ドイツ悪玉論の神話068

同じ日、3月15日、独逸の陸軍は無抵抗の中、進駐した。翌3月16日、ヒトラープラハに行き、フラッチャニ宮殿から正式にボヘミアモラヴィアが独逸の保護國になったことを宣言した。ボヘミアモラヴィアは、ライヒの保護管コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵の監督の下に置かれ、独逸の公務員が閣僚と同じ様に政府の機関に配置された。ゲシュタポが警察の當局を引き受けた。ヒトラーは、既存のチェコ人の公務員に対して大多数が職に留まるようにし、退職には年金をつけることを許すなど、際立って思慮深かった。

ボヘミアモラヴィア(前のチェコスロヴァキアの残り地)を占領しなければ、災難が起こったであろう。独逸は、共産主義の脅威に対抗して欧州の全域の為に防波堤として立ちはだかったのだった。独逸のみが共産主義を海岸で抑え、欧州を席巻するのを防いだのだった。共産主義ボヘミアモラヴィアの奪取は、言うまでもなかった。

ボヘミアモラヴィアには独逸の占領當時、11万8千人の猶太人が居り、大半がプラハに住んでいた。独逸人が越してくると、猶太人は公務員から除外され、超法規的立場に置かれた。國際猶太の新聞は、當然、「ナチス」に対する辛辣な誇張の激しい垂れ流しで反応した。しかし、ヒトラーは、では、どうすべきだったと言うのか?國際猶太は、その時もなお、独逸に対抗する「聖戦」に従事していた。そんな状況下で独逸が、裏でコミンテルンと組んで独逸の統治を弱体化し、妨害するに違いない多数の猶太人をチェコスロヴァキアの政府に残すことは、愚の骨頂だろう。共産主義は禁止され、チェコ共産党(大多数が猶太人)は國を去った。共産党とあからさまには提携していない大多数の猶太人も去った。

 

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ヒトラーは、独逸の保護國にすることで、チェコスロヴァキア共産主義から救った。写真はチェコのブルノの街で庇の言葉は 「指導者に感謝します」とあり、ヒトラーは熱烈に歓迎された。


第一次大戦の戦勝國として英仏は、戦後処理の他の条約同様、ヴェルサイユ条約の執行者の役割を自任していた。米國は、欧州から撤退しており、そのような役割は負っていなかった。独逸は、ヴェルサイユ条約の条項を本心から受け入れたことは無かったが、強要されて署名しただけだった。条約は独逸に対して力によって課せられ、独逸は道義的にそれに縛られる義務はなかった。更に、条約の重い条項は、独逸にとって破滅的で、ヒトラーが政権を執る迄、独逸の人々の生活に害毒を及ぼし続けた。ヴェルサイユ条約の重すぎる条項が永続的に続く事を期待するか、或いは独逸が抗議無しにそれを容認し続ける事を期待するのは、理不尽であった。遅かれ早かれ、ヒトラーの在不在にかかわらず、それは終焉を迎えるべきであった。ヒトラーは、首相に就任した時に英仏の断固として執行する決意にも拘らず、条約を破棄する事を公言した。彼は、条約が不公正で不正で、故に道徳的に強制力を持たないと信じ、そう信じるのは彼だけではなかった。多数の名声のある、影響力のある人々がこの問題に関して独逸の味方であった。例えば、ジョージ・バーナード・ショーは、次の様に語った。

「(ヴェルサイユ)条約を告発するために独逸が必要としていたのは、毅然とした、頭脳明晰な指導者だけであることは、明白であった。列國との完全な平等を断固として主張する事を宣言し、武装解除、賠償と戦争責任懺悔にかこつけた搾取と非難を拒否し、母國語が独逸語である全ての生きる人を指導者の下に呼び集め、そして同時に英仏米は何れも、過去のポーランド分割を真似たように独逸の領土の軍事占領を試みることによって、人類を憤慨させるようなことが出来ない、という事を独逸が証明する事により、欧州の平和に向けて偉大な歩を進め、要するに、欧州を戦争に突っ走らせるのではなく、独逸により、戦争の瀬戸際から引き戻されるであろう、という事だ。」

英仏は、常識に反し、ヴェルサイユ条約の条項に対するいかなる違反も戦争を挑発する事であるという立場を取った。この不条理な立場は、英國ウィンストン・チャーチル、アンソニー・エデン、ハリファックス閣下、ダフ・クーパー、ロバート・ヴァンシタートとその他数名の「開戦派」により、攻撃的に奨励されたが、それと同じくらいの数の人々が、ヒトラーの行動には、正當な理由があると信じた。ヒトラーは、英仏共にもう一度、血なまぐさい戦争をする肚は無いだろうと賭けつつ、条約への抵抗を続けたのだった。

ヴェルサイユ条約の意図は独逸の領域と力を減じ、独逸を抑え込んでおくことにあった。チェコスロヴァキアの正義の下に独逸との戦争を声高に叫ぶ者は、不誠実であり、独逸の占領を戦争の口実に使うのであった。同時に独逸のズデーテンラント占領は、反独逸の要素(特に國際猶太)に恐怖心を植え付けたが、ポーランドによるボヘミアのチェスキー/テシン(Czeski Cieszyn)占領には何も懸念しなかった。チェコスロヴァキアのこれら二つの地域にはポーランド人が多く住んでおり、ポーランドは独逸がズデーテンラントを占領したのと全く同じ理由で占領したのである。同様に、ハンガリーが同じ頃にハンガリー人が多く住む南スロヴァキアを占領した時も、何ら騒ぎは起きなかった。しかし、独逸の行動(だけ)は、戦争の原因を助長したとされたのである。

英國でも独逸でも、ウィンストン・チャーチルとその仲間の「戦争屋」ギャング、それにチャーチルを操った猶太人戦争屋以外、誰も戦争など望んでいなかった。チェンバレン首相がヒトラーとの会談から戻って来た時、彼は、國会で「戦争は起きないだろう」と発表した。英独両國で人々が神に感謝し、幸先の良い結果を祝福していたがその一方で、チャーチルを含む策略的な戦争屋は、それ(平和)を裏から毀損する事に勤しんでいたのだ。一週間もたたないうちに猶太人支配の新聞は、チェンバレンを誹謗し、潰しはじめたのだった。

 

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1938年ポーランドの戦車がチェコスロヴァキアのチェスキーとテシン(Cieszyn)を占領した。 独逸はズデーテンの占領を厳しく批判されたのにポーランドは同様の行動に全く批判されなかった

(次回よりポーランドとの戦争、いよいよ第二次大戦直前~勃発まで、です)

 

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