猶太と世界戰爭(新仮名)04

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第一章 猶太魂の本質
二、猶太魂の本質(昭和17年2月)続き

革命と戦争

マルクス主義に論及しましたので、ここではそれに関係のある革命とか戦争とかのことについても引用しておきたいと思います。昔から革命や戦争でユダヤ人が裏面に於て策謀しなかったのはなかったとさえ言われておりますが、実際、程度と意味とは異っていても、何れもユダヤ人の活躍があったようであります。しかもそれがまたヤーヴェの命としてユダヤ人に感ぜられているのですから、その根底の深さが窺われると思います。

「エホバの剣をおさえて血を流さしめざる者は詛わる、」とはエレミヤ記にあるものですが、よく引用致しました申命記にも、「わが箭(矢)をして血に酔わしめ、わが剣をして肉を喰わしめん、」とヤーヴェは言っているのであります。

即ちユダヤ人に取っては、他民族を殺戮すればする程ヤーヴェの意に叶うというのでありますが、それが今迄述べました他民族動物視等の背景を持っているのですから、如何なる兇悪なものであるべきかは容易に理解され得るでありましょう。

 

猶太人の掠奪

しかしユダヤ魂の本質は、タルムードに移りますと、これらの諸問題に関しましても一層明瞭に、赤裸々になって来るのであります。

「非ユダヤ人を掠奪することは許されている。何故ならば、聖書に『汝の隣人より奪うべからず』とあるからである。」

旧約と合わせて考えますと、非ユダヤを掠奪することの許されているのは、それが神命であるからなのですが、この引用で特に注目に値するのは、「聖書に汝の隣人より物を奪うべからずとあるからである」という掠奪許容の理由であります。前にも言いましたように、ユダヤ人に取っては非ユダヤ人は「人」ではなく、従ってまた「隣人」でもないのであります。従って非ユダヤ人に対しては「人間」に対する義理とか責任は成立しないのであります。一般に旧約聖書なるものは、それの書かれた意図通りに、換言すればそれをユダヤ教の経典としてその編纂者ユダヤの解釈に従って読む時には、世界にこれに匹敵する怪文書は皆無であると言っても差支えないと思われるのであります。それを善良な非ユダヤ人はその中の毒をも薬とし、時としてはその無批判のために意識的無意識的に所謂「人為的ユダヤ人」となることは、ルーデンドルフ将軍等の指摘している通りであります。

またタルムードには同じ問題に関して、「非ユダヤ人の財物は主人なき財物に等しい。故にそれは最初に手に入れた者の所有となる」と言い、「拾ったものを非ユダヤ人に返却するのは罪悪である」と言って、非ユダヤ人には所有権を認めないのでありますが、これもかの世界支配を前提とし、非ユダヤ人を動物視するユダヤ人としては当然の態度でありましょう。犬が金を所有するということが我々に理解出来ないのと同様に、ユダヤ人に取っては、非ユダヤ人が物を所有するということは理解が出来ない許りか、神命としてそれを掠奪せねばならないのであります。

「非ユダヤ人の財産を管理するのはユダヤ人の権利である。」

これも前と殆ど同一の信仰の表明でありますが、特に現代に於て興味深いのは、所謂デモクラシー金権諸國やボルシェヴィズム國に於て、これが種々の金融組織によって実現されていることであります。

 

他民族の殺戮

所がこの言葉に続いて、「またユダヤ人は非ユダヤ人を殺戮する権利を有している」と書かれているのであります。ついでに同じようなものをも二、三挙げますと、「邪教徒を自ら手を下して殺害することは許される」とか、「不信者の血を流す者は主に生贄を捧げるのと同じ値のあることをしたのである」ともあるのであります。

これらの引用句の内容は、非ユダヤ人から見ると信じられない程に極悪無道のものでありますが、しかし今まで述べましたことが理解されますならば、恐らく何らの説明なしに理解出来るのではないかと思われます。前にも申しました通り、ユダヤ人は戦争と革命とが大好きな民族であり、また市場の所謂テロとか暗殺とかいうものが極めて多くユダヤ人のやった事であると言われているのを想起致しますと、これらの言葉がよく理解されると存じます。そしていずれもその背景をなすのが宗教的信仰であるということは誠に重大でありまして、ユダヤ教は最も狭量な宗教であると称せられて来ておりますのは、こうした点にもその理由を持っているのであります。一見祭政一致的な体裁を備えながら、正しい八紘為宇の日本的祭政一致との差が如何に大きいかは、この点からだけからも察せられるでありましょう。

かように他民族の殲滅による世界支配の神命は、ユダヤ人に非ユダヤ人殺戮の権利を認めているのでありますが、然もユダヤ聖典はその際に如何なる方針で進むべきかをもまた教えているのであります。

「非ユダヤ人の最上のものを殺戮せよ。」

偶像崇拝者のうち最も律義なる者を屠(ほふ)れ。」

これらがそれでありまして、これを換言すれば、非ユダヤ人の王者とか大政治家とか大有徳者とかを殺せというのでありますが、これは他民族の殲滅を目標とするユダヤ人としては当然でありましょう。ここでユダヤ人の非ユダヤ人に対する態度全般をいま一度別の表現で説明しますと、ユダヤ人なるものは他民族に対して常時戦争状態にある、とも言い得るのであります。そしてそれも既に幾千年以来そうなのであることを我々は銘記しなくてはなりません。従って非ユダヤ人としても、そのユダヤ人に屈服することに甘んじ得ないならば、同じ戦争状態を自覚して対処すべきではありますまいか。後にも触れますが、この点からのみでも甘いセンチメンタリズムに基く同情やユダヤ利用論が文字通りの利敵行為であり、売國的行為であることが判明致すのであります。唯物論清算し切れず、自由主義に未練のある者には、そうした迷夢が大東亜戦下の今なお抜け切らないとは、実に嘆いてもなお余りがあるのであります。それは身命を君國に捧げる皇軍将士への叛逆行為に外ならないからであります。

次に以上述べました幾つかの方面を総括したとも言うべき表現を一つ紹介致しましょう。

「互に愛せよ、掠奪を愛せよ、放縦を愛せよ、そして汝の主人を憎み、決して真理を語る勿れ。」

この場合が誰の物を掠奪するのであり、またその放縦の犠牲となるのが何人であり、その主人が誰であり、真理を何人の前に語らないのかも、最早説明せずし(て)明らかでありましょう。また次のようなものもここで想起されるのであります。

「密告者は如何なる場合に於ても殺害することを許される。」

これは時としてはユダヤ人間にも当て嵌まるのでしょうが、しかし主として非ユダヤ人に対して実行されて来たのでありまして、ユダヤ人の統帥下にあるフリイ・メイスン秘密結社員の場合などには、この事が文字通りに行われて来ているようであります。

「戦争に行く時には先頭に立たず、最後に行け、それは最初に帰還し得んがためなり。」

これもまたなかなかユダヤ魂の本質を知るのには面白いものでありまして、近い例を見ましても、この前の世界大戦のみならず、今度の大戦でも、ユダヤ人は兵籍にあっても極く稀にしか前線へは出ないのであります。例えば日本の甘いインテリをたぶらかすに成功したモーロア[1]の如きがそうでありまして、自己の身の危険があれば昨日迄の祖國を裏切って平気な許りか、暴露文で金儲けさえするのであります。勿論身分の低いユダヤ人のうちには他民族の目を晦(くら)ますために犠牲として戦線へ駆り立てられる者もありますが、現世の事には何事にも例外があるのですから、取り立てて言うには当らないのであります。ここではそうした少数の例外を問題としているのではないのでありまして、ユダヤ魂の本質を象徴的に表明するような例を述べているのであります。

それからまたユダヤ聖典は、ユダヤ人特有の偽装とかカムフラージュについても教えているのでありまして、例えば「時が微笑む者に結びつくべし」と書かれております。時局に便乗してマルクス主義者が國體(国体)論をしたり、大東亜新秩序を臆面もなく呼号しておりますが、ユダヤ的なマルクス宗を信ずるだけでもこれ程にユダヤ的に偽装が巧妙になるのですから、本物のユダヤ人が如何に偽装に巧みであるかは申すまでもないでありましょう。熱狂的なユダヤ教徒であったマルクスマルクス主義を説いたという一事を以てしましても、ユダヤ人の「頭のよさ」と「嘘のうまさ」に基づくカムフラージュの天才的なことは理解出来るのであります。

また次のようなものもあります。

「団体が長を選ぶ時には蛆虫にて一杯になった袋を背負った者を選べ。そして彼が命令に従順でなくなる時には直ちにその背中を見よ、と言え。」

とあるのであります。世間でよく言われて居りますように、ユダヤ人は非ユダヤ人第一線主義を取るのでありますが、この言葉はその場合の方策を表明したものでありまして、ユダヤ支配下の國では、大統領とか首相とか大臣とかには相当にこの種のやり方が実行されているのであります。以前の例ではフランスのブリアン大統領、米國のウィルソン大統領等はその著しい例でありまして、何れも前に婦人関係とかの破廉恥罪があったのだそうであります。現在でもチャーチルは前大戦の時に海軍大臣の職を利用してユダヤ人と共謀して金儲けをした事実があると言われています。恐らくルーズヴェルトも例外ではないと察せられます。スターリンの如きはユダヤ人リトヴィノフと銀行預金の強奪をしたギャングの一味なのであります。

 

猶太経典解釈の融通性

最後にもう一つタルムードから紹介致しておきたいと思いますのは、

「神はモーゼに立法を与え給うたが、それは同一の事を四十九種にも不潔とも清潔とも証明するだけの余裕のあるものとなっている、」という言葉であります。これは前にも論及しました通りにユダヤ人の「頭のよさ」の根拠を示す語でありまして、その「頭のよさ」が「嘘のうまさ」であると言っておきました意味が、このタルムードの語を知る時に実に明瞭となるのであります。即ちユダヤ人は神の与えた律法に対しても、それを文字通りに信仰するというよりは、それに解釈を加えて、同一の事を四十九種にも白とも黒とも言う術を心得ているのでありますから、ユダヤ人があれ程恐れ戦い(おののい)てその命に服しているヤーヴェの律法ならぬものに対して、ユダヤ式の口吻を用いて言いますならば、百種にも二百種にも白とも黒とも言うことをするに違いないのであります。これがユダヤ人の「頭のよさ」の真相でありまして、神に対する真の畏敬と人間に対する真の責任感とを持つ者は到底そうした態度を取り得ない筈でありますが、神をもペテンにかけんとし、非ユダヤ人を動物視するユダヤ人に取っては、以上のような態度は当然なのであります。この点から度々論及しましたユダヤ人の「解釈のうまさ」とか、カムフラージュの巧みさとかも理解が出来るのであります。また高利貸や取引所の仕事に巧みなのも同様でありましょう。

 

あらゆる価値の改価

旧約やタルムードからの引用が大分長くなりましたので、これ位でこれを止めまして、ここに多少総括論を述べさしていただき、時間が許しますならば、かような立場から現下の問題に対して特に心を致すべき点の二三についても申述べて見たいと思うのであります。

独逸の哲学者ニーチェの言葉に「あらゆる価値の改価」というのがありますが、これがユダヤ人に於ては文字通りに行われているのであります。詰りあらゆる価値とか批判とかの標準が人類一般の場合と全く異っているのであります。この事は以上述べました幾つかの場合の例でお分り願えたと存じますが、あらゆることはユダヤ人の手にかかると反対の意味となって来るのであります。この点はユダヤ問題の研究には実に大切であります。

 

悪と否定の原理の具象化としての猶太人

ユダヤ人の特性を説明致しますには種々のやり方があると存じますが、ユダヤ人は悪の権化であり、よこしまなるものの具体化であるとも言えるのであります。従ってユダヤ人が非ユダヤ人を人間に非ずと称しますのは、邪悪の立場を自己のものとする者の見方としては当然なのでありましょう。勿論こう言いましても、我々は決して、ユダヤ人を真似てユダヤ人は人間に非ずと言うのではないのでありまして、ユダヤ人もまた人間であるに相違はないが、しかし人間の中にあって然も人間を人間たらしむるためには当然抑制されねばならないマイナス的な否定的な原理の具体化したものがユダヤ人である、と我々は申したいのであります。では人間の中にあって人間を人間たらしむるためには当然抑制さるべきものとは何であるかと申しますと、それは卑しい本能、即ち利己心、不信、物質欲等がそれなのでありますが、詰りユダヤ人はこれらの本能が具象化したものであると言うことが出来るのであります。

それではこのユダヤ人を駆り立てるヤーヴェとは何であるかと申しますと、これは先にユダヤ人の本性だと申しました邪悪乃至否定の原理が具体化されたものであるという外はなく、言い換えますと、ヤーヴェとは悪と否定の具象化であるユダヤ人がその理想とする所を神格化したものなのであります。従って我々が神として感受致しますものと比較致しますと、ユダヤの神としてのヤーヴェは決して神の名に値しない怪物なのであります。

 

[1]アンドレ・モーロワはフランスの小説家、伝記作者、評論家。本名はエミール・サロモン・ヴィレルム・エルゾグで、ユダヤ系フランス人である。 (ウィキより)

 

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