猶太と世界戰爭(新仮名)17

f:id:caritaspes:20200623035150p:plain

 

第二章 猶太と世界戦争(続き)

三、今次世界戦争の性格(昭和16年8月10日)

それがこの形に於てこの時期に来ることを阻止せんとして少数の憂國の士が声を嗄(か)らして叫び続けて来たにも拘らず、遂に来るべきものが来たのである。或る世界的なる秘密力の計画通りに、それが久しく予定していた年に予定の世界大戦が予定の方向に向って進行しつつある。しかしそれは、恐らくは少なくとも二度は防止し得たと考えられるし、またそれが結局世界史的必然であるとしても、少なくともその時期の点ではかの秘密力の予定通りに運ぶことを阻止され得たと考えられる。しかし我々は、いまここにそれを詳述している暇はない。また徒(いたず)らに死屍(しし)に鞭つにも忍びないにも拘らず、なお多少意のある所を述べてみたいと思うのは、なお来るべき日にも、現在の情勢の儘にて進むならば、同じ過誤を繰返し、また同じ無意義の戸惑い*を繰返すことを恐れざるを得ないからに外ならない。

*当時、独ソ不可侵条約は、日本に以下の深刻な事態を生んだ。ここで言う「戸惑い」とはそれを指す。
(ウィキより)かつて日独防共協定を結び、さらにドイツと同盟交渉中であった日本の政界が受けた衝撃は甚大であった。当時日本はソ連およびモンゴル人民共和国との国境紛争・ノモンハン事件(1939年5月11日~9月15日)の最中であった。8月25日に、平沼内閣は日独同盟の締結交渉中止を閣議決定した。8月28日には平沼騏一郎首相が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」ために同盟交渉を打ち切ると声明し、責任をとって総辞職した。

 

 既に我々によって幾度か指摘されたように、エホバの数十五を形成する今年一九四一年こそは、かの秘密力に取ってはその世界制覇の年である。もしこの年を逸するならば、一九五〇年迄は機会がないのである。勿論一九四一年に失敗すれば一九五〇年を待つであろうが、然しこの年を無為に終ることは、秘密力としては、旧約聖書申命記二十八章にエホバによって示されて居る通りに、秘密力そのものがエホバによって亡ぼされる事になるかも知れないのである。有史以来エホバのこの命に恐れ戦き続けて来たかの秘密力は、最近事毎に自己のものの如く、今年を期して今や懸命に自己をエホバの罰より救わんとしつつあるのである。

かく言うとき、かかる迷信深い秘密力がいまだに地上に存在することを恐らく人は疑わざるを得ないであろうが、これは旧約聖書とタルムードを活眼を以て読む者には一点の疑をさしはさむ余地の無い事実である。

然らば我々はこの秘密力の努力をいま何と命名すべきであろうか。これに対して最も明瞭なる表現を用いるとすれば、猶太の人類他民族殲滅戦と言うべきであろう。これを我々は在来猶太の世界制覇運動とか、世界征略戦とか言って来ているのであるが、最近の緊迫した情勢に於ては、今次の猶太の計画した世界大戦はその人類殲滅戦の名をもって呼ぶとき最もその正当な称呼となるのである。

従って今なお近視眼者流の言う如き欧州戦争と独立した独ソ戦争はないし、また欧州戦争又は独ソ戦争と独立した日支事変もないのであって、これ等はその勃発の当時より、既に我々の指摘して来た通りに、一個の世界戦争の部分的事件であり、今一度別の表現を用いるならば、かの一九四一年を目指す猶太の世界殲滅戦中の一幕又は一場なのである。

かくて現在の世界には、多少とも世界の真の情勢と世界史の必然的運行とに理解を有する者に取っては、かの「複雑怪奇」などという漢語の成句に相応する現象はないのである。また世界史的な事件の起こる毎に戸惑い*して、敵も味方も見分け難くなり、世界情勢の変転極まりなきことのみを強調するのは、誠に無定見、無節操、無道義の井蛙(せいあ:井の中のかわず)の見の持主であるに過ぎない。田に耕す匹夫(ひっぷ:身分の低い人間)と雖も、日本人なる限りは、現在では今少しく世界情勢に通じ、所謂腹も出来ているのである。実に現在の世界には、或いは複雑さはあっても、「怪奇」なるものはないのである。怪奇ならぬものを怪奇とすることこそ怪奇であって、ここにこそ現代日本の行詰りの総原因がある。

 

然しこれらの点については、我々の在来の主張に理解のある読者にはこれ以上の説明なくして明らかであると考えられるので、ここに本節の冒頭に論及した回顧に移ろうと思う。

かつて我々は、日支事件が日猶事件たることを既に事変後一年にして明らかにしたのであるが、その中で既に防共協定が防猶協定であることを自覚しない限り、それが空念仏に終るべきことに論及しておいたのである。次には同じ観点より既に十三年秋に日独伊の軍事同盟を要請したのであったが、近世日本史上の最大〇〇の歴史の一つとしての××××××より約半年先行するのである。

今にして思えば、かの時かの×××軍事同盟の件が内外の不可思議なる力の活躍によって流産しなかったとすれば、換言すれば防共協定が防猶であることを責任ある地位の者が自覚したならば、従って防共協定が単に対コミンテルン又は対ソのものでないことを自覚するだけの明識を持っていたとすれば、所謂欧州戦争はかの時期には起こることはなかったであろうし、また独ソ不可侵条約も勿論あり得なかったのである。

しかし一度独ソ不可侵条約となり、欧州戦となった以上は、もし防共協定で防猶協定であることに徹していたとすれば、その場合に取るべき策は寸刻も不明となる筈はなかったのである。不可思議なる力の策謀にひきずられた事こそ「怪奇」なのである。この点を暗示しようとして、我々はかつて「複雑怪奇と不介入」なる短文を草し、その中に於て、当時に於てかの秘密力の正体が認識されたとすれば、そしてまた日独共同しての真剣の努力が重ねられたとしたならば、恐らくは戦わずしてソ連を改造し、ソ連をしてロシヤ人のロシヤたらしめ、其処に政権を独占する猶太をして不戦敗に終らし得たかもしれないことに論及したのであった。しかしこの点の日独了解は成立せず、猶太秘密力の英米を使嗾(しそう:指図して仕向けること)しての画策は、遂にソ連内部に於ても一時揺ぎを示した猶太勢力をして勢力を回復せしめ、ここに独ソ戦争となったのである。換言すれば、独ソ不可侵条約全体主義独逸の共産主義ロシヤに対する思想戦の不戦勝であり、日本の援助によって確立さるべき運命のものであったのである。

かく論じて来る時、現在の世界に於てわが國の一挙手一投足が如何に重大な意義を持つかが明瞭であろう。しかしながら、惜しむらくは、その我國に現在の世界を動している猶太秘密力(その機関としてフリイ・メイスン秘密結社等を含むことは言う迄もない)に対する認識が欠けているために、枢軸側に依る世界新秩序の建設は、その途上の大事件毎に最後の瞬間に於て猶太秘密力のために側道へ外れさせられてしまうのである。既に猶太としてはかつて我々が「世界大戦へと駆り立てるもの」に於て触れた通り、今次世界大戦は幾多の点に於て失敗に帰している。そしてそれが特に独伊に於ける猶太認識の結果であることは言う迄もないことである。この理由によって、我々は「前世界大戦に於ける敗戦独逸の場合」なる短文を物して、我々の時代に処する参考としたのである。

前述の通り、今はただ回顧のみに耽るべき時ではない。今は将来を見るべき時である。然しながら我々は、永遠の平和とか世界最終戦論などという如き偽装唯物論を弄している程に呑気ではないし、またかかる空言を弄(ろう)することによってかの秘密力に意識的にも無意識的にも協力するほどに猶太化してもいない。我々はいま我々の足下に迫っている世界の現在の情勢について、我々が今まで見続けて来た観点よりの展望を展開しなくてはならないのである。未来を説くことが総て空想であると称せられるならば、我々は空想の名も甘んじて受けるであろう。しかし生ける生は未来を含まぬものはないのである。政治も軍略も、生ける人間の世界のことはすべて然りである。

いま世界の視聴を集めているのは、何と言っても所謂独ソ戦争であるが、これはかの猶太秘密力の人類殲滅戦に於て如何なる位置を占めるものであろうか。ここに我々は歴史の論理を示すために仮に戯曲の構造を借りて説明するならば、独ソ戦争は今次世界戦争の第二幕を占めるものと言われるべきであろう。第一幕は勿論東の日支事変、西の欧州戦争であって、スペイン内乱チェコ事変等は勿論第一幕以前の序曲であるに過ぎない。

然らばその第三幕は何であるかと言うに、これは猶太秘密力の予定では、日米戦ではないかと考えられる。然してそれに続く第四幕は枢軸対英米ソ支等の文字通りの世界戦であり、第五幕はその決戦であって、猶太の人類殲滅戦はここにその頂点に到達する。そしてこれらの諸幕の何処までがエホバの年一九四一年たる今年中に来るべきであるかは、今は正確に予言することは避けたいと考えるが、猶太の信念に当って、然も天界に異状のある筈の今秋初めが最も注意すべき時期ではないかと考えられる。

有史以来エホバの命に依って他民族の殲滅を宗教的信仰として来た猶太人は、最近事毎に志のたがう(異なる)のを見て、今度の世界戦争にては一挙にしてその頽勢(たいせい:劣勢)を回復したいと考えているのであるから、その殲滅戦の激烈さは恐らく有史以来のものであり、人の想像を超えるものでないかと考えられる。殊に欧州方面に於ては前に我々が屡々論及した通りに、ニーチェの預言が実現して、猶太が欧州を去るべき日が来つつあるのを自覚したかにも見える猶太は、それだけその活路を東洋に求めようとしているかに見える。ここに最近の東洋情勢の真の原因があるのであって、猶太に取っては、英國そのものが大切に非ず、ソ連そのものが可愛いいのではなくて、自己の世界征略の手段になるものは何にても利用するに過ぎないのである。例えば本國を失ったオランダが蘭印に於て我國に反抗しているのは、オランダ本國よりは蘭印の方が猶太に取って重要であることを証しているのである。最近にも独英の妥協がまことしやかに流布されているが、これは英に於ける猶太陣営の揺らいだ場合か或いは揺らぐ見込のある場合以外には絶対にあり得ないことである。この点の事情を知らぬならば、或いはまたかの独ソ不可侵条約当時の如き戸惑いが来るかもしれない。しかし現在のチャーチル、イーデン、ダフ・クーパー等の猶太支配内閣の存続する限り、独英の妥協はあり得ないのである。また猶太としては、たとえ英本國を失うとも、その自治領又は植民地が従来の如く猶太支配下にある時は、決して独英の妥協はあり得ないであろう。そしてもしそれがあり得るとすれば、それは東洋乃至日本攻略のための猶太側より命ずる英ソの屈辱的な屈服の場合であるが、これを防止するためには何時までも我々に於て功利主義に立つことなく、真の道義と武士道との精神によって「志を同じくするもの」と協力し、裏面に於て常に秘密力と内応した ―たとえ多くの場合に無意識であろうとも― 過去の汚辱を再び犯さざる決心を要するのである。

現在の猶太秘密力に依る日本包囲を指して、秘密力の代辯者であるハル長官は、それは日本のせいである、と言っている。然り、正にその通りであって、日本の存在は、秘密力に取っては目の上の瘤(こぶ)である。その世界征服の完成の一歩手前に於てそれを妨げるものが東洋に於ては常に日本であるからである。それ故に猶太は、この日本討滅のために米國人をして戦場の露と消える覚悟をなさしめるために、あらゆる宣伝に憂身(うきみ)をやつしているが、現在の太平洋の彼岸に於ける狂躁曲の真相である。この度の英米二カ國の政治責任者の行方をくらましてのランデヴーもまたその曲の一節であるに過ぎない**。それ故に、西に於て独猶の決死の争闘が必然である如く、東に於ては日猶のそれが必然である。そしてそれは、米國人が猶太のために身を犠牲にする決心をするだけに宣伝に躍り、また軍備が量的に日本の幾倍かになる時を待っているに過ぎない。そしてその時が何時であるかは、我々素人には明らかではないが、そう遠いことでないことは我々の在来の記述で明らかであろう。

**恐らく、大西洋憲章調印の爲に1941年8月9日から12日に行われた大西洋会談を指すと思われる

 

かくて残る所は、この不可避の運命に如何に処するかである。或いは場合によっては、不戦勝ということも双方の側に於てあり得ることであろう。然しながらそれは、より適切なる時の猶太秘密力の日本攻撃を予想したものであることを忘れてはならない。幾千年間人類全体に対して常時戦争状態にある猶太は、文字通りの世界制覇の日迄は、戦略的休戦以外には、エホバより他民族との和平を許されていないからである。

ここまで論じ来って、この筆は最早先へ動くことを肯(がえ)んじない(許さない)のである。坐視していることそのことが大苦痛であり、大罪悪である如き感のすることさえあるが、しかし今は忍ぶ外に道はないのである。ただ我々は祖國日本の悠久の生命を確信しつつ、しかも来るべき幾年間の大苦難に当って天佑神助のあらんことを祈念して、この短い展望を終わりたいと思う。(一六・八・一〇)

 

⇒猶太と世界戰爭(新仮名)18 ⇐猶太と世界戰爭(新仮名)16