ドイツ悪玉論の神話065

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繁栄していた独逸人の農場

ズデーテンの独逸人は、オーストリアから分離したいとは更々思っていなかったし、この新しく造られた國に帰属したいとも決して思っていなかった。彼らが実質的に外國で少数民族として抑圧されるに従い、今や彼らが最も恐れていたことが現実となりつつあった。彼らは、ウィルソン大統領の14箇条の第10条に従って自己決定権を主張し、自分たちの地域がオーストリアと再結合することを要求した。オーストリアは、勿論、同様に独逸民族であった。チェコの陸軍(今ではチェコスロヴァキアの陸軍)は、既にズデーテンラントを占領する為にチェコ語を話す兵隊を大挙進駐させていた。この地域は数世紀に亙って確実に民族的に独逸人であり、チェコ人による急激な占領は、一触即発の状況を作った。

1919年3月4日、ズデーテンラントの独逸人は、ほぼその全ての人口を以ってチェコの占領に抗議し、自己決定権を求めてデモをした。このデモは、一日間のゼネストを伴った。チェコの軍隊は、即刻襲い掛かり、デモを残虐に蹴散らした。54人の独逸人死者が出て、他に84人がけがをした。独逸人は、チェコ人の残虐さに衝撃を受けたが、彼らは法を守り、ストを終えると仕事に戻った。しかし、いつでも暴力を爆発させようと脅すチェコ人に対する逆巻く、くすぶる敵意を抱き続けた。これらチェコ人による残虐な独逸人殺しはズデーテンラントの独逸人の國家主義的・分離主義的感情を増幅するだけだった。彼らは、自身をチェコスロヴァキアから分離してオーストリア再帰属するか、独逸に併合されるかを望んだが、それを除外すれば、できるだけ多くの自治権を獲得することを望んだ。しかし、1919年9月10日のサン・ジェルマン条約は、明確にズデーテンラントのオーストリア亦は独逸との統合を禁じ、同地方がチェコスロヴァキアの一部分として残ることを確認した。この決定が常識に反すると思うなら、これらの条約は独逸を分割して独逸人が再び結束して欧州の超大國になる事を妨げる目的であったことを想起しなければならない。だから、ズデーテン独逸人は、オーストリアにも独逸にも帰属することは許されず、彼らの意思に反してチェコスロヴァキアの臣民として残ることを強要された。

更に悪いことに、1920年には新チェコスロヴァキア共和國の憲法がズデーテンラントの独逸人の参加なしで起草された。この新憲法は、ズデーテンの独逸人の利害に極端な偏見のある条項を含んでいた。例えば、独逸人の財産を他の種々の民族集団に再配分する方策である。裕福な独逸人農民から土地が押収され、他の民族、主にチェコ人に再配分された。政府は更に他の「富の再配分」の枠組みの為に、紙幣の五分の一を押収した。独逸人がはるかに裕福であったためにこれは、独逸人を最も厳しく打ち据えた。チェコスロヴァキアの國家の安全保障と、チェコ人の権利を守ることを意図した政策も独逸人の不利益に働き、それは、國内の敵意を生み出した。古くからのズデーテン独逸人の國民的領土と考えられていた國境の森が防衛的な理由から強制収容された。チェコスロヴァキア政府は、独逸の國家主義を抑えるために独逸人が密集している地域にチェコ人を入植させたが、この政策は、逆効果しかもたらさなかった。チェコ人の学校が同じ理由で独逸人の地域に建てられた。ズデーテンの独逸人は、多数の政府補助の地方劇場を所有していたが、それも一週間に一夜、少数派のチェコ人の好きなようにすることを課せられ、これもまた敵意を生むことになった。全ての動きは、独逸人社会の団結を溶かして、他の民族への同化を促すものであった。しかし、これらの全ての方策は、独逸人を更に國の残りの部分から疎外し、ズデーテン独逸人とチェコ人の間の摩擦と不和を増長した。

1931年に大恐慌が起きると、ズデーテン独逸人は他のチェコスロヴァキアの地域よりも國際貿易、特に独逸との貿易に頼っていた為、特に大きな被害を受けた。大恐慌の間、チェコスロヴァキア政府は、ズデーテン独逸人を犠牲にしてチェコ人市民を守る方策を取った。結果として工業化したズデーテン独逸人の失業率は残りのチェコスロヴァキアの5倍となった。二つの集団の間の緊張は、増加した。争議が起こった。チェコ陸軍とチェコ警察はチェコ人の味方で独逸人住民に対する多数の残虐行為が行われた。

1931年、ズデーテンラントの独逸への併合を目的の中心とする、コンラート・ヘンラインが率いる、ズデーテン独逸人党が創設された。ヘンラインは、独逸の國家社会主義党との連絡を築き上げ、彼らの併合への支持を求めた。1933年にヒトラーが首相になるとヒトラーは公然とズデーテンラントの併合を求め、遂にはズデーテン独逸人党に財政支援をして目的達成を援護した。

ヘンラインの要求は、殆ど全会一致でズデーテン独逸人が支持していたのだが、チェコの政府により、大いに反対された。独逸がチェコの國家から分離を許されたら他の國民はどうなるか?この考え自体が當にチェコスロヴァキアの國家にとって存亡の脅威なのである。更に、ズデーテンラントは、チェコスロヴァキアの中でも最も資源に恵まれた部分、特に大きな石炭の埋蔵があり、同時に産業の生産性が一番高かった。チェコの政府はこの富沃な地域を失う事を避けるために、必要とあらば、戦う用意があった。

チェコスロヴァキアの陸軍は當時の欧州では最も精強で練度も高く、最高の装備を持った軍隊の一つであり、独逸の占領の試みに他國の援助なしで持ちこたえられた。独逸の陸軍はその時は未だ再建されていなかった。しかしながら、ベネシュ大統領はフランスと同盟し、更に保険の意味を付け加えてソ連とも同盟したが、独逸はこれを包囲作戦の企てと観た。ソ連とは同盟であったが、フランスが参戦しない限り対独戦はしないと断言しており、また、フランスは戦争の用意が出来ていなかったので、この同盟は本質的に価値がなかった。

1938年頃には、英國の指導者の一部に、ウィンストン・チャーチル、アンソニー・エデン、ダフ・クーパー、ハリファックス閣下を含む戦争好きの派閥は存在したものの、英仏共に人々は戦争に非常に反対であった。この集団は万が一ズデーテンラントの併合の試みがあれば対独戦を求めた。彼らは、ヒトラーの独逸人民のライヒへの統合を汎独逸主義の限定的な目的-実際そうであったのだが-と観ずに、ヒトラーが世界を支配するための超大國を造りたい為、としてヒトラーを非難した。勿論、ヒトラーが世界征服を望んでいるという証拠は何一つなかったし、英國の戦争屋の集団の一人ではなかったチェンバレンは、ズデーテン独逸人の不平不満に充分根拠があることを信じることとなり、ヒトラーのこの問題における意図は制限されていると信じた。だから、英仏共にチェコスロヴァキアに彼らが望む自治権を与え、どの様にしたいのか自ら決めさせる様に助言した。ベネシュ大統領は、この提案に強く抵抗した。

政治的な状況が悪化するに従って、ズデーテンラントの安全保障は悪化した。武装衝突がズデーテン独逸人と警察と國境警備隊の間で起きはじめた。チェコの陸軍が状況の沈静化の為に呼ばれることも一度となくあった。独逸の指導者は、ズデーテンラントに於ける仲間の独逸人の安全に関する懸念を表明した。ヘンラインとズデーテン独逸人党はそこでプラハの政府に対して8箇条の要求を提示した。ヘンラインは、完全な自治、理想的には、同様に政治的な自治と、ズデーテン独逸人が「1918年以来苦しめられた不公正」による損害に対する賠償を要求した。ロンドンとパリからのこの要求を受け容れる圧力にも拘らず、プラハ政府は、手に負えなくなってこの要求を拒否した。ズデーテン地域で戦いが勃発し、独逸軍の越境の噂(それは、事実ではなかった)が流れた時、チェコスロヴァキアの陸軍が1938年5月20日に動員された。その頃、軍隊の動員は世界中で挑発行為と見做され、チェコスロヴァキアと独逸との間の戦争が確実に思われた。これら二つの國の間の戦争は、ウィンストン・チャーチルと彼の仲間によって扇動すらされた。

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