ドイツ悪玉論の神話066

チェンバレン首相は、割って入り、平和的解決を目指す仲介を申し出た。彼は、独逸とチェコスロヴァキアの間で戦争が起こらない様にランシマン子爵を送った。ランシマンは、両國を歩み寄らせて何らかの合意を得ることが出来なかった。そこで彼は英國に帰った。彼は英國に帰國した折、次のような、ズデーテン独逸人に非常に同情的な報告を英國政府に提出している。

「独逸語が殆どか全く話せないチェコ人の役人と警察が多数、独逸人しかいない地域に赴任している。チェコ人の農業入植者が農地改革の名の下に独逸人から押収された土地に独逸の居住地域のど真ん中で、定住を奨励されている。これらのチェコ人の侵入者の為にチェコ人の学校が大規模に建てられている。チェコ人の企業は、國の契約の分配に於いて独逸人の企業と比べて有利に扱われ、しかも國は仕事や救済を独逸人に出すよりもチェコ人に優先した。私は、これらの苦情は概ね筋が通っていると信じる。私の派遣の時に至ってもチェコスロヴァキア政府によるこれら諸問題に対する対策は充分な規模では全く行われることもなかった。(中略)ズデーテン独逸人の気持ちは、3~4年前までは絶望に近いものだった。しかし、ナチス独逸の現出が彼らに新たな希望を与えた。私は、彼らが同胞に助けを求め、そして最後にはライヒに帰属する願いは、この状況下、自然の成り行きと見做す。」

チェコスロヴァキアのベネシュ大統領は、妥協案を提案したが、妥協はあまりに小さく、しかも遅きに失したため、ヘンラインは拒否した。ヘンラインはそしてズデーテン独逸人に万一の攻撃に対して自衛するよう指示した。1938年9月15日、ヘンラインは独逸に飛び、ヒトラーと会談した。次に彼はズデーテンラントの独逸への併合を要求する声明を発した。暴動と警察との衝突がズデーテンラントで発生し、チェコ人の軍隊により、残酷に鎮圧された。独逸のニュース映画は、ズデーテン独逸人に対する大規模な残虐行為の証拠を示した。ヒトラーは、彼らを保護するために独逸軍を差し向けると脅した。

 

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ズデーテン・独逸人党代表コンラート・ヘンラインと アドルフ・ヒトラー(独逸にて)


チェンバレンは、9月15日にベルヒテスガーデンに行き、ヒトラーと会談した。会談中、ヒトラーは、ズデーテン・独逸人がチェコ人により殺されつつあると主張し、彼ら独逸人を保護する為に占領する、と脅しながら、ズデーテンラントの独逸への即時併合を要求した。外部の情報源からもヒトラーが主張したことが本當に起こっていることを示す多数の証拠があった。英仏両政府はヒトラーの議論を容認し、併合の要求を支持したのだった。

しかしながら、予想できることではあるが、英國の指導層の中でも戦争屋の派閥はこの解決策に反対した。ウィンストン・チャーチルは即座にチェンバレンの政策を非難する論評を新聞に載せた。

「英仏の圧力によるチェコスロヴァキアの分割は、西側民主主義のナチスの力への完全な屈服となるものだ。この様な腰砕けは、英國にもフランスにも平和も安全保障ももたらさない。それどころか、これによりこれら二國はこれまでになく弱く、危険な状況に置かれるであろう。チェコスロヴァキアの単なる中立化は、25の独逸の分隊の解放を意味する。そしてそれは西部戦線に脅威をもたらし、更に付け加えて、それは、勝ち誇ったナチス黒海への道を開くものとなるであろう。」

「脅威がふりかかるのはチェコスロヴァキアのみならず、全ての國民の自由と民主主義なのである。小さな國を狼に差し出すことで安全保障が達成できると信じるのは、致命的な幻想である。独逸の戦争潜在能力は、フランスや大英帝國がその防衛に必要な方策を完了できるよりも短期間に、更に急激に増加するであろう。」

しかしヒトラーは、単にズデーテンラントの併合だけでは、満足しなかった。彼はチェコスロヴァキアが抱える民族の不安定の問題を一気に全て解決したかった。そこでポーランドハンガリー少数民族地域のチェコスロヴァキアからの返還も満たされるべきだと主張した。

ロンドンのタイム紙は、社説でヒトラーは正しいとしてズデーテンラントの独逸への併合を支持した。社説はまた、ハンガリーポーランドの要求も支持した。

チャーチルは勿論、このタイムスの社説を取り上げて議論してる。「このたった一つの段落で、タイムスは、ナチのもっとも極端な要求に支持を与えた。ズデーテンラントの完全な分離は、それが通ればチェコスロヴァキアに崩壊の宣告をする要求であり、そして大半のズデーテン独逸人をナチスの規則の厳格で融通の無さの下に置くことである。」チャーチルは、ズデーテン独逸人の圧倒的な多数が独逸との併合を要求した事実を無視していた。同じ日、外務省は公然とチャーチルとの関係を絶った。

チェンバレンは、この問題の最終的決断をするために、ヒトラーとの会議を要請した。1939年9月29日、ヒトラーは、ミュンヘンで仏伊英の政府の長と会談した。チェコスロヴァキア政府は招待されなかった。この会議に於いて出席者全員がヒトラーの要求の全てに同意するミュンヘン合意が締結された。合意は、ズデーテンラントの即時独逸への分離を取り決めた。この合意により、約38%のボヘミアモラヴィア領土が独逸に帰属するとともに325万人のズデーテン独逸人がライヒの市民となった。ハンガリーハンガリー人と11,882㎢の南スロヴァキアと南ルテニアを領有し、そしてポーランドは、ポーランド人とチェシーンと北スロヴァキアの二つの國境地域を領有した。これは、銃撃の一つもなく平和的に達成された。英國の歴史家、A.J.P. テイラーは「ミュンヘン協定は、(中略)英國の活動に於ける最良且つ最も啓発された人々にとっての勝利であった。」と書いている。

 

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1938年9月29日、ミュンヘン会議にチェンバレンを迎え入れるヒトラー


チェンバレンは、英雄的歓迎でロンドンに戻った。彼は、飛行機から降りながら、アドルフ・ヒトラー署名の、独逸の指導者は英國との戦争を二度と望まない、という合意書を高らかに手に持って見せたのだった。チェンバレンは、「我々世代の平和」を保証した、と宣言した。群衆が大喜びで賞賛・喝采する中、チェンバレンは、すべての独逸人を包含する欧州での拡大独逸の祖國を造るフューラーの望みに平和的解決策を見出す希望を表明した。そして彼は、合意書の後述を読んだ。その中でヒトラーは、次のように述べている。「我々は、断固、意見の相違の根源を除去するよう努力を続け、それにより、欧州の平和を担保するよう貢献する決意である。」

 

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英國首相、ネヴィル・チェンバレン ズデーテンラントの独逸への併合を認めたミュンヘン協定で 「我々の時代の平和」を宣言する


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