ドイツ悪玉論の神話087

英國には、ウィンザー公(前の國王エドワード7世)、アスター女史、ジェフリー・ドーソン(ロンドンタイムズの編集者)、ロージアン侯爵、マンチェスター公ハミルトン公らも一員の「クリヴデン・セット[1]」として知られる親独エリート主義の集団があった。クリヴデン・セットは、独逸との友好関係を好み、國家社会主義者もこれらの人々と長く交流の絆を維持した。

ルー・キルツァーによると、「チャーチルの欺瞞」の本の中で、ヒトラーの総統代理、ルドルフ・ヘスは、クリヴデン・セットと接触し、1941年5月10日にヒトラーの指令でクリヴデン・セットを通じて英國との和平交渉を試みるために。英國に飛んだ。

[1] 原文はClivenden Set(クリヴェンデン・セット) Cliveden Setの間違いと思われる。
クリーデン(クリヴデン)セットは、英国の第二次世界大戦前に政治的に影響力を持っていた著名人の1930年代の上流階級知識人の仲間。彼らはナンシー・アスターアスター子爵夫人)のクリヴデン(英国バッキンガムシャー)の邸宅における集会に通った仲間であったことからこの呼び名がある。

 

この出来事の公式の宣伝工作では、精神的に狂ったヘスが、彼の独断で1941年5月にメッサーシュミットスコットランドに飛ばし、ハミルトン公に連絡を取ってチャーチルとの和平交渉を設定してもらう、という気まぐれでドン・キホーテの様な使命を決行したことを主張している。彼が、パラシュートでレンフルーシャーの、公爵の屋敷からたった8マイル(13キロ)の地点に降下した時、彼は、農場労働者により、干し草用の三俣で逮捕され、監獄に連行された。報告によると、ヒトラーはヘスの愚かな使命の事を聞いて、激怒し、喚きたて、狂乱の発作を起こし、そしてヘスを止めるために飛行機を緊急発進して撃ち落とそうとまでした、とされている。

キルツァーは、それはそうではなかったと言う。キルツァーによるとヒトラーは、この使命に参加しており、ヘスはこの大胆不敵な平和使節に於ける忠実な代理人だった。1991年のソ連の崩壊の後、28ページからなる、ヘスの長年の副官のカールハインツ・ピンチュ少佐所有の帳面がロシアの公文書の中に見つかり、それは、キルツァーの出来事の説明を支持している。この帳面の中でピンチュはヒトラーが「英國人との合意が成功する事」を願ったと書いている。ピンチュは、ヘスの任務は -独逸のロシア侵攻5週間前であり- 「対ロシアに関して、独逸の英國の軍事同盟が無理なら、英國の中立をもたらす事」と特筆している。

ピンチュは、戦争末期にロシアに捕らえられ、何年も投獄されて、そこで取調べ中に生涯に亙って後遺症が残るような残虐な拷問を受けた。彼は、その後ナイフもフォークも持つことが出来なくなった。ピンチュの取調べ記録がその帳面と同じ公文書の中から見つかったが、それによると、ヒトラーは、ヘスの捕縛の知らせが届いたときにも驚かなかった。(中略)それに、ヘスがしたことに喚きも狂乱もしなかった。そうではなく、ヒトラーは、冷静にヘスの使命の賭けと危険性について論評し、ヘスが離陸前にヒトラーに送った手紙を大きな声で読んだ。ヒトラーがヘスの手紙から読んだ内容は、「そしてもしこの計画が(中略)失敗に終わったら、(中略)貴方はいつでも全ての責任を否定することが出来ます。単に私が気が触れたと言えばよい。」

任務は失敗に終わり、ヒトラーチャーチルもヘスが狂ったと主張した。この使節が失敗したのは、チャーチルがはなから独逸と和平をする意図が微塵もなかったからである。ヘスは、英國の陸軍将校の取り調べを受けた。その段階では、彼は、「ハミルトン公に極秘の重要な伝言を持っている」と言い、公爵に即刻遭わなければならないと言った。公爵はヘスと会い、そして、ヘスとの会話の内容をチャーチルに話した。

ヘスは、それから監獄に急き立てる様に送られ、その後誰と話す事も許されなかった。ヘスの飛行については、5月12日にミュンヘン放送により最初に伝えられたが、彼の目的地についても或いは運命についても伝えられることは無かった。農場労働者によるヘスの捕縛については、英國で広く伝えられたが、彼の任務については説明されなかった。彼は、英独両國から狂人として見捨てられた。

ヘスは、戦争中は常時監視の下、英國の精神病施設で過ごしたが、戦後ニュルンベルク裁判で終身刑を言い渡された。しかし、どの様な罪で?彼は誰も殺していないし、殺す命令もしていない。彼は戦争にすら参加していない。彼もまた、猶太人の復讐、つまりニュルンベルク裁判がそうであったところの猶太人の復讐の悲劇的な犠牲者なのであった。ヘスは、ベルリンのシュパンダウ刑務所で40年間、常時監視下で過ごした後、疑わしい状況下、93歳で死亡した。彼は、生涯誰と語ることも或いは書くことも許されず、一度息子が訪ねてきた時も息子に触れる事すら許されなかった。これは想像を絶する残酷さである。

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