ドイツ悪玉論の神話067

ウィンストン・チャーチルは、予期した通り、正反対の見方をした。彼は、英國下院で演説を行い、その中で、ミュンヘン協定を承諾することにより、英國政府は、「完全且つ紛れもない敗北を喫した」とし、そして、「第一級の災難が大英帝國とフランスに降りかかった」と述べた。チャーチルはここ最近、「ヒトラーを阻止する」ための英仏米蘇の間の「巨大連合」を求めていた。

しかし、チャーチルは第一級の戦争屋であり、彼の独逸に関する論評は不正確または、非常に大げさであり、反独逸の輿論を扇動する事しか意図していなかった。もし、第二次大戦の原因を一人の人間に負わせるとしたら、それは、彼一人であり、一人でないなら、彼とルーズベルトである。彼はまた、日和見主義者であった。チャーチルは、端から、激しい反ボルシェヴィストであり、ロシア革命とその後の全てを猶太人の責任と責めていた。しかし、彼の目的と合致すると、彼は、シオニストの時流に乗った動きに飛び乗り、(パレスチナに猶太人の祖國を造ることを提唱した)シオニズムは、欧州の猶太人を社会革命から引き離し、アラブ世界で欧州の帝國主義と提携するだろうと言い出した。

1936年、チャーチルは、「フォーカス(The Focus)」と言う、ロンドンの非公式の猶太人圧力集団と紐付いた(フォーカスについては更に後述する)。フォーカスの目的は、「ナチス独逸、その巨大な脅威に英國人大衆の目を開かせる」ことであった。実際のところ、独逸は英國の脅威になどなったことは無かった。話は逆で、ヒトラーは、英國の友情を勝ち取るためにできる事は何でもした。フォーカスは、國際猶太の反國家社会主義宣伝工作戦への主な後援者となり、チャーチルは、その非猶太人の傀儡となった。チャーチルは、フォーカスがヒトラーと國家社会主義者を破壊する工作をする上で有用であり、また、フォーカスは、チャーチルが、彼が言う「荒野の」年月から、権力の座に返り咲くのに有用であった。フォーカスは、英國の裕福な猶太人から贅沢に資金援助されており、その結果チャーチルはその傀儡として、贅沢な暮らしを送ることが出来た。(チャーチルはまた、チェコスロヴァキア政府から法外な金額を受け取っており、それは、彼の独逸に依るズデーテンラントの併合への反対の信憑性に大いに疑問を投げかけるものであった。)チャーチルは、この非猶太人傀儡としての役割の中で英國政府の「ナチスの脅威への盲目」を難詰し、特に首相のネヴィル・チェンバレンの平和維持の努力を追及した。チャーチルは、自分の記事や演説の中で独逸の再軍備の程度について非常に誇張し、再軍備の目的を独逸の重爆撃機の生産を言い募って歪曲した。実際、独逸は重爆撃機を重要視したことは無かったが、チャーチルは、自分自身の「いつか独逸は英國を攻撃する意図がある」と言う論旨を支えるためにこの嘘を使ったのだった。ヒトラー英國とは、戦争どころか、只管平和と友情を望んでおり、繰り返しそれを表明した。更に、ヒトラーは、自分の目標がヴェルサイユ条約によってバラバラにされた独逸國家を再構成することである、と明言していた。この計画は、チャーチルも含めて、誰に対しても秘密ではなかった。しかしチャーチルと仲間のお騒がせ者とは、一緒になってヒトラーのその計画を遂行する行動の一つ一つを新しい、予期できない侵略の行為として、そして更に彼の行動を欧州を征服する意図の証拠であるとして扱った。チャーチルは、英國がいつか、断固として独逸と戦争する事を、自分の個人的な理由で決心していた。他の人々が熱心に戦争を避けるために働いていたのに対して、チャーチルとその仲間のお騒がせ者は、戦争をもたらそうと熱心に働いていた。一体、彼は、故意に、「フォーカス」を通じて自分に金を払ってくれる國際猶太への奉仕に英國の力を差し向けたのか、それとも、彼自身、英國に奉仕していると勘違いしていたのか?この疑問は、永久に答えられないであろう。

英國の評論家、F.S. オリヴァー(F. S. Oliver)は、ウィンストン・チャーチルの性格について、この様に言った。「小さい頃からチャーチル氏は、心から、魂から、そして強さから、三つの事を愛した。それは、戦争、政治、そして彼自身だ。彼は戦争をその危険から愛した。彼は政治を同じ理由から愛した。そして、彼の心が危険である -彼の敵にとって、彼の友にとって、そして彼自身にとって危険である- という事を知って愛した。私はこれまでに出会った人の中で、至福の中に居ながら、そのように急速に、しかもそのように酷く怒りや心配、或いは否定的な感情を抱く人間を想像する事も出来ない。」

  

独逸のズデーテンラント併合

 

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1938年10月1日、独逸軍はズデーテンラントで熱烈に歓迎された


1938年10月1日、独逸陸軍は反抗無しに、喜びを以って受け容れるズデーテンラントに進駐した。チェコスロヴァキアは、知識人が創った、そして第一次大戦の戦勝國が支持した、人口的でうまくいくはずがない國家であった。実際、それは成功する可能性が皆無で、その死は悲劇でもなかった。ミュンヘン協定の後、國に残された部分は即座に民族地域の境で分裂し始めた。1939年3月14日、スロヴァキアが独立宣言し、続いて、カルパソ-ウクライナ(ルテニア)が独立した。これらの地域が去ってしまうと、以前のチェコスロヴァキアに残されたのは、ボヘミアの一部とモラヴィアだけであった。この状況は、共産主義者の乗っ取りへの公開招待状であった。

その頃の西側キリスト教文明への圧倒的脅威は、ソヴィエト連邦により煽動され、支持されていた共産主義革命であった。ソ連を支配した猶太人ボルシェヴィキは、欧州を支配するという特定目的の國際共産主義運動(コミンテルン)を組織していた。彼らは、独逸を1918年の革命で奪取しようと試みたがフライコープにより敗北した。彼らは同じくフライコープによって潰されるまでの間、一時的にバイエルン・ソヴィエト社会主義共和國を設立さえした。彼らはハンガリーを1919年、短期間奪取したが、ミクローシュ・ホルティの率いる軍により、押し戻された。1920年代にはイタリアを奪取しようと試みたが、ムッソリーニにより、敗北を喫し、追い出された。彼らは、次に1936年にスペインで内戦を始め、殆ど成功したが、ムッソリーニヒトラーの支援を受けた信仰厚いカトリック教徒のフランシスコ・フランコ将軍が、三年に亙る血なまぐさい戦争の後、共産主義者を打ち負かし、スペインから追い出した。ソヴィエト・ロシアは、欧州の脆弱と思われるあらゆる國々で共産主義革命を起こし、支援する為に注意深く見ながら準備していた。

チェコスロヴァキアの首都、プラハは、共産主義革命を目指す活発な党をつくった大規模な猶太人人口を抱えており、いつでもソヴィエト連邦の第五列として、以前のチェコスロヴァキアの残り部分を制覇するために活動する用意が出来ていた。ヒトラーは、こんなことが起こることを容認しない、という事を知らしめた。チェコスロヴァキアの新大統領、エミール・ハーハは、自身もこの事を心配しており、ヒトラーとの会談を望んだ。ヒトラーは、話し合うため彼をベルリンに招待した。ハーハが娘を連れ立って列車の駅に到着した時、彼は、同行した令嬢の為に花束を持って現れたフォン・リッベントロップ外相に会った。ヒトラーも箱に入ったチョコレートを贈った。夜遅くの会談で、ヒトラーは、ハーハを前に、彼が遂に自國を独逸の保護國にすることに同意するまで、果てる事無い熱弁を振るった。

会談の席から出てきたとき、ヒトラーは有頂天で恍惚としていた。彼は、二人の中年の秘書に「子供たちよ、早く、早く私に接吻を!」と語り掛け、二人の女性は彼の両頬に接吻した。ヒトラーは、「これは私の人生最大の勝利だ!私は、最も偉大な独逸人として歴史に残るだろう!」と言った。

ヒトラーには、自分自身に満足するだけの充分な理由があった。これまで、彼は、独逸にザール、オーストリア、そしてズデーテンラントを寄せた。そして今や彼はボヘミアモラヴィアを保護國にした。彼は本質的にヴェルサイユ条約も無効化したのだった。そして、彼はそれをすべて、外交によって、一発の銃も打たずに成し遂げたのだった。