ドイツ悪玉論の神話088

1941年6月22日、独逸はバルバロッサ作戦と呼ばれるソヴィエト連邦侵攻を開始した。ヒトラーは、独逸もソヴィエト連邦も遅かれ早かれお互いに戦争は避けられないと理解したと思われるため、それはするかどうかではなく、いつするかの問題であったので、この侵攻を先制攻撃と考えた。ソヴィエト連邦はここ最近、大量の戦車と戦闘機などを含め、軍事力を増強していた。そしてそれは、行く行くは独逸に侵攻する為、以外の理由はなかったであろう。

独逸は、今や二正面を戦っていた。ソヴィエト連邦相手に、と反対側で英國の戦いと。1940年9月14日、ヒトラーの司令部で会議が開かれた。ヒトラーは、英國に対する制空権は未だ確立されていないと結論付け、9月27日または10月8日の英本土上陸の可能性を9月17日に状況を検討する、と約束した。ところが、三日後に独逸空軍が自分たちの英空軍に対する戦果の程度を非常に誇張していた証拠が明白となり、ヒトラーは、このアシカ作戦(Opeartion Sea Lion)を無期限に延期し、ソヴィエト連邦との戦争に集中した。

英國の戦いに勝利した後もなお、ロイド・ジョージハリファックス、それに他の英政府高官は、英國が自國のみでは独逸を打ち負かせないことを理解していた。チャーチルの独逸に対する完全勝利の目的は、特にフランス陥落後、ただ一つの条件においてのみ可能であり、それは、米國英國の味方として戦争に引き出すことが出来る事であった。彼はそれが出来るという強い自信を持っていたに違いない。さもなくば、彼はヒトラーの和平提案を受け入れる以外に選択の余地はなかったはずである。

ルーズベルト大統領は、独逸との戦いに関してはチャーチルと心を一にしていた。そして、彼は喜んで進んで、戦争に引き出された。外交の手順に露骨に違反してルーズベルトチャーチル海軍大臣になるや否や、権限が同じであるチェンバレン首相とではなく、チャーチルと秘密裏に手紙の交換を始めた。この手紙の交換の中でチャーチル米國英國の味方として来るべき独逸との戦争に引きずり込みたいと明言し、その返事としてルーズベルトもまた、彼の目的もそうであると明言した。チャーチルルーズベルトの中に、喜んで加担する共謀者を見出した。両人ともに熱烈に同じこと -独逸との戦争- を欲していたのだった。

ルーズベルトはその言葉と行動で独逸との戦争に意気込んでいることを自分の周りの人間にあからさまにさえしていた。しかし、彼は下院の正式な宣戦布告無しには米國を参戦させることが出来なかったので、それを如何わしい手段ですることを決心した。彼とチャーチルは下院に相談することなく米國を参戦させる策謀を一緒に行った。その時までにルーズベルトは、戦争に反対する者を政権から排除し、それを支持する、中でもハリー・ホプキンスなどを含む者だけを側近にしていた。

1941年1月、ルーズベルトに最も近い顧問の一人でまた問題児、ハリー・ホプキンスは、ロンドンにチャーチルを訪ねた。後日、チャーチルは1941年のホプキンスとの会談について書いている。「輝きのある目と静かな抑制された情熱を以て彼は言った。『大統領は我々が共に戦争に勝利すると決心している。そのことについて誤解してはいけない。大統領は、どの様な犠牲を払っても、そしてどのような手段を使っても貴方を支え続け、やり遂げるだろう、彼に何が起ころうとも、彼に人間としての力が残っている限り彼がしないことは何もない、という事を貴方に伝えるために私をここに送ったのだ。』そこに座っていた彼は、痩せて、弱く、病弱にみえたが、しかし聖なる大義の純粋な含蓄に當に光り輝いていた。それは、他の全ての目的・忠誠心・目標を除外して、ヒトラーの敗北・破壊・殺害の意図を意味していた。」

チャーチル米國を参戦に持って行くために可能な事は全てする、と言う指令を以て、英國代理人、ウィリアム・ステファンソン(スティーヴンソン)、暗号名「Intrepid(恐れを知らない、勇猛な)」を1940年に米國に送った。ステファンソンと300人近くの英國の職員は、ニューヨークのロックフェラーセンターに賃料無料で陣取り、「手紙を盗み見、電報を傍受し、金庫を破り、誘拐し、(中略)噂を流し」、そして、絶え間なく米國の参戦に反対した「孤立主義者」を誹謗した。これは、ルーズベルトは全部知っていたし、ルーズベルトの協力と連邦機関の共同作業した中で続けられた。実際、ステファンソンは、チャーチルルーズベルトの間の直接の連絡係としての役目を果たした。

前章で述べた様に英米両國の猶太人は、反「ナチス」独逸戦争の宣伝工作を総力を挙げて主導し、ステファンソンと「Intrepid作戦」員もこの運動に加わった。米國の参戦と言う彼らの目的に向かう仕事の中でステファンソンとその集団はハリウッドの猶太人も含め、米國の猶太人と手に手を取り合って共に働いたのであった。

ゴア・ヴィダルは、その著書「歴史の映画化(Screening History)1992」(これは米國の自分自身の像がどの様にハリウッドの映画産業により決定され支配されてきたか、についての著書である)の中で、1937年に始まり、米國人は英國の栄光と、その帝國を築いた英雄戦士を称える映画に次から次へと晒されてきた。これらの親英映画すべての制作にかかわった重要人物がハンガリーの猶太人、アレクサンダー・コルダであった。コルダは、第一次大戦前からブダペストで映画会社で働き始めた。共産主義猶太人のベラ・クーンが1919年にハンガリー政府を乗っ取り、猶太人政権を打ち立てた時、彼はコルダを國立ハンガリー映画会社の社長に就かせた。数か月後、クーン政権がホルティ提督によって追放されると、コルダは短期間収監されたが、すぐに釈放された。彼はそれからベルリンに行き、そこで自分自身の映画会社を設立したが。國家社会主義者からの圧力下、結局ロンドンに移住した。ロンドンで、コルダは、郊外の165エーカー(20万2千坪)の屋敷にデンハム映画撮影所を設立し、彼自身の契約俳優の名簿、そこには、レスリー・ハワード、マール・オベロン(後の1939年にコルダの二番目の妻となった)、ウェンディー・バリー、ロバート・ドーナット、モーリス・エヴァンスヴィヴィアン・リーなどが含まれていた)を作った。コルダは、英國の映画産業で指導的な人物となり、デンハム撮影所と同時にロンドン映画の設立者、映画配給会社の英國ライオン映画の所有者となった。(こんなに短期間に無から始めてコルダの様な業界の帝國を築けるのは猶太人しかいない。何故なら、貧乏な非猶太人は彼の様に猶太人資本に近づいて利用する手立てがないからだ。)

前述の様に、チャーチル英國の猶太人とつながりが深かった。戦争の初め、チャーチルは映画撮影所を作るためにコルダをハリウッドに送りこんだ。ステファンソンと同じく、コルダはハリウッドにおけるチャーチル代理人及び宣伝工作員となった。彼の映画撮影所は次々に連続して「小さくても勇敢な英國が悪のナチに立ち向かう」映画を制作し始めた。しかし、ハリウッドではコルダだけが親英・反「ナチ」映画を作っていたのではなかった。これも以前に述べたが、ハリウッドは猶太人に所有され、支配されていたので、コルダの映画と同時に全てのハリウッドの撮影所が次々に連続して、チャーチルの始めたことを抜きにして、親英・反独映画を撮影していたのだった。ハリウッドの猶太人は、他の有力な猶太人と協同して既に総力で反独逸の宣伝工作戦に従事しているのだった。しかしコルダの立場は、彼が殆ど英國政府の代理人であったことや、英國の味方としての米國の参戦が目的の高度に調整・統制された米國内の宣伝工作機関の重要な部分を担っていたことから、他には類がなかった。

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