猶太と世界戰爭(新仮名)03

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第一章 猶太魂の本質
二、猶太魂の本質(昭和17年2月)続き

猶太民族の神観

以上述べましたことが理解されますと、「タルムード」の中にあるユダヤ人の神観もまたよく理解されるのであります。そして先ず第一に注目に値する次の言葉であります。

「神ユダヤ人に言う、汝等我を世界の唯一の支配者となせり。されば我も汝等を世界の唯一の支配者となさん。」

これは前に旧約より引用致しましたもののうちに幾つか見られたのと同一の種類のものでありまして、ヤーヴェがユダヤ人に世界支配を約束する言葉なのであります。然もその約束をするだけならば、前にも幾度が申しましたように、民族の守護神の場合としては別に不都合ではないのでありますが、今度の場合の約束に於ては、神とユダヤ人との関係が相互的又は対等的であり、換言すれば、前の場合に商売的契約の感があると言っておきましたものが一層判然と現われている所に問題が生じて来るのであります。即ちヤーヴェとしては、自分は元来は一地方の土俗神であるか、或いは精々民族神であるのに過ぎないのであるが、その自分をユダヤ人がその「頭のよさ」によって宇宙神又は創造神に祭り上げて呉れたのであるから、自分の方でもユダヤ人を世界の支配者にしてやろう、と言っているのであります。一言で言いますと、ユダヤ人とヤーヴェとの関係は一種の取引なのでありまして、我々が考えるような民族神と民族との関係ではなく、況してや宇宙創造の神と人間との関係ではないのであります。そして前にも述べましたような低級な狐狸の怨霊とも言うべきものが世界の唯一神と思い上り、また幾千年の間「嘘のうまさ」で貫き通して来た民族が世界の唯一の支配者となることの不正不合理については、今更繰返して申上げる必要はないと思われますので、ここでは直ちに次へと論を進めたいと思うのであります。

ところがヤーヴェとユダヤとの関係は、単に上述の如き側面に止まるのではないのでありまして、ユダヤ魂の本質を知り、その四千年の「嘘」の歴史を解するためには、今挙げましたものと同様にタルムードの中にある次のような言葉が表明するヤーヴェとユダヤ人との関係も非常に重要なものになって来るのであります。

「神を畏敬する場合にも狡猾でなくてはならぬ。」それからまた、「あつかましくやれば、神も我々の意に従う、」というのもあるのであります。その歴史が始まると共に「嘘」に生きたとも言うべきユダヤ人は、かように神に対してすらも非ユダヤ人のように純真な帰依の心を有するのではなくて、神に対してさえも背負い投げの隙はないかとねらっているのであります。そしてこれは、ユダヤ人の神ヤーヴェが脅迫の神であり、威嚇の神であることを想起致します時に、なかなか興味深いユダヤ魂の一面なのであります。即ち猶太の歴史の証しますように、ユダヤの取った道は決して常にヤーヴェの命ずる所に叶ったとは言い難く、むしろ神命に叛いた結果として現在のユダヤの運命が生れて来ているとさえも言い得るのでありますから、ユダヤ人としては神の威嚇した滅亡を免れるためには、一面に於てあらゆる術策と嘘とを用いて神命としての世界支配の完成に進もうと努力すると同時に、他方に於てはヤーヴェそのものに対しても身を守らねばならないのであります。この後の方面の必要が前述のように神をもペテンにかけようという態度となって発現しているのではないかと考えられるのであります。それでユダヤ魂のこの二面は、ただ外見的に矛盾しているだけで、内面的には決して矛盾してはいないのであります。ユダヤ人に於てはあらゆる事に外観的には矛盾する二面が常に存在しているのでありまして、このユダヤ魂の二重性乃至二面性が理解されないでは、ユダヤ人の言行は充分に理解されず、従ってその歴史も解釈出来ず、ひいてはユダヤ対策も講ぜられ得ないのであります。かの素朴な先入主に基づく日猶同祖論とか、感傷的な人道主義に基づく似而非八紘一宇説のユダヤ抱擁論とかは、この点の認識不足から出て来る生半可なユダヤ研究家の陥り易い常套的な方向なのであります。

 

猶太人の陰謀性

ここで話を転じまして、何故にヤーヴェがかようにユダヤ人を威嚇し、脅迫するのであるかという問題に移って考えますのに、これは既に引用致しました聖書、又はタルムードの句にありましたように、ユダヤ人をして世界の支配者たらしめようというのであります。この点に関しましてタルムードからなお二三引用致しますならば、「世界はただイスラエル人のためにのみ創造されたのである」とか、「ユダヤ人は何処へ行こうとも、その地の王とならねばならぬ」とか、「あらゆるイスラエル人は王者の子供である」とかいうのがあります。しかしこれだけならば、前にも繰返し申しました通りに、如何なる民族にも許さるべき自負心の表現と認めることが出来るのでありますが、問題はその次にあるのでありまして、この世界支配を「如何にして実現するか」という点が、重大な問題を含んで来るのであります。それで先ず旧約の方を見ますと、出エジプト記の三四には、

「汝慎みて汝が往くところの國の民と契約を結ぶべからず。彼等汝等の中に住む時は、恐らく汝等の罠となることあらん。汝等反って彼等の祭壇を崩し、その偶像を毀(こぼ)ち、その聖柱をきりたおすべし。」
とあります。この「契約を結ぶべからず」という点につきましては、後にユダヤ人の人間観を述べまする際に一層明瞭になると考えますので今は論じないことに致しますが、その残余の部分は、他民族の宗教を破壊せよというのでありまして、これはユダヤの世界支配の一方策たるマルクス主義の反宗教運動を想起すれば事情は明瞭となるでありましょう。ユダヤ人は自分のユダヤ教に対しましては、前述のヤーヴェとの関係に見られます通りに、極端な信仰又は恐怖を抱いているのですが、他民族からは宗教を奪ってしまい、それによって他民族を滅亡させようとするのであります。然もそれがヤーヴェの命令としてなされる点が特に注目に値するのでありますが、この点については既に論じましたことで明らかであろうと思います。

次に申命記から引用致し度いと思いますが、その申命記は所謂トーラのうちでも最もユダヤ魂の本質を見るには大切なものでありまして、私の引用も一番多くなると思いますが、その七には、

「汝は汝の神エホバの汝に付したまわんところの民をことごとく滅しつくすべし、彼等を憫(あわれ)み見るべからず。また彼等の神に事(つか)えるべからず。その事汝の罠となればなり。…汝の神エホバ是等の國人をややに(徐々に)汝の前より逐(お)いはらい給わん。汝は急速に彼等を滅しつくすべからず。恐らくは野の獣殖(ふ)えて汝等に迫らん。汝の神エホバ彼等を汝に付し、大いにこれを惶(おそ)れ慄(おのの)かしめて、遂にこれを滅し尽し、彼等の王を汝の手に付したまわん。汝彼等の名を天の下より削り去るべし。汝には抗することを得るものなくして、汝遂に彼等を滅しつくすに至らん。」
とあるのであります。またその二〇には、

「汝の神エホバこれを汝の手に付したまうに至らば、刀もてその中の男を盡(ことごと)く撃殺すべし。ただその婦女、子供、家畜及びすべてその邑(むら)の中にて汝が奪い獲たる物は、盡く己に取るべし。抑(そもそも)汝がその敵より奪い獲たる物は汝の神エホバの汝に賜うものなれば、汝これもて楽しむべし。汝の離れること遠き邑々、即ち是等の國々に属せざる邑々には、すべてかくの如く行うべし。但し汝の神エホバの汝に与えて産業となさしめ給うこの國々の邑々に於ては、呼吸する者を一人も生かしおくべからず。」
と、書かれているのであります。即ちヤーヴェはユダヤ人に他民族の殲滅を命じているのであります。そしてその際に取るべき方策についても旧約中に於て、特に申命記に於て、詳細に教えているのでありますが、この引用の部分のみを見ましても、他民族の宗教の破壊とその王者の除去を説いているのであります。なお実際的な方策としては、急速に他民族殲滅をする時には、野の獣が殖えて汝に迫ることもあろうから、その野獣を亡ぼすためには非猶太人を利用せよとか、男は殺戮しても、婦女子家畜は享楽せよ、などというような点にまで注意が及んでいるのであります。今はこれ以上の例を挙げている暇はないのでありますが、この種の言説は旧約中には極めて多いのでありまして、一言にして言えば、他民族、他國家、他宗教の殲滅がユダヤの世界支配の前提となるのでありまして、この点では世界の各民族各國家をして各々その所を得しめる真の八紘為宇の精神とは百八十度、否、三百六十度の差異があり、一見類似するかの如くに見えたユダヤと日本との祭政一致の如きも、その本質を全く異にし、その存在の次元を全く別にしていることが判明するのであります。かように考えて参りますと、かかる信仰に幾千年を生きて来たユダヤ人に対しては、徹底的な膺懲(ようちょう:征伐してこらしめること)の外に道のないこともお分りになると存じます。

 

猶太人の人間観

ここでまた話題を転じまして、ユダヤ魂の本質を知るための第二の大問題であるユダヤ人の人間観を見る事に致したいと思います。そしてこれが明瞭になると、前の神観がまた特別な明瞭さを加えると考えられますし、また前の神観からは当然次のような人間観の出て来る理由も明らかになって来るのであります。

前にも申しましたように、ユダヤ人にはその二重性格に照応してあらゆる問題に関して二重の標準があるのでありますが、それがこの人間観に於ては特に明瞭に見られるのであります。即ち一口に人間観と言いましても、ユダヤ人に於てはユダヤ人観と非ユダヤ人観とが根本的に異なっているのであります。ではユダヤ人はユダヤ人そのものをどう見て居るかと申しますと、タルムードには「ユダヤ人は何処へ行こうともその地の王とならねばならぬ」とか、「あらゆるイスラエル人は王者の子供である」とか言うような、既に前にも引用致しましたものの外に、

ユダヤ人のみが人間と呼ばれるのであって、非ユダヤ人は動物と呼ばれる。」

「神より生れたものはユダヤ人のみであって、ユダヤ人以外の民族は悪魔の子である。」

「人間が動物よりも高等であるように、ユダヤ人は人間よりも高等である。もしこの世にユダヤ人が居ないならば、如何なる幸福もなく、輝く太陽もなく、人類も到底生存することは出来ない。」

「聖書に隣人と書かれてある場合に、非ユダヤ人はその中に含まれていない。」

というようなのがあるのであります。これらの言葉に見られる非ユダヤ人観こそユダヤ人の非ユダヤ人に対するあらゆる言行の基礎になっているのでありまして、前の神観と共にこの非ユダヤ人観が充分理解されない時には、ユダヤ人の他民族殲滅の謀略の真相は判明しないのであります。一言にして言えば、ユダヤ人から見れば非ユダヤ人は人間ではないのでありまして、ユダヤ人の非ユダヤ人に対する態度はすべてここから出発しているのであります。そこで次にはこの点に関して派生して来る諸問題を少し許り考察してみたいと思うのであります。

先ず旧約全書から材料を拾って行くことに致しましょう。既に前に引用しました部分に、「汝慎しみて汝の往くところの民と契約を結ぶべからず」とありましたが、また申命記には、「彼等と契約を結びて和することなく、また彼等を憫み見るべからず」とあるのであります。この契約を結ぶべからずという神命と冷酷たれという神命とは、ユダヤ人に於ては誠に徹底したものでありまして、契約を結ぶかに見え、また温情を示すかに見える場合は、何れも何か下心があっての場合と見做してもよいのであります。そしてこの場合にも忘れてはならないことは、ユダヤ人が非ユダヤ人を「人間」視してはいないことであって、この点からして、以上のような対非ユダヤ人態度もユダヤ人には何等良心の呵責を伴わない許りか、反って神意に叶うものとして宗教的意義を持つ敬虔な行事なのであります。即ちユダヤ人に取っては、「隣人」即ちユダヤ人同志の間には責任感はあり得るのですが、他民族に対しては我々が畜類に対する程度ほどの責任感もないようであります。勿論ユダヤ人にも種々の型がありますので、程度の差異はあるかも知れないのでありますが、しかし注目すべきことは、上述のような点はその幾千年の宗教的信仰となっておりますので、如何なる「善良な」ユダヤ人にも本能として存在しているのでありまして、平常はそんな傾向の毫もないような所謂開化ユダヤ人も、一旦自己の利害に関した事件等に際会しますと、その本能がむくむくと頭を擡(もた)げて来るようであります。この点の充分の認識がないと、或程度まで悲境に陥っている場合にはユダヤ人は得意の「頭のよさ」で正直な人をたぶらかしてしまうのであります。この点は余程注意を要するのでありまして、相当程度にユダヤ問題を研究したとうぬぼれている人でも、充分な思想的批判力がなかったり、甘い感傷主義者であります場合には、屡々直接にユダヤ人に面接するようになると丸められてしまうのであります。殊に八紘為宇がどうのこうのとうまい所を突いて来るので、いい気になってユダヤ人のお先棒をかつがされる場合もあるので注意が要るのであります。この警告は決して無駄ではなく、外國許りでなく、その例が我々の身辺にさえ幾つもあるのであります。そうした人の場合はその眼を直視すればすぐ分るのでありまして、これはフリイ・メイスン秘密結社員を識別するのには「眼を見よ」と言われているのと一致するのであります。話が多少わき道へそれて来ましたので、ここでまた旧約からの引用に戻りたいと思いますが、今後すべての引用も、上に述べました事を根本にして考えますならば、殆ど何の説明もなく理解が出来ると思われるのであります。

「他の國人よりは汝利息を取るもよし、唯汝の兄弟よりは利息を取るべからず、」と申命記にはありますが、これを同じ申命記の次の部分と結合するとなかなか興味深いのであります。

「汝の神エホバ汝に与えんと誓いたりし地に汝を導き入れ、汝が建てたるにあらざる大なる美しき品々を得させ、汝が盈(みた)せるに非ざる諸々の佳(よ)き物を盈(みた)せる家を得させ、汝が掘りたるに非ざる井戸を得させ、汝の植えたるに非ざる葡萄園、橄欖(かんらん)園*を得させ給うべし。汝は食いて飽かん。」*橄欖はオリーブのこと

序(つい)でにもう一つ引用致しますならば、イザヤ書には、

「海の富はうつりて汝につき、もろもろの國の財貨は汝に来るべし。…異邦人は汝の石垣を築き、彼等の王等は汝に事(つか)えん。…汝の門は常に開きて、夜も閉すことなし。そは人もろもろの國の財貨を汝に携へ来り、その王等を率い来らんためなり。汝に事えざる國と民は亡び、その國は全く荒れすたるべし。…汝を苦しめたるものの子等はかがみて汝に来り、汝をさげしめたる者はことごとく汝の足下に伏すべし。…汝前には捨てられ憎まれてその中を過ぎる者なりしが、今はわれ汝をとこしえの華美、代々の歓喜となさん。汝またもろもろの國の乳をすい、王たちの乳房をすわん。」

 

他民族の利用

このイザヤ書は、トーラに入っては居りませんが、申命記にも比肩すべきものでありまして、その中にはまだまだこの種の資料はあるのですが、引用はこれ位に致しましょう。要するにユダヤ人は、自分では労働を避けて、他人をして働かしめ、その生産したものは無償で自己の手に収めるのを得意とするのでありますが、それがまた宗教的信仰に基づくことがこれらの引用から判明するのであります。例えば熱烈なユダヤ教徒マルクスの案出しましたマルクス主義の如きも、その代表的なものの一つでありまして、あれはプロレタリヤなるものを利用して非ユダヤ人の資本をユダヤに捲きあげる仕掛になっておるのであります。それからまた、これらの引用からして、ユダヤ人が何故に金儲けに巧みであり、特に高利貸とか仲買とかに堪能であるかということも説明なくして明瞭であると思います。ただこの際に一言しておきたいと思いますのは、ユダヤ人の金銭欲の強いという点についてでありまして、これも成程事実には相違ないのでありますが、しかしこの搾取は、他民族殲滅をその根本の目標としているのでありますから、それに役立つと考える場合には、百年一日の如く営々として貯えた金をも何の惜しげもなく相当程度に投げだすこともあるのでありまして、これが分らないとまたユダヤ人の謀略にひっかかってしまうのであります。ユダヤ人の行動の最高方針は神命としての世界支配と、何等仮借する所のないその実行とであって、手段は選ぶことは決してないのであります。

 

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