ドイツ悪玉論の神話077

独逸がボヘミアモラヴィアを占領

その間、独逸がズデーテンラントを併合した後のチェコスロヴァキアの残りの部分は、前章で述べた通り、すぐに分解した。チェコスロヴァキアに残ったのは、ボヘミアモラヴィアの部分であった。そして、1939年3月15日、チェコスロヴァキアの大統領、エミール・ハーハの同意のもと、独逸は、ボヘミアモラヴィアを占領し、それらを共産主義者による乗っ取りを防ぐ為に、独逸の保護國と宣言した。いずれにせよ、ボヘミアモラヴィアは、その千年の歴史の殆どを独逸人の統治のもとに存在したので、別に何も新しい事ではなかった。チェコスロヴァキアは、第一次大戦後の講和会議の新しい人口的な作り物で、それが今、早くも分解しただけであった。この地域全体は判然と独逸の特徴を持っていた。モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の初演はプラハである。ボヘミア第四の町、ピルセンは、独逸のビール、ピルセンビールで世界的に知られている。もう一つ、独逸名のボヘミアの町、ブトヴァイスは、バッドワイザービール(欧州ブランド)の発祥の地として有名である。だから独逸は正確には「外國」勢力ではない。独逸はこの地域では長い歴史があったのである。

英國は當初、チェコの國家崩壊により、その拠り所であったチェコスロヴァキアが無効となったという理由で独逸の占領を承認していた。しかし、チェンバレン首相は、就中、チャーチルハリファックス、ダフ・クーパー、ヴァンシタートなどからミュンヘン合意によるヒトラーとの「宥和」を巡って攻撃されていた。独逸がボヘミアモラヴィアを占領した後、彼に対する攻撃は激しさを増し、ルーズベルトにより、更にけしかけられた。チェンバレンは、狼狽して守勢になった。3月17日の演説で、彼は自身の弱さに依る思い違いを訂正したいと宣言した。彼は、ミュンヘン(合意)は正しい政策だったが、ヒトラーチェコスロヴァキアボヘミアモラヴィア)を占領して合意を破ったと言った。この時以降、チェンバレンは、如何なる正當化に拘らず、ヒトラーによる更なる領土の移動に英國が激しく反対し戦争も辞さないだろうと述べた。

ボヘミアモラヴィアの占領は、英國でよりも、そして世界中のどの首都でよりも、ワシントンでより大きく独逸に対する敵意を爆発させる原因となったが、その理由は明白ではない。占領は、アメリカの利害には全く影響しなかった。にも拘らず、ワシントンの独逸大使館の長は、暴力的な新聞の反独逸運動が全米で開始された、とベルリンに報告を返している。ルーズベルト大統領もハリファックス閣下に対し、英國も同様に「はっきりした反独逸政策」を採択する様に圧力をかけている。これに応えて英國の指導者が「最善を尽くして行動に必要とされるような輿論を教育し始める」ことをハリファックスルーズベルトに約束している。言葉を換えれば、彼らが反独逸/戦争賛成の宣伝工作活動を始めるという事だった。

 

ルーズベルトが戦争を推し進める

ブリット大使は、ポーランドに、彼自身もルーズベルト大統領も、必要ならばダンツィヒを巡ってポーランドの参戦意欲を頼りにしている、と伝えた。1939年3月19日、英仏が対独戦争を推進するために必要なことをルーズベルトは何でもする用意がある、とブリットはポーランドに伝えた。その間、ハリファックスは、反独逸の幅広い戦線と、英國、フランス、ポーランドソ連を含む同盟を提案して独逸包囲網を作るべく画策していた。ポーランドソ連を独逸同様、信用していなかった。そして、ポーランドソ連と結ぶそのような合意からは身を引いた。

ハリファックス閣下とルーズベルト大統領は、積極的にポーランドに独逸のダンツィヒに関する要求を拒否する事を勧めた。ブリットは、遂に、ポーランドに対して、彼がソ連を除いて、最も可能性の高い取り決めとして、英國、フランス、ポーランドの間の同盟を考慮していると言った。英國の指導者は、独逸とソ連の間での戦争を願っている、いや、寧ろ期待している、と彼は言い、しかも、自分たちがそういう理由からソ連に約束をしたくもない、と言った。ソ連もまた、これまでになく英仏を信頼しなくなっていた。

3月26日、ブリットは、ロンドンのジョセフ・P・ケネディ大使に連絡し、ダンツィヒを巡って敵対が起きれば、英國が対独戦を始める事を米國が望んでいることをチェンバレン首相に伝えるよう指示した。英國はその後、陸軍の規模を倍増する事を発表した。1939年3月31日、チェンバレン首相は、議会でポーランドと独逸の間で戦争が起きれば、「額面無しの小切手」をポーランドに保証すると発表した。つまり、それは、独逸がポーランドを占領すれば、英國は独逸に宣戦布告するという事だ。フランスも英國に加わり、同様の保証をした。

ケネディ大使は、独逸との戦争と言う考えに唖然とし、その可能性が出てきた時、しぶしぶ大使としての義務を果たすだけになってしまった。この限りにおいて、彼は英國政府からと同様、ルーズベルト政権からもはみ出し者となった。ルーズベルトもブリットも共にケネディが嫌いで信頼していなかったし、また、ケネディも彼ら二人とも嫌いで信頼していなかった。妻への手紙の中で、彼はこう書いている。「私は時折ブリットと話す。彼はこれまでよりもずっと馬鹿になった。彼の判断は救いようがなく、私は彼のFDR への影響が心配だ。何故なら、彼ら二人は多くの事で同じように考えるからだ。」

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