ドイツ悪玉論の神話057

ジェシー・オーエンスは、ヒトラーを赤面せしめるくらいの人種差別主義の國の市民であった。彼は、ヒトラーの独逸では白人と同じバスや市電に乗ることが出来た。法律の前に、如何なる点に於いても平等に扱われ、彼は映画館で白人の隣に座れたし、公衆トイレも使うことが出来たし、レストランで食事する事も、何らの差別をされる事無く、ホテルに宿泊する事も出来た。ヒトラーの独逸ではできるけれども祖國合衆國では禁じられていることが沢山あった。米國では、黒人選手は、仲間の白人選手とは別に食事することを求められた。もしも同じホテルに泊まることが出来ても(それもそうでないことが多かったが)、黒人は、従業員用の入り口を使う必要があった。大リーグの野球チームには黒人選手はいなかったし、黒人水泳選手もいなかった。しかもこれは、開けた北部の話だ。南部の諸州では、黒人は黒人同士の試合以外、如何なるスポーツにも参加を許されなかった。猶太の新聞がヒトラーを誹謗して独逸人をみんな「人種差別主義者」と言うのは、偽善の極みであった。

ジェシー・オーエンスは、明らかにヒトラーの独逸で非常に楽しく過ごしたのだ。独逸では彼は、沢山のオリンピックの前売り込みを受け、独逸の人々は彼に熱狂した。「競技場に入ると、ジェシー・オーエンスの頭が一階観客席の下に見えるだけで、観客席の群集の一部から呼び声が起こった。「イェサー・オーヴェンス!イェサー・オーヴェンス!」と。
    -リチャード・D・マンデル「ナチスのオリンピック」

ジェシー・オーエンスは、アリアン人と同様に大きな声援を受けた。」
    -ローレンス・N・スナイダー(Lawrence N Snyder)オーエンスのコーチ
 1936年11月7日付 サタデー・イブニング・ポスト

ジェシー・オーエンスは、帰國當初、ヒトラーから冷淡にあしらわれたことや失礼な扱いを受けたことを完全否定した。しかし、彼がこの「冷遇神話」を自分に有利に使える事を悟るのに時間はかからなかった。彼の戦後の記者会見、演説、それにゴースト記事・本では、ヒトラーが本當に握手を拒否した、と主張し、ヒトラーは、黒人選手がメダルを獲得した時に「腹を立ててそそくさと競技場を後にした」という嘘を繰り返した。それは視聴者が聞きたいことであったからだ。反ヒトラー物語が米國の聴衆によく共鳴する事を発見した彼は、自分が受けた「不當な扱い」物語を更に誇張し始めたのだった。彼がヒトラーと「ナチス」の「冷遇」や不當な扱いによって、如何に感情的に心を引き裂かれたか、話しているうちに、この様な大げさな話が遂には彼の話の重要な特徴となっていった。現実には、ジェシー・オーエンスは、独逸の観衆とヒトラーから彼の人生で最も暖かい、熱烈な歓迎を受けていたのであった。

しかし、それでも反独逸宣伝工作の結果として、未だに一般に信じられている神話としてベルリンオリンピック期間に米國の黒人選手が獲得した金メダルを持って「逃げた」と言うのがある。オーエンスが4個の金メダルを獲得したことは事実だが、1936年のオリンピックに於いては陸上競技以外では、独逸が他の國を全部合わせたより多くのメダルを獲得し、一番強かった。

これらは、國際猶太の宣伝工作戦による國家社会主義者の独逸についての歪曲のほんの一部である。歴史的出来事の説明は勝者が書くものであるから、独逸は、定常的にこれらの露骨な虚偽の話によって誹謗されていた。

ヒトラーの「國家社会主義党の映画専門家」、レニ・リーフェンシュタールは、「オリンピア」と言う、1936年のオリンピックの記録映画を制作した。それは、第三帝國(ライヒ)の宣伝価値に於いて彼女のその前の映画である「意志の勝利」と殆ど匹敵するものだった。この映画は、数多の國際賞を得た。

 

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1936年ベルリンオリンピックを撮影するレニ・リーフェンシュタール


1936年のオリンピックで、國際猶太新聞のあらゆる中傷にもかかわらず、独逸はその宣伝で大當たりの点を稼いだ。世界は、直に、國家社会主義者の統治によって創られた「新しい独逸」を見ることが出来た。独逸のもてなしは、世界中からの訪問者に高く評価された。そして、アドルフ・ヒトラーは一躍、時の人として見られたのだった。國際猶太によるありとあらゆる信用失墜の工作にも拘らず、殆どの客観的な報告(記事)は、結果として独逸に好意的であった。フレデリック・バーチョールは、オリンピックは、独逸を「國家の枠組み」に戻した、そしてそれどころか、「再びもっと人間的に」した、という記事をニューヨークタイムスで書いている。

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