猶太と世界戰爭(新仮名)02

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猶太と世界戦争

汝は汝の神エホバの汝に付し給わんところの民を
ことごとく滅しつくすべし

申命記七・一六―

 

第一章 猶太魂の本質

二、猶太魂の本質(昭和17年2月)

 

猶太問題研究上の困難

お集りの皆様には既に充分お分りの事と存じますが、ユダヤ問題の研究ということはいろいろな不便を伴っております上に、時とすると一部インテリ層の間では誤解を受け易いのであります。ユダヤ自由主義マルクス主義を利用して久しく煙幕を張って来ていますので、この問題の存在することさえ分らない程にお目出度い人が所謂インテリの中には相当あるように見受けられるからであります。既に幾度かユダヤ禍のために悩まされた欧米では、一般の人々は、復讐を恐れて口には出しませんでも、この問題の存在や意味位は常識として知っておりますが、日本は幸か不幸か無経験のために上述のような状態におるのでありますが、そうした無準備のままで現在の非常時局に突入してしまったのであります。それで今迄はそれでよかったとしましても、今後はこの世界の舞台裏の秘密力にまで眼を及ぼして、皇國悠久の将来の為の計を立てねばならないのであります。それに今なお、ユダヤ問題を研究して批判を加えるのは少数民族の排撃である、などという感傷的なユダヤの宣伝が鵜呑みにされていることがありますが、一度冷静な批評眼を備えてユダヤ四千年の歴史を見るならば、こんなユダヤの常套的な宣伝にのせられる筈はないのであります。現代のような急激に進展して行く時代には、インテリというものは「本」が読めるために反って時代に遅れるという皮肉な現象が屡々起こるのでありますが、ユダヤ問題の場合はその最もよい例なのであります。

少数民族排撃云々の問題から眼を転じて、ユダヤ人のゲットー生活の問題を取り上げましても、在来は猶太人の宣伝の結果、ユダヤ人がゲットー内に隔離生活を送らされて来たのは他民族に強要された結果である、というように考えられ勝ちでありました。しかしこれは事実とは大きな差異でありまして、少数の例外の場合を除きましては、かの隔離生活はユダヤ人がみずから選んだ生活形式でありまして、所謂「國家中の國家」を形成するための一方策だったのであります。そしてその内部に於てユダヤ人特有の陰謀を他人に監視される心配なしに企てて来たのであります。それを「頭のよい」ユダヤ人は「頭の悪い」非ユダヤ人を欺くのに自己に好都合な解釈を加えて宣伝してきましたので、とかく真相が隠され勝ちで今まで来ているのであります。

以上僅か二つの著しい例を挙げただけでも判明致しますように、非ユダヤ人というものは全体として正直者でありますから、なかなかユダヤの謀略を見抜くことはむつかしいのであります。しかし正直さというものは、それに伴う正当なる批判力のないとき、所謂馬鹿正直となってしまうのであります。時として世間には、ユダヤ問題の如き世界の裏面の研究をしている時には、万事に物の裏を思う暗い習慣に陥るのではないか、という人もあるようですが、これは大抵の場合ユダヤ自由主義に染った人の言葉でありまして、正直にユダヤ問題の研究を拒否すると云う勇気の欠如している結果として、かような尤もらしい遁辞を設けるのであります。真の叡智は善も悪も解する能力を与えた良識に立脚するものでなくてはなりません。殊に今や我々の身辺には、一寸油断をすると家庭の内部にまでユダヤの魔手がなおあらゆる形でのびて来ているのでありますから、この度の世界皇化による新秩序の樹立のためには、甘い感傷主義を捨てて何処までも毅然とした態度で進まなくてはならないのであります。

 

猶太魂探求の法

そこで私が本日ここで多少皆様に申上げて見たいと思いますのは、例えば上述の二つの問題の如きでさえもかほど巧みに真相を隠すことに成功して来たユダヤ人の「頭のよさ」の基く所が何処にあるか、という点についてであります。世間ではよくユダヤ人のメシア思想と申しますが、私の本日お話し致したいのは、そのメシヤ思想の拠って立つ根本の地盤とでも云うものについてであります。それを私は本日の演題の「ユダヤ魂の本質」と称しておるのであります。所で問題は、それを研究するのには如何なる道を取るべきかという事になって参りますが、これにはいくつもの道があるのでありまして、富士に登る道が幾つもあるのと同様に、「ユダヤ魂の本質」を明らかにする道も幾つもあるのであります。先程も論及致しましたように、ユダヤの歴史四千年の推移を研究することもその一でありますし、特に現代に於けるユダヤ人の暗躍振りを跡づけるのもまたその一つであります。しかしこの二つの道ながらにそれ相当の困難が伴っているのでありまして、第一の道の如きは、現在では所謂枢軸國には相当の信頼すべき文献が存在しておりますが、それ以外では材料の入手が困難なのであります。殊にデモクラシーと称する金権支配の米英や、プロレタリヤを利用してユダヤの天下を招致しようという赤色帝國主義の國に於ては、ユダヤ人に関する研究は猶太人そのものの允可(いんか:許し)を経ないものは公刊の機会が殆どありませんし、たとえ、勇気を振るって公刊しても、決して店頭に取り次いでは貰えないのであります。これはヒットラー及びムッソリーニ以前の独伊に於ても事情は同じでありますし、フランスに於てはペタン政府以後も相当程度の旧態を残しているようであります。従ってわが國に於ては、ユダヤの歴史を見るといいましても書物に依る外はないにも拘らず、その書物がこういう制限を受けているのですから、この道に依る研究が容易でないことが、お分かり願えたかと存じます。次に現在の世界に於けるユダヤの暗躍振りを見るやり方でありますが、枢軸國以外の世界の通信機関の殆ど全部を支配しておりますユダヤのことでありますから、なかなか容易にはその正体を見せることは無いのであります。

それではこれ等の道によっては研究は不可能かと言いますのに、盟邦独伊の識者の研究に依ることも出来ますので、現在では割合に容易なのでありますが、しかし独伊のものも、それが國家的な支持を得て公然と研究し得るようになったのは僅か数年以来のことでありますので、まだ研究が完備しているとは申されないのであります。また独伊には独伊としての立場もありますので、我々にはその研究を全部そのまま受け容れることの出来ないことのあるのは言う迄もありません。

しかし独伊の研究に教えを受ける場合にしましても、また直接に現在の世界の動きから研究するに致しましても、研究が或点まで達しますと、案外容易に事の真相が明瞭に把握される時期がやって参るのであります。これはおそらく誰にも経験のあることと存じますが、或一事に相当に通じますと、それから先は道が容易に開けて来るのであります。例えば上述しましたような事情下にある外國電報の如きも、少し許り慣れて参りますと、その出所を知ることによって直ちにその含有する真偽性の程度が直感されるようになるのであります。そうしてこの程度に到達致しますと、独伊側の研究ではなく、英米側のユダヤ系の宣伝的著作にしましても、その真偽の割合が正確に把握されるようになるのであります。そしてここまで到達しないではユダヤ問題は分からないのでありますが、本日私が多少申上げ度いと存じますのは、この点にまで到達するのに役立つ一つの捷径(しょうけい:近道)に関してであります。

 

猶太教とその経典

よく世間では、ユダヤ人は宗教的な民族だと言いますが、それは全くその通りでございまして、たとえばかの「聖書」の如きがその民族の産んだものであることからも、このことは肯定されるのであります。御存じの通りユダヤ人には國家もなく、定住する國土もないのであります。しかもそのユダヤ人が現在の世界に見られるように見事な統一を持って動いておりますのは、秘密の指導者の有無は問題外と致しまして、その宗教的訓練の結果なのであります。従ってユダヤ人の場合の宗教は、我々が日常考えて居ります宗教とは異なったものでありまして、それは宗教であると同時に、政治でもあれば、経済でもあり、法律でもあれば、教育でもあるのであります。これを換言致しますと、ユダヤ人は祭政教一致の民族であるとも言い得るのであります。そして、この点ではわが國本来の姿と一面に於て類似している如くに見えるのでありますが、我國は上に万世一系の 天皇陛下を奉戴し、いまだ嘗て敵に汚されたことのない國土に國家を形成して来ているのでありますから、実質的には文字通り天地霄壤(しょうじょう:天と地)の差があるのであります。

この点の差異につきましては後にまた触れることに致し度いと存じますが、とにかく宗教がユダヤ人の生活に如何に大なる意義を持つかは以上でもお分り願えたことと存じます。然もユダヤ教の拠って立つ所は所謂聖書中の旧約聖書であり、また「タルムード」でありますので、私は「ユダヤ魂の本質」を知る捷径(近道)は第一にこれらのユダヤ聖典を研究することであると申し上げたいのであります。或著名のユダヤ人は「我々には祖國はないが、ユダヤ聖典こそはその祖國なのであって、この祖國のある限り我々は亡びることはない」と申しておりますが、ユダヤ人にとってかく國家と國土との二役を引き受けているユダヤ聖典こそは、我々が、ユダヤを知るために第一に考慮すべきものであろうと思います。従って、本日はユダヤ聖典を中心としてお話し致し度いと存じますが、それが旧約聖書と「タルムード」とであることは既に申し上げました通りであります。しかし旧約聖書と申しましても大部のものでありますので、特にユダヤ人が「トーラ」の名の下に尊崇致しております旧約聖書の初めの五巻を中心として本日はお話し致し度いのであります。

ユダヤ人がこの「トーラ」を尊崇致しますことは非常なものでありまして、「神さえもトーラを研究し給う」とさえ言い、神そのものよりも「トーラ」を重視いたしている位なのであります。同じことは今一つのユダヤ聖典「タルムード」に関しても言われているのでありまして、「神もまた夜間にはタルムードを研究し給う」と「タルムード」そのものに記されております。ではこの「タルムード」とは何であるかと申しますと、これは先程申上げましたトーラに対する「解釈」の集成をその重要部分としているのであります。その成立は大体西暦五、六世紀の頃ということになっており、既にユダヤ人が特殊の意図を有してその編纂に当っていることが歴然としているのであります。ついでにここでかの旧約聖書の成立についても一言しておきますならば、それも矢張同じ頃だという説がこの頃大分唱えられております。従ってこの旧約もまたユダヤ人が或特殊の意図を以て編纂したものであり、特に「トーラ」の第一巻の始めにある宇宙創造の話は印度からの借物なのだそうであります。

ここで話をまた「タルムード」に帰しますが、ユダヤ教聖典の一つであり、極めて屡々「トーラ」そのものよりも重視せられるこの聖典が上述の如く「解釈」をその本領と致しておりますことは、ユダヤ魂の本質を見ようとする者に取っては、極めて重大なことでありまして、独逸などでよくユダヤ人には独創はなく、その長所は単に解釈の能力のみであると言われるのは、恐らくこの点を根拠とした説であろうと思われます。ユダヤ文化の根源ともいうべき旧約の始めの宇宙創造の話が借物であることをも入れて考えて見ますと、ユダヤ人無独創説は相当の根拠を有するものと言わねばなりません。しかし事一度「解釈」の領域になりますと、ユダヤ人の独壇場でありまして、近頃の解釈学的哲学・現象学・形式社会学・純粋法学、その他文学・美術・音楽の解釈より、相対性理論に至るまで、その精神に貫かれておらないものは皆無であると言っても過言ではないのであります。この事を別の言葉で申しますと、ユダヤ人は天才的に「嘘がうまい」ということになるのであります。この事情は、「タルムード」そのものに、「彼はモーゼに立法を与え給うたが、それは、同一の事柄をそれぞれ四十九種のやり方で不潔とも清潔とも証明することを許すだけの余裕のあるものとなっている、」とあるのでも充分窺われるのであります。この言葉については後にもう一度論及致したいと思っております。

話が多少わき道へそれましたが、ここで我々は、世上往々ユダヤに頼まれたかの如くに次のような疑問乃至反対をする人がありますので、そうした疑問や反対は、ユダヤ人の豊富な報酬を当にする者以外は愼しむべきことである、と言っておき度いと存じます。即ち、「トーラ」にせよ、「タルムード」にせよ、何れも、少なくとも千幾百年以前の著作物であるから、近代文化の恩沢に浴しているユダヤ人がそんなものを文字通りに信仰している筈はないというのが、その疑問乃至反対であります。しかしこれはユダヤ魂の本質に盲目であることの証拠である許りでなく、日本の哲学界でも一時は非常に有名でありましたドイツのマルブルグ派のユダヤ哲学者コーエンその人によって反駁されているのであります。即ち彼は、一八八八年に裁判所の宣誓に於て、「タルムードに含まれている信仰並びに慣習に関する諸規則は、ユダヤ人に対して拘束力を有するものである、それらは律法と認められている、」と言っているのであります。勿論ユダヤ人は二千万近く居るのでありますから、その中には種々の傾向の者も居りますので、所謂モダーンなユダヤ人の中には、「同化ユダヤ人」と称せられて、ユダヤの慣習を捨てて近代化した者も居るのであります。しかしこの場合の大部分はそう偽装するのでありまして、ここでもユダヤ人の「頭のよさ」を見なくてはなりません。時として本人自身そう真面目に信じておりましても、なお本能的にはユダヤ根性がいざという場合には出て来るのであります。同一事を四十九種にも黒白といいくるめる術を幾千年間修行して来ているのでありますから、嘘のうまさ乃至偽装の巧みさが文字通りに超天才的であることは、前にも申上げた通りなのであります。従って口先で「タルムード」を否定するユダヤ人こそ反って生粋のユダヤ魂を持っているのかも知れないのであります。実に「タルムード」とはかような精神から生まれ、かような精神を育てて来たのであります。

なおユダヤ魂の本質の研究には、皆様ご承知の「シュルハン・アルフ」や「シオンの議定書」などもありますが、本日はこれらには論及する暇はないのであります。前者については、これもまた「タルムード」のような解釈の書であること、後者については、それの真偽はその内面的真実性を重んずる非唯物論的立場にまで高昇し得る者のみが判断し得るものである、ということだけを述べさせていただくにとどめたいと思います。

 

猶太の民族神エホバ

前置が余り長くなって参りましたので、この辺で本論へ進む事に致します。さてドイツの詩人ゲーテは、或人が如何なる人であるかはその人の神観を見れば分る、と申しておりますが、私もその意味に於て先ずユダヤ人の神観を明らかにし、これによってユダヤ魂の本質の一斑(いっぱん:一部分)を把握してみたいと思うのであります。勿論こう言いましても、唯物論者等の申しますように神の存在を否定するのではないのでありまして、実在する至高の神を如何に感受するかは感受する人間如何によって異る、という意味なのであります。例えば我々日本人の祖先のようにその神を先ず天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の如くに感受するか、或いはユダヤ人の如くにヤーヴェ(エホバ)の如き神として感受するかは、その民族の民族性如何によって定まるというのであります。

ではユダヤの神ヤーヴェとは如何なるものでありましょうか。然し我々はこの問題に答える前に、旧約聖書にはヤーヴェの外に、その最初の創世記の巻には別の神があって、この神が宇宙の創造をする、ということになっている事を想起したいのでありますが、しかしこの神に関しましては、この創世記が印度方面よりの借物であるという説もあります上に、ユダヤ人そのものはこの神をヤーヴェと同一視して来ているようでありますので、我々も今日は直ちにヤーヴェをユダヤの神として論じても差支えなかろうと信ずるのであります。

ではヤーヴェとは、通俗的に言いましてエホバとは、如何なる神でありましょうか。これを歴史的に見ますと、ヤーヴェと申しますのはユダヤ人が移住して参りましたカナーン地方の土俗神であったということであります。しかし我々は今日はユダヤ聖典によってその神観を明らかにしようとしているのでありますから、このような意味のヤーヴェについては語ることを避けたいと思うのであります。それから既に前に申しましたように、ユダヤ聖典「タルムード」に依れば、神は「トーラ」のみならず、「タルムード」そのものをも研究し給うというのでありますが、かような属性を持つヤーヴェについても今日は語ることを避けたいのであります。とにかくヤーヴェなるユダヤの神は、旧約又は「タルムード」を中心にして見ましても種々の属性を持っているのでありますが、本日はそれらの諸属性を一貫して流れているもの、或いはヤーヴェの根本特質とでもいうもののみを研究して見たいと思うのであります。

今申しましたような立場から観察致しますと、旧約全書に見られるヤーヴェというものはユダヤ人だけの民族神であって、ユダヤ人のみを偏愛する神であることが明瞭なのであります。例えば創世記の二六には、「我汝の子孫を増して天の星の如くなし、汝の子孫にこれ等の國を与えん。汝の子孫によりて天下の國民皆福祉を得べし、」とありますし、申命記の二には、「汝の神エホバ地の面の諸の民の中より汝を択びて己の宝の民となし給えり、」と書かれておりますし、所謂「トーラ」以外の部分にも例えばレビ記の二〇には、「我は汝等の神エホバにして、汝等を他の民より区別せり、」と記されているのであります。世間でよく言われるユダヤ選民思想はこれらの言葉を根拠とするものなのでありますが、とにかく以上の引用文から見て明らかなことは、エホバが決して宇宙神ではなく、世界創造の神でもなくて、ユダヤ人を偏愛する民族神に過ぎないということであります。

それでこの民族神がユダヤ人を愛するのは当然でありまして、この民族神が民族神として活動するだけで、その本性の埒(らち)を出て宇宙神だの世界の創造神だのと僭越なことを言わなければ、我々としても何等の異議はないのであります。たとえ民族に対する愛が偏愛の程度に達している時でも、我々としては辛抱出来るのであります。ところがこの神が、自分こそ世界の唯一の支配者であるとか、唯一神であるとか言って、自己の相対的な地位を忘れて絶対位を僭称するようになりますと、其処に問題が生じて来るのであります。殊にヤーヴェとユダヤ人との関係を一層詳しく調べ、ヤーヴェがユダヤ人に約束することを検討し、就中(なかんづく)その命令乃至約束の成就のために奨める所の手段方法にまで眼を及ぼして見ますと、一体このヤーヴェはユダヤの民族神であるのか、否、もっと適切に申しますと、果してこのヤーヴェは民族神程度としても神の名に値する存在であるか否かさえ、怪しくなって来るのであります。結論から先に申しますならば、ヤーヴェなるものは如何なる意味に於ても決して神の名に値しないものであり、強いて名を求めるならば、西洋人の言う悪魔か、我々日本人の考えます狐狸(こり)の怨霊の類であると考えられるのであります。勿論、旧約又は「タルムード」は大部のものでありますから、ヤーヴェには別な特性もあるのでありますが、しかし他に如何に偉(すぐ)れた属性があっても、以下に紹介しますような特性もまた存在しています以上は、矢張ヤーヴェは如何にしても余り高貴の神ではないのであります。

 

エホバと猶太民族との関係

ではまずヤーヴェの民族神としての性格を明らかにするための第一の問題としまして、この神とユダヤ人との関係そのものを見ることに致しましょう。そこで先ず考慮したいのは申命記の二八であります。

「汝もし汝の神エホバの言に従い、わが今日汝等に命ずるその一切の誡命(かいめい:いましめと命令)を守りて行わば、汝の神エホバ汝をして他の諸々の國人の上に立たしめ給うべし。汝もし汝の神エホバの言に従う時は、この諸(もろもろ)の福祉汝に臨み汝に及ばん。…汝は入るにも福祉を得、出るにも福祉を得ん。汝の敵起ちて汝を攻めるあらば、エホバ汝をしてこれを打破らしめ給うべし。彼等は一条の路より攻め来り、汝の前にて七条の路より逃げ去らん。…汝もし汝の神エホバの誡命を守りてその道に歩まば、エホバ汝に誓いし如く汝を立てて己の聖民になし給うべし。然る時は他の民みな汝がエホバの名をもて称えられるを見て汝を畏(おそ)れん。エホバが汝に与えんと汝の先祖等に誓い賜いし地に於てエホバその実の蔵なる天を啓(ひら)き、雨をその時に従いて汝の地に降し、汝の手の諸々の行為に祝福を賜わん。汝は許多の國々の民に貸すことをなすに至らんも、借りることなかるべし。エホバ汝をして首とならしめ給わん、尾とならしめ給わじ。汝は只上に居らん、下には居らじ。汝もしわが今日汝に命ずる汝の神エホバの誡命に従いてこれを守り行かば、かならずかくの如くなるべし。」

ヤーヴェとユダヤ人との関係がいま挙げたようなものだけでありますれば、ヤーヴェが民族神であることから見て、これ位の偏愛や約束は当然のこととも考えられるでありましょう。ただ今引用しました中には、「エホバ汝に誓いし如く」とか「汝等の先祖等に誓い賜いし」などという点に、ヤーヴェとユダヤ人との間柄が、真に民族を愛する民族神とその民との間の関係と見るにしては余りにも商売的な契約の感を抱かせる点がありますし、また「汝は許多(きょた:おおく)の國々の民に貸す」という言葉がユダヤ人の四千年の歴史を暗示しているような点もありますし、またもう一つ「汝をして首とならしめ」とか、「汝は只上に居らん」とかいう言葉でユダヤの世界支配欲を表示しているような点もありますが、これ等の点については後にもう一度触れることに致しまして、ここではただ、以上だけがヤーヴェとユダヤ人の関係でありますならば、先にも旧約より引用しました際に申しましたように、我々他民族も大体に於て異議はなく、従って民族神とその民との関係としてもそう不思議ではないのであります。しかし事情は、今の引用の続きの部分を見ますと大いに変って来るのであります。

「汝わが今日汝に命ずるこの言葉をはなれて、右又は左に曲がりて、他の神々に仕えることをすべからず。汝もし汝の神エホバの言に従わずして、わが今日汝に命ずるその一切の誡命と法度(はっと)とを守り行わずば、この諸々の呪詛(じゅそ)汝に臨み、汝に及ぶべし。汝は邑(むら)の内にても詛(のろ)われ、田野にても詛われん。…汝は入るにも詛われ、出るにも詛われん。エホバ汝をしてその凡ての手をもて為す所に於て呪詛と恐懼(きょうく:おそれかしこまること)と譴責(けんせき:戒めて責めること)とを蒙らしめ給うべければ、汝は滅びて、速かにうせはてん。こは汝悪しき事を行いて、我を棄てるによりてなり。 …汝はエホバの汝を遣わし給う國々にて人の怪しむ者となり、諺となり、諷刺とならん。汝の中にある他國の人々はますます高くなり行きて、汝の上に出で、汝はますます卑くなり行かん。彼は汝に貸す事をし、汝は彼に貸すことを得じ。彼は首となり、汝は尾とならん。この諸の災禍汝に臨み、汝を追い汝に及びて、遂に汝を亡ぼさん。 …汝万の物の豊饒なる中にて心に歓び楽しみて汝の神エホバに仕えざるに因り、汝は飢え渇き、かつ裸になり、万の物に乏しくして、エホバの汝に攻め来らしめ給うところの敵に仕えるに至らん。 …エホバ先に汝等を美しくし、汝等を多くすることを喜びし如く、今はエホバ汝等を滅し絶すことを喜び給わん。 …エホバ地のこの極よりかの極まで汝等を散し給わん。…」

今引用致しましたのは原文の全部ではないのでありまして、殊に後の威嚇と呪詛の部分は前の部分の約五倍に上っており、いま紹介致した程度の内容ではなく、実に最大級最上級の威嚇と呪詛の連続なのであります。即ちもしユダヤ人がヤーヴェの命に叛く時には、凡ゆる不幸と災厄とがその身に及び、遂には滅亡し果てるというのであります。それでこの後の部分に見られるヤーヴェとユダヤ人との関係は、慈愛の深い民族の守護神とその民との関係と見るのには余りにも峻厳なのであります。深く大きい愛は、迷える子供をも時至れば許すだけの度量のあるものと思われますが、ヤーヴェにはその大度(たいど:度量が大きい事)はなく、旧約の外の諸部分にも見られるように、この神は民族神としても偏愛の神であると共に残忍性そのものの具体化のような神であります。しかしユダヤの四千年の歴史の事実を知っております者には、ヤーヴェのこの呪詛と威嚇とはユダヤ人の運命に相当に実現されているように見えるのであります。勿論まだ滅亡とまでは行っておりませんが、その点を除けば、引用文の示す限りに於ては大部分実現しているとさえ見えるのであります。そしてこのヤーヴェの呪詛と威嚇との中に、ユダヤの四千年の歴史を通じてずっと流れていながらも、他の民族には容易に理解の出来ないユダヤ人の二重人格性の発生の地盤があるのではないかと思われるのであります。そのユダヤ人の二重人格性とは、別の言葉で言えば、前に言いました「頭がよい」とか「嘘がうまい」とか言うこともその中に含まれて来るのであります。これをまた別の方面から言いますと、ユダヤ人が幾千年間常に二重の標準を以て万事を処理し、万事に処して来ているのも、その心理的な根拠はここにあるのであります。即ちかのメシヤ思想に基く誇大妄想のユダヤ人自身すらも、自己の四千年の歴史を回顧する時、それが決してヤーヴェの呪詛と威嚇とを全く免れ得るだけのものでないことを承認せざるを得ないので、ここにユダヤ人は神命としての滅亡から自己を救うためには、手段を択(えら)ぶことなく、何等かの間道(かんどう:抜け道)を求めなくてはならないのであります。然も精神的には真の独創がなく、また筋肉労働を神罰の一種として軽蔑し回避する慣習のあるユダヤ人は、かの二重の標準を用いて、かの「嘘」と「頭のよさ」とを以て、神意としての滅亡から自己を救いたいと思うようになったのであります。それ故にユダヤ人のあらゆる行動には、自由意思に基くというよりは、一種の憑かれた人とでも言うべき所が見られるのでありまして、ユダヤ人が世間周知の金儲けその他の場合に普通の人間には理解の出来ないような事を平気でやってのけますのも、この心理状態に基づくのであると思われます。つまりユダヤ人に取っては、普通の人間から見て極悪非道と見えることも、神命としての滅亡から自己を救うために役立つものは正しいのであり、また神命として彼等に課せられているものとも感ぜられるのであります。

 

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