ドイツ悪玉論の神話079

ポーランドが回廊で独逸國民を殺害

ポーランドと独逸の間、そしてポーランド人と独逸人の間の憎しみと敵意は、歴史的な根があり、それは少なくとも中世のポーランドを支配したチュートン(独逸)騎士団まで遡る。チュートン騎士団(独逸人)は、多数の独逸人入植者をもたらし、それが、ポーランドで相當な数の独逸語話者の少数民族となった。その後、1772年にポーランドが「分割」され、つまり、ポーランドの大部分がロシア帝國とオーストリア帝國とプロシャの間で分割され、それが、最後にポーランド人國家の崩壊となった。

プロシャ人の統治下のポーランド人は広範囲に「独逸人化」政策に従属させられたが、彼らはそれを大いに憤慨した。カトリックポーランド人は、第二級市民に格下げされ、ポーランド人とプロテスタントの独逸人の間に激しい憎しみを生じ、現在に至っている。

第一次大戦までにはポーランド人は東西プロシャ両方で主要な少数民族であった。第一時大戦の後、ポーランドは主権國家としてロシア・オーストリア・独逸からの土地で再構成された。つい最近まで自分たちの國だった同じ場所で、多数の民族的独逸人が俄かにポーランドの統治下に住む事になった。ポーランド人は、統治する立場になった今、独逸人を軽蔑と虐待で扱った。ヒトラーと國家社会主義者が独逸の政権に就いて、ダンツィヒの町と回廊の返還の話が取り沙汰されるようになると、ポーランド人と独逸人の間の対立は急激に増大した。独逸人少数民族は、新しいポーランド人領主による暴力的虐待の犠牲者となった。

ポーランド統治下の領土に於ける、ポーランド人と独逸人の間で起こる対立、そして猶太人と独逸人の間で起こる対立の報告は、独逸國内で緊急事態の感覚を現出した。1939年5月ごろから、ポーランド陸軍に守られたポーランド人は、ポーランド回廊に住む民族的独逸人に対して、恐怖政治を仕掛け始めた。ボルシェヴィキ猶太人のならず者も独逸人に対する攻撃を実行した。この時期に、ポーランド政府により奨励された略奪して回るゴロツキにより、5万8千人に及ぶ独逸人が殺された、と推定されている。独逸政府は、國際聯盟に何十回も公式の抗議を申し入れたが、何も為されなかった。ヒトラーは、このことが時を追って心配になり、1939年8月25日、英國大使、ネヴィル・ヘンダーソン卿に、次の様に言った。「ポーランドの挑発行為は我慢の限界を超えた。」独逸人民の指導者として、彼は、虐殺を止めるために何かしなければならない責任を感じ、ポーランドに対する軍事行動しかできることは無いと思った。ポーランドダンツィヒ独逸返還の合意の拒否、並びに独逸の東プロシャと本土を結ぶ國道と鉄道建設許可の拒否は、それら自体がポーランドへの軍事行動の正當な理由であったが、ポーランドに住む無辜の独逸民間人の殺戮は、更に緊急の正當な理由であった。

一方、ソヴィエトは未だ英仏と反独逸の集団的合意の交渉中であったが、この時まではこの話は実を結んでいなかった。ソヴィエトは、このままでは対独戦で一國だけ孤立してしまうかもしれないと恐れ出し、代案を探り始めた。1939年5月3日、スターリンは、猶太人で英仏との集団安全保障提唱者の外務大臣マキシム・リトヴィノフを罷免し、ヴィアチェスラフ・モロトフに交替した。そして彼は直ぐに独逸外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップとの交渉を始めた。ソヴィエトは同時に英仏との交渉も続けたが、最終的にスターリンは独逸との合意を決断した。そうする事により、彼は、来るべき独逸との戦争を1937年の赤軍の幹部粛清により疲弊した軍部の立て直しまで、引き延ばすことを願った。ヒトラーヒトラーで、ポーランドとの戦争は不可避であると悟った。彼は、ソヴィエト連邦と不可侵条約を結び、それにより、独逸陸軍が二正面の戦争に巻き込まれる事無くポーランドを占領できるようにした。ポーランド問題が片付いた後、ポーランドに関して「既成事実」と言う観点から英仏と取引できるだろうと信じていた。ヒトラーは英仏共にポーランドに対する保証に従って独逸に実際に宣戦布告することは無いと信じていた。英仏共に明らかにそのような行動に出られる立場にない状態でそのような一歩を踏み出すことは彼には論外であった。

 

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独外相リッベントロップとスターリンが見守る中 独ソ不可侵条約に署名するソ連モロトフ外相


モロトフ-リッベントロップ条約は1939年8月23日に調印された。公式には不可侵条約であったがこの合意には北欧と東欧の独逸とソヴィエト連邦の間での影響圏の分割を取り決めた秘密条項が含まれていた。ソヴィエト連邦は1772年以来支配してきたポーランドの部分を取り戻すことになっていた。バルト國家、フィンランドエストニア、ラトヴィア、リトアニア、それに、ベッサラビアモルドヴァ)、ブコヴィナ(ルーマニア北部)、ヘルツァ地域(南ウクライナルーマニア國境地帯)もソヴィエトの支配に譲渡された。

この条約のニュースは、世界中の政府指導者と新聞媒体に大きな衝撃と驚きを以て迎えられた。殆どがソヴィエト連邦と独逸の間で交渉が行われていたことに気づいていなかった。彼らは、ソヴィエトと英仏との交渉が行われている事しか知らなかった。世界中の猶太人は、ソヴィエト連邦を國際猶太の基地と見做しており、特にこの条約に衝撃を受けた。彼らは、これをソヴィエトによる裏切りと観た。現実にはこれは、スターリンヒトラー双方にとって、時間稼ぎの策略でしかなかったし、どちらも条約が永続するなどとは見ていなかった。

前ソヴィエト情報局職員のヴィクトル・スヴォロフは、その著書「犯罪者の親方(The Chief Culprit)」でスターリンが独逸と条約を結ぶ中で更にもう一つの計画を持っていたと説明する。彼は記述するには、スターリンは、独逸を占領する事を目論み、それを全欧州を共産主義化する第一歩と考え、ポーランドを分割する事はソヴィエトと独逸が國境を接する事になり、それがこの占領を促進すると考えた。彼は、その証拠として独ソの新しい國境沿いに急速にソヴィエトの軍備を築く提案をした。この軍備は防衛部隊としてでなく、占領部隊として構成・配置されていた。

その間も独波の問題は、悪化していった。しかし、二國の関係は必ずしも敵対的ではなかった。第一次大戦に続く時代、ポーランドの指導者、ユゼフ・ピウスツキ元帥は独逸との和平を求め、1934年には第三帝國(ライヒ)と不可侵条約まで結んでいた。しかし、ピウスツキは、1935年に亡くなり、ポーランドの元帥として取って代わったのが、誇大妄想のリッツ=シミグウィ将軍で、彼は、政府に好戦的で超國家主義的軍人を登用した。リッツ=シミグウィ政権は、独逸人には一切何も応じる心を持っておらず、寧ろ、独逸の國内に領土を広げる構想を抱く始末であった。