猶太と世界戰爭(新仮名)23

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第二章 猶太と世界戦争(続き)

六、日猶抗争としての日支事変(昭和13年8月5日)

 一

猶太問題を知るために猶太人を知る必要のあることは言う迄もないことであろう。しかし、その猶太人を知るためには何よりも先ず猶太教聖典「タルムード」を知る必要のあることは、猶太問題に多少の興味を持っている人も、なお十分に認識しているとは言い難いようである。現代の如くに宗教心の衰えている時代に於ては、或る民族の宗教聖典は、その民族の特性を知る十分なる材料とはなり得ないかも知れない。しかし皮肉なことには、宗教排撃の急先鋒である猶太人こそは最も宗教的信仰の強烈な民族であって、かの反宗教運動の正体なるものも、その主張の元祖としてのマルクスが熱心な猶太教徒であった ―表面上には政略的改宗をしていたにも拘らず― という象徴的な場合が証明して余りあるように、猶太教以外の宗教の排撃に外ならなかったのである。この事は、現在のロシアに於て、猶太教とその教会堂とが革命前と殆ど同様に保存され助長されている、という驚くべき事実に依ってもまた証明される。それ故に他の民族の場合はとにかくとするにしても、少なくとも猶太民族の場合には、その宗教聖典は猶太魂の最も良き鏡であるのである。或る民族の特性はその宗教乃至宗教聖典に於て最もよく窺われる、という言葉は、猶太民族の場合には文字通りに妥当するのである。

しかし猶太聖典「タルムード」は、所謂「トーラ」の解釈とその再解釈とより成立しているのであるから、猶太民族の真の姿を把握するためには、先ず「トーラ」そのものに就かねばならない。そして「トーラ」とは、旧約聖書の最初の五巻を言うのであって、これが猶太教の真の根本聖典なのである。勿論猶太民族を知るためには、「トーラ」と「タルムード」の外に、旧約聖書の残余の部分及び新約聖書、なお古くはマイモニデス[1] の著作、新しくは「シュルハン・アルフ」(「タルムード」の抜萃並に解釈より成る)、更に新しくは、所謂「シオンの議定書」と称せられる怪文書等をも知ることが絶対的に必要であるが、しかしこれらが総て「トーラ」乃至「タルムード」の解釈、抜萃又は延長であることを考えるならば、「トーラ」と「タルムード」を知ることのみでも大体に於て目的が達せられることがわかるのである。併し我々は、この小論では、この問題のみを論じようとしているのではないから、ここでは「トーラ」及び「タルムード」を中心として、最も根本的であると思われる幾つかの点に関して記述し、以下の考察の序論としたいと思う。

[1]ラビ・モーシェ・ベン=マイモーン(Mayimōn Moses Maimonides:1135.03.30~1204.12.13)は、スペインのユダヤ教ラビで、哲学者。医学・天文学・神学にも精通していた。アリストテレス主義者、新プラトン主義者。ルネサンスヒューマニズムの先駆者と評価される。

 

そもそも宗教乃至宗教聖典に於て最も重要な点は、その神観と人間観とにあることは言う迄もないであろう。宗教とは、その根本を神と人間との関係の問題に持っているものだからである。それ故に我々は、「トーラ」からは猶太人の神観を、「タルムード」からはその人間観を見ることにしよう。さて「トーラ」に依れば、猶太の神エホバは、一言にして言えば猶太の民族神であって、例えば新約聖書に於てキリストの説いている如き普遍唯一の宇宙神ではない。従ってその神は、人間的な過誤を犯し、心変りをし、不公正であり、復讐心が強く、残忍であるが、その神が一個の民族神に過ぎないことは、この神が猶太民族に世界支配を約している点に特に明瞭に見られるのである。

「汝は汝の神エホバの汝に付したまわんところの民をことごとく滅し盡すべし、彼等を憫(あわれ)み見るべからず。また彼等の神に事えるべからず、その事汝の罠となればなり。」(申命記七・一六)

「エホバは彼等(異邦人)の王等を汝の手に付したまわん。汝かれらの名を天が下より除き去るべし。汝には抗することを得る者なくして、汝ついに彼等を滅しつくすに至らん。」(申命記七・二四)

我々はいまはこれ以上に「トーラ」より引用することを避けるであろう。しかし以上のみをもっても言い得ることは、斯くの如き神は一個の民族神としても決して高等なる種類のものでないということである。もし我々をして端的に言わしむるならば、エホバとは即ち一種の妖怪乃至悪魔に過ぎないのである。そしてこの妖怪乃至悪魔は、その残忍性を発揮して、異邦人の神を排撃し、非猶太人の王を廃止し、異民族のすべてを滅亡せしめようとするのである。ここに於て我々が思わずも想起するのは、赤色主義者の宗教排撃と君主制乃至王政転覆の運動であって、この種の運動が古来猶太人によって指導されて来た事実を知る者は、共産主義者乃至革命主義者なるものが猶太的伝統の忠実なる遵守者であることをも容易に知ることができるのである。然も同一の事は、猶太人をその主体とする國際資本主義に関しても言われ得るのであって、猶太資本國の独裁する所謂デモクラシーなるものも全く同一精神のものであることは、今更説明の要はないであろう。そして以上の猶太神観から得られた認識は、猶太人の人間観を知るに至るとき、一層の確証を得るのである。

では猶太民族の人間観は如何なるものであるか。「トーラ」に描かれたる所に依れば、猶太人そのものは既に物質主義であり、虚言と詐欺と窃盗とに長じ、性的には無恥で、奸策と詭計とにすぐれ、従って非社会的であり、また復讐心強く、残忍性に於ては無比である。然も最も注意すべき点は「タルムード」(及びその解釈の書としての「シュルハン・アルフ」等)に見られる次の人間観乃至非猶太人観である。

「猶太人のみが人間と呼ばれるのであって、非猶太人は人間とは呼ばれず、動物と呼ばれる。」

猶太民族から見れば、猶太人のみが人間であって、非猶太人は豚であり、馬であり、動物であり、時としては動物以下のもの(例えば糞尿)であるとさえ言われるのである。従って猶太人と非猶太人との間には人間と人間との間に成立する総ての関係は成立しない、という結論が生れるのも不思議はないであろう。この人間観から「トーラ」に描かれている前述の如き猶太人の諸特質は生れて来るのであって、非猶太人には所有権はなく、猶太人は非猶太人に対しては誓約を守る義務はないというのである。従って非猶太人の所有物は当然猶太人のものである許りか、非猶太人のものは元来猶太人のものであるから、如何なる手段によってもそれを奪取することは、神慮を行うものであり、なお一層進んでは、溺(おぼ)れつつある非猶太人を救う義務はないのみか、寧ろ彼の溺死を助力することこそ神慮に叶うというのである。非猶太女の貞操を蹂躙する位のことが朝飯前のことであるのは、以上述べた事から容易に察せられるであろう。

以上の略述によっても、猶太民族が元来如何なる特性を持っているかは大体に於て理解が出来るであろう。そしてこれは、モーゼに率いられてエジプトを去った群衆が犯罪者と天刑病者であったという昔の史家の説や、猶太民族が有史以来漂浪して行く処に於ては唯一の例外もなく所謂排猶問題を惹起せざるを得なかったという事実を充分に説明するものではないかと、我々は考える。猶太人が排猶者を排斥する為に常に宣伝する「人種的偏見」乃至「少数民族の虐待」などは、事実に於ては全くその逆であることが歴史の事実の証明する所であって、如何なる民族の如何なる宗教聖典に於ても「トーラ」乃至「タルムード」に見られる程の「人種的偏見」と「少数民族による多数民族の虐待」の例はないのである。排猶とは、人間のイデーを二重の意味に於て救わんがために、キリストの語を借りて言えば、「剣を出す」所の聖業であるのである。即ち一つには、猶太人に依って抹殺された非猶太人の人間たる資格を回復し、今一つには、妖怪乃至悪魔を神として戴くことの迷妄から猶太人そのものを救わんがためである。併しこの聖業に際しては、相手が上述の神観と人間観とを持った特殊民族であることを十分に考慮して、非猶太人の心理で事に当ってはならない。勿論我々と雖も、猶太人もまた結局人間であることを否定するものではないが、然し上述の如き猶太人がその本来の人間に復帰する迄には、恐らく猶太の過去の歴史四千幾百年に相当する年数が今後必要であるのではないかと考える。そしてその条件としては、彼等がすべての猶太教会を破棄し、「トーラ」と「タルムード」とをすべて焼却することが絶対的のものでなくてはならない。要するに、猶太の歴史を構成すると言っても差支えない「虚言・詐欺・謀反・暗殺」が、「トーラ」及び「タルムード」に見られる神観と人間観とにその根柢を持っていることを知ることが、猶太問題研究の最も基本的な要諦である。

併しこの小論の目標は、日猶抗争としての日支事変であって、猶太民族そのものに関する評論ではない。しかしそれにも拘らず我々が上述の論をなしたのは、日支事変の真の意味を明らかにすることは、猶太民族の本質とその根本意欲とを明らかにする所なしには不可能だからである。防共をその最も神聖なる意義の一つとする日支事変は、屡々ラジオ等に於て報ぜられる通りに國民党と支那共産党との抗争が事実であるのみか、深刻でさえあるとすれば、我々としてはその重要目標の幾分かを失うことになるであろう。即ち共産党と抗争する蒋(蒋介石)政権は、たとえ排日侮日抗日の非道を犯したとは言え、この防共の一点では、今や我々と同一の線上に立つことになるので、この蒋政権を「相手とせず」と主張する*のは、少くとも蒋政権の防共的側面を無視することにもなると考えられるからである。無批判になされるラジオ等の斯かる通信放送は、それを是正することなく、その儘許しておいて可であろうか。殊に万一にも今後益々蒋政権と支那共産党との軋轢(あつれき)が甚しくなるか、或いは蒋政権及びモスクワが猶太的に共謀してこの種の有名無実の軋轢を捏造して宣伝放送する時、日猶の抗争としての日支事変の真相を達観しえない者は、その日本人たると外國人たるとを問わず、今度の聖戦の意義に関する確信に動揺を来すことが無いであろうか。この悪質の宣伝放送によって日独伊の防共陣営に揺ぎが来ようとは思われないが、しかし世界の大衆は、國内に於ても國外に於ても、常にかかる確信に生きる者のみであるとは限らないのである。また國外は言うに及ばず國内に於てさえも、猶太の宣伝ならば何事もそれを真と信じ、猶太戦線に躍ることを真理に忠実なる者と考える程のセンチメンタリストがいないとは限らないのである。

*昭和13年(1938年)1月16日の近衛声明『帝國政府ハ爾後國民政府ヲ対手トセズ』を指す

それ故に精神総動員下における再急務の一つは、日支事変の持つ日猶抗争としての意味を一般に徹底せしめる事である。猶太人が日本の雑貨を世界に売捌いて呉れるという如き枝葉末節の唯物主義的言説や、日露役に於ける猶太の資金融通を忘れてはならないという如き無暗と恩を着たがる性癖は、それ自身としては正しい要素を含んでいるかも知れないが、しかしそれらの事柄が事実に於ては我々が乗ぜられ、利用されていることを示すに過ぎないということは、猶太の歴史を多少とも知る者には自明のことであって、非猶太人の心情をもって推察したこの種の甘い言説こそは猶太民族に取っては最も好都合のものであり、従って猶太人は非猶太人のお人好しから出て来るこの種の言説を当てにして、古来その世界政策を遂行して来たのである。ともすれば日本主義雑誌にさえもこの種の新説ならぬ珍説、名論ならぬ迷論が見られるので、聖戦の最後的勝利の確保のためには、この種のお人好しの無批判論説を先ず無くすることを忘れてはならない。殊にかかるセンチメンタリズムの結果として、ナチス独逸の事業をして真に永久的価値を獲得せしめている重要要素としての所謂排猶 ―その意義は前節に於て論及した通りである― を邪念をもって眺め、時としてはそれを過激なる暴政と見做すに至っては、その人が単にマルクス主義の思想的批判の無能力者たることを証する許りでなく、マルクス主義と所謂ファッショとの区別さえも出来ない程度の思想的未熟者であることを証明するので、防共を聖業の一端とする今事変下に於ては、これにまさる痛恨事は少ないのである。万一にもこの種の人々が今なお日本にありとすれば、彼等こそ最も猶太が頼みとする徒党であって、所謂國内における猶太戦線のうち、彼等こそ最も無害らしく見えながらも最も有害なる容共派であるのである。正面より排日侮日抗日の勢を見せる容共派はこれを防ぐことも容易であろうが、容猶排ナチスの形式で押し寄せる容共派は、ともすればその巧みな迷彩のために世人が欺かれるからである。殊にこれは、容猶排ナチス主義の当人が、自己の容共主義に無意識である時には一層大きい害毒を齎(もたら)すのである。

然らば、日支事変の真義が日猶の抗争であることは、如何にして証明され得るであろうか。これに対しては、現在の世界が政治的にも経済的にも思想的にも極めて複雑であるのに照応して、極めて複雑した方面から回答がなされ得るのであるが、この小論に於てはそれをあらゆる角度から論ずることは不可能であるので、我々の視野に入って来る限りに於ける最も重要なる事項を選んで論ずることにしたいと思う。

先ず最も注目すべき最近の事項の一つは、猶太人トロツキーの日支事変に関する予言(?)である。それに依れば、日支事変は、日本のあらゆる戦略上の勝利にも拘らず、結局は日本の敗北を以て終るであろう、というのである。この予言は、共産主義者トロツキーが猶太人であることを知る人には、それが猶太人の見解又は希望であることが直ちに看取され得るので、別に大した意義のないものであることが判明するのであるが、しかし彼の予言は、以上に続けて、英國は印度を失うに至るであろう、と言っているので、ここに一段とその意義を増して来るのである。では猶太共産主義者トロツキーは何故に日支事変と関連させて、或いは日支事変に関連する予言と同時に、英領印度のことに言及したのであろうか。殊に現在に於ては、英國もまた仏・米・チェコと同じく所謂デモクラシーの國として完全なる猶太の独裁下にあることを考慮する時に、日本と共に英國が問題にされるということは、大きな矛盾ではないであろうか。殊にトロツキーは、現在では第四インター頭目であるから、たとえ第三インターが最近に英國に対して攻勢に出ることを決議し、例えば猶太人少佐の率いる労働党等をお先棒として策動しているとしても、トロツキー英國に関する言説は、少なくともこの連絡に於ては不合理ではないであろうか。併しここに想起しなくてはならないのは「トーラ」の神観に関する我々の前説の記述であって、猶太人は、彼が國際資本閥に属しようと、第三インターに属しようと、他民族の神と君主とを排撃してそれを破滅に導くことが問題となる限りに於ては、皆直ちに一致するのである。この観点から見るとき、現在の米國乃至チェコは猶太人を大統領とし、仏も先には生粋の猶太人(ブルム)を首相としたのみならず、今また猶太女を妻とする者(ダラジエ)を首相としており、ソ連もまたこの点では同一(スターリン)であるのに反して、英帝國は、それが事実上猶太独裁下にあるとは言え、形式的にはその元首はなお猶太人とはなっていないのであるが、これが、猶太民族から見て、「トーラ」に示されている神慮に叛くことは言う迄もないであろう。殊に猶太の有力なる代辯者であったフリイ・メイスン秘密結社員イーデン外相を退けた英現内閣に対しては、猶太の不満は各陣営を通じて大なるものがあることは察するに難くないのである。これらの点が、万國に比類なき日本國體(国体)に対する猶太の深く激しい呪詛の表明のついでに英國をも並べて論ぜしめるに至った最大の理由であろう。

ここで我々は当然猶太の血を享ける亡命ソ連大将リュシコフ問題にも触れなくてはならないが、先ず我々は、日本の聡明なる新聞記者連が彼との会見に於て最も重大なる二点を充分に明らかにする労を取らなかったことに対する遺憾の意を表明したいと思う。即ちその第一は、大将がソ連を脱出した今日に於てもなおボルシェヴィズムの信者であるか否か、ということであり、その第二は、大将と第四インターとの関係如何である。「嘘と詐欺と謀叛と暗殺」との國ソ連に関して同じく「嘘と詐欺と謀叛と暗殺」とをその歴史の本質とする猶太民族に属する一人が言うことは、その人が例外的に善良なる個人である場合にも、なお我々としては軽々しく直ちに文字通りには信ずることは出来ない。殊に大将と第四インター乃至トロツキーとの関係が明白にされない限りは、大将のソ連の内情に関して暴露する所も、その儘信じる訳には行かないのは当然であろう。特に我々猶太問題に注目して来た者に取っては、大将がカガノーヴィッチ閨閥の独裁的地位に関して語らなかったことが大きな謎として残るのである。以前に識者の間ではトロツキーとゲー・ペー・ウーとは連絡を持っていると信ぜられていたが、この説が最近の粛清工作の遂行の示す所によって或程度まで真実であることが証明されたように見えるにも拘らず、今や猶太人 ―少なくともパレスチナ共産党― はトロツキーに味方して、スターリンを見捨てたという噂に対しては、いま直ちに全幅の信頼をおく事は出来ないのである。その理由は、ソ連をも含めての「持てる國」としての侵略國の旦那衆は、多少の暇があれば互に「私刑」に陥るのは、その唯物論当然の帰結であるからである。

併し我々は、いま國内に亡命中の大将の件に関しては、上述の諸疑問が明らかにされる迄は論じないことにして、ここでは筆を転じて、近来行われた猶太諸会議のうち、特に注目すべき二つを取りあげて、日支事変が日猶事変であることを明らかにすることに進みたいと思う。

 

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