…」

今引用致しましたのは原文の全部ではないのでありまして、殊に後の威嚇と呪詛の部分は前の部分の約五倍に上っており、いま紹介致した程度の内容ではなく、実に最大級最上級の威嚇と呪詛の連続なのであります。即ちもしユダヤ人がヤーヴェの命に叛く時には、凡ゆる不幸と災厄とがその身に及び、遂には滅亡し果てるというのであります。それでこの後の部分に見られるヤーヴェとユダヤ人との関係は、慈愛の深い民族の守護神とその民との関係と見るのには余りにも峻厳なのであります。深く大きい愛は、迷える子供をも時至れば許すだけの度量のあるものと思われますが、ヤーヴェにはその大度(たいど:度量が大きい事)はなく、旧約の外の諸部分にも見られるように、この神は民族神としても偏愛の神であると共に残忍性そのものの具体化のような神であります。しかしユダヤの四千年の歴史の事実を知っております者には、ヤーヴェのこの呪詛と威嚇とはユダヤ人の運命に相当に実現されているように見えるのであります。勿論まだ滅亡とまでは行っておりませんが、その点を除けば、引用文の示す限りに於ては大部分実現しているとさえ見えるのであります。そしてこのヤーヴェの呪詛と威嚇との中に、ユダヤの四千年の歴史を通じてずっと流れていながらも、他の民族には容易に理解の出来ないユダヤ人の二重人格性の発生の地盤があるのではないかと思われるのであります。そのユダヤ人の二重人格性とは、別の言葉で言えば、前に言いました「頭がよい」とか「嘘がうまい」とか言うこともその中に含まれて来るのであります。これをまた別の方面から言いますと、ユダヤ人が幾千年間常に二重の標準を以て万事を処理し、万事に処して来ているのも、その心理的な根拠はここにあるのであります。即ちかのメシヤ思想に基く誇大妄想のユダヤ人自身すらも、自己の四千年の歴史を回顧する時、それが決してヤーヴェの呪詛と威嚇とを全く免れ得るだけのものでないことを承認せざるを得ないので、ここにユダヤ人は神命としての滅亡から自己を救うためには、手段を択(えら)ぶことなく、何等かの間道(かんどう:抜け道)を求めなくてはならないのであります。然も精神的には真の独創がなく、また筋肉労働を神罰の一種として軽蔑し回避する慣習のあるユダヤ人は、かの二重の標準を用いて、かの「嘘」と「頭のよさ」とを以て、神意としての滅亡から自己を救いたいと思うようになったのであります。それ故にユダヤ人のあらゆる行動には、自由意思に基くというよりは、一種の憑かれた人とでも言うべき所が見られるのでありまして、ユダヤ人が世間周知の金儲けその他の場合に普通の人間には理解の出来ないような事を平気でやってのけますのも、この心理状態に基づくのであると思われます。つまりユダヤ人に取っては、普通の人間から見て極悪非道と見えることも、神命としての滅亡から自己を救うために役立つものは正しいのであり、また神命として彼等に課せられているものとも感ぜられるのであります。

 

⇒猶太と世界戰爭(新仮名)03 ⇐猶太と世界戰爭(新仮名)01

猶太と世界戰爭(新仮名)01

 

燈照隅より

この本の原典は、昭和13年8月から昭和17年11月にかけて発表されたものでありますので、その発表時期をそれぞれの巻頭に明記しました。

当時の日本、つまり、支那事変がほぼ軍事的に解決したにも拘らず、蒋介石共産党もそれぞれ重慶・延安に落ち延び、秘密裡にそれぞれ米ソから援助を受けて敗北を認めず膠着状態にある中で、日本の情報部は、支那事変の真の敵が誰であるかを次第にはっきりと見極め、また、友邦ドイツからの情報も合わせてその敵の姿を認識しつつも、米國による日本排斥・通好条約破棄などにより次第に欧州で起こった戦争に巻き込まれて行き、遂には真珠湾攻撃から蘭印を占領する過程の中での発表文でありますので、是非、その発表時期の日本の状況をよく理解した上でお読み頂くとなお一層、理解が深まると思います。

(なお、旧字体はほぼ全て新字体に直しましたが、私の勝手な判断にて以下の三文字と「國體=国体」は旧字体のままです。

國=国: 國の本来の字義、國境内の人を武力で守ると言う字義を大切にしたいため

辯=弁、辨=弁:新字体にするとどちらも弁となり、それぞれの字義が曖昧になるため
・辯=語る、言葉巧み、言葉遣い、方言
・辨=わける、わきまえる、処理する

・國體=国体:国民体育大会ではないため)

 

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猶太と世界戦争

汝は汝の神エホバの汝に付し給わんところの民を
ことごとく滅しつくすべし

申命記七・一六―


世界的規模に於て戦われつつある今次の大戦は、果して枢軸國家群対反枢軸國家群の戦争という一事によって全部的に説明され得るであろうか。またそれは、暴慢なるアングロサクソン民族に対する被圧迫民族の戦いという一事によってその真相を尽され得るであろうか。時として説かれる所の東亜新秩序乃至世界新秩序の建設は、単に連合國の打倒とアングロサクソン民族の撃滅とによって達成され得るであろうか。
かつて我々は支那事変の経過中に、我々の真の敵は米英等であることが到る処に於て確認されていながらも、それと明らかに指摘し得ざる種々の事情のために、時として我々の敵愾心の向け方に多少とも迷ったことはなかったであろうか。そしてその敵愾心が、大東亜戦によって初めて真の敵が明示されることによって、一時に天をも衝かん許りに燃え上るのを感じたのではなかったか。
しかしその後時日の経つに連れて、再び我々の心には、大東亜戦の真の敵が単に米英に非ざることを予感しつつありはしないであろうか。これは最近の世界状勢を多少とも達観し得る者には、意識の程度に差こそあれ、必ず感得されつつあるかの如くである。しかしながら、如何なる理由に依ってか、いまだわが國に於てはそれを公然と口にすることが遠慮されつつあるかの感を抱かしめられる。勿論この遠慮が、米英の背後に敵を見ることとは米英を敵として戦いつつある我々の戦争目標を曖昧にするという心配より爲される場合には、一面に於ては尤ものことであって、我々としても決してそれを非議しようとする者ではないが、しかし事実はさように簡単ならざるごとく見えることも否定し得ないのである。日支事変中に真の敵を指示することを遠慮せしめたと同一乃至類似の理由が、或いはこの場合にも存在しているのではないかと思わせられるのである。
然しながら我々はこの序文に於てはこれ以上に論議することを避けるであろ う。本書の全部がかかる疑問に答えるものだからである。当時者が声を嗄らして呼号する対米英敵愾心の如きも、上述の点に関して勇気ある決断が下される時おのずから焔々と燃え上るであろう。その時には、我々の敵が同時に枢軸諸國の敵である許りか、また人類全部の敵である真相も判明するに至るであろうし、また我々の敵が如何に奸悪であり、従ってまた如何に強力であるかが判明する許りか、我々の建設しようとする東亞乃至世界の新秩序の内容と意義もまたおのずから明らかになるであろう。


  × × ×


ここに集められた諸篇はかつて雑誌その他に発表されたものより選択されたのであるので、その性質上多少の重複を来している点もあるが、機会に触れてなされた言説のうちに反って我々の立場の正当性も証されると考えるので、各部の始めに「はしがき」めいたるものを加えるにとどめて、他の部分への加筆は差控えることにした。切に読者の寛恕(かんじょ)を乞う所以である。


昭和十八年七月
    著者識

 

 

 

第一章 猶太魂の本質

かつて「猶太禍の迷妄」を説き、またフリイ・メイスン祕密結社
人道主義的団体なりとして擁護することによつて猶太に忠勤を
励んだ「人爲的猶太人」の一群があつたが、其の伝統は今は、猶
太問題は猶太人に國土又は國家を与えれば解決するという「志願
シオニスト」の一団となっている。二つに共通の非日本的なる傲
岸不遜さは、無知に基づく生兵法の結果とのみ片づけられないエ
ホバ的妖気を帯びており、怪奇なる日猶同祖説とその猶太性に於
ては大差のない陰慘なる背景を感ぜしめる。本第一部はかかる妖
気を退散せしめんがための破邪顕正の筆剣である。

 

一、猶太問題研究の精神史的意義(昭和16年5月)

あらゆる人間的行為に前提があるように、すべての学術にもまた前提がある。十九世紀の欧州に於て「無前提性」を標榜したところの学問も、実際に於ては決して無前提ではなかったのであって、唯物論実証主義こそその前提だったのである。多少逆説的に言うならば「無前提性」の説かれる場合こそ反って強烈な前提が存在しているのである。この意味に於て猶太問題研究にもまた明らかに前提が存在しているのであるが、それが如何なるものであるかはおのずから明瞭になって来ると考えるので、問題の全面的理解のためにはこの前提の問題が極めて重大であるにも拘らず、ここでは直ちに猶太問題そのものの持つ意味を見ることに移り度いと思う。

猶太問題もまた、あらゆる人間界の重大問題と同じく、単なる部分的人生問題ではない。即ち、それは、在来屡々欧州に於ても考えられたような単なる宗教問題ではなく、実に英國宰相ビーコンスフィールド卿こと猶太人ディスレイリも言っているように、先ず第一に民族の問題であり、また猶太人が過去に於ても現在に於ても「國家中の國家」を形成している点に於ては重大なる國家的問題であり、世界の富の七割乃至八割を少数民族として独占しているという意味に於ては注目すべき経済問題であり、更にまた、殆どあらゆる極左的思想の創案者乃至宣伝者であるという関係に於ては由々しき思想問題であり、全体としては國家と民族との存立如何に多大の関係を有する危険なる社会問題である。

猶太問題の全貌がかような広汎なものであるとすれば、それの研究はまた同様に広汎なものとならねばならない。従ってかような研究は、その対象の性質の然らしむる所として、研究者の側に於ける態度決定の如何によって全く相背反した結果をも生ずることは自明であろう。ここに吾々が既に論及しておいた学術の前提が再び問題となって来るのであるが、この場合にも吾々はそれがやがておのずから明瞭になることを信ずるので、先ず現在の世界の諸國に於て猶太問題が如何なる様相を示しているかを端的に述べることにしたいと思う。

何人にも明白な事実は、現在の世界が大体に於て二つのイデオロギー的陣営に分れていることである。これは恐らく世界の常識に属すしていると考えられるが、現在の世界の対立が、二つと言われていて三つと称せられていない点は特に注目に値するのであって、現在の世界の猶太問題の考察に当っても、このことは重要な意味を持って来るのである。この事情を精神史的に言えば、世界の一方にはいまだ十九世紀的唯物思想にその存在の根拠をおいている所謂デモクラシー諸國があり、他方には、それらの諸國からは有名無実の悪評を浴せかけられている二十世紀新興勢力としての所謂ファシズム諸國が対立的に存在しているのである。然るに十九世紀と言えば、フリイ・メイスン秘密結社のモットーである「自由・平等・博愛」を看板として遂行された猶太解放革命としてのフランス革命に始まる世紀であって、その本質は合理主義・個体主義・相対主義・唯物主義等の特質を持つ悪平等思想の支配した時代であるに過ぎず、またその猶太解放は実質的には猶太の世界支配の容認にすぎなかったので、十九世紀は即ち猶太の世界支配の確立の世紀に外ならないとさえ言い得るのである。そしてかのデモクラシーとは、実質は猶太独裁の別名に外ならない。現在のデモクラシー國家なるものは、それが今なおデモクラシー的本質を残存している程度に正比例して、猶太独裁に服しているのである。これに反して所謂ファシズム諸國に於ては、それが全体主義でありまた民族主義である程度に正比例して、猶太独裁は清算されているのである。

然しここに或人は、ボルシェヴィズムのソ連は如何であるかの問題を提出するであろう。然しこれは単にボルシェヴィズムの仇敵がファシズムであった一事のみからも極めて明瞭である通りに、ボルシェヴィズムも自由主義も本質的には何等の相違わないのである。これを近来の著名の語で言えば、自由主義共産主義の温床である、というのである。言葉を変えて言うならば、前者は後者の頽廃的段階たるのである。従って両者は、共同の敵としての新興勢力が台頭する場合には、例えば日支事変に於ける英・米・仏・ソ連の仲のよさが証明して余りあるように、直ちに共同戦線を張るに至るのである。自由主義の地盤としての資本主義も、ボルシェヴィズムの地盤としての共産主義も、共に何れも合理主義であり、相対主義であり、個体主義であり、就中、拝物宗であるからである。これを吾々の当面の問題である猶太問題から見る時には、この二つの國際主義の代表者であり、支持者であり、宣伝者であり、統一者である所のものは、同一の猶太に外ならないのである。ソ連なるものは、その成立より見るも、スターリンを第一線に立たしめて督戦しているカガーノヴィッチ閨閥の支配状況から見るも、米國フリイ・メイスン系金融猶太人の投資の一形式であると言っても決して過言ではないのである。それ故にソ連の真相を掴もうとする者は、時折演出されるその内部に於ける内輪喧嘩を過大に評価して、既に全猶太がソ連を見捨てたと誤信してはならない。パレスチナ系乃至トロツキー第四インター系の猶太人がスターリンに不満であることが万一にも事実であるとしても、米國猶太はその巨額の投資をそう容易に断念し得る筈はないのである。最近カガーノヴィッチ閨閥に異状があったと称せられるが、これが事実ならば或いはソ連の動向にも何等かの根本的変化があるかも知れないが、今それを論ずることは早急に過ぎるであろう。

そしてこれら諸國に於ける猶太問題の扱い方は、それらの國に於て占める猶太勢力の大さに正比例した結果を示している。即ち、かの所謂デモクラシー國家に於ては、それがたとえ全くの禁止を喰うてはいないにもせよ、この問題の特志研究家は身辺にあらゆる意味の迫害を受ける。この事情は、活眼をもってそれら諸國の動静を見るならば、容易に明瞭となるのである。そして國際共産主義國として完全なる猶太独裁下にあるソ連に於ては、猶太問題の論議乃至研究は生命にかけて厳禁されているのである。勿論一般民衆間の反猶主義は極めて根深く、早晩それが爆発点に達することは歴史の論理であるが、しかし一九三六年十一月のフランスの「ル・ジュルナル」誌の報ずる如くにスターリンもまたその母より猶太の血を承けているとすれば、ロシア人のロシアの出現は容易のことではないであろう。

最後に、ファシズム諸國の場合であるが、これらの國に於て猶太問題が、当然かくあるべき処置を受け、また受けつつあることは、今更詳記の要はないであろう。

以上見たように、現代は正に新旧二つのイデオロギーの対立時代であるが、これは単に國家の性格が示しているだけのものではなくて、何れの國家の内部に於てもまたより小規模に於て認められ得る世相である。然して今や世界の重要な一環である所のわが國に於ても、事情は決して例外ではないのであって、全國力を挙げての日支事変下の現在に於ても実に然りなのである。この事実は、一部のお人好しや為にする所のある連中からは否定されるか、或いは黙視乃至看過さるべきであると主張されるのが常であって、「我が國は大和の國である、」等という空疎極りなき僞装的言説さえ叫ばれる事もあるが、これは世界の現状と、歴史の本質と、現在日本の世界的地位とを知らぬ低能者流の寝言であるか、或いは事変中又は事変後の或る時期を待ち設けて策動せんとする人民戦線残党の仕事であるに過ぎない。世界がイデオロギー的に分裂しているのに照応して、悠久幾千年の光輝ある歴史を有する皇國日本もまた今やその内部に同じイデオロギー的対立を蔵しているのである。従って現在の世界に於てボルシェヴィズムを尖端とする自由主義が全くの「反動」であるのに照応して、皇國日本に於てもその系統に属すする思想の信奉者はいずれも反動化している。勿論吾々は、皇國の将来に関してはいささかの不安も感じないものであるが、しかしこれらの反動主義を放置することは、所謂自由主義的「文化」主義者 - 現代の所謂映画に「文化」ありとする程度の ― の場合であろうと、赤化主義的「科学」主義者 ― 十九世紀的唯物論に「科学」ありとする程度の ― の場合であろうと、彼等の持つ猶太戦線性のために幾多の犠牲を生ずることを憂えざるを得ないので、それらの犠牲を最小限に止めるために適切な英断的処置を切に期待する者である。犠牲は既に救出し難く泥沼の深みに陥沒している彼等のみで充分であって、幾多の若人をその道連れとして泥沼に陥沒せしめる必要はないのである。殊に興味深く且つ残念なのは、特に満洲事変以来日本インテリの祖國戦線より猶太戦線への落伍の状況であって、その事変以来の内外の一事件毎に彼等は ― 所謂「日本主義者」の場合もまた例外ではない ― 落第して行ったのである。そしてその最後の大試練が現在の日支事変であって、辛うじて今まで及第して来た者の中にも、「二十世紀入学試験」とも言うべき今度の事変に際しては、遂に落第の憂目を見た者がかなり数えられるのである。此度の欧州戦争がこの事情を促進しつつあることは言う迄もない。然も彼等は、世の落第生に共通の僻みと嫉妬と陰険さとをもって、所謂文化主義と科学主義との華かなりし昔を偲ぶと言う程度の許さるべき回顧のみに満足することが出来ず、國民精神総動員下の間隙に乗じては、皇國をその本来の姿に還そうと身命を賭して努力しつつある精英に対して、彼等が精英であり、また日本的であり、行為的であるとの理由のみからして、事毎にその毒息を吹きかけようとしている。そして國際的に見てデモクラシーとボルシェヴィズムとが「お手々をつないで」を実習して教えている範例に従って、ここ國内に於ても、赤色と桃色とはお手々をつないで、猶太戦線に躍り躍らされているのである。

この猶太戦線の志願戦士と猶太問題との関係は如何であるかというのに、この点に於ても事情は世界の大勢と合致している。即ち、かの所謂桃色文化主義者連はしばしばその怠惰のために、そしてまた多くの場合には彼等の十九世紀的思想のために、換言すれば、その合理主義・個体主義・唯物主義・相対主義のために、本来猶太的傾向を帯びてしまっているので、たとえ日常生活の各瞬間に猶太問題を想起せしめるような事件が続発しても、それには気が付かないのである。そして時たま気のつく者があるとしても、それの批判が直ちに自己の存在の根本への批判となることを感ずるので、時には本能的に、時には意識的に、斯かる問題を取りあげる事の非人道的であることを主張する。そして「自由・平等・博愛」という如き悪平等思想に基づくヒューマニズムが生きた世界には存在しないことさえ知らないのである。この二種の桃色主義者は、猶太が金力によって思うままに支配している世界の通信網と言論機関とが黙殺し隠蔽するところのものはすべて一般に存在しないと思惟し、或いはまた日本人以外の者乃至猶太人ならば、如何に少数者が多数を搾取しようと、虐待しようと、大量殺人をしようと、少しも人道に背反するところはない、と考えるのである。これは実に所謂「先進文明」を取入れるに急であった明治時代の舶来上等イデオロギーの残滓にすぎないのであって、横文字で説かれ、片仮名で書かれてあるものならば、ただもうそれだけで有難いのである。従って彼等は、赤色派となるだけの勇気はないが、しかし人間性から見ても、歴史的に観察しても、その創始者の意図とその利用者の何人種であるかより見るも、決して「科学的」でも「進歩的」でもなく、単に猶太的であるにすぎないマルクス主義に対してさえも批判がなく、マルクスの理論は正しいが、現在の日本の政策と合致しないから自分はそれを取らない、という程度の羨むべき心境にあるのである。殊に顰蹙すべきは、プラトーン、カント、ヘーゲルに重大関心を示しながら、また或者はキリスト教の信者であると誇称しながら、拝物宗の批判さえ不可能な者の場合である。然しこの種の哲学の徒やキリストの徒に取っては、哲学することは単なる頭の遊戯であり、キリスト教徒たることは、自分が高等民族に仲間入りした事を誇示するためであるに過ぎないのであるから、十九世紀的地盤上に最後の流行として栄えたものに対する批判に及び得ないのは当然である。実に彼等は、カントの「タルムード」的解釈を哲学として尊敬したり、旧約聖書新約聖書との差を認識し得ぬ程度の盲目人種に過ぎない。従って彼等は、一方に於てはイデアを現実に生かす道を知らず、猶太民族神としてのエホバと唯一最高神との区別にも思い到らぬのである。然しこの人種の特質は、自己の利益に関係のない事には極めて冷淡であって、國家の安泰の如きは屡々交際上の話の種としての価値さえもないのである。然し事一度自己の利害に関する時には、國を売るだけの勇気はないとしても、友を売り師に背いて何等の良心の苦痛を感ぜず、例外なくエゴツェントリストとなるのである。なお猶太問題を否定する者のうちには、この問題の研究の結果が余りに整然たるの故に信じ得ずとなす者がある。もしこの論者の主張が、現実は深くして単なる合理主義にては解釈し得ない、というのであれば尊敬すべき識見であるが、しかしこの拒否も多くの場合は拒否のための口実に過ぎないのであって、彼等の多くは、自由主義には「自由」があるとか、マルクス神話には「理論」があるとか言って随喜の涙を流す程度の者であるのである。所謂「物のわかる」「頭のよい」彼等にとっては、意識的乃至無意識猶太戦線の一兵士として、その戦線と自己の地盤を搖るがすものは「括弧に入れ」て「判断中止」をするのが得意の手であるのである。

國際場裏のボルシェヴィズムに照応する國内の志願猶太戦線が猶太問題に対してボルシェヴィズム的態度で反応することは、今更説明の要はないであろう。否、この志願兵の群は更に百尺竿頭一歩を進めて、これこそ正真正銘の「タルムード論理」を以て巧に僞装的転向をし、積極的に金儲けに従事するのである。勿論事変下に於ては昔日の如き儲けはないであろうが、然し彼等は僞装の点に於てもまた猶太の先師に学ぶことを忘れず、今なお相変わらず相当の金儲けに従事している如く見受けられる。そしてボルシェヴィズムとデモクラシーの馴れ合いの模範は、その縮図としてこの場合にも繰り返されていることは言う迄もない事であって、桃色主義者が一歩前進し、赤色主義者が一歩後退した現代に於ては、舞台を世界に取ろうと、或一國に取ろうと、両者の間には既に本来の同一性が実証されている。

事変下の現在に於て日本的日本人の最も関心すべきことは、これらの憎むべくまた憐むべき猶太的國籍喪失者がその無恥にして巧妙なる僞装の下に暗躍し、直接又は間接に猶太の世界支配を助長するであろうことに対して、祖國日本の悠久の生命のために対策を講ずることである。(一六・五)

 

⇒猶太と世界戰爭(新仮名)02 ⇐猶太と世界戰爭(新仮名)00

 

猶太と世界戰爭(新仮名)00

f:id:caritaspes:20200623035150p:plain

あなた方は、あなた方の神エホバがあなた方に添え給う民を
ことごとく滅ぼしつくさなければならない

申命記7.16―

巷で猶太陰謀論陰謀論者として忌避されてきた思想は、今やトランプ大統領の登場によって米国の政府と覃府(たんぷ:ディープステートを私はこのように名付けた)の重層構造の発覚により、その姿を明るみに出してきたわけですが、この構造自体は主に仏蘭西革命に伴う啓蒙思想フリーメーソン、そして解放された猶太人により、200年から300年もの長年月をかけて世界の学問、通信、そして金融を通じて今や世界の隅々まで広められたものです。

この思想は表立っては、自由、平等、博愛、進歩を謳っているのでありますが、その真の目的は決してそのような理想主義的なものではなく、寧ろその理想主義の部分が光り輝いて人の目を眩ませる分、本音の影の部分はより一層暗く陰惨・残酷なものであるようです。

今から80年前、日本は當にこの世界の暗黒に向かって立ち向かい、自身は深く傷つきつつも、アジア同胞を植民地の悪政から解き放ち、更にアジア・アフリカの多くの民を勇気づけて、独立させたのです。

然るに、日本が道半ばで敗戦する中、いつしか、日本の戦争目的は闇に葬られ、すべてを《彼等》の歴史観と価値観に置き換えられ、更に許すまじきことには、こうして独立した多くの若い日本精神の申し子をも旧態の《彼等》の仕組みの中に組み入れてしまったのです。

この本は、《彼等》の正体を暴くことにより、日本の真の戦争目的を今一度、くっきりと浮かび上がらせ、我々日本人の人類に対する使命を80年の時を経て明かしてくれる、文字通り啓蒙の書であります。

是非、お読み頂いて、いま世界で起きていることと照応しながら、我々日本人の使命とそれを実行する意志・決心を新たにして下されば、これ以上嬉しいことはありません。

 

  燈照隅

⇒猶太と世界戰爭(新仮名)01

ドイツ悪玉論の神話 ~参考文献~

参考文献

本文に参照・引用されている数多の書籍・記事に加えて、次の一覧の書籍(ほとんどが著者の個人蔵書)が「ドイツ悪玉論の神話」の執筆に使われた。
*ご注意:日本語の著者名、題名、副題に関しては、慎重に翻訳しましたが、既に日本語訳が出版されている場合にはそれらと異なることがあります。その場合は英語の方をご参照ください

ニコルソン・ベーカー(Baker, Nicholson)「Human Smoke(人間の煙)」2008年

ハリー・エルマー・バーンズ(Barnes, Harry Elmer)「The Genesis of the World War(世界戦争の起源)」1929年

ハリー・エルマー・バーンズ(Barnes, Harry Elmer)「Perpetual War for Perpetual Peace(永続する平和のための永続する戦争)」1969年

チャールズ・ビアード(Beard, Charles A.)「President Roosevelt and the Coming of the War(ルーズベルト大統領と来たるべき戦争)」1941年

モリス・ベックマン(Beckman, Morris)「The Jewish Brigade(猶太人旅団」2009年

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ハワード・ブルーム(Blum, Howard)「The Brigade: An Epic Story of Vengeance, Salvation and WWII(旅団:復讐・救済・第二次大戦の叙事詩的物語」 about the Jewish Brigade that entered Germany after surrender.(降伏後に独逸に入ったユダヤ人旅団について)2002年

フランク・L・ブリットン(Britton, Frank L.)「Behind Communism(共産主義の背後)」 a history of the Jews in Europe and their founding role in Communism.(欧州におけるユダヤ人の歴史とその共産主義設立の役割)1952年

サー・アーサー・ブライアント(Bryant, Sir Arthur)「Unfinished Victory(未完の勝利)」 a book supporting Nazi Germany.(ナチスドイツ擁護の本)1940年

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マイケル・バーリー(Burleigh, Michael)「The Third Reich, A New History(第三ライヒ・新しい歴史)」2000年

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ポール・ドレイフス(Dreyfus, Paul)in 「La Vio de Tanger(タンジールの景色)」about Nazi Germany’s barter system.(ナチスドイツの物々交換制度)1939年5月15日 

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アーヴィング・ハウ(Howe, Irving)「world of our Fathers(われらの父祖の世界)」the story of East European Jewish immigration to America,(東欧ユダヤ人の米国移民の物語) 1976年

デイヴィッド・アーヴィング(Irving, David)「Hitler’s War(ヒトラーの戦争)」1977年

デイヴィッド・アーヴィング(Irving, David)「Churchill’s War(チャーチルの戦争)」1987年

デイヴィッド・アーヴィング(Irving, David)「Goering(ゲーリング)」1989年

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ケビン・B・マクドナルド(McDonald, Kevin)「The Culture of Critique(批判の文化)」 -- a trilogy on Judaism and Jewish Culture.(―ユダヤ教ユダヤ文化三部作)1998年

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マーガレット・G・ミュラー(Mueller, Margarete G.)「Lost Years(失われた日々)」 a tale of German civilians escaping East Prussia ahead of the Russian army.(ロシア軍に先行して東プロシャから脱出したドイツ民間人の物語)2008年

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グランター・ニッチュ?(Nitsch, Grunter)「Weeds Like Us(我々の如き雑草)」 yet another story about a German civilian family escaping East Prussia ahead of the Russians.(もう一つのロシア軍に先行して東プロシャから脱出したドイツ民間人の物語)2006年

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エドワード・ラジンスキー(Radzinsky, Edvard)「Stalin(スターリン)」1998年

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ダグラス・リード(Reed, Douglas)「Disgrace Abounding(溢れる恥辱)」1939年

ルフレート・ローゼンベルク(Rosenberg, Alfred)「Myth of the Twentieth Century(二十世紀の神話)」1935年

ロバート・サーヴィス(Service, Robert)「Lenin, A Biography(レーニン:伝記)」2000年

デニス・ショウォルター(Showalter, Dennis E.)「Tannenberg: Clash of Empires(タネンベルク:帝国の衝突)」1991年

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ユーリ・ルボヴィッチ・スレズキン(Slezkine, Yuri)「The Jewish Century(ユダヤ人の世紀)」2004.年

アレクサンドル・ソルジェニーツィン(Solzhenitsyn, Alexander)「The Gulag Archipelago(収容所列島)」1973年

レイモンド・ジェームス・ゾンターク(Sontag, Raymond J.)「A Broken World 1919-1939: The Rise of Modern Europe(壊れた世界・1919年~1939年:現代欧州の興隆)」1971年

ロバート・B. スティネット(Stinnett, Robert B.)「Day of Deceit: The Truth About FDR and Pearl Harbour(欺瞞の日:FDRと真珠湾の真実)」2000年

アントニー・C・サットン(Sutton, Anthony C.)「Wall Street and the Bolshevik Revolution(ウォール街ボリシェヴィキ革命)」1974年

ヴィクトル・スヴォーロフ(Suvorov, Viktor)「The Chief Culprit(主犯の犯罪者)」2008年

エヴェリン・タンヒル(Tannehill, Evelyne)「Abandoned and Forgotten(捨て去られ忘れ去られた少女)」 a tale of a nine year old girl orphaned in East Prussia by the war, and left to fend for herself. (戦争のため東プロシャで孤児になり自活を余儀なくされた9歳少女の物語)2006年

A・J・P・テイラー(Taylor, A.J.P.)「The Origins of the Second World War(第二次世界大戦の起源)」1996年

フレデリック・テイラー(Taylor, Frederick)「Dresden(ドレスデン)」2004年

クリスティアーン・ウングヴァーリ(Ungvary, Krisztian)「The Siege of Budapest: 100 Days in World War II(ブダペスト包囲:第二次大戦中の百日)」2002年

ステファン・ウェイデンフェルト?(Waydenfeld, Stefan)「The Ice Road: An Epic Journey From the Stalinist Labor Camp(氷の道:スターリン主義の労働収容所からの壮大な旅)」1999年

ネスタ・ヘレン・ウェブスター(Webster, Nesta)「Germany and England(ドイツと英国)」1938年

ロバート・ウィルトン(Wilton, Robert)「The Last Days of the Romanovs(ロマノフ朝最後の日々)」1920年

リン・ビオラ(Viola, Lynne)「The Unknown Gulag: The Lost World of Stalin’s Special Settlements(知られざる収容所:スターリンの特別開拓地の失われた世界)」2007年

 

著者について

ベントン・L・ブラッドベリー(1937年生まれ)

ベントン・L・ブラッドベリー氏は米海軍の士官飛行士として1955年から1977年まで任務に就いた。それは冷戦の始まり近くから終わり近くまでであった。彼の世代は反独宣伝工作とホロコースト伝説をいやと言う程聴かされた。それから海軍の士官飛行士の役割で、今度は反共宣伝工作と冷戦期の戦争精神病に浸ることとなった。彼は生涯ずっとこの時代の歴史に魅了され、そのすべての面に関して深く読書研究して来た。彼はまた海軍時代に欧州をよく見聞し、それ以来欧州を広く旅行して来た。生来の懐疑論者である彼はかなり以前から宣伝工作が物語全体を騙っているのではと疑いを持っていた。彼は何年もの間、「裏側の物語」の研究に費やし、今般それについての本を上梓したものである。著者はカリフォルニア州モントレーにある海軍大学院の卒業生で、政治科学と国際関係学の学位を取得している。

「国際秘密力とフリーメイソンリー」解説(1943年版)7(完)

ユダヤの東洋政策

 

 ユダヤの東洋政策は1871年に墺地利(オーストリア)で開催された全世界ユダヤ人会議で決定された。即ちロシアにより、シベリアと東部アジアに進出させて、その富源と市場とを占有すると共に、支那人ユダヤ金権の下に握る為に、フリー・メイソンの腕利きのクローリと経験あるユダヤ系の宣教師(英米キリスト教会系?)が派遣された。それ以来、英米仏に支那侵略の役割を負担させ、その経済資金はユダヤが拠出した。

 

 その後紆余曲折を経た後、最近の満州事変(1931年)前にはソ連支那、インドに跨がる一大経済政治ブロックの建設を目指して、ユダヤ畢生(ひっせい:終生)の仕事としてフリー・メイソン、共産党、そして英・米・仏・蔣介石を動員して工作に取り掛かった。そこで一番邪魔者の日本を如何に処理するかと云う問題が彼等の頭痛の種だった。

 ここで、ユダヤの対日工作を検討してみよう。

 

ユダヤの対日工作

 

ロシアの東漸政策の裏面

 仏国ユダヤ財閥は、ニコライ二世即位後、ユダヤの手先ヴィッテ伯(婦人はユダヤ系)を通じて資金を調達し、これによってロシアの東漸(東進)政策が進められ、東に於いて日本と衝突した。

 

日露戦争の開始

 日露戦争が始まると、米国クーン・ローブ商会(ユダヤ系財閥ジェイコブ・シフ)が軍資金を貸与したが、忘れてならないのは、表面上対抗している二つの財閥(仏国ユダヤ財閥とクーン・ローブ商会)は互いに蔭で握手していたことだ。

(因みに、日本がこの時の借金を返し終わったのは82年後の1986年である。)※

※注釈:多くの国が、国際的な借金を返さないで、借り替え、更なる借金に依る穴埋め、棒引きなどによって返済して居ない中で日本は戦時中も終戦直後も一度も違うことなく返済し続けたことを知っておいてほしい。そしてその祖先の義理堅さ、自尊心、独立心を見習いたい。また更に、國の独立・主権と言うものがいかに大切か、を日本がこの長期に亘る返済をしたことで噛みしめてほしい。

 

満鉄奪取の陰謀

 日露戦争は日本の大勝利で終わったが、その後ユダヤ財閥はアジアと欧州とを最短距離で結ぶ満鉄をその手に奪おうとした。彼等の銀行が日本に戦費を出したのも、日本に満鉄をロシアから取らせて、それを彼等の魔手に収めようとする野心があったからだった。

 ハリマン覚書(南満州鉄道共同経営密約)は最初の満鉄奪取の陰謀だったが、時の外相小村壽太郎の達識によって救われた。

 ハリマンも日本の戦費を調達したクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフの傀儡に過ぎない。

 

明治四十年

 英商匿名会社ボーリングの名によって満鉄線を無用にする新民屯斉々哈爾鉄道(新民市-チチハル市を結ぶ鉄道)が計画された。ボーリング商会の背後もユダヤで、ハリマン、ジェイコブ・シフ等と同じ系統の者達だった。

 彼等の計画は満鉄幹部の努力によって水泡に帰した。

 

明治四十二年(1909年;1910日韓併合)

 錦璦(きんあい)鉄道問題が発生した。エール大学出身のモダン・ボーイ*奉天省巡撫(じゅんぶ:省の長官)のフリー・メイソン唐紹儀奉天駐在米総領事ストレート米国財閥との鼎立(ていりつ:三人[三つの勢力]が互いに張り合って対立すること)により、英商ボーリングとの間で交渉を開始し米英支合弁事業として錦州(中国遼寧省中南部工業都市)から璦琿(あいぐん:黒竜江省に位置する市)までの鉄道を計画した。

 ユダヤを排撃する当時のロシア王朝は日本に援助して、何処までもユダヤと戦ってくれ、と往年の日露戦の恨みも忘れた形だったが、当時唐巡撫(唐紹儀省長)の親分袁世凱(えんせいがい)の失脚によりこの計画もユダヤ側の失敗に終わった。

 *モダン・ボーイとは当時の最新流行を追うハイカラ青年のこと、モボとも呼ばれた。

袁世凱清朝末期の軍人・政治家。中華民国初代大総統。北洋軍閥の総帥。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任。

 

満州鉄道中立案

 ユダヤは何回失敗しても引き下がることなく明治43年来米国国務卿(外務大臣)ノックスは日英米独仏支露の7カ国の所有にすべきだと提議した。

 しかも、この案の失敗を想定して、支那政府(清国)に対して、前の計画であるボーリングによる錦璦鉄道布設権を要求した。

 しか、英仏露独政府はこの要求に冷淡で、この計画でもユダヤは失敗した。

 

大正二年(1913)

 支那政府(中華民国:1912-)は表面上独自の錦洮鉄道の計画を立てたが、権利をボーリング商会に委ね、資金もユダヤ商会から借り入れることにするという、何処までもユダヤ人の陰謀だった。

※注釈:これらの執拗なユダヤ満洲奪取の試みは、1871年のサンヘドリンに於ける決議で、満州ユダヤの国として領有化する計画がされたことが疑われている

 

張学良の陰にはユダヤ

 現に蔣介石の顧問になっているドナルドが張学良の背後にいた。

 

郭松齢の事件

 郭松齢(かく しょうれい:清朝末期、中華民国初期の軍人)の謀反は、日本の勢力を張作霖から引き離そうとするユダヤの陰謀だった。

 郭松齢が張作霖の下を去ると同時に、張学良の顧問も彼の下を去った。

 

長春会談(1922年;1917年:ロシア革命ソ連)

 長春に於ける日本とソ連との交渉にソ連からユダヤ系のカラハンが来た。

 

ヨッフェの来期と共産党

 欧州でもヨッフェ*の行く所革命が起きると云う風に彼の魔の手は恐れられていた。

 ヨッフェは大正12年(1923年)に来日し、同年東京で共産党事件を計画したが事前に発覚した。

 *アドリフ・アブラーモヴィチ・ヨッフェ(ロシア語: Адольф Абрамович Иоффе、ローマ字表記Adolph Abramovich Joffe )は、ロシアのユダヤ人革命家、ソビエト連邦の政治家、外交官。ヨッフェは1922年2月のジェノア会議においてソビエト代表団の一員となり、ソビエトが会議から脱退した後、中国大使に任命された。1923年、ヨッフェは孫文との間で、孫文中国共産党と協力するという仮定から、中国国民党を支援する協定に署名した。

米英国の背後のユダヤ人は支那を狙う

 支那を支配する者は世界を支配すると云う思想ユダヤ人の間で広まっていた。

 米英資本は支那に流れ入り金権による支那支配が着々と進んでいた。

 

遂に国際連盟脱退(1933年3月)

 東亜救済の日本の理念は押さえるに押さえることが出来ず、遂に国際連盟を脱退した。

 

ユダヤ財閥の支那投資

 ユダヤ財閥は、英国銀行、フランス銀行、米国銀行を通じて支那のあらゆる事業に投資して支那を金縛りにしようとしていた。

 それと同時に、蔭から反日抗日思想を伝播すると伴に、支那軍閥には武器を供給していた。

 

満州事変(1931)

 ユダヤ秘密力に動かされて反日的になった支那と日本との相克は遂に支那事変となって現れた。

ユダヤは常に連盟の仮面の蔭で暗躍し、日本を取って押さえようとしていた。

 

リットン報告

 国際連盟を通じてのユダヤの圧迫は益々強硬になり、ユダヤ人ハースの起草にかかるリットン報告書の発表となり、18対1、42対1の絶対的な日本反対になって現れた。

 その蔭には常にユダヤの暗躍があり、白耳義(ベルギー)代表イーマンス*、西班牙(スペイン)代表マダリヤーカ**等の暗躍があった。

*ポール・ヘイマンス(Paul Hymans)はベルギー外相、国際聯盟第二代目事務総長

**S. マダリアーガ(Salvador de Madariaga)はスペインの外交官、国際聯盟事務局員、平和主義者、作家(恐らくフリーメーソン

 

支那事変

 第二次世界大戦を決意したユダヤはドイツ打倒戦開始の前に、まず日本を支那事変に繋いで長期戦による疲弊を狙って日支間の戦争を計画して来た。

排日教育、日貨排斥、更に上海から貴陽(中華人民共和国貴州省省都)を通じて雲南に入り、更に仏印(インドシナベトナムカンボジアラオス)を通りビルマに至る横断鉄道計画に着手する一方、蔣介石政権に支那統一に取り掛からせ、北京・広東両政権を統一させ、更に国共合作をさせて、遂に支那幣制改革に成功した。

 

支那幣制改革:193511

 支那を対日抗戦に引き込むには、ユダヤとしてはまず、戦時財政の一切を自らの金権に隷属させる必要があった。米英を根拠とするユダヤ財閥は、相互協議の結果、英国政府経済顧問としてユダヤ人リース・ロスを支那に送り、蔣介石政府及び宋一族と合議の上で、「銀国有令」を発布し、集めた銀を米英に送って保管しユダヤ財閥の手によって、新法幣(新しい貨幣)を発行して、国内に通用させた。

一方、米英に送られた銀は対日軍備の為の武器購入費として殆ど費消されてしまった。

支那国内に通用する法幣に対しては、米英が無形の援助(モーラル・サポート)を与え、これによって外貨に交換し得ることにし、支那の民衆に新法幣を信頼させた。今や、法幣の発行額は何百億元になるか不明だ。しかも、この莫大な法幣は、唯米英の支持と云う空手形によってのみ通貨としての価値を維持しつつあるもので、米英(即ちユダヤ財閥)の支持が離れた時には、通貨として無価値になるものであるとの幻想から、蔣介石政府が離れない限りは、何処までも金縛りによるユダヤ支那支配が続けられることになる。

 

西安事件193612

  幣制改革の成功によって日支戦争の準備が整った姿を見て、ユダヤは蔣介石に開戦を強要したが、蔣は時期尚早として躊躇した。ここに於いてユダヤ、フリー・メイソンは蔣の顧問であるユダヤ人ドナルドに共産党の張学良と密謀させ、張学良は蔣介石を西安に誘い出し監禁して開戦を強要した。

そして、今度はその仲裁人としてユダヤ人ドナルドが宋美齢宋子文と共に西安に赴いて斡旋した。

 

 張学良と、彼に監禁された蔣介石との間に

(1) 抗日即時実行

(2) 聯ソ容共(れんそようきょう:ソ連と連繋を取り、中国共産党を容認して共産党員が党籍を持ったまま国民党に加わることを認める)

その他の決議がなされ、支那は完全な抗日態勢を備えたのだが、その蔭にはドナルド等のユダヤ人がいたことを忘れてはならない。

 

支那事変の勃発

 以上の用意万端整って盧溝橋の開戦になり、更に上海に事変が拡大するに及んで、遂に日本もユダヤに動かされる支那と全面的戦端を開くに至った。しかし、英米を通じてのユダヤの徹底的な援支(支那の援助)行動が続けられ、日本は常に悩まされ続けた。

 

欧州大戦

 ユダヤ支那事変勃発によって日本の足を坭田(どろた)の中に踏み込ませていたから、欧州に於いて目指す仇敵ドイツを、ポーランドダンツィヒ(現グダニスク)問題を種に開戦に導くことが出来た。

 その後、ドイツの電撃戦によって欧州からは英米ユダヤ勢力の退却となり、更に独ソ開戦に進んで今尚交戦中だが、これらの説明はここでは省く。

 

大東亜戦の勃発

 昭和16年12月8日(1941年)、日本は遂に援支の本家米英を対手として矛を交えることになった。そして、至る所連戦連勝御稜威(みいつ:天皇の威光)の下、大東亜建設の為の戦は進められていたが、吾等は米英の蔭なる真の敵ユダヤを認識しなければならない。ルーズヴェルトチャーチルユダヤの傀儡であることを明確に理解すべきだ。日本ではルーズヴェルトチャーチルが独自の力で独裁力を発揮していると云う誤謬に立つ者が多い。これは飛んでもない謬見(誤った見解)で、この両者が正しくユダヤ金権力の傀儡であることが解らなければ、米英の真の動向は絶対に解らない。

米英のような多数決の民主政治国で圧倒的な金権力を持っている勢力に背く独裁者が生まれる筈は無いし、実際米国は民主党共和党ユダヤ金権がその大半を掌握しており、またルーズヴェルト周囲のブレーン・トラストなる者が殆ど全てユダヤ人であること、更にルーズヴェルト政権の主要な役人がユダヤ人若しくはフリー・メイソンで構成されており、更に立法行政の上に位置する司法機構がユダヤ権力の下にある米国に於いて、ルーズヴェルト独裁は即ちユダヤ独裁であることが単直(いきなり)に是認されなければならない。

 

 また英国に於いては宮廷が殆どユダヤによって掌握されているし、保守党も労働党も圧倒的な力がユダヤの手中にある為に、欧州大戦敗退(フランスからの撤退を指す)以来少数の反政府派が如何にチャーチルの責任を呼号(こごう:大いに言い立てる)しても、チャーチルの地位が微動だにしない事を見ても、それがチャーチルの力ではなく、ユダヤ金権力の為だということが解らなければならない。英国の新聞でチャーチルに代わる者がいないからと云う馬鹿げた宣伝を鵜呑みにしている者が多い。英国の政治の実体を静かに睨(にら)めばチャーチルユダヤの人形であることが理解し得る筈だ。

 

結語

 

 以上が国際秘密力ユダヤと国際秘密結社の概要だが、これに対応する日本の政策、或いは日本人として踏むべき道等の点に触れることは余りに少なかった。

この問題の重要性に気付かれた諸賢は更に深く研究されんことを、邦国(国家、諸国)の為に望ましく思う。

 

 最後に申す事は、今次大戦(第二次世界大戦)は明らかにユダヤ問題を根幹とした世界転換戦争であって、それは従来世界を動かして来たユダヤ的な唯物思想と世界支配工作を打倒して、顕幽一貫(*1)の惟神道に立つ新世界の開顕(かいけん:*2)を意味すると云う事だ。

 

1:顕幽一貫(けんゆういっかん)

出雲大社教の布教方針は、宗祠(そうし)と仰ぐ出雲大社に鎮まります大国主大神とのご神縁に結ばれることで、安心立命の中に生かされることを教え導くことです。

 本教の教義は「幽顕一貫(ゆうけんいっかん)」「顕幽一如(けんゆういちじょ)」にあります。顕世(うつしよ)は今我々が生活し、目に見える世界のことであり、幽世(かくりよ)は、神魂と人の霊魂の世界のことです。
 顕世と幽世とは、相即不離(そうそくふり)の関係にあり、この世での幸栄(さきはえ)(幸福と繁栄)は、幽世からの恩頼(みたまのふゆ)(ご加護)により与えられます。

 人間の霊魂は、死後、大国主大神が治められる幽世(かくりよ) に帰り、大神によってその帰着するところが決まります。それ故に、生前の善悪に関し、大神の神慮を奉戴し、心行を正直にして修身誠意、大神の恩頼を仰ぐことにより、幽世に帰り入るとき、代々の先祖たちと共に、御家の守護神として霊魂の安寧を得ることになります。

 

2:開顕(かいけん)

従来の説き方が権(ごん)(仮の方便)であることを打ちあけて真実を顕(あら)わし示すこと。 法華経で、初めて仏の真実の教えが顕わされたということ。 →開権顕実(かいごんけんじつ)・開三顕一(かいさんけんいち)。

 

 

日本に於ける参考書目

1.ヘンリー・フォード著 包荒子解説 「世界の猶太人網」 二松堂

2.長谷川泰三 「ソ聯の要路を占むるユダヤ人の極東攻略?」 人文書院

3.安江仙弘 「ユダヤの人々」 政経書房

4.辻村楠造編 「ユダヤ問題論集一、二」 光明思想普及会

5.長谷川泰三 「国際秘密力の話」 政経書房

6.櫻澤如一 「支那事変とユダヤ人の暗躍」 日本講演通信社

7.

8.武藤貞一 「ユダヤ人の対日攻勢」 内外書房

9.宇都宮希洋 「ユダヤ問題と日本」 内外書房

10.〇田正雄 「世界動乱と猶太問題」 講演の友社

11.四王天延孝 「猶太思想及運動」 内外書房

12.北条清一 「思想戦と国際秘密結社」 晴南社

 

 

定期刊行物

『猶太研究』(會員領布)

 

東京市麹町区内幸町・幸ビル

国際政経学會刊行

「国際秘密力とフリーメイソンリー」解説(1943年版)6

ユダヤ人の活動計画

 

 ユダヤ人の結社はユダヤ全体の利益を計る為に共通の目論見を持っているのだろうか。ユダヤ人の計画を明確に知ることは極めて難しい。しかし、実際の彼等の活動を観察したり、また我々が入手可能なユダヤ人側の文献を研究する事によって、彼等の計画の方向を知ることは出来る。

ユダヤ人の活動の実際については、既に前章に於いてある程度観察した。

本章では各種文献によって、彼等の計画について覗いてみよう。

 

 地球上の至る所、何れの国にもユダヤは散在した。しかも、彼等は如何なる所でも禍の源になった。

シオニスト運動の創立者テオドール・ヘルツェルは言う。

「多数のユダヤ人が居住する所には必ずユダヤ人問題(JQ:Jewish Question)が発生する。問題のない所には、移住するユダヤ人が問題を持って行く。我々ユダヤ人は排斥の少ない所に行くのは勿論だが、我らが現れる所には問題も発生する」。

 

 ドーリングは言う。

ユダヤ人は寄生的生存方法で他国民の中に奥深く侵入し、地上の至る所に利己主義と残忍主義との種を撒いた」。

 

 排ユダヤ主義に関する研究を発表した有名なユダヤ記者ベルナール・ラザールは言う。

「元気と活気と、それから限りない誇りを持つこの民族は、他民族に優越していると云う自信を持っている。ユダヤ民族は自ら一大勢力になることを願い、支配に対する一種の憧れを持っている。この憧れはユダヤ民族がその起源、その宗教に対して一種の誇りを持っていること、神の選民としての性質に恵まれていると云う確信を持っていること等によって、他民族の上に存在すると云う自信から来る力を発揮する為にはユダヤ人は手段を選ばない。

各国の政府が法律を設けてユダヤ人に与えることを拒んだ特権を、ユダヤ人は金権を以て獲得した。

ユダヤ人の希望は差し当たってお金にあるのみだ。

金権の所有者としてのユダヤ人は彼の主人の主人になった。

ユダヤ人の元気と活気を延ばす為の唯一の方法もまたお金だ」。

 

 ラザールはまた曰く。

ユダヤ人は一度解放されれば外国人として国家に侵入する。…ユダヤ人は客人としてではなく、征服者として他民族の社会に入って行く。ユダヤ人は檻の中に閉じ込められた猛獣の群れに似ていた。一度檻が破られれば、ユダヤ人は与えられた範囲内に於いて暴れ出すのだ」。

 

 ユダヤ主義の指導者アルフレッド・ノシックは、『無欠なるユダヤ主義』に於いてユダヤ人の計画を精神的に説明している。

「我等ユダヤ教徒の団結は、我等の生命の無意識な核心であり、我等の魂の持つ共通の本体だ。…

我等の祖先の最初の思想は、我等民族を保存すると云うことではなく、我等民族の発展によって人類を保存することにあった。これは、選ばれた民としてのユダヤ人が持つ唯一の立派な思想だ。我らは外面的な繁栄や世界を単に物質的に支配する為に立つものではない。我等は人類の精神的道徳的発達の為に働くと云う世界的な義務を持ち、この義務の為に我らは奮起するのだ。…」

 

 ノシックは、尚言葉を継いでユダヤ人非難者の批評に一矢を報い、ユダヤ人の世界征服運動は決して物質的支配を意味するものではなく、人類の文明を指導する精神的な秩序を創設することを意味するものだと言っている。以上はユダヤ民族の使命であり、彼等の事業が完成する日も近付いたとも彼は言う。又更にノシックは言う。

「我等は恐怖に充ちた夜の中から離れようとしている。我等の眼の前には大いなる眺めが開けている。地球の全面が我等の進むべき道だ。暗い夕立雲は今尚我等の頭上に懸っている。日々何百と云う我等の同族が同族全体の目的に忠実である為に死んで行く。しかし我等同族が承認され、友誼ある待遇を受ける時期は近付いた。地平には太陽の暁が輝いている」。

全人類に幸福をもたらそうとするのかノシックは言う。

イスラエルが指導する人類のより高い発展を代表するものは、世界的な社会主義だ」。

 

 ロシアに於ける恐るべき災厄(1917年ロシア革命)を見、ボリシェヴィストが承認する社会主義思想の失敗を実際に眺めた後にノシックの言は何を意味するのだろう。

 

 ユダヤ人は不平家であり、排他主義者であり、またメシア思想の信仰家として、優れた革命家だ。彼等は自らを称して進歩の為に働くと云う。ラザールは、

ユダヤ人は地上に正義による幸福を求めるのだ」

と言う。ここで、正義とは、その両極が金権主義と社会主義によって代表されるユダヤ主義の勝利を意味する。

 ユダヤ人活動の計画書として、大戦後世界を騒がせたのは『シオン賢人会のプロトコール(議定書)』だ。

この書は最初ロシアでセルゲ・ニルスによって、次いで殆ど時を同じくしてブトミによって出版された。

1906年8月10日にはこの書の一冊が英国博物館に蔵め(きすめる:大切に収める)られた。

しかし、この書は長い間読書会の注意を引くことはなかった。

 

 この書の出版によって暴露された世界大戦計画、ボリシェヴィキ革命(ロシア革命、ドイツ革命…)の陰謀等が実現されてから、この書の価値は俄に高まり、ユダヤ人側からの妨害があるにも拘わらず世界中に行き渡った

 

 この書は1897年に瑞西(スイス)のバーゼルで開かれた第一回シオニストの会議で発表されたユダヤ人の世界支配活動の目論見書だ。

 

 

プロトコールの沿革

 

 革命はユダヤ人の本性だ。革命とはユダヤ民族自らの革命ではなく、多数又は若干のユダヤ人が居住する国に於ける革命(破壊)だ。即ち革命とは世界革命(世界の破壊)のことだ。ユダヤ人の革命的本性に関してはユダヤ人側に多くの文献がある。卑近な例でもベルナール・ラザール、エリ-・エベルラン等があるが、ユダヤ人の世界革命の野望を最も深刻に現わしたのは「シオン賢者のプロトコール」だ。

 

 1919年の終わりに英国の首都ロンドンで「ユダヤ禍」と云う小冊子が出版された。これは今世紀(20世紀)の始めにロシア人セルゲ・ニルスによってロシア語に翻訳されたプロトコールの断片の英訳だ。この英訳80頁許りの小冊子が如何に当時の英国を震撼させたかは軽々しく物を書かない筈のロンドン・タイムスでさへ二段抜きの長論評を掲載したことでも判る。タイムスはプロトコールを分析してその内容を吟味した。同時にプロトコールに対するユダヤ人側の異議と弁解とを商量(しょうりょう:考えはかる)した。

 

タイムス曰く。

「この小冊子は公平かつ仔細な批判が必要であるにも拘わらず、今日迄殆ど不問の儘になっている。ユダヤ派の機関紙はこの小冊子の本性を暴露すると言って、実際に発表したものはこの小冊子の著者が無名だと云うような些末な点に縋んだ(絡んだ?)だけのものだ。何人をも満足させる徹底的なものは何一つ出さないだけでなく、彼等は全くこのプロトコールの内容に触れていない」。

この英訳本がコア・アンド・スポテウッドから出版されるとドイツではゴットフリート・ツル・ベクによって独訳され「シオン聖賢の秘訣」という題名で出版された。当時のドイツの外相でユダヤ人のラテナウが殺されたのはこの独訳のプロトコールが與(あずか)って力あったと謂う。この為、この出版社は時の社会党政府(ワイマール共和国政府)から500馬克(マルク)の罰金を課せられた。この独訳版の序言にはセルゲ・ニルスとその露訳に関する説明があった。その序言の大略は次の通りだ。

「セルゲ・ニルスは非常に学究的で博学な人だった。当時ウクライナに定住していたが、彼がフランス語で書かれたプロトコールの断片を手に入れて露訳したのは1901年の事だった。

シオン聖賢のプロトコールの第一版は1905年ペトロスブルクでニルスの著書『小事中の大事-焦眉の政治問題としての反基督(キリスト)教』の付録として出版された。

その後、この本は『吾等の災厄の書』と謂う題名で再刊されて著者の名もなく現れた。

1907年には露作家ブトミが『人類の敵』と謂う題名でプロトコールの新訳を作りペトロスブルクの聾唖(ろうあ)協会の印刷所で印刷した。

又1911年別版がセントセルゲ朝時代にニルスの援助を得て出版された。

その第二版は1912年に、第三版は1917年に出版された」。

 

 ルオーブ(リヴォフ)公内閣の時と、ケレンスキーの天下の時にロシアの警察は書店に発見されるプロトコールの残部を残らず押収して焼却しプロトコールの所持者を厳罰に処した。

英国博物館に所蔵するものは1905年ツァルコイ・スロで印刷されたものだ。

 

プロトコールの真銘(しんめい:本物であることのたとえ)

 

プロトコールユダヤ人の筆になったと謂う主張に対してユダヤ人は熱心に異説を唱えた。

これに関してモスクワのユダヤ死刑執行の手より奇跡的に逆(さか)れた一人のロシア人はラ・ヴィエュ・フランス195号に次の記事を書いた。

ユダヤ禍とは長い間の研究と準備とから成ったプランによってユダヤ人が世界征服をすることだ。プロトコールの真偽に対して批判をすることは単なる気晴らしに過ぎない。最も重大なことは、プロトコールそのものの真偽ではなくプロトコールの預言が如何に正確に吾等の眼の前に実現されつつあるかとい謂うことだ」。

 

 1869年プラーグユダヤ人墓地にあるユダヤ教会長シメオン・バシイホダの墓前でラビ・ライヒホルンが声明した言葉とプロトコールとの相似性は不思議だ。この演説はリードクリフによって出版された。

彼はその一生をこの出版事業に打ち込んだ。決闘で倒れたラッサールはリードクリフをラビ・ライヒホルンに引き合わせた。ライヒホルンの言葉はプロトコールの中にもっと詳しく述べられている。

 

 ユダヤ人レイナック・リュシアン・ウォルフ等が如何に筆を振るっても1905年に出版されたプロトコールの内容と1914年以降各国に起こった事実(第一次世界大戦勃発)との間に一脈の共通点が見出されると謂う印象を弱めることは出来ない。

 

 プロトコールが真にユダヤの筆に成ったものか、或いは為にせんとする者の偽作なのか、その何れに拘わらず、プロトコールユダヤ人の世界革命のプログラムを代表するものであることには異論はない。

その預言的性質と過去に於けるある種の秘密結社の取り決めに恐ろしい程似通っている点とから、プロトコールは秘密結社の内部事情に精通し、その理想を結社特有の言葉で発表し得る者の筆に成ったことは明らかたっだ。

 

 最近になってドイツのライシャワー大佐とユダヤ人との間に、プロトコールの真偽に対する裁判が提起され、数年に渡って瑞西(スイス)のベルンで争われた。この時までは事実に基づいてプロトコールの真銘を証明する以外には方法がなかった。

即ち政治的な各種事件、特に最近の数十年に於ける事件が、ユダヤ人フラン・マソンヌリイ(メイソンリー?)に影響されていること、これらの事件がプロトコールが指示する通りに展開されていること、また超国家的秘密力の活動がプロトコールが発表する精神と目的とに全く一致していることが容易に判断されただけだった。

 

 しかしながらベルンの裁判の間に、プロトコールユダヤ人によって編まれ、ユダヤ人の改革案として認められていたことを直接証明する方法が可能になった。

ライシャワー大佐に同情する者が送った資料によってそれが可能になったのだ。プロトコールユダヤ人の作品であることを三人のユダヤ人、つまり二人のラビと一人の改宗ユダヤ(コンヴェルソ)が承認したのだった。※

 

※それでも現在に至るまで、ユダヤ人はこの書について「偽書である」と言い募っている。最新の彼等の「定説」では、これはフランス人が書いた小説を帝政ロシアの秘密警察がユダヤ人の陰謀説に仕立て上げたものである、と言われている。根拠として修辞法が似ている、とされる。でも元々フランス語で書かれたものをロシア語に翻訳したのであるから、修辞法が似るのは、燈照隅のように翻訳をある程度実践した人間にはいかほどの説得力にもなり得ない。しかも、リヴォフ公やケレンスキーユダヤ人)が躍起になって書店から排除したり、或いは欧米でユダヤ人が多くを買い漁って焼却処分にした真意などは固より合理的に説明されて居ない。更にヘンリー・フォードを巡る不可解な金融事件を知るにつけ、その強い意図的隠蔽は疑う余地がない。
燈照隅が思うには、「偽書なら笑って済ませて、大いにその偽書たる根拠によって反論し、コケにすればそれでよいではないか」 却って彼等の執拗な喧伝工作がプロトコルの信憑性を不動にしている。