猶太と世界戰爭(新仮名)01

 

燈照隅より

この本の原典は、昭和13年8月から昭和17年11月にかけて発表されたものでありますので、その発表時期をそれぞれの巻頭に明記しました。

当時の日本、つまり、支那事変がほぼ軍事的に解決したにも拘らず、蒋介石共産党もそれぞれ重慶・延安に落ち延び、秘密裡にそれぞれ米ソから援助を受けて敗北を認めず膠着状態にある中で、日本の情報部は、支那事変の真の敵が誰であるかを次第にはっきりと見極め、また、友邦ドイツからの情報も合わせてその敵の姿を認識しつつも、米國による日本排斥・通好条約破棄などにより次第に欧州で起こった戦争に巻き込まれて行き、遂には真珠湾攻撃から蘭印を占領する過程の中での発表文でありますので、是非、その発表時期の日本の状況をよく理解した上でお読み頂くとなお一層、理解が深まると思います。

(なお、旧字体はほぼ全て新字体に直しましたが、私の勝手な判断にて以下の三文字と「國體=国体」は旧字体のままです。

國=国: 國の本来の字義、國境内の人を武力で守ると言う字義を大切にしたいため

辯=弁、辨=弁:新字体にするとどちらも弁となり、それぞれの字義が曖昧になるため
・辯=語る、言葉巧み、言葉遣い、方言
・辨=わける、わきまえる、処理する

・國體=国体:国民体育大会ではないため)

 

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猶太と世界戦争

汝は汝の神エホバの汝に付し給わんところの民を
ことごとく滅しつくすべし

申命記七・一六―


世界的規模に於て戦われつつある今次の大戦は、果して枢軸國家群対反枢軸國家群の戦争という一事によって全部的に説明され得るであろうか。またそれは、暴慢なるアングロサクソン民族に対する被圧迫民族の戦いという一事によってその真相を尽され得るであろうか。時として説かれる所の東亜新秩序乃至世界新秩序の建設は、単に連合國の打倒とアングロサクソン民族の撃滅とによって達成され得るであろうか。
かつて我々は支那事変の経過中に、我々の真の敵は米英等であることが到る処に於て確認されていながらも、それと明らかに指摘し得ざる種々の事情のために、時として我々の敵愾心の向け方に多少とも迷ったことはなかったであろうか。そしてその敵愾心が、大東亜戦によって初めて真の敵が明示されることによって、一時に天をも衝かん許りに燃え上るのを感じたのではなかったか。
しかしその後時日の経つに連れて、再び我々の心には、大東亜戦の真の敵が単に米英に非ざることを予感しつつありはしないであろうか。これは最近の世界状勢を多少とも達観し得る者には、意識の程度に差こそあれ、必ず感得されつつあるかの如くである。しかしながら、如何なる理由に依ってか、いまだわが國に於てはそれを公然と口にすることが遠慮されつつあるかの感を抱かしめられる。勿論この遠慮が、米英の背後に敵を見ることとは米英を敵として戦いつつある我々の戦争目標を曖昧にするという心配より爲される場合には、一面に於ては尤ものことであって、我々としても決してそれを非議しようとする者ではないが、しかし事実はさように簡単ならざるごとく見えることも否定し得ないのである。日支事変中に真の敵を指示することを遠慮せしめたと同一乃至類似の理由が、或いはこの場合にも存在しているのではないかと思わせられるのである。
然しながら我々はこの序文に於てはこれ以上に論議することを避けるであろ う。本書の全部がかかる疑問に答えるものだからである。当時者が声を嗄らして呼号する対米英敵愾心の如きも、上述の点に関して勇気ある決断が下される時おのずから焔々と燃え上るであろう。その時には、我々の敵が同時に枢軸諸國の敵である許りか、また人類全部の敵である真相も判明するに至るであろうし、また我々の敵が如何に奸悪であり、従ってまた如何に強力であるかが判明する許りか、我々の建設しようとする東亞乃至世界の新秩序の内容と意義もまたおのずから明らかになるであろう。


  × × ×


ここに集められた諸篇はかつて雑誌その他に発表されたものより選択されたのであるので、その性質上多少の重複を来している点もあるが、機会に触れてなされた言説のうちに反って我々の立場の正当性も証されると考えるので、各部の始めに「はしがき」めいたるものを加えるにとどめて、他の部分への加筆は差控えることにした。切に読者の寛恕(かんじょ)を乞う所以である。


昭和十八年七月
    著者識

 

 

 

第一章 猶太魂の本質

かつて「猶太禍の迷妄」を説き、またフリイ・メイスン祕密結社
人道主義的団体なりとして擁護することによつて猶太に忠勤を
励んだ「人爲的猶太人」の一群があつたが、其の伝統は今は、猶
太問題は猶太人に國土又は國家を与えれば解決するという「志願
シオニスト」の一団となっている。二つに共通の非日本的なる傲
岸不遜さは、無知に基づく生兵法の結果とのみ片づけられないエ
ホバ的妖気を帯びており、怪奇なる日猶同祖説とその猶太性に於
ては大差のない陰慘なる背景を感ぜしめる。本第一部はかかる妖
気を退散せしめんがための破邪顕正の筆剣である。

 

一、猶太問題研究の精神史的意義(昭和16年5月)

あらゆる人間的行為に前提があるように、すべての学術にもまた前提がある。十九世紀の欧州に於て「無前提性」を標榜したところの学問も、実際に於ては決して無前提ではなかったのであって、唯物論実証主義こそその前提だったのである。多少逆説的に言うならば「無前提性」の説かれる場合こそ反って強烈な前提が存在しているのである。この意味に於て猶太問題研究にもまた明らかに前提が存在しているのであるが、それが如何なるものであるかはおのずから明瞭になって来ると考えるので、問題の全面的理解のためにはこの前提の問題が極めて重大であるにも拘らず、ここでは直ちに猶太問題そのものの持つ意味を見ることに移り度いと思う。

猶太問題もまた、あらゆる人間界の重大問題と同じく、単なる部分的人生問題ではない。即ち、それは、在来屡々欧州に於ても考えられたような単なる宗教問題ではなく、実に英國宰相ビーコンスフィールド卿こと猶太人ディスレイリも言っているように、先ず第一に民族の問題であり、また猶太人が過去に於ても現在に於ても「國家中の國家」を形成している点に於ては重大なる國家的問題であり、世界の富の七割乃至八割を少数民族として独占しているという意味に於ては注目すべき経済問題であり、更にまた、殆どあらゆる極左的思想の創案者乃至宣伝者であるという関係に於ては由々しき思想問題であり、全体としては國家と民族との存立如何に多大の関係を有する危険なる社会問題である。

猶太問題の全貌がかような広汎なものであるとすれば、それの研究はまた同様に広汎なものとならねばならない。従ってかような研究は、その対象の性質の然らしむる所として、研究者の側に於ける態度決定の如何によって全く相背反した結果をも生ずることは自明であろう。ここに吾々が既に論及しておいた学術の前提が再び問題となって来るのであるが、この場合にも吾々はそれがやがておのずから明瞭になることを信ずるので、先ず現在の世界の諸國に於て猶太問題が如何なる様相を示しているかを端的に述べることにしたいと思う。

何人にも明白な事実は、現在の世界が大体に於て二つのイデオロギー的陣営に分れていることである。これは恐らく世界の常識に属すしていると考えられるが、現在の世界の対立が、二つと言われていて三つと称せられていない点は特に注目に値するのであって、現在の世界の猶太問題の考察に当っても、このことは重要な意味を持って来るのである。この事情を精神史的に言えば、世界の一方にはいまだ十九世紀的唯物思想にその存在の根拠をおいている所謂デモクラシー諸國があり、他方には、それらの諸國からは有名無実の悪評を浴せかけられている二十世紀新興勢力としての所謂ファシズム諸國が対立的に存在しているのである。然るに十九世紀と言えば、フリイ・メイスン秘密結社のモットーである「自由・平等・博愛」を看板として遂行された猶太解放革命としてのフランス革命に始まる世紀であって、その本質は合理主義・個体主義・相対主義・唯物主義等の特質を持つ悪平等思想の支配した時代であるに過ぎず、またその猶太解放は実質的には猶太の世界支配の容認にすぎなかったので、十九世紀は即ち猶太の世界支配の確立の世紀に外ならないとさえ言い得るのである。そしてかのデモクラシーとは、実質は猶太独裁の別名に外ならない。現在のデモクラシー國家なるものは、それが今なおデモクラシー的本質を残存している程度に正比例して、猶太独裁に服しているのである。これに反して所謂ファシズム諸國に於ては、それが全体主義でありまた民族主義である程度に正比例して、猶太独裁は清算されているのである。

然しここに或人は、ボルシェヴィズムのソ連は如何であるかの問題を提出するであろう。然しこれは単にボルシェヴィズムの仇敵がファシズムであった一事のみからも極めて明瞭である通りに、ボルシェヴィズムも自由主義も本質的には何等の相違わないのである。これを近来の著名の語で言えば、自由主義共産主義の温床である、というのである。言葉を変えて言うならば、前者は後者の頽廃的段階たるのである。従って両者は、共同の敵としての新興勢力が台頭する場合には、例えば日支事変に於ける英・米・仏・ソ連の仲のよさが証明して余りあるように、直ちに共同戦線を張るに至るのである。自由主義の地盤としての資本主義も、ボルシェヴィズムの地盤としての共産主義も、共に何れも合理主義であり、相対主義であり、個体主義であり、就中、拝物宗であるからである。これを吾々の当面の問題である猶太問題から見る時には、この二つの國際主義の代表者であり、支持者であり、宣伝者であり、統一者である所のものは、同一の猶太に外ならないのである。ソ連なるものは、その成立より見るも、スターリンを第一線に立たしめて督戦しているカガーノヴィッチ閨閥の支配状況から見るも、米國フリイ・メイスン系金融猶太人の投資の一形式であると言っても決して過言ではないのである。それ故にソ連の真相を掴もうとする者は、時折演出されるその内部に於ける内輪喧嘩を過大に評価して、既に全猶太がソ連を見捨てたと誤信してはならない。パレスチナ系乃至トロツキー第四インター系の猶太人がスターリンに不満であることが万一にも事実であるとしても、米國猶太はその巨額の投資をそう容易に断念し得る筈はないのである。最近カガーノヴィッチ閨閥に異状があったと称せられるが、これが事実ならば或いはソ連の動向にも何等かの根本的変化があるかも知れないが、今それを論ずることは早急に過ぎるであろう。

そしてこれら諸國に於ける猶太問題の扱い方は、それらの國に於て占める猶太勢力の大さに正比例した結果を示している。即ち、かの所謂デモクラシー國家に於ては、それがたとえ全くの禁止を喰うてはいないにもせよ、この問題の特志研究家は身辺にあらゆる意味の迫害を受ける。この事情は、活眼をもってそれら諸國の動静を見るならば、容易に明瞭となるのである。そして國際共産主義國として完全なる猶太独裁下にあるソ連に於ては、猶太問題の論議乃至研究は生命にかけて厳禁されているのである。勿論一般民衆間の反猶主義は極めて根深く、早晩それが爆発点に達することは歴史の論理であるが、しかし一九三六年十一月のフランスの「ル・ジュルナル」誌の報ずる如くにスターリンもまたその母より猶太の血を承けているとすれば、ロシア人のロシアの出現は容易のことではないであろう。

最後に、ファシズム諸國の場合であるが、これらの國に於て猶太問題が、当然かくあるべき処置を受け、また受けつつあることは、今更詳記の要はないであろう。

以上見たように、現代は正に新旧二つのイデオロギーの対立時代であるが、これは単に國家の性格が示しているだけのものではなくて、何れの國家の内部に於てもまたより小規模に於て認められ得る世相である。然して今や世界の重要な一環である所のわが國に於ても、事情は決して例外ではないのであって、全國力を挙げての日支事変下の現在に於ても実に然りなのである。この事実は、一部のお人好しや為にする所のある連中からは否定されるか、或いは黙視乃至看過さるべきであると主張されるのが常であって、「我が國は大和の國である、」等という空疎極りなき僞装的言説さえ叫ばれる事もあるが、これは世界の現状と、歴史の本質と、現在日本の世界的地位とを知らぬ低能者流の寝言であるか、或いは事変中又は事変後の或る時期を待ち設けて策動せんとする人民戦線残党の仕事であるに過ぎない。世界がイデオロギー的に分裂しているのに照応して、悠久幾千年の光輝ある歴史を有する皇國日本もまた今やその内部に同じイデオロギー的対立を蔵しているのである。従って現在の世界に於てボルシェヴィズムを尖端とする自由主義が全くの「反動」であるのに照応して、皇國日本に於てもその系統に属すする思想の信奉者はいずれも反動化している。勿論吾々は、皇國の将来に関してはいささかの不安も感じないものであるが、しかしこれらの反動主義を放置することは、所謂自由主義的「文化」主義者 - 現代の所謂映画に「文化」ありとする程度の ― の場合であろうと、赤化主義的「科学」主義者 ― 十九世紀的唯物論に「科学」ありとする程度の ― の場合であろうと、彼等の持つ猶太戦線性のために幾多の犠牲を生ずることを憂えざるを得ないので、それらの犠牲を最小限に止めるために適切な英断的処置を切に期待する者である。犠牲は既に救出し難く泥沼の深みに陥沒している彼等のみで充分であって、幾多の若人をその道連れとして泥沼に陥沒せしめる必要はないのである。殊に興味深く且つ残念なのは、特に満洲事変以来日本インテリの祖國戦線より猶太戦線への落伍の状況であって、その事変以来の内外の一事件毎に彼等は ― 所謂「日本主義者」の場合もまた例外ではない ― 落第して行ったのである。そしてその最後の大試練が現在の日支事変であって、辛うじて今まで及第して来た者の中にも、「二十世紀入学試験」とも言うべき今度の事変に際しては、遂に落第の憂目を見た者がかなり数えられるのである。此度の欧州戦争がこの事情を促進しつつあることは言う迄もない。然も彼等は、世の落第生に共通の僻みと嫉妬と陰険さとをもって、所謂文化主義と科学主義との華かなりし昔を偲ぶと言う程度の許さるべき回顧のみに満足することが出来ず、國民精神総動員下の間隙に乗じては、皇國をその本来の姿に還そうと身命を賭して努力しつつある精英に対して、彼等が精英であり、また日本的であり、行為的であるとの理由のみからして、事毎にその毒息を吹きかけようとしている。そして國際的に見てデモクラシーとボルシェヴィズムとが「お手々をつないで」を実習して教えている範例に従って、ここ國内に於ても、赤色と桃色とはお手々をつないで、猶太戦線に躍り躍らされているのである。

この猶太戦線の志願戦士と猶太問題との関係は如何であるかというのに、この点に於ても事情は世界の大勢と合致している。即ち、かの所謂桃色文化主義者連はしばしばその怠惰のために、そしてまた多くの場合には彼等の十九世紀的思想のために、換言すれば、その合理主義・個体主義・唯物主義・相対主義のために、本来猶太的傾向を帯びてしまっているので、たとえ日常生活の各瞬間に猶太問題を想起せしめるような事件が続発しても、それには気が付かないのである。そして時たま気のつく者があるとしても、それの批判が直ちに自己の存在の根本への批判となることを感ずるので、時には本能的に、時には意識的に、斯かる問題を取りあげる事の非人道的であることを主張する。そして「自由・平等・博愛」という如き悪平等思想に基づくヒューマニズムが生きた世界には存在しないことさえ知らないのである。この二種の桃色主義者は、猶太が金力によって思うままに支配している世界の通信網と言論機関とが黙殺し隠蔽するところのものはすべて一般に存在しないと思惟し、或いはまた日本人以外の者乃至猶太人ならば、如何に少数者が多数を搾取しようと、虐待しようと、大量殺人をしようと、少しも人道に背反するところはない、と考えるのである。これは実に所謂「先進文明」を取入れるに急であった明治時代の舶来上等イデオロギーの残滓にすぎないのであって、横文字で説かれ、片仮名で書かれてあるものならば、ただもうそれだけで有難いのである。従って彼等は、赤色派となるだけの勇気はないが、しかし人間性から見ても、歴史的に観察しても、その創始者の意図とその利用者の何人種であるかより見るも、決して「科学的」でも「進歩的」でもなく、単に猶太的であるにすぎないマルクス主義に対してさえも批判がなく、マルクスの理論は正しいが、現在の日本の政策と合致しないから自分はそれを取らない、という程度の羨むべき心境にあるのである。殊に顰蹙すべきは、プラトーン、カント、ヘーゲルに重大関心を示しながら、また或者はキリスト教の信者であると誇称しながら、拝物宗の批判さえ不可能な者の場合である。然しこの種の哲学の徒やキリストの徒に取っては、哲学することは単なる頭の遊戯であり、キリスト教徒たることは、自分が高等民族に仲間入りした事を誇示するためであるに過ぎないのであるから、十九世紀的地盤上に最後の流行として栄えたものに対する批判に及び得ないのは当然である。実に彼等は、カントの「タルムード」的解釈を哲学として尊敬したり、旧約聖書新約聖書との差を認識し得ぬ程度の盲目人種に過ぎない。従って彼等は、一方に於てはイデアを現実に生かす道を知らず、猶太民族神としてのエホバと唯一最高神との区別にも思い到らぬのである。然しこの人種の特質は、自己の利益に関係のない事には極めて冷淡であって、國家の安泰の如きは屡々交際上の話の種としての価値さえもないのである。然し事一度自己の利害に関する時には、國を売るだけの勇気はないとしても、友を売り師に背いて何等の良心の苦痛を感ぜず、例外なくエゴツェントリストとなるのである。なお猶太問題を否定する者のうちには、この問題の研究の結果が余りに整然たるの故に信じ得ずとなす者がある。もしこの論者の主張が、現実は深くして単なる合理主義にては解釈し得ない、というのであれば尊敬すべき識見であるが、しかしこの拒否も多くの場合は拒否のための口実に過ぎないのであって、彼等の多くは、自由主義には「自由」があるとか、マルクス神話には「理論」があるとか言って随喜の涙を流す程度の者であるのである。所謂「物のわかる」「頭のよい」彼等にとっては、意識的乃至無意識猶太戦線の一兵士として、その戦線と自己の地盤を搖るがすものは「括弧に入れ」て「判断中止」をするのが得意の手であるのである。

國際場裏のボルシェヴィズムに照応する國内の志願猶太戦線が猶太問題に対してボルシェヴィズム的態度で反応することは、今更説明の要はないであろう。否、この志願兵の群は更に百尺竿頭一歩を進めて、これこそ正真正銘の「タルムード論理」を以て巧に僞装的転向をし、積極的に金儲けに従事するのである。勿論事変下に於ては昔日の如き儲けはないであろうが、然し彼等は僞装の点に於てもまた猶太の先師に学ぶことを忘れず、今なお相変わらず相当の金儲けに従事している如く見受けられる。そしてボルシェヴィズムとデモクラシーの馴れ合いの模範は、その縮図としてこの場合にも繰り返されていることは言う迄もない事であって、桃色主義者が一歩前進し、赤色主義者が一歩後退した現代に於ては、舞台を世界に取ろうと、或一國に取ろうと、両者の間には既に本来の同一性が実証されている。

事変下の現在に於て日本的日本人の最も関心すべきことは、これらの憎むべくまた憐むべき猶太的國籍喪失者がその無恥にして巧妙なる僞装の下に暗躍し、直接又は間接に猶太の世界支配を助長するであろうことに対して、祖國日本の悠久の生命のために対策を講ずることである。(一六・五)

 

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