ドイツ悪玉論の神話076

ハリファックス閣下が陣太鼓を鳴らす

英國外務大臣ハリファックス閣下は、ヒトラーと独逸に対して敵対的姿勢を維持し続け、断固独逸との間で戦争を挑発した。彼は、國内でも國外でもヒトラー外交政策を最悪の見方で提示する噂を流布した。彼は、ヒトラーがどこを向いて何をしようともヒトラーのあらを探したであろう。ハリファックスは1939年1月24日にルーズベルト大統領に伝言を急送している。そこで彼は次のような報告を受け取ったと主張をしている。「様々な信頼できる情報源からの大量の報告があり、それは、ヒトラーの心持とその意図に、最悪の不安な見方をするものである。」彼は、ヒトラーが大英帝國に対して激しい憎悪を抱いている、と言う虚偽の主張をした。実際にヒトラーは一貫して、大英帝國に対する尊敬の念を表明していたし、英独協力という目標を追い求めていた。そんなことは関係なく、ハリファックスはその正反対を主張し続けた。ハリファックスは、ヒトラーウクライナに独立國を設立しがっており、そして東部に移る前に西側列強を奇襲して破壊する意図がある、と主張した。英國の情報當局だけでなく、「これを避けたい独逸高官」もこの悪の陰謀の証拠を彼に示した、と彼は、主張した。そのようなものを彼に示した独逸人は誰もいない。彼はそれを捏造した。ヒトラーには、英仏を攻撃する意図など微塵もなかった。

 

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チャーチルハリファックスは、断固独逸と戦争する積もりだった


これらの人間の、独逸と戦争したいという願望はどのように説明できるであろうか?これらの人間、つまりチャーチルハリファックス、クーパー、エデン、ヴァンシタート、その他は、保守的で大英帝國に、その帝國の世界における支配的立場に献身的であった。しかし彼らは同時に大英帝國の力が衰えてきていることに気づいて神経質になっていた。チャーチルは、第一次大戦前にも独逸に対する戦争を最も声高に叫んだ人間の一人だった。彼とその他は、今、先と同じ理由で独逸との戦争を呼び掛けている -独逸は商業的にも軍事的にも強くなり過ぎた、そして、それ故に大英帝國の支配を失墜させる脅威だった。これらの保守的な英國の指導者は、ナポレオン戦争の結果出来上がった古い力の平衡の原理に専心していた。欧州大陸に於いて、一國が支配的になるのを避ける事が常に大英帝國の外交政策の基本となった。独逸を戦争で打ち負かす事は英國と國際猶太の共通利害となった。ヒトラーを悪く言い、彼の行動や意図を故意に間違って解釈することは、彼らの勝手な理由で決意した戦争の口実としてのみ、使えるものであった。

これらの対独戦争賛成派は、第一次大戦と同じく、米國を味方に付けなければ、英國には独逸を倒すことが出来ないことはよくわかっていた。彼らは、独逸に対する戦争の口実を綿密に考えると同時に、ルーズベルト大統領にいつも自分たちの後ろに控えている様に宣伝工作したが、ルーズベルト自身が既に彼らの側に居たので、その必要は殆どなかった。(扇動の)炎を煽る為、ハリファックスは、独逸の意図に関して最も陰惨な、しかし根拠のない警告をルーズベルトにした。彼はルーズベルトに、電報の中で、ヒトラーがオランダを占領する計画で、蘭印(インドネシア)を日本に与える計画だと伝えた。(日本は石油が必要だった。)独逸にはそのような計画はなかった。彼はルーズベルトに独逸が間もなく英國最後通牒を出してくるに違いないと伝えた。ハリファックスは更に英國の指導者は、その最後通牒が届く前に、独逸が奇襲攻撃して来る事を想定していると加えた。彼は、電報を打ちながら、独逸がその様な攻撃の為に軍を動員していると言いう情報を持っており、攻撃は、いつでも起こり得る、と主張した。これらは、根も葉もない馬鹿げた創作である。

ヒトラーは、その頃、ポーランド問題で頭がいっぱいで、英國を攻撃するようなことは思いもしなかった。しかしハリファックスは断固としていた。彼は、更に続けて、「ヒトラーの精神状態、彼の無分別な大英帝國に対する激怒、それに誇大妄想」を強調した。彼は英國が軍備を大幅に拡張する計画であると打ち明け、「我々二國間の政府に存在する信頼関係とこれまでの情報交換の程度」の見地からヒトラーの意図と態度についてルーズベルトを啓発するのは、義務であると信じていた。ハリファックスは、チェンバレンが1939年1月30日のヒトラーの例年のライヒ議会での演説に先立って、独逸に公開の警告を考えており、ルーズベルトも遅れる事無く同じことをすべきだと提案した。チェンバレンはそのような警告はしなかったが、ハリファックスルーズベルトにもう一度、懸念と喧嘩腰の演説をさせる様に突っついたのであった。

ハリファックスは、アンソニー・エデンを1938年の12月に米國に派遣し、独逸の不吉な計画についての噂を流布した。そして、ルーズベルトはそれに反応して、1939年1月4日の下院に対する伝言の中で、独逸に対する挑発的且つ侮辱的な警告をした。ハリファックスは、最も最近の彼の電報の結果として更なるルーズベルトによる再行動を期待した。ハリファックスは、戦争への宣伝工作戦を英國の一般市民向けに準備しており、ルーズベルトからのこの様な警告は、その目的に適うものだった。これら全てのハリファックス閣下の策動は、全くの幻想に過ぎなかった。しかし、既に独逸との戦争に傾いていたルーズベルトは、これを鵜呑みにした。ハリファックスは、ルーズベルトが耳にしたいと思っていたことを伝えただけだった。

もう一人の執拗な開戦論者、コーデル・ハル國務長官は、ハリファックスに次の様に始まる伝言を送っている。「合衆國政府は、ここしばらく、貴殿の電報で示されていたような状況が現出するであろう可能性の上にその政策の基礎を置いていた。」これは、ルーズベルト政権が、米國輿論、戦争に絶対反対の輿論にも拘らず、英國の対独戦の考えを支持する事を英國に伝えるやり方であった。

ルーズベルトは、自分の経済政策の失敗から注意を逸らす為に戦争を望んだ。彼はまた、自分自身が戦時の英雄的な大統領となれる、と言う思いを大切にしたが故に戦争を望んだ。ヘンリー・モーゲンソウ・ジュニアや、その他のルーズベルト政権の高官の様な、ルーズベルトを取り巻いていた猶太人は、「ナチス」独逸の悪意ある意図について途方もない想像をして次第に熱に浮かされていった。

 

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ヘンリー・モーゲンソウ・ジュニア


デービット・L・ホガンによると、その論文「ルーズベルト大統領と1939年戦争の起源」(President Roosevelt and the Origins of the 1939 War)の中で、次の様に記述している。
「...ルーズベルトとハルの仲間の中で、ヒトラーが絶望的に異常者であると宣言しない者は、殆ど葬り去られた。」

1939年1月4日、ルーズベルトは下院で、米國の中立政策は、再検討するべきだ、と述べた。彼は、対独行動をもっと自由にしたかった。これとほぼ同じ時刻(日付は次の日)ポーランドの外相ベックはヒトラーを交えてベルヒテスガーデンで、ヒトラーダンツィヒポーランド回廊問題で独波の協力を強調した、友好的な会談をしていた。誠心誠意ではあったがこの会話は生産的ではなく、詳しくは何も解決しなかった。ヒトラーは、しかし、ダンツィヒが独逸の町であり、遅かれ早かれ独逸に返還されるべきだと明白に述べた。

ヒトラーポーランド高官との対話に於ける冷静で外交的な接近と、ルーズベルトを取り巻く高官による、狂乱した、ヒステリックな、想像上のヒトラーへの対決的な姿勢、との間には、極端な対照が存在した。

米國の駐ベルリン代理大使、プレンティス・ギルバートは、独波の状況は、ワシントンの高官が想像しているような、きな臭いものではない、と報告している。彼は、1939年2月3日、國務省に向けて、ヒトラーの東方に向けた基本政策は、ポーランドとの友好関係であると報告した。ギルバートによれば、ベックが、25年協定と、独逸のポーランド回廊の保証と引き換えにダンツィヒの返還に応じるのは確実と思われた。しかしそれは、ルーズベルトと彼の高官が聞きたいことではなかった。しかし、もし英米がこれに関与していなければ、それが、可能性として最も高かったことであった。

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