ドイツ悪玉論の神話086

フランスの陥落

英國軍が居なくなったので独逸はフランスに対する最後の制圧を始めた。6月12日までに独逸の戦車がソンム川沿いの主要前線と強化されたマジノ線を突破し、目的地パリに肉薄していた。この間、英國は如何なる犠牲を払っても抵抗するよう、フランスを精力的に励ました。今や首相となっていたウィンストン・チャーチルすらパリに飛んできて個人的励ましを申し出たが、それでも英國の軍事支援は申し出なかった。

この時までに、フランス陸軍の規模は、およそ半分まで減少してしまい、フランスの指導者も降伏は避けられないと観念してしまった。フランス政府はパリを放棄し、自由都市宣言した。これで独逸は6月14日に無抵抗の内に入城できた。レノー首相以下、フランス政府は南のボルドーに飛び、その後レノーは辞職した。新しい政府は第一次大戦の英雄ペタン元帥を首相として編成された。ペタンの最初の動きは、停戦の依頼であった。6月17日、ペタンはラジオ放送で全ての抵抗の停止を命令し、それからフランス陸軍は独逸軍に降伏した。

 

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1940年6月22日ヒトラーと閣僚・将校-停戦合意の行われる車両の前にて コンピエーニュ近くの森-それは第一次大戦で独逸が停戦合意した同じ場所だった


1940年6月22日、フランスは独逸との停戦合意に署名した。1918年の独逸の敗北以来、フランスが独逸にしてきたことに鑑み、ヒトラーは、仕返しにフランス人を侮辱したい気分だった。彼は、停戦合意の書名は、コンピエーニュの森の列車の中で行なうように主張した。これは、1918年に第一次大戦を終えるために独逸がフランスに降伏した場所であった。1940年の停戦の条件は、フランスを占領地区と非占領地区に確固たる國境線で分けることだった。独逸は、北と西フランスと大西洋岸、全土の三分の二を支配し、一方、残りの部分はヴィシーで、ペタン元帥の下、フランス政府によって統治されることとなった。

他の停戦条項には、10万人の國内治安維持兵力を残してのフランス陸軍の解体を含んでいた。(これは、ヴェルサイユ条約によって独逸に課せられたのと全く同じ条件であった。これは、偶然の一致ではあり得なかった。)独逸の捕虜となった150万人のフランス兵は、戦争捕虜として残ることとなった。フランス政府は、また、フランス軍人が國を去ることを阻止する事にも合意し、市民に対して独逸人に対して戦わない様に指導した。最後にフランスは独逸軍の占領の経費を負担する事を求められた。

6月23日、ヒトラーは、建築家アルベルト・シュペーア、彫刻家アルノ・ブレーカー、建築家ヘルマン・ギースラー他と、占領した街の短い観光旅行にパリに飛んだ。旅程にはエッフェル塔パリオペラ座、凱旋門、そしてナポレオンの墓などが含まれていた。三時間の旅行は、モンマルトルのサクレ・クール教会訪問で終わった。ヒトラーはそれまでパリを訪れた事が無かった。「パリを見ることを許されることは私の人生に於ける夢であった。私は今日その夢が叶ってどんなに幸せか、言い表すことが出来ない。」とヒトラーシュペーアに語った。

 

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フランス陥落後、アドルフ・ヒトラーはパリを訪れた アルベルト・シュペーアヒトラーの左に写っている


 

ヒトラー英國に和平提案をする

フランス陥落後、ヒトラー英國に再び和平提案を行ったが、単に無礼にもチャーチルに拒否されただけだった。チャーチルポーランド戦争の後、ヒトラーとの平和交渉に反して(閣内で)戦ったので、今は首相として、どの様な状況に於いてもヒトラーとの平和交渉の如何なる提案にも頑迷に抵抗するのであった。これは、何にも況して、チャーチルの偉大さの基礎であるはずだった。 -彼は、勇敢にもそして困難をものともせず、ヒトラーに反する姿勢を貫いた- 一見したところ、理屈に合わないが。万策尽きて、英國との和平の試みを再三再四拒絶された後、ヒトラーは、残されたただ一つの事、-それは、英國の侵攻に備える事であった- をした。1940年8月1日、彼は諦めて、英國への海からの侵攻に備えて、独逸空軍に英國空軍を機能不全にするように命令した。

英國の歴史家、ベイジル・リデル=ハートによると、命令を出した後、ヒトラーは、続いてその、英國の戦いとして知られる航空戦には殆ど関わらず、全てを空軍の長であるヘルマン・ゲーリング元帥の手に委ねてしまった。ヒトラーは、人生を通じて英國の熱烈な尊敬者であり、英國との戦争を望まず、英國を屈服させるこの作戦に本気とは到底思われなかった。もしゲーリングがこれを成し遂げてくれれば、それはそれでよいが、彼がそれを「成し遂げない」という現実も「ヒトラーをそんなに悩ませることは無かった。計画全体が彼には不愉快であった。彼の本来の計画は、ソヴィエト連邦への侵攻であった。彼は、英國についてどうすべきか、と言う主題にソヴィエト連邦を始末した後で戻って来たであろう。リデル=ハートの本、「丘の向こう側(The Other Side of the Hill)」(1948)によると、
「その時は、我々は、英國の戦闘に於いて独逸空軍を撃退できたことが英國を救ったと信じていた。それは、説明の一部、最後の部分に過ぎない。もっと深い當初の理由は、ヒトラー英國の征服を望まなかった事だ。彼は侵攻の準備にほとんど興味を示さず、何週間にも亙ってそれを激励するために何もしなかった。そして、短い間、侵攻の衝動があった後、再び、急変し、準備を中断したのだった。彼は、英國ではなく、ロシアへの侵攻の準備をしていた。」

1940年の終わりに歴史家ポール・ジョンソンが書いている。「英國爆撃機は大規模にそして、規模をさらに大きくしつつ、独逸の民間人を独逸本土で脅し、殺す為に用いられている。」チャーチルは、軍事標的の爆撃ではなく、出来る限り多数の民間人を殺し、その住宅を奪うために、独逸の街の中心部と特に人口密集地域の大規模の重爆撃機による爆撃を命令した。

その報復の為に、独逸は遂に1940年9月7日、ロンドンの非軍事標的を爆撃し、それは306人を殺した。その時までヒトラーは、独逸空軍に民間人を標的にしないように命令していたが、度重なる英國に拠るベルリンを含む独逸の町の攻撃により、そうせざるを得なくなった。ヒトラー英國に和平の説得を試みる間、英國の独逸の町への攻撃は増大した。

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