ドイツ悪玉論の神話052

ヒトラーが独逸経済を復活

非常に短い期間で、ヒトラーは歴史上恐らく最も偉大であった、そして今でもそうである経済の方向転換を企てた。人民は飢餓から完全雇用となり、非常に繫栄したので、普通の労働者でも休暇を与えられ、独逸労働戦線、つまり官営労働組合からの支払で海外旅行をした。独逸は、絶望的な破産から大々的に復旧した、そして拡大さえするインフラへと変貌した。世界で最初の高速道路網「アウトバーン」は、輝ける事例だった。フォルクスワーゲン、その意味は「人民の車」はもう一つの事例だ。アイゼンハワー将軍は独逸のアウトバーン網にすっかり魅せられ、後年大統領になった時、米國での高速道路網を事業化した-これは、独逸のアウトバーンの焼き直しであった。ヒトラーはまた、「アウタルキー」政策、つまり國内「自給自足」を推し進めた。つまり、独逸は輸入を制限し、自國の消費財を出来得る限り自國で生産する、という事だ。ヒトラーは、独逸を回復不能と思われた深い恐慌から欧州で最も生き生きした経済に変身させたのである。

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フォルクスワーゲン(人民の車)が大量生産を開始した


ヒトラーの政権は、失業者を就任時1933年1月の6,014,000人から1936年9月には338,000人未満まで激減させた。同時に賃金は劇的に増加した。独逸の貿易は繁栄し、都市や地方政府の赤字も殆ど消えた。公式の歴史文献に反して、軍備の支出はこの時点まで少ししか増加しておらず、独逸の経済復興には全く貢献していなかった。これ(軍備増強)は、その後で来た。

最初に主に公共事業の政府の支出増加により失業者が排除された。鉄道、道路、造船所、公共の建物など、独逸の基本的な基幹施設(インフラ)は、改良され、拡張された。更にまた、私企業の事業計画への間接的な政府支援もあった。同時に税制は、労働者をもっと雇い入れる誘導政策をつくる為にしっかり減税された。賃金の上昇が國内経済に注入され、それに続いて消費支出の増加が起こった。そしてそれ自体が新たな仕事の増加を呼んだ。ヒトラーの「アウタルキー」(自給自足)政策は、長期的経済成長に必要な「國富の創造」の仕事を製造業に創る効果をもたらした。1936年までに、特に建設と冶金産業に労働者不足が起こった。

チャールズ・リンドバーグ、アン・モロー・リンドバーグ夫妻がこのころ独逸國内を広範に旅行している。リンドバーグはその自叙伝「Autobiography of Values」の中で次の様に記述している。「独逸の組織化された活力は、私が最も印象深かったことだ。止む事のない人々の活動、そして新しい工場、空港、研究実験設備をつくる確固とした独裁的方向性など...」

彼の妻も同様の結論を引き出している。「...私はこれまで人生でこんなに方向性が定まった力を意識したことは無い。人々の、特に若者の活力、誇り、そして士気がはっきり表れていると解って、わくわくする」と、著書「Flower and the Nettle」に書いている。

金融の締め付けを含む國際猶太の独逸排斥運動の影響に対抗するために、ヒトラーは、猶太人所有の中央銀行から借りずに、単に独逸政府による新通貨の発行によって國際金融家を回避した。この新しい通貨は金本位ではなく、独逸政府の信用によるものだった。この新マルク通貨は本質的には政府に納めた労働と物品に対する領収書であった。ヒトラーは、「発行された全てのマルクについて、同等の価値の仕事が為されたか、或いは、同等の価値の製品が生産された、という事だ。」と言っている。政府は労働者にこの新マルクで支払い、労働者は、同じマルクで他の製品や役務(サービス)を支払う、この様にしてより多くの仕事をより多くの人々に作った。この様にして独逸の人々は、國際金融家(猶太人金融家のこと)によって彼らに課せられた圧倒的な借金から這い上がったのだった。2年の内に独逸は自力でやっていける様に復興した。独逸は、堅固で安定した、借金もインフレもない通貨を持った。

独逸は、國際猶太金融の独逸に対する外為信用状の拒否や猶太人所有の産業や海運の世界規模の排斥運動にも拘らず、外國貿易ですら何とか復興した。独逸は、排斥運動と資本の締め付けを他國との物々交換網による、直接の施設と商品の交換によって回避し、それは金融機関を完全に(金銭回収の)循環から切り離してしまった。猶太人の排斥運動は実際問題、自身に跳ね返ること(ブーメラン)になった。独逸が栄えている間、-何故なら、物々交換は國の借金、利息、そして貿易赤字を消す-猶太金融業者は、これらの貿易活動で本来稼ぐべきもの(換金手数料)を奪われてしまった。これは勿論、國家社会主義政権を弱体化し破壊しようとする國際猶太の決心をより強固にした。

「最強の信用のある独立通貨政策と完全雇用の公共事業計画を通して第三帝國(ライヒ)は、海外植民地を召し上げられ、破産した独逸を4年の内に欧州で最も強い経済に変えてしまった。しかも、軍事支出が始まる前に。」(Henry C. K. Liu「ナチズムと独逸経済の奇跡」アジアタイムス(2005年5月24日)

 

ヒトラーは世界で最も人気のある指導者となる

独逸の経済的奇跡は、他國の指導者の注目の的となった。彼らは一様に機会ある毎にヒトラーを称賛の山で褒め称えた。英國首相のデビッド・ロイド・ジョージは次の様に書いている。

「私は今、有名な独逸の指導者と、更にその指導者が作用した何か大きな変化を目の當たりにした。彼の方法についてどう思おうとも-そしてその方法は議会制の國のものではないが、彼は、疑う余地もなく人々の精神に於いて、お互いに接する態度に於いて、そして社会的経済的態度に於いて驚くべき変化を成し遂げたのだ。

ニュルンベルクで彼の運動が新独逸を造る、と言い放ったが、彼は正しかった。

それは、戦争に続く最初の10年間の独逸-壊れ、しょげて、不安と無気力の感覚に頭を下げていた独逸-ではなかった。今では希望と自信、それにその國境の外の如何なる影響による干渉をも取り除き、自身の人生を導く決断の感覚に満ち溢れていた。

戦後初めての事として、一般の安全(守られている)感覚が戻った。人々は陽気になった。國中で普通の陽気さの感覚が(以前より)大きくなった。それは、より幸せになった独逸だ。私はそれをあらゆるところで目にした。そして旅の途中で巡り合った独逸をよく知っている英國人達もこの変化にとても感銘を受けていた。

一人の男(ヒトラー)がこの奇跡を成し遂げた。彼は、生まれついての人類の指導者だ。その、一意専心の目的、毅然とした意志、不屈の心を持った人を惹きつける、精力的な人柄。

彼は、その名前においてのみならず、真の國の指導者である。彼は國を取り囲む潜在的な敵から國民を安全にした。彼は同じく、戦争末期と終戦直後の最も痛恨の記憶である絶え間ない飢餓の恐怖から國民を救った。70万人以上がこの暗黒の時代に厳しい空腹により死亡した。未だにその暗い時代に生を受けた人の体にその影響を見ることが出来る。

ヒトラーが祖國をその失望、極貧、屈辱の繰り返しの恐怖から救った事実により、彼は、現代独逸に於ける確固たる権威を得たのだった。

彼の人気、とりわけ独逸の若者の間の人気は。疑う余地もない。老いは彼を信じ、若きは彼を崇拝している。それは、人気者の指導者に対する尊敬ではなく、國を憂鬱の絶望と頽廃から救った、祖國の英雄に対する尊崇である。

ヒトラーの独逸への愛情と心による統治方法を実際に見て感じた者には、この記述は大げさに見えるかもしれない。しかしこれは、全く眞實なのだ。この偉大な人民は、よりよく働き、犠牲をいとわず、そして必要とあらば、より大きな決断を以って戦うだろう。何故なら、ヒトラーが彼らにそう願うからだ。この重要な事実を把握できない者は現代独逸の今の可能性を判断できない。

この印象が何にも況して私が新しい独逸を短い訪問の間に目撃したことである。そこには復興運動者の雰囲気があった。それは、國を統合するのに顕著に影響したのだった。

カトリックプロテスタント、プロシャとバイエルン、雇用者と労働者、金持ちと貧乏人、それらが、統合して一つの人民となっていた。宗教的、地域的、そして階級的な出自は、もはや國家を分断していない。そこには、悲愴な必要から生じた統合への強い情熱がある。

1918年の崩壊に続く分裂は、独逸を國内外の諸問題に対して無能にしてしまった。それが競争相手同士の情熱の衝突を非難しただけでなく、一時的に抑制した理由だ。

私はあらゆる場所で苛烈で妥協しないロシアのボルシェヴィズムに対する敵意を英國の独逸に対する心からのより友好的な理解の願いと共に、英國人への真の尊敬と一対で見た。独逸人は、きっぱりと英國とは二度と争わないことを決め、また、フランスに対しても復讐心が無かった。彼らは、同時にアルザス=ロレーヌの復帰の望みも忘れていた。

しかし、ロシアのボルシェヴィズムに対しては、憎しみと恐れを抱いており、それは不幸にも激しさを増していた。それは、彼らの國際政策と軍事政策の牽引力を成していた。彼らの個人的或いは公的な話はその話で持ちきりだった。どこに行こうとも、「ボルシェヴィズム」と言う言葉を聞くのにそんなに時間は必要なかった、そしてそれは、何度も何度も飽きるほど繰り返された。

彼らの目は、恰も怒りの日が来ることを熱心に見ている様に、東方に釘付けであった。彼らはそれに対して独逸の徹底ぶりを以って備えていた。

この恐怖心は、むき出しだった。上層も下層もみんなあらゆる懸念の理由があると納得していた。彼らは、巨大な陸軍に戦慄していた。その陸軍は最近になってロシアで築かれたものだった。

非常に暴力的な虐待の反独逸宣伝工作がロシアの政府系新聞で刷られ、また、公式のモスクワラジオ放送で宣伝され、それは、独逸に於いてソヴィエト政府が嫌がらせ(戦闘行為)を考えているのではないか、と言う疑いを独逸で蘇らせた。」
デビッド・ロイド・ジョージ 1936年9月17日付デイリーエキスプレス

ウィンストン・チャーチル、後に独逸の経済力が大英帝國に再び台頭してきたときにヒトラーの最も頑強な敵となったが、彼は、1935年には独逸について次の様に語っていた。(これは、チャーチルが猶太人のフォーカス集団の傀儡となる前の言葉である)

「この決意に続く15年の内に彼(ヒトラー)は、独逸の復興に成功し、欧州で最も力のある立場となった。そして、彼はただ祖國のその立場を回復しただけでなく、大戦の結果をも、大きな意味で、反転してしまった(中略)敗戦國が戦勝國になりつつあり、そして戦勝國が敗戦國に(中略)これらの功績についてほかにどんなことが言えようとも、彼らは、確かに全世界史に於いて最も特筆されるべきものの一つである。

...そして、その功績は、世界史の神童、そして人生の艱難と不可分の神童と認識されるに相応しい神童のただの一押しで、自己満足で無能で愚鈍な戦勝國と、立場があべこべになった事である...

ヒトラーと公共の場で、仕事で、或いは社交の場で直接会った人は、彼を有能で、冷静で、博識の、礼儀正しく、自信に満ちた笑顔をした公職員だと思うだろう。そしてその言うに言えない人を惹きつける性質に影響を受けない者は殆どいないだろう。

そしてその印象は、単に権力のまぶしさによるものではない。彼は、その苦悩の中のあらゆる場面でそれを彼の仲間に及ぼしてきた。それが彼にとって不幸のどん底にあった時でさえ...

ヒトラーの政治体制が好きでなくても彼の愛國的功績には賞賛せざるを得ない。もし我が國が敗戦国だったとしても、私は、我々の勇気を取り戻してくれ、そして我々を他國との間で元の立場に導いてくれる不屈の擁護者が現れることを望みたい。」
ウィンストン・チャーチル1935年

 

(次回も引き続き、称賛されるナチスドイツの姿です)

 

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