ドイツ悪玉論の神話080

1939年のポーランドは独逸陸軍より大きな陸軍を持ち、高度に軍國化していた。更に、上述の様に、ポーランドの新しい指導者は、独逸に対して侵略的な態度を持った軍人であった。英仏の「額面無しの小切手」保証に支援されて、ポーランドは挑発行為さえ始める始末だった。戦争の勃発に先立つ数か月、ポーランド陸軍は繰り返し独逸の國境を侵していた。ポーランドの非正規兵と独逸の正規兵・予備兵による衝突が独波國境沿いで頻発し、その全てが独逸領土側であった。ポーランドは1939年3月に部分的動員すら実施し、そして遂に1939年8月30日、総動員の命令を出した。(ジュネーブ条約に依ると動員は宣戦布告と同等の行為である)1939年8月21日の夜、國境沿いの独逸人の町グライヴィッツの攻撃を含め、多数のいざこざがあった。(グライヴィッツ事件は戦後ニュルンベルク裁判に於いて顕著に目立つこととなった。)

次の日、1939年9月1日、独逸軍はポーランドに侵攻した。同じ日、ヒトラーは議会で演説した。「ここ何か月もの間、我々は、ヴェルサイユ命令が作り出した問題の拷問に苦しんで来た - 問題、それは我々の堪忍袋の緒が切れるまで悪化する一方であった。ダンツィヒは、独逸の町であったし、今もそうだ。回廊も今も昔も独逸のものだ。これら両方の領土はその文化的発展を専ら独逸の人々に負っている。ダンツィヒは我々から分離され、回廊はポーランドに併合された。他の東方の独逸領土と同じく、そこに住んでいるすべての独逸人少数民族は、最も憂慮すべきやり方で虐待されてきた。

...和解調停の提案が失敗したのは、まず、その間にポーランドの急な総動員と言う答えが来たからであり、次にポーランド人に依る残虐行為だ。これらは昨夜も繰り返された。最近、一夜で21回もの國境紛争があった。昨夜は14回でうち三件は重大なものであった。だから、私はポーランドに対してポーランド人自身がここ何か月に亙って我々に向けて発した言語と同じ言語を以て話す決断をした。

今夜、ポーランドの正規軍が初めて我々の領土に向けて発砲した。午前5時45分を以て、我々は撃ち返しを始めた。そして、これから先は、爆弾には爆弾で応酬する。毒ガスで戦うものには毒ガスを以て戦うであろう。」

独逸のポーランド侵攻から二日後、ポーランド回廊の独逸の町ブロンベルクで虐殺が起きた。その虐殺は、侵攻前に既に起きていた虐殺の典型であった。この、「血の日曜日」と呼ばれる虐殺で、5千5百人の独逸人が豚の様に殺された。子供は、小屋に釘で張り付けられ、女性は強姦された後、斧で叩き切られて殺され、男は殴られて、叩き切られて殺された。328人の独逸人がブロンベルクプロテスタント教会に集められた後、教会に火が放たれた。328人全員が焼け死んだ。

英國の宣伝工作員にホウホウ卿とあだ名されたウィリアム・ジョイスは、独逸市民となり、独逸のポーランドに対する正當な理由を取り上げた。彼は、舊独逸領でポーランド領となった地域に住んでいた独逸人の恐るべき状況について、彼の著書「英國の黄昏(Twilight Over England)」の中で記述している。次に示すのは、ブロンベルクで何が起きたか、についての彼の記述である。

「独逸人の男女は、ブロンベルクの街路を通して、野獣の様に狩られた。捕まると、彼らは、ポーランド人の暴徒に手足を切断され、更にバラバラに裂かれた。(中略)日ごとに殺しは増加した。(中略)何千人と言うポーランド在住独逸人が自分の家から着の身着のまま、逃げ出した。(中略)8月25日から31日にかけての夜、独逸血統の民間人に対する数えきれない攻撃に加え、44件の完全に正真正銘の独逸人の公務員と財産に対する軍隊による暴力が起こった。」

ポーランドの占領はモロトフ-リッベントロップ条約が調印してから一週間後に起きた。1939年9月3日、ヒトラーが非常に驚いたことに、英仏が独逸に対して宣戦布告した。彼らには、全くポーランドに介入する術がなかったにも拘らず。

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ブロンベルクで殺害された独逸人 プロテスタントの教会で埋葬される直前

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略奪暴徒のポーランド人に 夫を殺害されて泣く独逸女性

 

9月3日には、チェンバレン首相により、ウィンストン・チャーチル第一次大戦中に続き、海軍大臣として閣僚に復帰した。何につけ話を戦争に持って行く、ヒトラーに対する好戦的なチャーチルの警告は、今や彼をして多くの人に、彼が先見の明があったように思わしめたのだった。9月17日、ソヴィエト連邦が反対側からポーランドに侵攻した。ソヴィエトのポーランド侵攻については、英仏から何も反応がなかった。ソヴィエトは、独逸がしたことと全く同じことをしたのに、である、しかも、独逸の様な正當な理由もなく。という事は、ソヴィエトによる占領の方が、独逸による占領よりもさらにひどい事であったはずだ。これが、英國の独逸に対する宣戦布告の理由の欺瞞を示す。独逸によるポーランド占領は、英國の必要としていた戰爭の口実を与えただけだった。それは、「開戦理由」には當たらない。ポーランド戦は、10月6日に独逸とソヴィエト連邦ポーランドを分割して併合する事で終わった。

ここで挿話として、ポーランドを占領したロシアに対するポーランドの猶太人の反応を書いてみよう。欧州全域で猶太人はソヴィエト連邦を「猶太人にとって良い」として、ソヴィエト連邦に対して好ましいとする傾向があった。アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、その著書「200年間共に(Two Hundred Years Together)」でソヴィエトがポーランドを占領した時の事を書いている。「ポーランドの猶太人、特に猶太人の若者は、進軍する赤軍に狂喜の熱狂を以て遭遇した(1919年にソヴィエトが占領した時の様に)。」ポーランドの猶太人によるソヴィエトの侵略者の熱狂的歓迎は、ポーランドの愛國者を怒らせ、それは、後年、ポーランドの反猶太的態度の主要な見地となった。猶太人は、後にリトアニアや他のバルト諸國、それに他の中東欧の諸國を占領した時もソヴィエトの軍隊を全く同様に歓迎した。戦後、ソヴィエト連邦が東欧と中央欧州を支配した時、全員が猶太人の政権が、これら全ての國で打ち立てられたのであった。

ヒトラーポーランド侵攻は、第二次大戦の始まりとして知られるが、それはヒトラーが意図したことではなかった。ヒトラーポーランドと戦う事すら望んでいなかったし、況してや世界大戦など、想定外だった。ヒトラーは、あらゆる試みをしてダンツィヒ返還とポーランド回廊通過の交通手段などのポーランドとの間の紛争を外交的に解決しようとした。実際、ヒトラーは単にポーランドとの紛争解決以上のことを望んていた。彼は、ソヴィエト連邦に対抗する反コミンテルンの協定においてポーランドと同盟を望んでいたのだ。それは、彼が既に日本との間で締結していたものだった。ポーランドソヴィエト連邦を敵と観ており、反コミンテルン協定は、実際にポーランドの利益となったはずだった。彼らはそれを拒否したのは、本當に愚かだった。

ポーランド人は、多くの理由から頑なに独逸との交渉を拒否し続けた。先ず、ポーランド人と独逸人は相互に敵意を何世紀にも亙って持っていた。ポーランドを統治していた軍人将校は、自分たちの軍事力に対する誇張された自信に満ちた、誇り高き武士であった。英仏と米國が一緒になってポーランドヒトラーの要求に抵抗するように圧力をかけ、最後には、チェンバレン英首相が気が狂ったようにポーランドに頼まれもしない戦争の保証をし、ヒトラーが占領したら独逸に宣戦布告する約束をし、そしてフランスにも同様にするように話した。1939年の3月から8月にかけてヒトラーダンツィヒ問題でポーランドと合意のため交渉に最善を尽くした。そしてヒトラーの要求は、理不尽からはかけ離れた(理性的な)ものであった。しかしポーランド人は英仏の戦争保証に自信をつけて、傲慢にも拒否した。それに付け加えて、ポーランド領内の独逸民間人の虐殺による挑発があった。最後に、万策尽きて、ヒトラーは、スターリンと取引し、二國でポーランドを占領・分割した、という事だ。

ポーランドは、ヒトラーと平和的合意を締結していた、と仮定して、何を失っただろうか? 独逸の町ダンツィヒ、これは、國際聯盟の監督下に置かれていたので、ポーランドに帰属してはいなかったが、この町だけが独逸に返還された。独逸は、東プロシャと再接続する為に以前の独逸領であるポーランド回廊に國道と鉄道を建設する事を許された。それで全部だ! 紛争の平和的解決によりポーランドは何も失わなかった。しかし、現実の歴史に於いて、紛争の平和的解決を拒否した代償は、数百万人のポーランド人が殺され、國の大部分が破壊された世界大戦とそれに続く50年に及ぶナチスとソヴィエトの占領であった。もしポーランドが妥協していたら、第二次大戦は無かったし、冷戦もなかった、朝鮮戦争ヴェトナム戦争もなかった。そして、東欧もソヴィエト連邦に依る恐ろしい占領と支配から逃れられたのである。

(次回から本格的に第二次大戦の戦闘の歴史となります)

 

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