猶太と世界戰爭(新仮名)19

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第二章 猶太と世界戦争(続き)

五、日本と猶太(昭和13年11月23日)

日支事変が単なる日支事変でないことは世人の常識であって、蒋政権の背後が英米であり、ソ連であり、フランスであるとする考え方は、ほぼ世界の常識となっている。そしてこの事は一応は真実であって、我々もまた決してそれに反対するものではないが、しかし蒋政権の真の背景がこれらの諸國そのものではなくて、これらの諸國に支配的勢力を持っている國際的秘密力であることに思い及ばない時に、日支事変そのものの真相が充分に明らかになり得ないことを我々は主張したいのである。蒋政権を援助しているのは、表面的には英米であり、ソ連であり、フランスであるが、事実に於てそれはこれらの國に國籍を有している猶太民族に外ならないのである。

この猶太は、日支事変に於ては、英・米系財閥として現われ、ソ連共産党として登場し、フランス系フリイ・メイスン秘密結社として姿を見せているのである。そして特に注目すべきことは、これら三種の猶太政策の機関が、日支事変に関する場合にはそれぞれ國別に属しているように見えるにも拘らず、何れも國際的性質のものであることであって、英・米系猶太財閥と言えば既にその中に仏ソ等のそれを含み、フランス系フリイ・メイスン結社と言えば既にその中に英米ソ等のものを含み、ソ連系猶太共産主義と言えば既にその中に仏英米のそれを含んでいるのである。かくて日支事変とは、結局上述の如き内容を有する日猶事変に外ならないのである。

然し或人は、我々のこの説明に疑問を抱き、地底組織としてのフリイ・メイスン結社のことは問題外とするも、國際財団と國際共産主義とが同一秘密力の下に統一されているということは不可能であろうと主張するかも知れない。勿論、これらの三つの國際力は、必ずしもあらゆる時代に、あらゆる場所に於て、あらゆる問題に関して一致して来たものでないことは言う迄もないが、しかし団結心の強い猶太民族は、その世界支配を完成するためには手段の如何を選ばないのが常であって、共同の外敵のない限り内部に於ても文字通りに血で血を洗う闘争をも厭わないが、一度外敵が現れる時には、自己の陣営内のあらゆる相違を捨てて一致するのである。そしてこれは猶太の歴史を多少とも知る者には自明の事であるが、なおこの点に関しては節を改めて記述することにして、ここでは猶太的世界政策機関の國際性の謎を解くものとしてこの民族そのものの國際性に関して、その歴史的根源と模範的実例とを挙げることにしたいと思う。

さて猶太民族の國際性を知るためには、この民族が文字通りの國際的民族であることを知り、更にその原因と目的とが何処にあるかを知らねばならない。そしてこの点の謎を解くものは猶太教聖典としての「トーラ」及び「タルムード」であるが、これに関しては他の場所で論ぜられたことがあるので、ここでは極めて簡単に述べることで満足したいと思う。

「汝寄寓人(きぐう:仮住まい、つまりよそ者)としてこの地にとどまれ。我汝と共にありて汝を恵まん。我これらの國をことごとく汝及び汝の子孫に与えるべし。」

猶太民族の信仰によれば、「寄寓人」として逗留する國はやがてエホバの神の協力によってみずからの所有となる、というのである。この信仰は、幾千年かの猶太の歴史が証する通りに十九世紀までは文字通りに「寄寓人」として実現されてきたのであるが、実質上の猶太解放革命であったフランス革命以来は、表面的には「寄寓人」たることをやめて、寄寓する國の國籍を獲得しその國人となりすましつつ、実行されているのである。また彼等は、

「汝は汝の神エホバの汝に付したまわんところの民をことごとく滅し盡すべし。彼等を憫(あわれ)み見るべからず、また彼等の神に事(つか)えるべからず。」

というエホバの言を信じているので、その國籍を有する國に決して同化することはしないのである。

かくて猶太は、國籍上は英國人であり、ソ連人であり、米國人であり、フランス人であり、支那人であり、日本人であっても、実質的には飽く迄(あくまで)も猶太人としての自覚を有しながら、その世界政策を実行するのである。

以上が猶太民族の國際性の由(よ)って来たる根拠であるが、その目的が何であるかという点に関しては、改めて「トーラ」又は「タルムード」に典拠を求める迄もなく、それが、これらの國を盡(ことごと)く自己の所有とし、その際にその民をことごとく滅し盡(つく)すところにあるのである。

然しこの過激な世界征服の手段は、非猶太人の道徳観によっては到底想像だも能(あた)はない(できない)ことであるが、猶太人に取って手段が問題とならないことは、國際資本主義にせよ、國際共産主義にもせよ、國際フリイ・メイスン結社にもせよ、常に陰謀と裏切りとテロとをその実行手段としてきたことによって証明されるであろう。そして猶太人にこれが可能であるのは、特に「タルムード」に明確に表明されているその人間観のためであって、「神より生れたのはひとり猶太人のみであって、他の民族は悪魔の子である」とか、「猶太人のみが人間と呼ばれるのであって、非猶太人は人間と呼ばれず、動物と呼ばれる」とかいうのがその根本観念である。従ってこの民族に取っては、非猶太人を殺戮することはエホバに忠実なる事であり、あらゆる非猶太人に対しては、人間としての猶太人に対する場合の如き対人責務は何等存在しないというのである。勿論、猶太人の非猶太人に対して道徳的であることはあるが、然しそれは、タルムードに依れば、「非猶太人の感情を害したり、その敵意を惹起しないため」であり、また「それによって損害を蒙らないため」であって、決して良心からではないのである。

以上によって猶太民族の國際性とその根拠は大体に於て明らかになったであろう。それ故に我々は猶太人のかかる國際性が如何なる形態を持ってその生活に示現し得るかを、現代の最も著しい例によって述べて見ることにしよう。

猶太人トレービチュは一八七九年にハンガリーの一小邑(ゆう:村)で信仰の篤い金持の子として生れたが、親譲りで信仰心が厚く、猶太聖典「タルムード」の熱心な研究家であった。猶太人らしい「頭のよさ」と「俳優性」を持っていて、十六歳の時には俳優になることを志望したが、父に許されず、商業上の用件で欧州各地へ送られた。然しなおその志望を捨てず、遂にブダペストで俳優になった。そして猶太人らしく、文筆業にも手を出せば、政治にも関心を持つに至ったが、猶太教がキリスト教徒間に好遇(こうぐう)されないのを知って、独逸のハンブルクに於て新教に改宗し、やがて新教の牧師としてカナダへ布教に出かけた。其処ではその「タルムード」によって錬磨された論理によって牧師として成功したが、月給の問題でその教会を去り、敵方である英國教会へ転じた。この時彼は年漸く二十三歳であった。

その後彼は英國へ渡り、親猶反日独伊のカンタベリー僧正に取入って牧師生活を続けていたが、そのうちに父の遺産を手に入れると、地味な牧師生活を捨て、猶太人得意の改名をしてティモシー・リンカーンと称し、一九一〇年には三十一歳で英國の辯護士となりすましたのであった。しかし彼の猶太的放浪性がこの生活にも満足を見出さしめなかったのか、彼は大陸に帰って、ガリシヤ(スペイン)で採油業に手をつけ、百万長者となった。

やがて世界大戦が勃発するや、彼は英國紳士の資格で再び英國に渡り、独逸語又はハンガリー語の書簡の検閲係となったが、独逸側の間諜と見做されるに至ったので、米國へ逃走した。米國では英國の請求によって投獄されたが、在獄中のままで独逸の暗号電報の解読を引受け、囚人らしからぬ酒と女との生活をしていた。十六年にはいよいよ英國へ引渡されたが、二年の刑の宣告を受けたにも拘らず、病気という理由の下に病院へ移され、刑期を終了すると、直ちに独逸へ移った。この國では旧王党と結び、やがてカップの右翼革命に加わって成功せず、ミュンヘンに逃れてソビエト紙幣の大偽造計画を立てたが失敗したので、フランスの一通信社と関係をつけたり、チェコに渡って偽造文書で政府を欺いて一儲けしたりした。

然し彼の猶太的放浪性は、欧米二大陸を股にかけることでは満足せず、やがて支那へ移ってその将軍の顧問となり、欧州に於て支那のために借款を成立せしめようと、支那大使の資格で二三の支那人を引具(ひきぐ:引き連れ)して先ずイタリアへ乗込んだが、ウィーン市の家具商と称する男に生涯始めての経験として一杯喰わされ、また旅券偽造の科(とが)で捕縛されるに至った。然しやがてまた彼は支那へ帰り、三度目又は四度目の改宗をして仏教徒となり、西蔵チベット)に草庵を設けて照空和尚の名の下に墨染の衣を纏(まと)うに至ったが、なお政治活動をも忘れることはなく、ガロンの名の下に活動していた猶太人と共に支那の赤化工作にも関与したが、最近はまた事変下に種々の策動をしているらしく報じられている。

我々は必要以上にトレービチュ・リンカーン・照空の伝記を述べたようであるが、しかしこれではなお大綱を記しただけであって、彼の半生はまだまだ波瀾に富んでいるのである。勿論彼の生涯に見られるような無責任な國際性は全猶太人にあてはまるものではないであろうが、しかしなおこれが深い象徴的意義を持っていることは疑い得ないであろう。変名乃至偽装転向は実にあらゆる猶太人に常に認められる特質であって、例えば前ソ連外交の元締リトヴィノフの如きは、五つも六つもの名前を持っているのである。

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前節の記述から考える時、國際資本主義、國際共産主義、國際フリイ・メイスン秘密結社等の國際機関が、何故にすべて猶太の支配下に入るかが容易に明らかとなるであろう。即ち、他のあらゆる民族は「血」の外に「土」に結び付いているので、「土」を離れた國際性を取り入れることは殆ど不可能であるので、國際機関の運用に当っては、到底猶太と競争する力はないのである。それ故に、國際機関の中には、本来は善良なる意図の下に非猶太人によって設立されたものもないではないが、然しそれらは、暫時のうちに猶太の侵入を受けて、その世界政策の機関に利用されてしまうのである。否、それ位ではなくて、現在に於ては、殆どあらゆる國際的機関は猶太そのものの発起になっているのであって、そうでない場合には、たとえ、他民族に属する者が正しい國際協調の精神から創設することがあっても、到底國際的に普及する見込はないのである。また仮にかかる期間で國際的に普及しているものがありとすれば、それは猶太によってその利用価値が認められて、その援助を受けている場合に限るのである。事実如何に現代の國際的機関が、或いは猶太そのものの設立になり、或いは猶太の世界政策の機関となっているかは、我々の既に論及した重大なる三組織の外に、國際連盟を始めとして、ロータリー・クラブ、國際ペンクラブ、エスペラント運動、キリスト教関係の諸國際組織、殆どあらゆる國際平和団体青年団体、婦人団体等が然りであることから理解できるであろう。かの著名のドレフュス事件を契機として生れたフランスに本部を持つ人権擁護同盟の如きも、実質は「ユダヤ人権擁護同盟」に過ぎないことは、その内容を多少とも知る者には、フランスに於てさえも常識である。

日支事変以来、「國際平和運動連盟」なるものが、不公正なる宣伝乃至決議を事としている理由も、その猶太性を知るとき極めて明らかになるのである。我々が他の場所でも説いたように、國際連盟その他の平和主義団体は、真の平和団体ではないのであって、平和の名の下に戦争を誘致し、その責を猶太政策の妨げになる國に負わせようとするものにすぎない。然るに日本の朝野には、今なおその明治イデオロギー的西欧崇拝のために、かかる國際機関に対する迷信を捨て得ない人々が多数存在している。自由主義者乃至民政主義者の大部分より赤化主義者の殆ど全部に至るまでがそうであって、所謂、インテリ階級と称せられる者の相当数もその中に入るのである。然し今や日支事件を機会として日猶の間の全面的抗争が展開されつつあるのであるから、真に祖國を思う者は、徒(いたず)らに猶太の宣伝に躍(おど)って、その世界政策に協力する事をもって進歩的等と迷信することを止めるべきであろう。殊に当代に流行する偽装転向派の跋扈に深憂を抱かざるを得ない者には、第一次世界大戦期の独墺その他連合國に於ける内部破壊を目標とする猶太勢力の運動が他所事(よそごと)ならず思われて来るのである。勿論我々は國内猶太戦線が如何に猖獗(しょうけつ:悪い事がはびこること)を極めようとも、それによって皇國の運命に狂いが生ずるとは考えないが、しかしなお、陛下の赤子をして徒らなる猶太の犠牲たらしむることは、忠良なる一臣民として到底忍び得ないのである。世界大戦に於て結局独逸が戦敗國となったのは、内部に巣喰った猶太とその手先の策動のためであり、その結果戦後の独逸は全くの猶太國と化したのであるが、一方戦勝連合國側も決して真の戦勝を得たのではないのであって、世界大戦の真の勝利者が猶太であったことは、多少この方面の事情を事実に即して見る人には自明の事実である。とにかく、今や猶太問題は我々焦眉(しょうび:喫緊)の問題であって、決して独逸やフランスからの輸入品ではないのである。今度の聖戦の意義がこの問題を正当に理解しない限り充分に明らかとなり得ないことは我々の幾度か説いた通りであるし、事変の結果もまたこの問題を正当に処置しない限り充分の成果を収めることは不可能であろう。

以上の如く説く時、それはすべてを猶太問題とすることであるが、世界の現象は猶太問題のみからは説き得ないのである、との説をなす人があるかも知れない。この説の一応正しい事は我々も認めるに吝(やぶさ)かではないが、然しこの主張はあらゆる人間の言説が前提を持ち又必ず一面性を持つことを忘れた人によってなされる事が多いので、多くの場合にそれは故意に猶太問題を否定しようとする意志の偽装であるに過ぎない。精神史的に言えば、かかる抗議的主張の多くは所謂民政主義的自由主義者又は赤化主義者によってなされるのである。また或る一種の人は、その日本人的善良さから抗議を提出することもあるが、自己の正しさのために相手もまた正しいと見ることは、世界のあらゆる民族に対しては正しいかも知れないが、猶太人の場合のみにはそれは当てはまらないのである。猶太の歴史を説き、猶太の本質を説くことは、正義日本人なればこそそれを行うべきであって、日本人以外には正しい猶太問題の解決は不可能であるとさえ考えられるのである。勿論我々は、猶太人が非猶太人を動物であると称するのに倣って猶太人を動物であると考える者ではないが、しかし我々は猶太人によって抹殺されたる全世界の非猶太人の人権を回復し、猶太人によって汚されたる人間の実相をその本来の姿に回復しなくてはならないのである。とにかく、現代世界の万悪の根源である猶太が、その幾千年の詐欺と裏切りとテロとの歴史を拭(ぬぐ)い得るためには、その「トーラ」と「タルムード」を焼き、その教会堂を破毀(はき)しても、なお数千年の時日を要するであろう。

それ故に我々としては、猶太の手先となって容共抗日の暴挙を犯した蒋閨閥とその軍隊とを討つ以上は、その正規の剣をもって同時に猶太を討たねばならないのである。勿論、その剣は日本の剣であって、単なる殺人剣ではないのであるから、幾千年の間人類が猶太によって欺かれ、裏切られ、殺戮されたとは言うものの、必ずしもその復讐として剣を取るのではなくて、我々の活人剣は、むしろ積極的に猶太をして人間の実相を回復せしめ、然して正しき平和をこの世界に持ち来さしめるものでなくてはならない。

ここに我々は、現代日本の防猶又は反猶の歴史的意義に関して一言しておこう。所謂排猶運動は、これを歴史的に見る時、大体四つの段階を辿って来たようである。その第一は欧州・エジプト・波斯(ペルシャ)等の古代のそれであって、この時代には猶太人は猶太國民としてその劣悪さのために排撃せられていたのであるが、次のキリスト教時代には、旧教によっても新教によっても、猶太は猶太教として排撃され、特にキリストを殺戮せる者として指弾されたのであった。次に猶太は、近世に於ては別個の思想と道徳の所有者として、その詐欺性と陰謀性とのために排斥されたのであったが、最新の排猶運動は、独逸に始まり、イタリアに伝わり、今や欧米諸國に次第に伝播しつつある民族としての猶太の排撃である。勿論、この四つの段階ながらに、相互に共通の点を持っているのであるが、その根源的な特質よりして命名すれば、大体上述の通りとなるのである。そして以上は主として欧州の現象であるが、これは猶太の在来の活動の舞台が欧州であった事からして当然であろう。

然し今や猶太の國際性が猶太の活動の舞台を全世界とすると共に、神國日本の活動がまた世界的となって来て、ここに例えば日支事変の如き日猶の全面的衝突となり、所謂排猶の第五の段階に入ったのである。そしてこの日本の排猶が単なる排猶でなく、防猶であると同時に正しき平和の確立をその使命とすることは前述の通りであるが、この意味に於ては、日本の手に依る猶太問題の解決こそ、内容的には上述の四段階をその中に含有すると共に、在来よりも崇高なる八紘為宇の世界的原理に立っているので、世界史的に見て最後的のものとならねばならないものなのである。勿論それには前述の如く今後なお幾百千年の時日を要するかもしれないのであるが、然し神國日本を除いては、真に猶太を討ち、人類を救い得るものはないのである。

それ故に、少数民族の虐待などという猶太の得意の宣伝に躍らされることなく、また猶太的「文化」、「科学」、「ヒューマニズム」等の宣伝的モットーに眩惑させられることなしに、討つべきものは徹底的にこれを討つべきであろう。流行の反英気分に浮かされて、その英國の中枢を支配するものが現在に於ては猶太であることを忘れ、英そのものを憎むために親猶を宣言するに至っては、支那問題に限り英を裏切って日本と協力しても可いことを申出ている猶太の手先であると疑われても辯明の余地はないであろう。殊にこの種の議論が愛國主義の仮面の下に於て行われる時最もその害毒は大きいのであって、偽装転向流行時代の一産物としては珍らしからぬ現象であるとは言うものの、心ある人は充分に今後の成行に注目すべきである。自己の利益のために英國を裏切ることを約束する猶太は、同じく自己の利益のために将来また日本を裏切るであろうことは自然の理であるからである。我々は眼前の利益に目が眩んで、皇國本来の使命を忘れてはならない。

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