ドイツ悪玉論の神話064

第十七章 独逸のズデーテンラント併合

チェコスロヴァキアは、第一次大戦に続く平和条約で造られたものだ。當時、既に消滅していたオーストリア=ハンガリー帝國の残存地域をまとめた新しい國家である。この新國家の人口は、745万人のチェコ人、230万人のスロヴァキア人、72万人のマジャールハンガリー)人、56万人のルテニア人、30万人の猶太人。10万人のポーランド人...、そして、全体の大方四分の一を占める320万人の独逸人であった。

ウッドロウ・ウィルソンの「全ての人民の自己決定権」は、民族的に同種の國民國家それ自体を表すはずであり、その意味でチェコスロヴァキアはウィルソンの「自己決定権」に反するものであった。これらの本質的に異なる國民全てを一つの國家に組み込むことは不安定と利害をはなから内包していた。(「多文化共生主義」がなぜそんなに一般的な考えなのか、不思議な人もいるだろう、何故なら、それは再三再四、上手くいかないことが証明されているからだ。)

 

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陰で示された部分がチェコスロヴァキアにおける独逸人の居住地域、ズデーテンラント


チェコスロヴァキアにおける独逸人人口は、主にその独逸と隣接した西側の地域、ズデーテンラントとして知られる地域に固まっていた。これらのズデーテン独逸人は、何世紀にも亙ってそこで生活しており、オーストリア=ハンガリー帝國の中でも繁栄していた。これら、勤勉で細かいこだわりのある独逸人は、地域全体に繁栄する農場、生産性の高い鉱山と木材業と共に、時を経て大変秩序だった社会を発達させた。ズデーテンラントはまた、19世紀から20世紀初頭に大規模化学工業、褐炭鉱山と同時に繊維・磁器、ガラス工房(工場)などにより、高度に工業化された。ズデーテンラントは、舊オーストリア=ハンガリー帝國の中で、最も裕福で生産性が高く、ズデーテン独逸人はずば抜けて成功した裕福な民族集団であった。これは、チェコスロヴァキアの新しい國家に於いてもそうであった。ズデーテンラントに於いては、人口の39%が工業に従事し、農業はたったの31%だった。それに比べて、チェコスロヴァキアの他の地域では、大多数が農家であった。全ての大工場が独逸人に所有されており、独逸人所有の銀行の傘下であった。

 

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繁栄していた独逸人の農場


この地域は何世紀に亙り、独逸のハプスブルグ家が統治してきた。なので、統治者は常に独逸人であり、公用語も常に独逸語であった。チェコ人と独逸人は、この、以前はボヘミアとして知られていた地域で何世紀も一緒に暮らしてきたが、彼らは別々の文化的・教育的・政治的そして経済的体制を発達させ、それらはお互いに分離を維持してきたのだった。二つの集団はうまく混ざらなかった。そしてこの地域は、百年以上に亙り、チェコ人と独逸人の間の絶え間ない紛争を見て来た。1919年のサン・ジェルマン条約で造られた、新しい人口國家であるチェコスロヴァキアは、今は多数派のチェコ人に統治され、それは、基本的に320万人の独逸人を以前の臣民であるチェコ人に統治される立場に引き下げた。チェコ人は、以前の自分たちの上の人間に替わって殿様顔する事に大きく満足したが、独逸人の状況は急速に非常に厳しくなった。1919年、60万人に上る独逸人が、新政府によるチェコ人入植の為の方策により、生活基盤を剥奪され、彼らの数百年に及ぶ入植地を去ることを強要された。

ズデーテンの独逸人は、オーストリアから分離したいとは更々思っていなかったし、この新しく造られた國に帰属したいとも決して思っていなかった。彼らが実質的に外國で少数民族として抑圧されるに従い、今や彼らが最も恐れていたことが現実となりつつあった。彼らは、ウィルソン大統領の14箇条の第10条に従って自己決定権を主張し、自分たちの地域がオーストリアと再結合することを要求した。オーストリアは、勿論、同様に独逸民族であった。チェコの陸軍(今ではチェコスロヴァキアの陸軍)は、既にズデーテンラントを占領する為にチェコ語を話す兵隊を大挙進駐させていた。この地域は数世紀に亙って確実に民族的に独逸人であり、チェコ人による急激な占領は、一触即発の状況を作った。

1919年3月4日、ズデーテンラントの独逸人は、ほぼその全ての人口を以ってチェコの占領に抗議し、自己決定権を求めてデモをした。このデモは、一日間のゼネストを伴った。チェコの軍隊は、即刻襲い掛かり、デモを残虐に蹴散らした。54人の独逸人死者が出て、他に84人がけがをした。独逸人は、チェコ人の残虐さに衝撃を受けたが、彼らは法を守って、ストを終えると仕事に戻った。しかし、いつでも暴力を爆発させようと脅すチェコ人に対する逆巻く、くすぶる敵意を抱き続けた。これらチェコ人による残虐な独逸人殺しはズデーテンラントの独逸人の國家主義的・分離主義的感情を増幅するだけだった。彼らは、自身をチェコスロヴァキアから分離してオーストリア再帰属するか、独逸に併合されるかを望んだが、それを除外すれば、できるだけ多くの自治権を獲得することを望んだ。しかし、1919年9月10日のサン・ジェルマン条約は、明確にズデーテンラントのオーストリア亦は独逸との統合を禁じ、同地方がチェコスロヴァキアの一部分として残ることを確認した。この決定が常識に反すると思うなら、これらの条約は独逸を分割して独逸人が再び結束して欧州の超大國になる事を妨げる目的であったことを想起しなければならない。だから、ズデーテン独逸人は、オーストリアにも独逸にも帰属することは許されず、彼らの意思に反してチェコスロヴァキアの臣民として残ることを強要された。

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