猶太と世界戰爭(新仮名)13

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第一章 猶太魂の本質
七、國際猶太秘密力の世界新聞統制(訳補)(昭和14年8月)続き

合衆國の新聞

北米合衆國の新聞界を掌握している大物は、ウィリアム・ランドルフ・ハーストであり、自分のインターナショナル・ニュース・サービス(I・N・S)とユニバーサル・サービスという二大通信社の他にも無数の自社系新聞を支配して、全國発行部数の三分の一を占めている。その残りはアソシエイテッド・プレス(A・P)とユナイテッド・プレス(U・P)が分有している。然し乍らこんなに有力なハーストの如きでも、一度猶太人の顧客達が彼の主要新聞「ニューヨーク・アメリカン」に広告依頼を拒み、ハーストの共産主義排撃とソ連攻撃とを封じようとした時には、止むなくこの新聞を廃刊せざるを得なかった程である。他の新聞王と雖も同様の支配から脱(のが)れ得ない。

例えば一九三九年四月十七日付「ウァールド・プレス・ニュース」の論文で、ラムゼイ・ムイルという人がこの事を言っている。

「理論では新聞は自由であるが、実際ではその自由は金力によって制限されている。」

新聞組織の中央集権、その商業化、公告大衆のセンセーション欲とによる制約等は、合衆國に於ては極端に発達している。或る有力な発行者が一九二九年に七百人程の一流商人を前にして米國新聞を論じたが、その中にはこういう言葉がある。

「新聞が一般的関心の代表者であるようにいう主張は、断然と排撃されねばならない。新聞はそれどころか利得のために毎日発行される印刷物であり、公生活に働きかけて金銭を作ることだけを目指す一つの組織に他ならない。」

ある米國発行人は、個人的には独逸総統ヒットラーを崇拝しているに拘らず、その新聞では総統の悪口をする文章や絵画を平気で載せているので、それを或人が難詰すると、こう言っている。

「私は米國人で、金を儲け、自分と家族を養うために商売をやっている。私が毎年広告料として百万ドルを貰っている人々(多くは猶太系広告主)の御機嫌を取ろうとしたとて、どうしていけないことがあろうか。」

既に一九一三年にジョン・スウィントンは、「アメリカン・プレス・アソシエイション」の総会席上でこう言っている。

米國には、田舎町の小新聞を別にすると、独立自由な新聞というものは存しない。こんな事は誰でも知っているが、誰も敢てそれを口にする勇気はないのである。またもし諸君がこの意見を発表しようとしても、それは印刷して貰えないであろう。我々は精神上の高娼婦である。私は自分が寄稿する新聞から自分自身の意見を撤回するに一週百五十ドル貰っている。諸君もまた同じ風にすれば、その位は貰えるだろう。それでも狂気のあまり自分の意見を無理にも書こうとする人は、間もなく街上に投出されてしまうだろう。ニューヨークの新聞記者たるものは、虚言を吐いて金の神の足下に身を屈する義務を有する。パンのためには國も同胞も売らねばならない。我々は背後に潜む富者の道具であり、臣下である。我々は人形なのだ。彼等が網を引けば我々は躍り出す。我々の時代、我々の才能、我々の生命、我々の能力、これ皆彼ら富者に属している。」

 

言論の自由

スウィントンの指摘している通りが、所謂「言論の自由」の正体である。かくて「言論の自由」はそれを所有していると自称する人々自身の言葉によって正体を暴露されたが、新聞はその成立の当初から今日に至るまで、決して一度も真の自由を所有したことがなかったのであって、自由が最も賛美された時代こそ最も悲惨な時代であり、最も多く金力と権力とによって圧迫され買収された時代であったのである。「言論の自由」とは要するに歴史上最も巧緻な細工を施した偽造概念であり、諸國民の道徳も、政治的良心も、輿論も、このインチキ概念の背後に於て凌辱され、破廉恥極まる商売に悪用されるのである。

新聞は本来から言って諸國民の生活に於ける一つの権力であるから、これは充分に支持されるべきものである。これを愛そうが憎もうがそれは人の勝手であるが、但しどうしても無くては済まされない機関である。前仏國大使ガブリエル・アノトウが言ったように、新聞は「エソップが最善にして最悪のものと言った舌」に他ならない。その最善な点とは、新聞がその真の功績によって獲得した読者の盲目的信頼であって、これは新聞に真実の報道の責任を負わせるものである。またその最悪の点とは、それが偽の「言論の自由」を押しつける無恥である。この言論の自由こそは現代の盗賊達や、戦争扇動者達や、人類の略奪者達がその背後に隠れている仮面である。彼等は一般的利益の公共施設たる新聞を下劣な本能の競争場と化し、「真理よりは虚偽の方が容易に金銭を儲けさせる」という主義を以て輿論を毒している。

ファシズム及びナチズムは今日に於てかかる「言論の自由」を撤廃し、新聞をば、かの虚偽の「自由」から「自由」にしてやったのは、実に精神史上に於ける一大事業であると言わなければならぬ。日本に於ける新聞雑誌統制も端緒についてはいるが、前途は今なお遼遠の感がある。我々は速やかに従来の危険なる「自由」の崇拝から醒めて、真実に真理に立脚する言論出版の國を建設せねばならぬ。

 

新聞と戦争

世界の新聞は今日実際に於て戦争と平和の鍵を手中に握っているのであって、この事は最近数十年の歴史を繙(ひもと)けば直に判明するのである。実に無数の戦争は、かの新聞の作った業であった。弱力な政府が戦争を煽る新聞に容易に屈してしまうことは、かの第二フランス帝國が如実に示している。ビスマルクは一八七〇年に繰返して新聞の強力なること及び新聞の与える損害の大なることを述べている。一八六四年*、一八六六年**、一八七〇年***の三戦役を惹起したのも新聞である。一八九八年から一九〇三年迄続いて合衆國のキューバ島保護統治を以て終を告げた西米(米西)戦争は、明かに米國の二大新聞連盟の競争から起ったのである。一九一二年から十三年に亘る第二バルカン戦役、即ちトルコ征服者相互間の戦争は、もし新聞が絶えず扇動しなかったならば、爆発しなかったであろう。

*1864年戦役:1864年2月1日 – 1864年10月30日:第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は、1864年に、デンマークプロイセン王国および関係国の間で戦われた戦争。

**1866年戦役:1866年6月14日 – 8月23日:普墺戦争は、プロイセン王国オーストリア帝国との戦争。当初は、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が連邦を脱退したプロイセンに宣戦するという形で開始されたが、その後ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなった

***1870年戦役:1870年7月19日 – 1871年5月10日:普仏戦争は、フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランス帝国プロイセン王国の間で行われた戦争。

米國大統領リンカーンは、「筆は剣よりも強し」と言った。かの世界大戦で独逸は武力で負けたのでなくて、結局世界の新聞の虚偽宣伝に敗れたのであって、リンカーンの言葉の真実なることを独逸は身を以て体験したのである。國際新聞界とその背後勢力とが世界大戦を惹起した事は、好個の(こうこの:ちょうどよい)研究材料である。無数の政治家の言葉によってもこの事実は闡明(せんめい:あきらかに)される。連合軍側の筆陣の本部はパリでは「メイゾン・ド・ラ・プレス」、ロンドンでは「クルー・ハウス」にあって、盛んにデマ宣伝を飛ばしたのであった。

アルトゥール・ポンゾンビイはその著「大戦時の虚言」に於て國際デマ宣伝の実情を述べているが、その中から一例を引いて見る。一九一四年にアントワープ市が占領された後に、「ケルン新報」は左の如く報じた。

アントワープの占領が周知となるや、教会の鐘が鳴った。」

所が仏國新聞「ル・マタン」はこの報知を次の如くに受取っている。

「ケルン新聞によれば、アントワープの僧侶達は城塞占領後教会の鐘を打つように強制された。」

更に「タイムス」には翌日になってこう出た。

「ル・マタン紙がケルンから聞いた所によると、アントワープ占領後鐘を打てとの命令を拒んだ僧侶達はその職を追われた。」

それがイタリアの「コリーレ・デラ・セラ」紙にはこう載った。

「タイムス紙がパリを経てケルンから聞いた所によると、アントワープ占領後鐘を打つことを拒んだ憐れなベルギー僧侶達は強制労働を課せられた。」

「ル・マタン」紙は更にこの虚報リレーに結末をつけて、全然のデマを書いている。

「コリーレ・デラ・セラ紙がロンドンを経てケルンから聞知した所によると、アントワープの野蛮な占領者は、教会の鐘を打つ命令を拒んだ憐れなベルギー僧侶達の英雄的行為を罰するため、彼等を生きた鐘鐸として頭を下に鐘に吊り下げた。」

一九三七年十一月二日の「ニュース・クロニクル」で政治的宣伝の問題に触れたカミングスは、戦時デマ宣伝の競争に於ては英國が第一位を占めたと書いている。

またド・マルシァルはその著「良心の動員」中で、平和が危険に陥るのは外交家の手に依るよりも良心のない新聞に依る方が大である、と語っているし、仏國ジャーナリストのウルバン・ゴイエも次のように言っている。

「世界平和は、世界の新聞が金力の奴隷である限り脅かされるであろう。」

英國内務大臣ウィリアム・ジョンソン・ヒックスは、一九二七年十月二十九日に「記者協会」ロンドン支部総会の席上、新聞人に向って語った。

「諸君は内閣の運命を規定する。諸君は政府を作ったり、滅ぼしたりする。諸君は政府を強いて宣戦布告でも平和宣言でも勝手に出さしめる力を有する。それ故にこそ諸君は常に諸君の重大な責任を銘記していなければならない。」

前フランス首相カイヨーも次の如く公言した。

「平和を脅かす危険は新聞にある ――次の戦争は新聞によって布告される。」

 

國際新聞の悪業とユダヤ

このようにして世界平和の真の大敵が新聞であることが解ったが、実際、國際新聞が協同して悪宣伝をするならば、どんなに強固な平和工作も立所に崩れてしまうのであって、その悪業たるや誠に恐るべきものがある。その例としては我々に直接に関係のある日支事変に於ける各國の新聞乃至通信社の悪意に満ちた無責任なデマのことは問題としないとしても、例えばかのスペイン問題に関係して独逸が蒙った悪宣伝の如きも著しいものである。

独逸が如何にも占領の意図を以てモロッコに上陸をなしたかの如く書いたのはパリ新聞の大部分であったし、又英國バスク地方ゲルニカ市で独逸人が大虐殺をやったと悪宣伝をしたが、実はボルシェヴィスト達が故意にあの殺戮を犯して罪を独逸人に稼したに過ぎないのである。それから独逸の飛行機や戦艦が非行を犯したような宣伝も無数にあるが、これもまたボルシェヴィストが意識的に世界を第二の大戦に追い込もうとした手段なのである。それから独墺合併問題に関するデマも相当にひどいものがあり、また独逸はヒットラー総統自身の選抜にかかる特殊訓練修了の男子五百人をロンドンに送って英國の軍備計画を探索しようとしている、という記事さえも新聞によって作られたのである。かような例はいくらあげても際限がないが、然し此処で深く注目すべきことは、これ等のデマ宣伝、悪宣伝の背後には常に、猶太人乃至猶太支配下のフリイ・メイスン秘密結社の手が動いていることである。

世界各國の大都市に所在するモスクワの出店には猶太移民とその買収された記者達が出入して、盛んにナチズムやファシズム打倒のための悪宣伝の指令を受けている。世界新聞界に及ぼす猶太人の影響というものは実に巨大なものであり、彼等が完全に実権を掌握しているソヴィエト新聞では、彼等の思うことで行われないことはないのである。他國の新聞界で猶太人がどれ程の勢力を扶植(ふしょく:拡大する事)しているかを示す一例をあげるとすれば、最近出た一九三七年度ハンガリー新聞年鑑に依れば、ハンガリーの新聞編集者総体の56パーセントが猶太人であると言われる。「言論の自由」を振りかざしている所謂民主主義の國々の事情がこれ以上であることは自明のことである。そして前述した悪宣伝の要素が猶太人が世界新聞に振っている影響力の大小に比例して増減することは言うを俟(ま)たない。

世界猶太王國の政治的中心たるモスクワから新聞の戦争煽動は発火され、それがニューヨーク、ロンドン、パリ等のジャーナリズム的贋造所で見透しのつかぬデマ通信の衣を着せられ、其処から地球上のありとあらゆる電線を伝わって、最後の政治的センセーションとして新聞読者の眼前に拡げられ、わが國土の中へさえも堂々と伝わって来るのである。数日後になって嘘がばれたとて、それが何になろうか。悪宣伝の筆者は何時も背景に隠れているし、取消記事が退屈で面白くない一方では、新しいデマが次々と出て来るので、取消は全く無効である。

かくて政治的虚言は思うままに暴威を振ひ、國民生活と國際関係を毒してしまう。世界の輿論は責任ある政治家の手から滑り落ちて、國民の知らぬ間に恐ろしい結末に國民を追い込んでしまう。目を醒ましたときは、もう後の祭りであることが極めて多い。

 

新聞組織の改革

ヒットラー総統は既に一九三六年五月に全世界に向って声明を発して、世界輿論の無責任なる要素による害毒を先ず十分に除かぬ限り、世界の國際的緊張は決して解消され得ないと言ったが、イタリアの宰相ムッソリーニもまた同様の考えを発表して次の如く言った。

「印刷インクの暴風と濁ったインクの洪水と氾濫こそは、あらゆる平和とあらゆる欧州協同作業の真の敵である。」

猶太勢力の支配下にあると称せられるフランスのアルベール・ルブランでさえも、一九三七年二月九日のパリ共和主義ジャーナリスト大会に於て、言論の自由が利己的憎悪の私情に引廻わされるとき大きな危険を惹起する、と戒めた。

ヒットラー総統は同年正月三十日にも更めてこの問題に触れ、左の如く言った。

「國際的な無責任極まる井戸投毒者及び言論贋造者(捏造者)の群による間断なき煽動を禁遏(きんあつ:禁じて防ぐこと)しない限り、諸國民の真の平和を達成することは不可能である・・・」

然し今日迄世界の民主主義國家は一つとして人類の紙上敵を迎え討つ準備をしていないで、近道である新聞改革の問題には目を向けていまい。それには何よりも先ず猶太人と不潔なる無國籍的な商売人を新聞界から追放しなければならない。新聞に於ても猶太人は、過去に於ては恐るべき癌腫(がんしゅ:癌やはれもの)であったし、現在及び将来に於てもそうである。この癌を除去すれば、其処には真に責任ある「言論の自由」が打ち樹てられるであろうし、真の世界平和も拓(ひら)かれるに至るであろう。安価なる猶太同情論が、我が國に於てさえも、ともすればジャーナリズムその他の方面から出現し易いのは、その直接の原因が奈辺(なへん)にあるかは兎に角として、猶太の新聞界に於ける強力さを意味深く物語るものと考えられる。それ故に以上主として欧米の事情を中心として述べられたことは、決して単に他所事ではないのである。國際資本主義・國際共産主義・國際的秘密結社・國際的言論通信機関・誠に猶太の張り巡らす十重二十重(とえはたえ:何重にもなったさま)の世界支配の網は精緻にして堅固である。幾千年の訓練を経たタルムード的詭辯と虚偽の精神の結実であるとは言え、実に驚嘆すべきものではないか。(一四・八)

 

⇒猶太と世界戰爭(新仮名)14 ⇐猶太と世界戰爭(新仮名)12

猶太と世界戰爭(新仮名)12

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第一章 猶太魂の本質
七、國際猶太秘密力の世界新聞統制(訳補)(昭和14年8月)続き

新聞の商業化

新聞の商業化という現象は猶太人の仕事として十八世紀の末から十九世紀の初頭にかけて始まって来たのであるが、その結果として新聞は二重の役目を演ずることになり、精神的政治的要素であると同時に一種の商品と化したのであるが、この事情は、新聞をして諸國民を結合する力としての位置から転落せしめて、人類の災厄物にまで下落せしめるに至ったのである。

近代新聞の動向を規定するのは報道と広告の二つである。そしてこの二つの入り口から、かの恐るべき猶太及びフリイ・メイスン結社の秘密力が「言論の自由」なる仮面を被って侵入し来り、世界新聞界をば今日の如き精神的並びに道徳的危機に追い込むに至ったのである。前世紀の中葉に於て広告税と公用広告機関が撤廃せられた結果として、殆ど凡ての國に於て政治新聞に広告を載せ得るようになったし、従って國民の商業的関心と精神的政治的要求とを新聞によって結合しようという傾向が著しくなって来た。また広告依頼者の信用を得るために読者層を増大しようとしてあらゆる手段が講じられ、新聞の購読料は印刷代以下に引下げられるに至った。一八三六年七月一日に仏人ジラルダンは「ラ・プレス」紙を発刊したが、その購読料はその当時の相場の半値であった。では、かくして出て来る欠損が如何にして埋められるかと言うに、それは広告を殖やす他に道はないのである。

ジェームス・ゴルドン・ベネットは一八三五年に米國に於て「ニューヨークヘラルド」紙を創刊したが、彼はそれを只の一部一ペニーで売った。しかし実際には、一部三ペンス乃至四ペンスかかっていたのである。英國では一八五五年に、新聞税と広告税との撤廃後のこと、ヨーゼフ・モーゼス・レヴィが最初の「一ペニー新聞」たるロンドン「デーリー・テレグラフ」を発刊したが、他方ウィーン市でも既に一八四八年にアウグスト・ツァングが「ディ・プレッセ」紙を発刊して、ジラルダンの例に倣って、相場の半値で売った。

爾後新聞の読者は印刷用紙代だけも支払っていないことになり、従って文字通りの不払所得として贈られる通信や報道の部分は、匿名の金主が新聞を支えてくれるのでなければ、広告代によって経済的に補填される外に道はないのであった。

 

新聞の買収

かくて終には色々の方面から買収の可能性が生じて来たが、これはかの國際猶太人及びその支配下にあるフリイ・メイスン結社に取っては誠にお誂向きの活躍舞台であった。

猶太人の破壊力が新聞に侵入した第二の門は近代の通信機関の発展である。新聞が資本主義に従属するに至ったがために輿論もまた金力で動かされ得るものとなり、通信組織は濫用されて、新聞のデマ記事が國民生活の中に喰い入るようになった。現代に於ける世界通信網の歴史を辿って見る時、我々は驚くべき連絡と組織とに当面するのである。

現代の新聞通信機関の起源はかの猶太人の取引所であるから、現代の組織化された虚報通達による新聞の悪用というものはすべて猶太人の商売根性の発現したものである。現代の通信組織は、自分に都合のよい通知によって競争者や顧客から出来るだけ物質的な利益を搾取しようとする商業本位の猶太人の手に握られている実験台である。

その好例をあげれば、ロンドンの猶太人ネイサン・ロスチャイルドのあの歴史的な「ワーテルローの勝利」である。彼は正に現代新聞虚報の父である。彼の父でフランクフルトにいたマイエル・アムシェル・ロートシルトもまた相当の腕前があったらしく、郵便局を買収して取引上の敵の手紙を密かに手に入れ、それを儲け仕事に利用したそうであるから、その息子ネイサンのやり方はつまり父親のやり方を現代化したに過ぎないとも言えないことはない。とにかくネイサンは伝書鳩郵便を使ったり、船長や旅行者を手数料で買収して色々な報道を集めるに役立てた。そしてこの世界中から集まった報知を勝手に利用したり、秘密にしたり、ほのめかして、兎に角彼の取引事業に都合よいように細工したのであった。彼の「ワーテルローの勝利」もまたその一例であった。彼は逸(いち)早く誰も知らぬうちにワーテルローの決戦の結果を知っていて、丁度ロンドンでは未だ一般に半信半疑でいたのを奇貨として、英國及びプロシャがナポレオンに敗戦したとの虚報を伝えた。相場はがたがた落ちた。ロスチャイルドは仲買人を使って出来るだけ株を買込ませたので、ワーテルロー戦勝の正しい報知がロンドンに到着した時には、彼はもう巨大な金を儲けていたのであった。

 

虚報の勝利

猶太的資本主義的貪欲に奉仕する新聞虚報は、世界通信網を握っている政治的電線工夫(仕掛け)の手にかかると忽ち諸國民の平和を脅かすものに化する。

最近百年間に亘って戦時平時共に世界通信界を牛耳っているヨーロッパの通信社は殆ど皆猶太人の創立である。先ず大きい所でアヴァス通信社は一八三五年にルイ・アヴァスの創立に関るが、その父はポルトガルからフランスに移住した猶太人である。彼は一八三二年に独逸系猶太人ベルンシュタインの「色刷通信」紙を買取って、これを改組した。彼には二人の共働者ベルンハルト・ヴォルフとヨザファット・ベールとがいたが、この両猶太人は一八四八年にアヴァス社を去ってヴォルフの方はベルリンに自分の通信社を開き、カッセル出の猶太僧の子なるベールの方は五十年代に英國に渡り、ロイターと改称して英國の大通信社となった。

この三大猶太系通信社は数十年以来、全欧州新聞通信界を支配していたのみではなくて、殆ど全世界の報道陣を占領していた。独逸も前大戦前に於ては言う迄もなくこの三社独占から殆ど逃れることが出来ず、独逸系の通信社が僅かに北方諸國を通信で繋いでいる間に、アヴァスやロイターは全世界を分割して支配していたのであった。

 

大戦の通信状態とその後

かくして世界大戦が一九一四年に勃発するや、恐るべき結果が招来され、全世界は仏英通信社のデマ宣伝で塗りつぶされてしまい、独逸は僅かに近隣中立國数國に真実の叫びを聞いて貰えたに過ぎない。デマ宣伝がどんなに有効だとしても、それがアヴァスやロイター等の國際的通信組織の力を借りなかったならば、決して独逸を叩き伏せる程の力を持つことは出来なかったであろう。

ナチス独逸は政権掌握後ヴォルフ通信社と電通連合社とを統合して「独逸通信社」を創設して、地球上枢要の各地に自派の代理者による自己の世界通信機関を設置したが、独逸は歴史上此処に初めて他の先進大通信社に劣らぬ近代科学の粋を尽くした客観的且つ急速果敢な通信網を全世界に敷くことを得たのである。大通信社が何れもその背後の秘密力の庇護を受けていることは上述した通りであるが、その結果として、國際通信組織が蔵している巨大なる危険は時とともに増大し、新聞の虚報は益々危険な隠蔽方法を考案して、大通信社の看板を下してまでも悪質のデマを飛ばすようになった。多くの場合には誰も責任を負わぬ放置を虚構するのが主眼であり、誰が委託したか、誰が背後にいるのかを全く気付かれないように仕組むのである。虚構は又次々に他の新聞にも引用されて尾鰭が付き、また互に引用し合ったりなどしているうちに何れが元のものか解らなくなってしまう。これ等通信社のモットーは、新聞虚報が常にその取消よりも迅速に広まること、一度書かれた以上、結局何かが後に残るということである。たとえ取消その他のいざこざがあっても、報道の迅速と競争という理由のために事件の真偽を確める暇はないので、自由主義的な新聞は無批判にこれ等の通信社の通信を掲載してしまう。また多くの場合には、外國新聞中に見られる虚報、経口的通信の類は、新聞自身の通信員から出るのではなくて、却って新聞の編集部自身が通信員に傾向的なものや新聞社の政治的経済的従属関係に沿うような報道を強制するのである。通信員の意図などは全く顧られることはない。かくて「言論の自由」という看板を掲げて新聞を支配しているのは、決して精神でも真理でもなく、金銭であり、それを払う人である。立派なジャーナリストと雖もここでは自主権を持たない。立派な新聞を毎日検閲する匿名の背後人達は、厚顔にも常に「自由」を叫び乍ら、この空辞に隠れて諸國民を毒する贋作をどしどし拡めようとしていいる。「自由」なる語は西欧民主主義國家に於ては頗る高く謳歌されているので、「自由」を踏付けにするためにインチキ者流に用いられるような場合でも「自由」とさえ言えば喝采を博するのは、真の「自由」のためにも嘆かわしいことである。

勿論民主主義國の識者達がその数百年の歴史に於て、この種の「言論の自由」によって散々の目に遭っていることは初めに引用した言葉によっても証明されるであろうが、それにも拘わらず彼等は尚おこの言葉を永遠の理想の如くに賛美しているのは、彼等の存在そのものが既に時代に取残されて固化してしまっているためであろう。然るにナチス独逸はこの点最も早く決断力を示して、少くとも國内に関する限り、一刀両断的に新聞界の徹底的清掃と統制とに成功した。今や我々はこの独逸と提携して、國内に於ては日本の新聞をして日本の新聞の使命を自覚せしめ、対外的には、國際生活に於て諸國民を互に嗾(け)しかけて戦わせようとする悪辣な猶太系諸大新聞に向って敢然認識と挑戦の刃を向けねばならない。それ故に我々は、世界各國の大新聞の内部的風景がどうなっているかを少しくみることにしよう。

 

フランス新聞界

フランス衆議院議員エルネスト・ベゼは、仏國の宣伝力増大のために議院内に特殊の一派を結成している人であるが、彼は一九三五年にその著「世界の眼の下に」に於て次の要求を漏らした。

「所謂自由を標榜する新聞の欺瞞を取除くため ―実はこれらの新聞は強力な利欲によって結ばれているのだが― には、國家は思い切って強制条令を施行すべきであろう。そしてパリの新聞界が再び名誉ある業績を示すに至る暁には、この強制条令は終に目的を達し、パリ新聞界は、外國資本や利害関係を持つ保護者乃至はシンディケートの干渉又は秘密資金等によって屡々誘い込まれた奴隷状態から救い出されることになるであろう。」

仏國の有名な出版者ヴラヂミール・ドルメソンは一九二八年に「独逸への信頼」なる書で言っている。

「我々が苦しんでいる困難の十分の九までは、傾向的報道に原因を持っている。國民と國民又は政府と政府との関係を毒する不信というものは、事実自身によるよりも、その事実を伝える叙述の仕方によって惹起される方が多いのである。」

仏國掌璽官アンリ・シェロンは一九三四年十一月十三日に新聞について次の如く語った。

「 …此國に於ては誹謗が横暴な支配者として君臨している。日々の過激な言辞は輿論を無力にしている。一定の経済団体或いは財団はその意見に従って自分に従属する人間を勝手に亡ぼすことが出来る。かかる雰囲気にあって人はもはや何人と雖も身の安全を保証されることを得ない。」

以上は何れもフランス人自身の告白であって、これは疑う余地のない資料であるが、ついでに仏國新聞が大戦前に於てどれ程迄に買収し易いものになっていたかを示す材料をも一つ上げて見よう。それは当時ロシア財務大臣のパリ駐在代理として仏國新聞を親露派に傾けようという任務を帯びていた枢密顧問官ラファロヴィンチュの手紙である。彼は、一九〇四年八月三十日に当時のロシア財務大臣ココヴィツェフに宛てた手紙の中で、買収金の分割法に関して次のように報知している。

「予算年度の最初十ヶ月の間にフランス新聞の買収には六十万フランの多額を費した。然もこれには銀行シンディケートを買収するに要した費用三十万フランは含まれていない。」

今日のどの國でも、政治と商売とを新聞で結合する企てが、フランスに於ける程にうまく行っている國はない。即ちこの國では、フランス新聞全体の生命線をアヴァス通信社が独占しているのである。この通信社は各新聞に報道を供給するだけでなく、同時にその公告及び販売にも手を出すのである。この先頭に立って一切を切り廻しているのは、アヴァス社の総取締にして最大の広告社の社長でもあるレオン・ルニエルである。なお彼は、仏國新聞全体の販売組織で或るアシェト社の監査役をも兼ねている。またパリのロスチャイルドと並んで財界に有力な地位を占めているユダヤ人ホラース・フィナリイがこの全能なアヴァス社の首席監査役におさまつていることを見れば、実情がなお一層よく解る。如何なる新聞もこの全能な通信社に刃向う勇気と力を持ちえないのも当然ではなかろうか。

かくフランスの新聞界に於ては政治と商業とが混和しているので、経済団体は財団の類が新聞の一年の予算を支払ってやる代りに、その新聞の本欄全部を買切ることも出来る。編集者の意見に従って、背後の全権者の供給する通信や論説がそのまま新聞に載せられることも大して珍らしい現象ではない。それ故に、如何に良い意志を持っている記者も、この事情を如何ともし得ない程であり、かのヴラヂミール・ドルメソンは此点に関して次のような意見を述べている。

一再ならず余は個人的に話を交えて見て知ったのだが、新聞記者のうちには前日新聞で発表したのとは全く別の政治上の意見を持っている者があるのである。『それは矛盾ぢゃないか』と指摘すると、彼等は物倦いように手を動かして、『何ですって、我々はあの人々の欲するようにしなければならないのですよ』と答えるのである。実際、新聞の実権を握っているのは五、六人のジャーナリストや政治家や売文業者であって、彼等はその機関である新聞によって一定の政治、一定の利益、一定の産業、一定の野心を指示しているのである。」

 

英國の新聞

フランス新聞の方は多少に拘らず決まった精神的並びに経済政策上の潮流に従い、特定の党派乃至財閥とか言ったものに仕えているが、英國の新聞の方は、少数の例外を除けば、殆どその全部が大衆のセンセイション欲を満たすことを主眼としている。英國新聞の完全なる商売化をジェラルド・バリーはよく描いているが、一九三二年二月十九日の「余は新聞を訴える」に於ては次のように言っている。

「彼等は新聞を、立派な言論機関としてではなく、ありふれた財産獲得の手段として取扱い、丁度石鹸とか売薬とか或いはまた他の商品と同じく、速かに富裕になって貴族の地位に昇り得るための手段と見ている。かような連中の間では、就中民衆又は國家に対する責任感というものは逸早く消失してしまった。その代りに出て来たのは商売と広告取りと部数増大との神々である。」

今日英國ではロード・ロザーメーア・コンツェルン、ビーヴァブルック・コンツェルン、ベリ団、ウェストミンスター団、スティーマー団、オダームス団等の他には、極く少数の新聞が存すだけである。中でも独逸を比較的客観的に見ているのはロード・ロザーメーア位のものである。

英國では言論の自由ということが、伝統的になっているが、その実施はなかなか困難である。斯かる自由は公衆の眼を蔽う目隠しであり、目潰しの砂に過ぎない。この事実をよく喝破した人に「タイムス」の主筆ケネディがあり、「十九世紀とその後」誌の一九三七年八月号にこう書いている。

「発行人及び支配人等の側に於ける専横な行為は、真の自由とは全くの反対物であるにも拘らず、その大部分は我々の得意とする言論の自由の外被に隠れて行われている。我々英國人は、英國程民主主義を尊ばない國々に於て行われる厳重な検閲に対して、よく批評がましいことを言う。然し乍ら通信機関が何れも背後の匿名財閥の命による独自の政策と道徳とを有しているとき、一体我々はこの『言論の自由』などを賛美する権利があるだろうか。その主なる役目は、大衆のセンセーション欲を助勢することであり、主筆や通信員が國際的融和及び世界平和にとって重大な意義を持つ問題に一、二頁を割こうとするのに対してさえも圧迫を加えようとするのである。」

このような批判をやっているのは敢てケネディだけに止まらず、大英新聞連盟長ハムフレイは一九三七年三月二十二日に総会の席上次の如き言をなした。

「世の中には、通信の生命をセンセーショナルな点にありとし、註釈の註釈たるはそれが破壊的なときに限る、とする人がまだ夥しくある。読者買収という古い手段によって部数増加を図る方法が死点に達してしまうと、そこには新しい標語が競争場裡に生み出されて来た。かくて今や如何なる価を払ってもニュースを作らねばならないのである。然しそのために払われる価が人間の不幸を利用することであり、またジャーナリストが市民として為すべからざることを為すということであるとすれば、我々は斯かる発展を停止しなければならぬ。言論の自由とは決して放縦なる自由を意味しない。」

一九三四年五月九日に故総理大臣マクドナルドは「英國新聞連盟」の前で左の演説をなし、大衆新聞の無軌道振りを責めている。

「もし新聞全体がその権力を利用して、自己の欲する所を公のものと称し、万事に自分の欲するままの色彩を与え、また風評を事実に化し、事実を無と化するに至れば、その危険は幾ばくであろう。かかることは相応に儲かるかも知れぬが、わが國民の精神機構を弱めることが大きい。諸君は注意して言論の自由が言論の膿汁に陥らざるよう心してくれ給え。」

 

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第一章 猶太魂の本質(続き)

七、國際猶太秘密力の世界新聞統制(訳補)(昭和14年8月)

新聞の使命

新聞は言う迄もなくあらゆる國民の言葉の拡声機であり、世界の眼乃至耳であり、また所謂世論の担い手であり、世界に於ける出来事の焦点を成すのみでなく、空間を超えて人間と人間の間を仲介する役目をもつ。それは政治的地平線にかかっている雲の動きを記すと共に、諸國民の日光を録する(書きとめる)が故に、一つの大きな権力と認められねばならない。新聞は単に國民生活に於てばかりでなく、國際的生活に於てもまた前代未聞の有力な政治的機関と認められざるを得ない。総ての大事件に対する諸國民の政見は、新聞を通じて発表されるので、今日ではそれは、世界政治界バロメーターと呼ばれることが妥当であろう。即ちこれなくては全然政治を行い得ないし、このバロメーターの針位と振幅とは、世界中の最近二、三十年に亘るあらゆる内閣に対して、世人のよく察知し得ない程に大きな影響を及ぼして来たのである。

抑も世界の政治家の中で新聞界から出た者が如何に多いことか! また今日新聞を読まない政治家が何処にあるか? 果たして彼等のうちで新聞の影響を脱し得るものが幾人あるであろうか? 今日新聞の持つ意義は、人が欲すると欲せざるとに拘らず、どうしてもそれを認め且つ尊重せざるを得ない所にあり、また新聞自身もこの点を大いに誇りとしているのである。

然し乍ら新聞がこの意義ある地位を保ち続け得るのは、言うまでもなくそれが、自分自身の面目を汚さず、また醜汚な仕事によって自己の名誉を損傷しない時に限るのである。それ故に新聞は、何よりも先ず真実の報道を以てその生命としなくてはならない。不真実は常に必ず新聞の最大の恥辱である。新聞の力は一にかかって真実という地盤の強弱に存するのである。

所が新聞に与えられているこの力こそは、実はそれに極めて困難な責任を課しているのであって、その故は、この真実といい真理というものが決して善悪の彼岸にあるものではないからである。この力は必ず國民の安寧と幸福及び人類の福祉のために利用さるべきものであり、万一にも間違って用いられるならば、忽ち國民と人類との不幸と破滅とを招来する恐るべき力に変ずるのである。従って私的のものであれ、超國家的なものであれ、或る秘密力が、ジャーナリズムの精神的威厳を支配するに至るや、新聞はそれに応じて世界の危険物となり、一國人民の内政生活のみならず、結局の所、世界平和にとっても一大危険物と化するのである。

新聞がそのうちに包蔵しているこの危険は、実に今日に於ては世界政治的意義を有する大問題と化しつつあり、その解決が遅れれば遅れる程、この危険も増大して来る。成程これ迄でも責任感ある政治家や新聞人が、この危険について多く書いたり語ったりしなかった訳ではない。然し遺憾乍ら彼等の声は聞き逃がされ、短なる沙漠の説教に終ったのである。世界新聞界はこの問題になると多くは沈黙を守るし、「輿論の政府」と自称する民主主義國家も新聞の有するこの危険に対して戦を挑む勇気は持たないのである。それは新聞界そのものが或國際的秘密力に依って支配されている上に、所謂デモクラシー國家に於ては政府自身がその新聞界に依存しているからである。かく見て来ると、これら諸國の政府及びこれら新聞の読者は、少くともこれ迄の所では、真の平和の敵でありまた現代に於て最も危険な戦争扇動者でありまた世界輿論の毒薬処方者である所の新聞背後の秘密力というものに対しては、全然盲目であったと言われねばならないのである。

我々もまたかかる危険力に対して口を緘(かん)すべきであろうか? 否、世界新聞界の破壊力が人類の災厄となった今日に於ては、我々はこの暴状に対して敢然と戦わねばならない。そしてそれは単に國民又は平和のためのみではなくて、責任感を持つ新聞とその当事者とに途を拓き与え、その勇気と道義力とを鼓舞し、且つ一般に真理の伝播を容易ならしめんがためである。然もこの困難な課題を解決し得るのは、あらゆる猶太及びフリイ・メイスン秘密結社の迫害に抗しつつ人類の新時代のために戦いつつある防共諸國のみである。防共とは実に反猶の別名であり、排フリイ・メイスン結社の異名であるからである。

上述の事情は、言うまでもなく、日本に於ては多少とも異った所がある。然し現代に於ては、通信交通機関の発達の結果としてわが國の新聞界が世界のそれと全く絶縁状態にあることは不可能である。殊に日本の新聞にも、毎日外國電報が現われるのであるから、真に國を思う者は、新聞当事者たると否とを問わず、充分の反省と自覚とが必要であると思われる。

 

新聞検閲の歴史

一四七九年と言えば、かのグーテンベルク印刷機械を発明してから間もなくのことであるが、この年にケルンの大僧正はローマ法王に申請して、一定の出版物の発行人、印刷者、著者及び読者に対して教会上の刑罰及びその他適当の方法によって干渉を加える特権を得た。更に一四八六年にはマインツのベルトホルト大僧正が自分の教区を取締る特別の検閲委員を任命したし、一五〇一年には、法王アレキサンデル第六世が、爾後「厳格なる信仰に背馳し、神をなみし[1]、人心を怒らす如き」言葉を印刷に付することを禁止するという布告を出した。かくて新聞の検閲なるものは、初めは俗界からではなく教会側から提起されたのであり、これが俗界側の政治的検閲に法律的根柢を齎したのは、一五二四年のニュルンベルクの國会の時のそれを以て嚆矢[2](こうし)とする。そしてその条文には、「当局は必要に応じて印刷物その他を検査し、爾後誹謗文及び誹謗画等を悉く駆逐し、その伝播弘布を抑止すべし、」とある。

[1] なみする:無みする 蔑する ないがしろにすること、または侮ること。
[2] 物事の始まり。

 

古い文書に徴すると、既にトルコ戦争[3]の頃無道な物語作家の類が跋扈し、毒筆を揮(ふる)って既成秩序の破壊を企てたので、彼等は町から町に逃げ廻らねばならなくなったそうであるが、その際に教会団体は何れも密告者の役を引受けていたらしい。フリードリヒ大王が「新聞紙は面白きものたる限り、妨害されてはならぬ、」と言った言葉はよく、彼の自由主義を示す材料として引かれるが、然し同じ大王が、その三年後即ち一七四三年七月九日に、新聞の自由を内閣条令によって撤回したことはもっと重大に取扱われねばならないであろう。その条例には、「ベルリン諸新聞の発行者達は、検閲用見本刷を要せずという自由権を悪用し、諸種の虚報を載せ、外國に不快の感を与えたるを以て、王は命を下して、検閲用見本刷なしに新聞を印刷する自由を撤廃し、予め有識の権威者をして検閲をなさしめ、その裁可を経ざれば発行するを得ざらしめんとし給う、」と書かれているのである。

[3] 大トルコ戦争(だいトルコせんそう、Great Turkish War, 1683年 - 1699年)は、17世紀後半に起こったハンガリートランシルヴァニアを巡るオーストリアポーランドヴェネツィア・ロシアなどの神聖同盟オスマン帝國の戦争である。

 

これに依れば、フリードリヒ大王は如何に巧(たくみ)に新聞を行政のために利用し、又それに干渉を加えたかが察知せられる。大王は、一七六七年ベルリン市に新しく戦争の噂が流布した時、ベルリンの新聞に命じて、ポツダムを襲った強烈な暴風雨について次の如き報道をなさしめている。

「ベルリン特報、木曜、一七六七年三月五日。ポツダムより左の報あり。二月二十七日夕刻、空は真暗にして、雷雨を孕(はら)める雲によって全地平線は蔽われたり。電光凄まじく、雷鳴ありて、人知の考え及ばざる勢にて雹(ひょう)降れり。農夫が車に繋いで町に引き行ける牡牛二頭の中、一頭は立所に即死、街上の町民達は負傷し、農夫はまたそのために腕を折れり。屋根は雹の重量によりて破壊せられ、この暴風雨を運んだ風に向える窓は皆損傷を受けたり。街上にては南京(かぼちゃ)程の雹塊の認められるあり、その溶けるに二時間以上を要したという。この特別なる現象は頗る大なる印象を与えたり。自然科学者の言に依れば、空気は抑もかかる氷塊を運ぶ力なき由なり。その真否はともあれ、かかる出来事が極めて稀なる事に属し、殆ど類例なきことは確かなり。」

実際の所、ポツダムでは風も吹かず、雹も降らなかった。そしてベルリン人は兎に角新しい噂の種を得て戦争の恐怖を忘れてしまった。

とにかく老フリードリヒ大王は、上掲の内閣条令によっても解るように、言論の自由については苦い経験を持っていたのである。一七七二年四月七日に彼はフランス人ダラムベールに宛てて次の如くに書いた。

言論の自由はその不可避の結果として誹謗書を生む故に、常に濫用され易きかかる自由に対しては強制的防圧手段の必要なることを余は確信す。」

所が、かく新聞に批判的態度をもって当ったのはフリードリヒ大王だけではなく、当時の有名な國法学者クリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルト(Christian Friedrich Daniel Schubart:1739~1791)の如きも言論の自由(彼によればむしろ言論の厚顔無恥)の濫用に反対した一人である。彼は屡々報道の信用し難き点と矛盾を難じ、所謂「……なる由」なる言葉を嘲笑して、それはつまり風評と虚偽との境目が明かでなくなったとき新聞記者が縋(すが)り付く尻尾であり、百口ある怪物に他ならない、と言っている。また新聞の虚偽は物語の國に籠(こも)っている真黒な渡り鳥にも比すべきである、と彼は言い、オランダのパンフレットや小冊子や新聞雑誌がこの國に起った暴動に大きな関係を持つことを指摘し、更には、パリの書籍検閲が頗(すこぶ)る厳重に行われているのを喜んで、次の如く総括している。

「國家・宗教・良俗・良民等が思うさまに傷けられる惧(おそ)れのある國は、追剥(おいはぎ)と殺人者の棲む森である」

以上二人の言葉によって我々の知り得ることは、デモクラシイが声を大にして、人類の神聖な財でありまた新聞の発展のためのかけがえのない原動力であるとして賛美する「言論の自由」なるものが、しばしば事実に於ては有恥有害なる空辞の最たるものであり、自由なる美名の下にかくれて輿論を毒する恐るべき害物であることである。

そしてこの言論の自由の出発点は、一七八九年のフランス革命に外ならない。同年八月二十六日の所謂「人権宣言」の第六条には、

「自分の思想及び意見を発言する権利は、それが新聞による時であれ、或いは他の方法に依る場合であれ、決して禁止されてはならぬ、」

と書かれている。

同様の考えは少しく制限を受けてはいるが、一七九一年の仏國憲法第十二条にも規定されている。

「思想及び意見の自由なる発表は、最も貴重なる人権の一つである。従って國民は皆何れも自由に語り、書き、印刷することが出来る。ただ各人はこの自由に法律が加える誓言を顧慮すれば足りる。」

このような立派な公告があるにも拘わらず、仏國では、法律上言論の自由が保証されていた時代に、政治的権力者の嫌う新聞には重い圧迫が加えられた事実がある。一七八九年にマレー・デュパン(?)はその主宰する「メルキュール・ド・フランス」誌に次の如く書いている。

「我々が検閲の閾(しきい)から逃れて来た瞬間に、もう我々は過酷な殺人剣に曝されていた。」

一七九三年三月八日の憲法会議で一人の議員が、「ジャーナリストには決して全権を与えてはいけない、彼等は立法者が仕事をする空気を毒するだけである」と主張したことがあるが、これが言論の自由の本場と称せられるフランスの出来事である。更に四年後パリで起った補欠選挙では、ジャーナリストは候補者となり得ない、とされた。またその時の憲法会議で或る演説家は、「世人は須(すべか)らくジャーナリストを淫売婦と同視すべきであって、その故は、彼等はこの女達と同じく周旋人を有し、買手を探すために道路を駆け抜け、また公の健康を毒するからである。」と言っている。

それ故にナポレオンが、クーデターをやった後に出版界にも手を下したのは、別に怪しむに足りないことであろう。

「若し余が新聞の手綱を弛めておけば、余は僅か三月の間も権力を保ち得ないであろう。」

「敵意ある新聞が四つあることは、職場の兵士十万人よりも危険である。」

彼がセント・ヘレナ島で最期を遂げる直前に語った後人への戒めには、「新聞をそのままにして置くことは、危険の側で寝を取るにも等しい、」という語があったといわれている。

然し彼の後代はこの戒めを余り省みなかった。新聞は政治的立憲主義と工業的経済の進捗とにつれて大きな躍進をとげ、遂にその黄金時代に達したのであった。

かくて新聞が無限な経済的自由をモットーとして、正規の取引業に発展するに至ったので、ことに猶太人は民衆の安寧のために戦うという仮面の下にかくれて大役を演じるに至った。新聞は政治的党派の奴隷、その背後に隠れている黒幕たる秘密力の奴隷に堕してしまった。編集部には今や、一番多くの報酬を呉れる者のために筆を用いる器用な多筆家が登場し来り、仏國政治家ネットマン(Alfred François Nettement)の如きは既に前世紀(19世紀)の始めにあたって次の如く難じている程である。

言論の自由は万人に告知された。然し優勢にして革命的な党派は、物を見るに独特の方法を持っている。彼等が万人の自由を公然と説く時。それは只主義を裏切ったとの非難を避けたいがために外ならぬ。然し一旦この主義を奉ずることを示し得さえすれば、実行上にはもうそんな主義はどうでもよいのであって、ただ敵に対してはこの自由の享受を許さないのがかなり一般的なやり方になっている。」

一八三五年八月二十二日に仏人ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine:1790~1869)は下院で論じて曰く、

「新聞は、少数の例外を除いては、國に害を与えることが大きい。四年以来それは各行に憎悪と誹謗と汚穢とを撒きちらせて来たし、またそれは暴動と無政府を喚起した。」

文豪バルザックはもっと鋭犀に(鋭く)当時の新聞界の状況を描いている。

「本来聖物たるべき新聞は、党派の手段になってしまっている。また一つの手段から一つの商売になっている。どの新聞でも大衆の欲しい色彩の言葉を売ってやる露店に化している。」

またフランスの新聞人エミル・ドゥ・ジラルダン(Émile de Girardin:1802~1881)は一八二七年に、彼の新聞「ル・ヴォルール」の発刊を予告した文の中で、率直に次のように書いている。

「我々は暴利時代に生きている。宗教や諸々の自由には相場があるし、良心にも定価が付いている。」

以上は何れも当時の人々が、所謂言論の自由について懐(いだ)いていた見解を並べて見たものである。

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)10

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第一章 猶太魂の本質
六、「シオンの議定書」の成立、伝播、真偽(昭和16年5月)続き

       ×

「議定書」の著者に関しては、その内面的真実さの点では、前述の問題よりも確実であるにも拘らず、その外面的証拠は一層その確実性が欠けている。この点に於ても現在では、フライ夫人の説が最も多く容認されているのであって、夫人に依れば、彼女がフォードの財政的援助によってロシアで調査した結果は、大体に於てアハト・ハームことアシェル・ギンスベルクがその著者であるというのである。彼の名は非猶太人の間では余り著名ではないが、猶太人間には尊崇の的となっており、幼児から天才的で、一八八四年からはオデッサに住み、一九〇五年のロシア革命に活躍したが、後にはパレスチナに移り、衆望を荷(にな)いつつ死んだのであった。その学識は実に古今に通じ、語学もまた猶太人らしく堪能であったと言われている。そしてこの彼が一八八九年にオデッサでペネ・モシェ(「モーゼの子等」の意)と称する猶太的フリイ・メイスン秘密結社を設立したが、「議定書」は彼が其処で講演した猶太の世界征服政策のプログラムであるというのが、今では一般に信じられている説である。前に論及した猶太人ベルンシュタインの説は、アハト・ハームのこのプログラムのことを指すものであるらしく、それがヘブライ語で書かれていたというのは、猶太秘密結社内の習慣であると見做しても差支えないであろう。それ故に、フライ夫人の説いているように、これがフランスの猶太的フリイ・メイスン結社で用いられていたということも可能であり、其処からそのフランス訳がロシアへ入ったということも考えられるのである。その理由は、フリイ・メイスン秘密結社は、純粋に猶太的であると否とに拘らず、殆どその創立以来全く猶太の支配下にあり、また、全世界のこの結社は相互間に密接な連絡を持っているからである。なおニールスが入手した「議定書」の写しには、最後の部分に「第三十三階級のシオンの代表者達によって署名されてある」との書入れがあったということである。この点から考えても、「議定書」がフリイ・メイスン秘密結社中でも純粋に猶太的であるものの世界政策のプログラムであることがわかるのである。換言すれば、アハト・ハームが設立したペネ・モシェの親結社とも見らるべき純猶太的秘密結社ブナイ・ブリスの世界征服のプログラムに外ならないのである。

ここで我々は、近来に至るまで「議定書」が所謂シオニズムの世界政策のプログラムであって、一八九七年の第一回バーゼル会議に於てそれは決定されたのである、と信じられていたことに関しても一言しておきたい。勿論、或る意味に於てそれがシオニズムのプログラムであるというのは正しいのであるが、然しシオニズムには二種あって、普通シオニズムと称せられているものは、ヘルツル等の主張する「実際的シオニズム」又は「政治的シオニズム」と呼ばれるものであり、アハト・ハームの創設したペネ・モシェ或いはかの兇悪なブナイ・ブリス秘密結社の如きは「抽象的シオニズム」又は「精神的シオニズム」と称せられているのである。そして前者は、シオンの回復を文字通りに実行しようとするものであって、猶太人のパレスチナへの復帰を目標としているが、後者は、シオンへの復帰を抽象的に行おうとするものであって、現在の如くに世界の諸國に寄生虫として存在しながらも、その世界征服を完成しようとするのである。「議定書」が議決されたという九十七年の第一回シオン会議は、少なくとも表面的には「実際的シオニズム」の会議であったのであるから、種々の調査にも拘らずその会議関係の記録に「議定書」に関することが少しも見当たらないのは当然であろう。

我々は然しこの「実際的シオニズム」もまた猶太の世界征服政策の一つの手段であって、「象徴的シオニズム」の一つの偽装であるに過ぎないとさえ考える者であるが、この点に関しては今は詳述することを差控えることにして、ただ一つ次の事実だけをここに記して世人の注意を促しておきたいと思う。即ち、かの「実際的シオニズム」の会議に当っては、同時に必ず純猶太フリイ・メイスン秘密結社であるブナイ・ブリス結社の会議が開催されるのであって、この意味に於ては、議定書が九十七年にバーゼルで議題となり得たということは可能なのである。然し、それはかのシオン会議そのものに於てではなく、同時に開催されたブナイ・ブリス結社の会議に於てであることは言う迄もない。アハト・ハームもこのシオン会議に出席していたことは当時の写真でも明らかになっているから、その彼が「議定書」をブナイ・ブリス結社の会議の方に提出したであろうことは、決して不思議でも不可能でもないのである。

       ×

以上述べたところで、「議定書」の真偽の問題に対する解答は大体は完了したと考えられる。即ちジョリーと此書との内面的連絡から言えば、「議定書」が、猶太側の主張する如くに、万一にも非猶太人の偽作であるとしても、それは猶太の世界征服のプログラムたる資格を消失しないのであるし、また著者アハト・ハーム説が成立しない場合にも、後に引用するトレービチュの説に真実性があるとすれば、これが猶太人の作であり、従ってその内容が猶太の世界支配のプログラムであることは肯定され得るのである。なおまたこれらの説の全部が成立しないとしても、少なくともジョリーの著書の出版された一八六四年頃以後の世界の動きは、この書が猶太の世界政策のプログラムとしての内面的真実性を明証しているのである。いまこの点について我々は一々例示することを差控えたいと考えるが、近時の世相を多少とも世界的に達観し得る人には、この「議定書」が余りにも真実であることが直ちに理解されるのである。

然しなお我々は念のために、議定書の真偽に関しては、ベルンの訴訟を契機として主として独逸の「ヴェルト・ディーンスト」が調査し、前にも論及したベルクマイステルが前述の小冊子で述べている材料を紹介するだけの労を取りたいと思う。そしてそれは三つあるが、特に注目に値するのは、三つながらに猶太法師のなした証言であることであって、猶太法師が猶太人の世界に於て如何なる地位を占めるかを知っている者には、このことは誠に重大な意義があるのである。「トーラ」よりも時としては「タルムード」が尊重されることはよく言われることであるが、猶太法師の言説は、極めてしばしば、その「タルムード」よりも尊重されるのである。

その第一のものは、ポーランド領ショッケン市に於て一九〇一年頃に猶太權法師フライシュマンがその友人副検事ノスコヴィッツに対してなした証書である。三四年十一月三十日の「ヴェルト・ディーンスト」宛のノスコヴィッツの手紙に依れば、フライシュマンが自分の許嫁(いいなずけ)が猶太法師ヴァイルヒェンフェルトによって暴行されたことを訴えながら、猶太人の内情を暴露し、「議定書」は猶太人の手になったもので、決して偽作ではないことを確言した、というのである。

第二のものは、同じノスコヴィッツの手紙にあるものであって、彼が一九〇六年にポーランドのスウルツェヅの猶太法師ダリューンフェルトに「議定書」の真偽を確かめたところ、法師は「貴方は余り好奇心が過ぎ、余りの大事を知ろうとなされる。この件について、私共は語ることを許されておりません。私は語るを得ませんし、貴方はお知りになってはいけないのです。何卒慎重にやって下さい。でないと、生命にかかわりますよ、」と返事したということである。

第三のものはエフロンなる人物をめぐるものであって、第一、第二に比して複雑であり、その証言は三重又は四重になっている。彼エフロンはロシア系猶太人であって、詳しくはサヴェー・コンスタンティノヴィッチ・エフロンといい、青年時代には猶太法師であったが、後にキリスト教に改宗し、ペーテルスブルクの鉱山技師にもなった人であるが、また文筆の才もあってリトヴィンという筆名で「密輸入者」その他の戯曲を書き、猶太人に対して時折辛辣な批評を加えたりしたので、猶太的ボルシェヴィズム革命の後は生命の危険を免れるために所々を亡命して廻ったが、終にセルヴィアのシャバッツ県ベトヴィッツェ近傍の修道院に救われ、二十六年にここで没したのであった。

さてエフロンに関する最初のものは、露國騎兵大尉ゲオルク・M(特に名が秘されている)が二二年二月に彼に「議定書」は本物であるかと訊いた時のエフロンの答であって、「自分はそれがキリスト教側の新聞に公表される数年前からその内容をよく知っていた」というのであるが、これは大尉自身が二八年十月パリのロシア教会の司祭長の前でその真実であることを誓言したものである。

次の二つは前出のベルクマイステルの調査したものであって、彼はこのエフロンの場合に非常な興味を感じ、エフロンを知っている者を何とかして探し出したいと思って努力をするうち、二人を発見するのに成功したのであった。その一人はワシリー・アンドレエーヴィッチ・スミルノフであって、ベルクマイステルはこの者から、エフロン自身が或る機会に書いたという露語の一文を受取ったそうであるが、我々はその文章の動機及び内容に触れることを差控えて、スミルノフが三六年十二月十五日に「議定書」に関してエフロンと交わした会話中、「議定書は原本そのままではなく、原本の圧縮した抜粋であるが、その原本の由来と存在とについては、全世界で自分を含めても十人しかそれを知っている者はない。もし君が時々私の所にやって来るならば、この秘密を漏らしてあげてもよい、」とエフロンが言った事だけは彼が今なお記憶している、と書いているのを伝えておこう。但しスミルノフはその後間もなく職を得てベオグラードに去ったので、遂にエフロンからその秘密を聞くことは出来なかったということである。もう一人はペトヴィッツ在住のワシリー・メチャイロヴィッチ・コロシェンであって、エフロンが修道院に収容されていた頃、其処の官房主事を勤めていた者であるが、彼の三七年二月三日付の手紙に依れば、彼は或る時エフロンから「議定書」を貰ったが、その時エフロンは、「これは本物であって、その中に書いてあることはすっかり真実である」と言ったし、また別の時には、「ユダヤ人は秘密文書を持っているが、それは内情に通じた人以外には誰にも見せることはない」とも言った、ということである。

名著「猶太帝國主義」の著者シュヴァルツ・ポストゥニチュは、その著書中で、彼もまたエフロンに一九二一年にベオグラードで会ったが、その時エフロンは、「議定書が本物であることを説く人に共通の誤りは、それを議定書と呼ぶことであって、実際にはそれはプログラムである」と言った、と記している。

既に「議定書」の内面的真実性を確信する者に取っては、以上三つ乃至五つの外面的証拠の有無は大して意義はないのであるが、しかしこれらの証言もまた実証的にはかなりに重要視さるべきものであることは言う迄もない。

        ×

ここで我々は、前に一言しておいた猶太人アルトゥール・トレーピチュの言を引用しておくことにしよう。

「著者の如くに、かの秘密文書に表明されている全思想・目標・意図を我々の全経済的・政治的・精神的生活から既に以前に予感を以って観取し、聴取し、読み取っていた者は、この文書が世界支配を目標とする精神の正真正銘な発露であるという説に決然と賛成することが出来るのである。アーリヤ人の頭脳ならば、反猶太的憎悪が如何にそれを偽造と誹謗とに駆り立てようとも、これらの闘争方法、これらの謀略、これらの奸計と詐欺とを考え出すことは到底できないであろう。」

トレービチュの「独逸精神か猶太精神か」の中からの引用に次いで、我々は、「議定書」に関する第二審の判決以前にその真偽に関して独・伊・英・米・仏・オーストリアハンガリーポーランド・ベルギー・オランダ・デンマークフィンランドギリシャユーゴースラヴィア・カナダ・レットランド(ラトヴィア)・ノルウェー・スエーデン・スイス・スペイン・南アフリカチェコ・ロシア(亡命者)の代表が独逸エルフルトに集合して行った「決議」を紹介し、この「議定書」に関する小論を閉じたいと思う。

「一九三七年九月二日より五日に亘ってエルフルトで開催されたヴェルト・ディーンストの國際会議は、二十ヶ國以上から参集した数多き学者・著作家・政治家がそれに参加したのであるが、議定書の真偽に関して次の如き決議をした。

ベルン裁判所によって一九三五年五月十四日に下された判決は議定書を偽作であるとしているが、これは過誤判決であって、この結果に立ち到ったのは一に次の事情のためである。即ち、それは、裁判官が誤って、猶太側から推薦されたスイスの専門家ロースリーとバウムガルテン教授との意見書のみをその判定の基礎としたためであり、またその上に、猶太側原告が提議した十六証人のみを訊問して、非猶太被告側から提議した四十人の反対証人を只の一人も召喚しなかったがためである。ベルンの判決は議定書の本物であることを揺がせるものではない。その本物であることは、他の種々の事情がそれを証明している許りでなく、猶太人自身がそのあらゆる政治的・社会的・宗教的領域に於ける行動に於てこの議定書の規定に従っているという議論の余地の無い事実によって証明される。かくてシオンの議定書は、猶太の世界政策の真正なるプログラムである。」(一六・五)

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)09

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第一章 猶太魂の本質(続き)

六、「シオンの議定書」の成立、伝播、真偽(昭和16年5月)

シオンの議定書」は、古今東西を通じての最大の怪文書と呼ばれるべきものであって、内容的にそうである許りでなく、その著者、その成立史、その伝播の経路等から見てもまた然りなのである。即ち、この書は、内容的には世界革命と世界制覇とのプログラムであって、現在の世界の動きがそれを実証しているのであるが、それにも拘らず、その偽作であることが問題とされる許りか、著者も成立史も伝播史も深い闇に覆われているのである。然しこの書は、一九〇一年以来公刊されていたロシアの國境を世界大戦後に超えて独逸(一九一九年)その他で公刊されてからは、その怪文書たるに全くふさわしい速力をもって世界に普及されて行ったのである。またあらゆる猶太人側の否定にも拘らず、一九〇五年のロシア語版(後述するニールス版)が大英博物館に翌年納入されており、その分類番号まで明らかになっていることも、この書の怪文書性を減ずることはないのである。

とにかく猶太は、独逸に於けるゴットフリート・ツール・ベーク(Gottfried zur Beek)の訳及び米國に於ける自動車王フォードの著書に依って、この書が急速に世界に伝播されて行くのを見て、極度に狼狽(ろうばい)し、買占め又は威嚇(いかく)乃至買収等によってそれの普及を妨げようとしたが、この方法が失敗に終ると、今度はそれが非猶太人の偽作であることを主張するようになった。そしてその試みは、一九二一年になって、計画的組織的なものとなり、米・仏・英の順序による三段構えの対策となって現れるに至った。それ故に我々は、多少長きに失する憂いはあるが、その三つの策謀の内容を略述して見たいと思う。現代の我々に取っては、この書の方が「トーラ」又は「タルムード」よりも直接の関係を持っているとさえ言い得るのである。但し我々は、猶太問題全般の研究にとっても「議定書」の方が「トーラ」又は「タルムード」より重要であると主張するのではない。

さて、その第一は、当時ニューヨークに在住したカタリーナ・ラートツィヴィル(Radziwill)と称するロシア女を利用したものであって、北米における有力な猶太雑誌「アメリカン・ヒブリュー」の三月二十五日の誌上には彼女と猶太人アイザーク・ラントマン(Isaac Landman)との会見記が発表された。それに依れば、「議定書」は日露戦争後の一九〇五年に偽造されたものであって、当時パリに居た彼女が、ロシア諜報官ゴロギンスキー(Matvei Golovinski)の口から、在パリロシア諜報部長ラチュコフスキー(Pyotr Rachkovsky)から猶太人の革命陰謀者を偽造するように依頼された、という話を聞いた許りか、彼女は既に完成していたその原稿を見せて貰うことさえした、というのである。そして彼女は、その現行の表紙には大きな青インキの斑点があったとも述べている。

我々はこの会見記の批判は後に譲ることにして、猶太側の第二の策謀を述べることにしよう。それはアルマン・デュ・シエラ(Count Armand Alexandre de Blanquet du Chayla (1885–1945))というフランスの伯爵を使ったものであって、在仏亡命ロシア人の機関紙ボスリエニドエ・ノヴォステイ(Poslednie novosti)に五月一二日から翌日にかけて伯爵自身が論文を発表しているのである。一九〇九年にロシアで「議定書」の出版者であるニールスに面会したが、その時見せられた原稿には青インキの大きな斑点があったし、「議定書」の入手の経路に関しては、ラチュコフスキーからその筆写したものを貰ったK夫人から手に入れた、とニールス自身が言ったというのがその論旨である。

この第二説が第一説と連絡して巧妙に仕組まれた芝居であることは、青インキの大きな斑点というようなわざとらしい詭計によっても判明するのであるが、とにかく猶太側がこの二重の対策では満足し得ず、第一策と第二策との間の時日の隔りと全く同じ程の日数によって第二策と隔っている八月には、十六、十七、十八の三日間に亘って、今度は國も新聞の種類も全く変更して、英國の有力紙「タイムス」を動かして第三の策謀に移っているのである。当時の事情から見ても、現在の事情から見ても、猶太側の「議定書」爆撃が米・仏・英という所謂三大デモクラシー國に於てなされた事は注目に値するのであって、デモクラシーとは事実上猶太支配の別名に外ならないことは、この簡単な一例によっても判明するのである。

本論に帰って第三策を見るのに、それはタイムスのコンスタンチノープル特派員フィリップ・グレイヴス(Philip Graves)の文章であって、フランスの辯護士モーリス・ジョリー(Maurice Joly)が前世紀の半ばにブリュッセルで出版した「マキアヴェリモンテスキューとの冥府に於ける談話」を彼が同地へ亡命していたロシア地主から貰ったが、地主はそれが「議定書」の種本であると言った、というのがその内容である。

グレイヴスの文がこれだけで終っているとすれば、それは或程度まで間違いないのであるが、我々をしてこの一文を猶太政策の一つと認めしめないではおかないのは、筆者が以上の事実から次の如き結論を引出しているからである。即ちグレイヴスは、「議定書」がジョリーを種本としているのでそれは非猶太人の偽作である、と主張するのであるが、これは猶太側が結論を急ぎ過ぎたがための失敗であって、それは、非猶太側がジョリーを種本として無根拠な世界政策を捏造することが可能であるとすれば、猶太側の方でも同じジョリーを種本としてその世界革命のプログラムを作ることが可能である、ということさえ考慮しなかった軽率な結論である。「議定書」とジョリーとの関係は、独逸の半月刊猶太問題専門情報誌「ヴェルト・ディーンスト」のフライシュ・ハウエルが平行的に印刷して比較研究しているのでも明らかなように、多くの内面的一致のみならず、文章上の表現に於ても一致している点があるので、ジョリーが直接の種本であるか、或いは両者が共通の粉本(ふんぽん)を持っているのかは明らかではないとしても、両者の密接な連関は疑うべくもないのである。しかしこの事情は、猶太「タルムード」論理に依って結論を急がない限りは、却って「議定書」が猶太側の革命陰謀者であることを、少なくとも内面的真実性の点では、証明する事になるのである。即ち、ジョリーはその自伝に於て、父はスペイン人であり、母はイタリア人であると言っているが、確かな調査によれば両親とも國籍をそれぞれ両國に持っていた猶太人なのであるし、なお特に注目に値することは、ジョリー自身猶太フリイ・メイスン秘密結社の会員である許りか、フランスに於ける有力な猶太人結社「イスラエル世界同盟」の創設者クレミューの親友であり、一八七〇年の共産系暴動にみずから参加しているのである。ジョリーのこの経歴を考慮する時、それだけで「議定書」が猶太系フリイ・メイスン秘密結社の世界支配のプログラムであることを信じても、グレイヴス等猶太側の態度に比して決して軽率であるとは云い得ないのである。

とにかく猶太側は「議定書」が偽作であり剽窃であるという程度の外面的な拒否をするだけで、それの内容にまで説き及んで反駁することはないのであるが、これは非猶太人には注目すべき点であって、内容に触れて論ずることは「議定書」の内容を一層世上に広布することになるのみか、十九世紀末以来の世界の動きを多少とも猶太の宣伝を盲信しないで見る人には、その真実であることが直ちに感得されるということを、猶太側自身充分知っているからである。しかし「議定書」のロシアに於ける出版者ニールスが非実在の人物であるとか、「議定書」そのものが世界大戦後の英國に於ける偽作であるとかいう程度の迷論 ―日本の自由主義的猶太戦線の志願兵には、猶太人自身さえも最早捨てて顧りみないこれ等の古い一時の浮説を宣説する者さえある― よりは、なお猶太側の上述の三説の方がまさっていることは認めるべきであろう。

        ×

一九二一年の三段構えの努力にも拘らず「議定書」が広布して行き、また一方そのプログラムに従って猶太の世界政策が進展して行くのにつれて、猶太の策謀に気の付く人が次第に多くなり、特に独逸に於てヒットラー政府が次第に確立して行くのを見ては、今まで猶太側の新聞その他による宣伝に躍らされていた人も、或程度までは反省の機会を与えられるようになって来たので、猶太側でもこの情勢を黙視することが出来ず、他の反独的な種々の政治工作と共に、議定書に関しても二一年に比較して一層有効と見える対策を講ずる決心をしたのであった。これが一九百三三年から三十五年に亘るスイス國ベルンに於ける「議定書」訴訟である。

猶太がこの年とこの地を選んだのは単なる偶然ではないのであって、その一般的理由は上述の社会情勢にあることは言う迄もないが、然しその直接の動機は、一方では、前に論及したラチュコフスキーやニールスが既にこの世にない上に、ロシアに於ける「議定書」のもう一人の出版者ブートミ、独逸に於ける第一の出版者ツール・ベーク、独逸に於ける第二の出版者で有力な反猶主義者であるフリッチュ等も死んでおり、更に、後述する通りに議定書の著者と推定されるアハト・ハーム、シオニズムの元祖ヘルツルもまたあの世の人となっていたがためであり、他方では、このベルン市には卑猥文学を禁止する法令がある許りか、猶太マルクス主義を奉ずる裁判官マイエルが居るためであった。またスイスは猶太的フリイ・メイスン秘密結社の優勢な土地 ―フランス及びオランダと並んで公然たる猶太人保護法がある― であるので、これも猶太側には有利な条件であった。かくて三十三年六月二十一日には「スイスイスラエル同盟」と「ベルン猶太文化協会」の名に於て、「議定書」は卑猥な文学である故に発売禁止となるべきであるという訴訟を提起したのであった。(これに連関して、「議定書」を頒布した憂國主義者が訴えられているのであるが、この点は現在の我々に直接の関係がないので、叙述を簡単にするために、今後とも「議定書」のみに問題を限って論じたいと思う。)そして一年を経過したが、事情が自己側に有利であると見た猶太当事者は、この時になって「議定書」の真偽の問題を追訴するに至った。さて事件の専門的鑑定家としては、猶太原告側にベルンの刑法教授バウムガルテンが選ばれ、非猶太側には前述のフライシュハウエルが推挙され、上席鑑定家としては、前身に暗い所のある親猶派文筆業者のロースリーが任命された。前身に暗い所のある名士を利用するのは、猶太の「タルムード」が教える所の常套手段であって、猶太の世界政策機関である國際連盟設立の主唱者であった米國大統領ウィルソン、その連盟に於ける長期の活躍家フランス大統領ブリアンの如きもその過去には破廉恥罪があったのである。かくて猶太側と裁判官マイエルの謀議によって、猶太側の証人のみが喚問されることになり、三五年五月十四日にはロースリーの上申書に従って判決が下され、猶太原告側の全部的勝利となったのであった。

然らばロースリーは、その申告書に於て、何を主として彼の結論の拠り所としたかというに、それはかの二一年の猶太対策の第一、第二のものであった。それ故に我々は、いまここでその二つに関してその真偽を述べることにしよう。

ラートツィヴィルの説が根拠のないものであることは、後述する通りに、議定書が既に一八九五年にはロシアでズホーティン及びステパノフ等の手に、一九〇一年にはニールスの手にあったことや、一九〇三年にはスナミア紙上に発表されていたことからも明らかであるし、またラチュコフスキーもゴロヴィンスキーも一九〇五年にパリに居なかったことが証明されていることからも明らかである。ロースリーはこの一九〇五年を何の理由もなしに一八九五年に改めている。なおラートツィヴィルその者の人物を調査した結果は、彼女がロシア公妃と称しているのは不当であって、十四年以前に離婚しており、その後コルプ及びドウヴィンと更に二度の結婚をしていた者である許りでなく、文書偽造や為替偽造で十八ヶ月の禁錮の経歴を持ち、二一年にはニューヨークで無銭飲食の廉(かど)で逮捕されたことさえあるのである。なお彼女は問題の会見に対し、純猶太フリイ・メイスン秘密結社ブナイ・ブリスの会員ルイ・マーシャルから五百ドルの報酬を受けたということである。

シエラ伯爵の場合は、彼がベルンの法廷に於ても自説の正しいことを誓言したに拘らず、その後前記の「ヴェルト・ディーンスト」の調査に依れば、三六年三月二十四日付のニールスの息子の手紙では、彼の母はKを頭文字とする名前の人ではなく、ラチュコフスキーと知合でなかった許りか、父が「議定書」の写しを貰ったのはズホーティンであって、彼もその際に居合わせたが、その原稿には青インクの大きな斑点はなかった、というのである。なおシエラ伯個人の人物は、反ボルシェヴィストであるヴランゲル将軍の陣営にありながらもボルシェヴィストに通謀したという憎むべき経歴を持つ者であることが、三六年四月三十日のペトロヴィッチ・ギルチッツの手紙で暴露された。ギルチッツ自身はシエラ伯と同時にヴランゲル将軍の麾下にあった人である。

なお第一、第二の場合共に問題となるラチュコフスキーに関しては、その息子の三六年七月十三日の手紙に依れば、彼は寧ろ親猶主義者であって、一九〇五年頃の彼の秘書は猶太人ゴルシュマンであったのであるし、遺稿その他を詳細に調べて見ても、彼と「議定書」とが関係があったという証拠は皆無であり、又その知合にK夫人のなかったことも疑いはないのである。

これらの調査が出来たためか、三七年七月二十七日からの控訴審に於ては猶太側に不利な形勢となり、十一月一日に降された判決では前審が取消されて、「議定書」は卑猥文学ではなく、単に政治的闘争書であると認められ、またその真偽の問題は法廷に於て決せらるべきものではなく、学術的に決定せらるべきものである、ということになった。

かくて猶太の策動は画餅に帰し、その非猶太人に依る偽作であるとの説は確認されず、発売禁止もまた行われないことになったのであるが、それが東洋に於ては日支事変に於て実質的に猶太の誤算と敗北とが次第に進捗しつつあった頃であることを思うとき、この訴訟事件が猶太に与えた精神的の打撃は誠に大であったことと推察されるのである。その後独墺合邦、チェコ問題の反猶太的解決などもあり、この「議定書」の全部的実現がその一歩手前で失敗に帰しつつあることが次第に明らかになって来ているが、欧州戦争誘致乃至日米通商条約破棄通告等最近の米・英・仏に於ける猶太側の過激な手段の由って来る所は、このベルンの訴訟に始まる正義派の勝利に対する猶太の絶望的なあがきなのである。この意味に於てベルンの訴訟の持つ象徴的意義は大であると言わねばならない。

     ×

今や我々の課題は、前に論及しておいた通りに、「議定書」がその世界大戦前に於ける唯一の伝播國であるロシアに於て既に一八九五年にズホーティン及びステパノフ等の手にあった、ということを明らかにすることである。この点に関しては、「水、東へ流る」又は「われらの主猶太人」等の著書によって「議定書」問題及び一般猶太人問題に関して功績のあるアメリカの女流文筆家フライ婦人が、嘗てモスクワの宗教会議の代表者であったフィリップ・ペトロギッチ・ステパノフから一九二七年四月十七日に貰った手紙の内容であるとして発表している所が最も確実な資料となっている。その手紙に依れば、ステパノフは一八九五年にアレキシス・ニコラエヴィッチ・ズホーティンから「議定書」の写しを貰い、自分でもまたその写しを作って人に頒った、というのである。そしてこの説が単なる作為でないことは、「議定書」の出版者ニールス自身も、彼がそれを手に入れたのはズホーティンからである、と言っていることからも判明する。ただ前説との差は、ニールスがズホーティンから貰ったのは一九〇一年であるという点である。またズホーティンが如何にしてそれを入手したかに関しては、彼自身ステパノフ及びニールスの二人に対して、パリの一婦人からである、とのみしか語らなかったとのことである。

なおこの九五年説が正しいことは、三七年に「猶太人の世界陰謀計画」なる小冊子に於て「議定書」問題に関する最新の研究の成果を纏めているベルクマイスルが、三六年十二月十三日付でズホーティンの娘アントニーナ・ポルフィルエウナ・マニコフスキーから受取ったという手紙の内容を見ても明白である。彼女はその中で、彼女が一八九五年に父を訪問した際、妹や姪が「議定書」の写しを作っているのを目撃した、と書いているのである。

九五年説には、北米デトロイト市で出版されている「フリー・プレス」関係の猶太人ベルンシュタインが自動車王フォードの書記カメロンに向って、九五年にオデッサで、ヘブライ語の「議定書」を見た、と語ったのも、間接的ではあるが、一つの好都合な材料となるであろう。但し、この点については今一度後に触れることにして、ここでは論を本筋に戻したいと思う。

かくて問題は、ズホーティンが如何なる経路によって一八九五年又はそれ以前に「議定書」を入手したかということになるのであるが、この点に関しては、フライ婦人の次の説がある。彼女に依れば、「議定書」のフランス語訳がパリのフリイ・メイスン秘密結社にあったが、其処の会員ジョゼフ・ショルストなるものがユスティナ・グリンカという女にその写しを売り、その女がそれをズホーティンに伝えたのである、というのである。然しこのフライ婦人の説が何処まで正しいかは、今なおその後の証拠がないので、確かなことはわからない。

ついでに、その後のロシアに於ける伝播の状況を略述しておこう。先ず一九〇三年には前述の如くスナミア紙に掲載され、次には「議定書」の出版者として最も著名なニールスによってその著「小事のうちの大事」の第二版に於て五年に出版されたのである。なおニールスの息子の前述の手紙に依れば、ロシアに於ける最初の公表は二年から三年へかけての冬に於けるモスコフスキヤ・ヴィドモスティ紙上であるとのことである。別にブートミは、その著「人類の敵」の中で、六年に出版している。そしてニールスもブートミもボルシェヴィズム革命迄はその版を幾度か重ねて行った。

かくロシアに於ける伝播の歴史を見ても、ズホーティンが如何なる経路で「議定書」を入手したかは、依然として謎として残るのである。然らば、この謎は今後解決され得る見込があるかと言うのに、現在ではそれを単に所有するだけでも死刑に処せられるソ連に於ては、恐らく現在の猶太的政府が存在する限り、その見込はないであろう。否、或いは永久にその見込はないかも知れないのであって、それには次のような「議定書」式が経緯があるのである。即ち、前ロシア代議士男爵エンゲルハルト大佐が「ヴェルト・ディーンスト」に寄せた通信に依れば、一九一七年にフリイ・メイスン秘密結社員ルボオフ公が暫定内閣を組織した時、猶太問題関係の文書の全部が内務省及び警視庁から持ち出されて猶太人政治家でフリイ・メイスン結社員であるウィナヴェルに引渡されてしまったというのである。

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)08

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第一章 猶太魂の本質(続き)

五、猶太聖典及び法典の成立と猶太的「タルムード論理」(昭和16年5月)

猶太問題が単なる宗教問題でないことは言う迄もないことであるが、然し猶太民族の場合に於てもその特質がその宗教に於て最も本質的に現れていることは、他の民族の場合と同一であって、猶太民族の過去・現在・未来を知るためには、何よりも先ずその宗教をよく理解しなくてはならない。勿論、或る宗教を真に理解するためには、その祭式の実際を詳細に知る必要のあることは言う迄もないが、しかしそれと同時に、否、それよりも一層重要なのは、その宗教の聖典を充分に検討することである。この意味に於て吾々は、第一には「トーラ」と称せられる旧約聖書の最初の五巻、次には「タルムード、」次には「シュルハン・アルフ」、そして最後には「シオンの議定書」にまで及ぶ所がなくてはならない。勿論この他にも、旧約聖書の残部、猶太諸法師或いはマイモニデスの著作等は考慮されねばならないであろうが、しかし前の四つを問題とすることで、充分ではなくとも、大体に於ては事足りるのである。それ故にここでは、これら三つをその成立と内容とに亘って極めて簡単に述べて見ることにしよう。殊にわが國に於ける猶太問題研究の最大の欠点は、現在の問題に目を向けることに急なる結果として、その根底を充分に明らかにせざる所にあり、従って、屡々余りにも早急に「八紘為宇」の大理想を持ち出すなどして、猶太に関する相当の知識を有するにも拘らず、極めて容易に猶太の張り巡らす陥穽に陥るのである。無知から来る傲慢さと同じく、原理の確立せぬ知識が如何に危険であるかは、この場合にもよく窺われるのである。

さて「トーラ」であるが、それは「数」を意味するものであって、猶太教の原典をなしている。旧約聖書の始めの五書がそれであることは ―広義には旧約全部を指すこともある― 記述の通りであるが、猶太人のそれに対する尊敬の念は極度に深く、それが「意味」の点から神の言葉である許りでなく、その一語一語、その一綴一綴、その一文字一文字が、その儘神の言葉であって、今伝わっている儘の姿で神より直接にシナイ山上でモーゼに伝えられたというのである。否、それ位ではなくて、「トーラ」中の神の言葉は、シナイ山でモーゼに伝えられる前に、更に正確に言えば、この世界が神によって創造される前に、現在のものと一言一句の相違なしに創造されてあったというのである。自分の宗教聖典に対するこの強烈な信仰は宗教的信念の表現としては尊敬すべき熱意を帯びているのであるが、しかしここに既に見られる物質的文字への執着は、猶太民族に於ける唯物主義の深さを暗示していないと如何して言えるであろうか。殊に創世記の宇宙創成史その他の内容が、印度乃至バビロンよりの輸入品であることを考慮し、またその中の神観乃至道徳観がその儘神の言葉であるという猶太の信仰を問題として考えるならば、かかる言葉をモーゼに伝え或いはそれ以前にそれを創造した神エホバは、決して民族神とさえも言い得ない程度の妖怪乃至悪魔と見做されても差支えないのである。

真のキリスト教に生きんとする者は、キリスト教と猶太教の差を知らなくてはならないし、従って新約と旧約との根本的差異をも知らなくてはならない。旧約の名に欺かれて猶太の世界政策の手先となることは、「われ等の父なる神」の御旨にも叶う筈はなく、況んや身を捨てても猶太の不正を矯(た)めんとした(不正を正そうとした)と称せられるキリストその人の意志に副(そ)う筈はないのである。例えば、米國のブルックリンに本部を有する「万國聖書研究会」という看板の陰謀団体及びそれに類似のものの如きは、何れも、キリスト教の名に於ける猶太帝國主義の一機関たるに過ぎない。ユダヤ民族自身が「神の選民」たることを主張するのに対して、その歴史が果してそれを証しているか否かを見ることもせず、猶太聖書を旧約とする信仰に属することが人を「高等民族」にするという如きお目出度い迷信を抱いて、真の信仰の本質と自己の本質とが何であるかを反省することを忘れる者が如何に多いことであるか!例えばカンタベリー僧正の如くにユダヤ教会のみを保存しているソ連を反宗教ならずとして感激し、また米國のブラウン僧正の如く幾百万ドルの遺産を共産党に寄贈する程度の盲信者はわが國にはないであろうが、しかし「戦争と真理」という如き三歳の童子と雖(いえど)も正気ではなし得ぬ相関概念を作成する無教会派「人工猶太人」の如きがキリスト教者であるというに至っては、キリスト教のためにも遺憾この上もない事であろう。

ここで猶太聖典そのものに帰ろう。さて猶太人の「トーラ」に対するかくの如き唯物主義的盲信は、健全な常識を持つ程度の人に取ったならば「トーラ」の到る処に存することの明らかな無数の矛盾に面しても、猶太人をして矛盾を矛盾として認めるだけの余裕を許さなかった。即ち、神の言葉に矛盾があると認めることが神を冒涜することと感ぜられるのは尤もであって、ここに、その成立史から見ても存在し得ない筈の統一をかかる矛盾のうちに認めようとする努力が生れて来る。神の言葉に矛盾が見えるのは、いまだ神の心に徹しないからだというのである。かくて所謂「解釈」又は「註釈」の必要が生じ、極めて牽強付会(けんきょうふかい:道理に合わないこと)な無数の説が生れて来るが、然しこれらの解釈が単なる解釈と認められる限りはそれらに強制力がないので、かかる解釈に従事する猶太法師連は、彼等のなす解釈は単なる解釈ではなくて、モーゼが神より伝授された神の言葉の一部が口伝によって彼等に伝えられて来たのである、と説くようになったのである。かくして成立したのが「解釈」を意味する「ミトラシュ」であるが、時代と共にそれがまた整頓され、解釈されて、やがて「繰返し」を意味する「ミシュナ」が生れた。旧約聖書と並んで猶太人によって尊崇されている上に、猶太人の本質を知るためには或いは旧約よりも一層適切であるかも知れない「タルムード」は、この「ミシュナ」と、更にこれに加えられた解釈の集成で「完成」を意味する「ゲマラ」とから成っているのであって、これは後にも論及したいと考えるが、猶太聖典として重要な「タルムード」は、その成立史から見る時には、解釈の解釈であるのである。この「タルムード」が現在の形に於て完成したのは西暦四百年から五百五十年に至る頃であるが、現在ではパレスチナ系の小部のものと、バビロン系の極めて大部のものとがあり、欧米に於て普通「タルムード」と称せられるのは後者を指すのである。細字大型書十幾冊と称せられているから、その大部であることは容易に想像がつくであろう。

然しこの大部の書は、現在のキリスト教徒の全部があらゆる神父連の書を読破することはなく、又現代の仏教徒があらゆる仏教経典を通読することのないのに照応して、決して猶太教信者によって全部が読まれることはないのである。然しながら、猶太人が亜細亜の西部から欧州へと黄金を追って流浪するようになっては、個人的乃至団体的の一々の重大事に際してパレスチナの大法師の裁断を受ける暇がなくなったので、ここにより簡便な律法の書を必要とするに至ったのであるが、西暦千年頃にスペイン・フランス・西部独逸の地方に於て書かれた猶太哲学者マイモニデス[1]の著、ヤコブ・ベン・アシェル[2]の著、及びヨゼフ・カロ[3]の著等は、その使命を持っていたのである。いずれも「タルムード」を抜粋し、それに猶太的「解釈」を加えたものである。そのうち最後の書が最も広く読まれたが、これがまた既に大部の著であったので、更に著者自身によって抜粋が作られ、一五六四年から翌年へかけて初めてヴェニスで出版されるに至った。「シュルハン・アルフ」(「用意の出来た食卓」の意)と称せられるものがこれであるが、しかし猶太の他のあらゆる場合と同じく、この書もまた直ちに「解釈」を生んで、現在「シュルハン・アルフ」として我々の手に入るものは、クラクフの猶太法師モーゼ・イッセルレス[4]の書いた部分の加えられたものである。かくてこの書もまた相当大部のものとなっているが、この程度ならば実用的であるので、現在も盛んに活用されている。四部からなっていて、日常生活の諸般の事を規定した巻、祭事を規定した巻、民法乃至刑法の巻、婚姻の巻となっている。唯物論マルクスが常に懐中して、人目を避けては読み耽ったというのも、恐らくこの書か、それの抜粋であるらしく、改宗猶太人で表面的には宗教排斥の元祖であるマルクス(本名モルデカイ)に於てすら既に然りであるから、他の猶太教猶太人に於てこれらの猶太聖典が今に於ても如何なる拘束力を持っているかは、到底吾人の想像を許さぬ所であろう。しかしこの事情は、大部の猶太史の著者猶太人グレッツ教授や日本に於ても一時渇仰随喜の対象となった猶太的「純粋」派の猶太哲学者コーエン等が、或いは著書の中で、或いは法廷の前で、猶太教とその聖典とが現在の猶太人に取っても唯一絶対の価値の標準であり、現行の規矩(きく:考え方の基準)である、と公言しているのを見れば充分に明瞭であろう。

 

[1]ラビ・モーシェ・ベン=マイモーン(MayimōnMoses Maimonides:1135.03.30~1204.12.13)は、スペインのユダヤ教ラビで、哲学者。医学・天文学・神学にも精通していた。アリストテレス主義者、新プラトン主義者。ルネサンスヒューマニズムの先駆者と評価される。

[2] ヤコブ・ベン・アッシャー(Jacob ben Asher:1269~1343)アッシャーは影響力の大きな中世のラビの権威であった。その主な著書「ハラカー」(猶太律法)、「アルバートゥリム」(四つの隊列)に因み、Ba'al ha-Turim (隊列の親方) と呼ばれる。

[3] ヨセフ・ベン・エフライム・カロ(Joseph ben Ephraim Karo:1488~ 1575.03.24)は、今も全てのユダヤ人社会に権威があるユダヤ法の最後の大法典であるシュルハン・アルーフの著者。彼はしばしば「マラン」(我々の主人)と呼ばれている。

[4]ラビ・モーシェ・イセルレス(Moses Isserles:1530~1572)は、ポーランドの著名なアシュケナージ猶太のラビであり、タルムード主義者であり、ポーゼック(猶太教に於てハラカ(タルムード文学)で決着していない解釈や先例のない解釈を決定する権威を持った法定学者のこと)であった。

 

既に論及したように、これらの猶太聖典乃至法典はすべて解釈であり、解釈の解釈であり、そのまた解釈であるが、これは吾々が猶太人の本質を知る場合には極めて興味深い事実を暗示しているのであって、猶太人は「創造的でない」とされるかと思えば、同時に他方では猶太人は「頭がよい」とされるという、一見しては矛盾と見える事柄が、決して真の矛盾でないということも、猶太聖典の成立史に見られる上述の事実を知る者には直ちに明らかになるのである。つまり猶太人の「頭のよさ」とは、「トーラ」又は「タルムード」の解釈の場合のように、本来の矛盾であるものに統一を見出すことであり、勇猛な詭辯によって対象を無視しても或種の「解釈」を成立せしめるだけの大胆さを持つという事に外ならない。それ故に猶太人の頭のよさとか解釈のうまさは、猶太人の実生活の殆ど全部を形成していると称せられる。「虚言・詐欺・裏切り・暗殺」等の諸傾向が頭の仕事として発現したものに外ならぬことが判明する。「タルムード」の成立そのものが既に「トーラ」に対する嘘言であり、詐欺であり、裏切りであり、暗殺であることは、「タルムード」には既に「トーラ」の面影が殆ど全くないと称せられていることによっても判明する。猶太精神の本質が「技術的」であると称せられるのも、真の創造力がなく、解釈のみに終始するがためであろう。一体に解釈的精神は非創造性の一面であって、これは個人的に見ても、民族の歴史を見ても、よく理解の出来ることである。ゲーテの言う創造的批評が如何に稀であり、解釈のうまさという技術の点に捉われない真の創造的解釈が如何に少ないかということが、これを証する。猶太精神の以上の側面を吾々は「猶太的論理」と呼びならわして来ているのであるが、この技術的精神が技術の世紀である唯物主義の十九世紀に支配的地位を占め得たのも、蓋し偶然ではないであろう。兎に角、猶太の「トーラ」崇拝は、表面的には宗教的熱意を帯びているが、実際に於ては「トーラ」は、その解釈者、即ち、猶太法師の「頭のよい」解釈によって、口伝もまた神の言葉なりという詭辯の下に、如何とも変更され得ることになっているのである。

宗教聖典に対してさえもかような態度であるから、他の解釈の場合が如何であるかは容易に想像し得られるであろう。所謂「純粋法学」、「形式社会学」等と呼ばれる猶太系の思想がすべてそれであって、例えば猶太法学が國家をも「純粋」化して××機関説*に及び、また偉人天才の研究に於ては対象の本体を猶太化し、それによって解釈者の「頭のよさ」を誇示するのも、同じ「嘘・詐欺・裏切り・暗殺」的精神の一表現に外ならない。(一六・五)

*美濃部達吉の「天皇機関説」を揶揄していると思われる

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)07

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 第一章 猶太魂の本質(続き)

四、猶太の世界支配諸機関(昭和16年5月)

「世界シオニスト同盟」の統領であるヒャイム・ワイズマン[1]は嘗て「権力を目標とする國際猶太機関は決して存在しなかった」と言っているが、これは表面的にのみそうなのであって、同じ彼自身が「猶太評論」の一九二〇年四月号で、「諸君が欲すると否とに拘らず、我々はパレスチナに行くであろう。諸君は我々の行くのを速めることも遅くすることも出来るが、とにかく我々に助力する方が諸君のためであろう。そうでないならば、我々の建設力は破壊力に変じて全世界を沸騰させるであろう、」と威嚇的に言っている通りに、猶太人には幾多の「権力を目標とする」地上的乃至地底的機関があるのであって、その種類の多数であることと多方面であることとは、そのしばしばなる巧妙な偽装と共に、非猶太人には到底思いも及ばぬほどの程度に達しているのである。これは猶太民族が唯一の文字通りの國際的民族である必然の結果である。しかし、勿論場合によっては、「國民的」色彩を帯びることもあるのであって、その例としては日支事変下としては所謂「國民政府」がその最も代表的なものである。猶太民族は國際民族として幾千年に亘り寄生生活をして来ているので、その俳優的偽装性の発達していることは、これまた特に著しい事実である。以下の猶太機関の組織を注意して見るならば、この点もまた充分明瞭になるであろう。

 

[1] ハイム・アズリエル・ヴァイツマンまたはハイム・アズリエル・ワイツマン、カイム・アズリエル・ワイズマン(Chaim Azriel Weizmann(Chajim -, Haim - とも):1874.11.27~1952.11.9) は、露―英―イスラエルの政治家・化学者。シオニスト運動の指導者で、初代イスラエル大統領。

 

先ず第一類として純猶太的な組織について記して見よう。ここでも我々は旧約時代その他の古代に関して述べることを差控え、主として近世のもの、特にわが國との交渉の多い現代のものを中心として見たいと思う。かくて先ず第一に問題としたいのは所謂「ゲットー」のことである。普通日本では、都市の一画に限定されて自由を奪われているかの如く見えるこの組織は非猶太人の少数民族猶太人に対する圧迫の結果であると考えられているし、又これは日本のみでなく、少なくとも猶太的思潮としての自由主義の優勢であった所では欧米に於てもそう信じられていたし、今もまたそう考えられている許りか、猶太人自身さえも自派の或者の為にする宣伝を信じてかく感じていることもあるが、事実は多くの場合にはそうではないのであって、ある時は、少数民族猶太人がその幾千年来練磨されて来た詐欺と裏切りとの力によって多数民族を虐待し搾取することに対する非猶太多数民族の自己防衛の結果であるが、多くは、猶太みずからが非猶太人の目を逃れて干渉されずにその策謀を巡らすための安全なる策源地として設けたのである。それ故にその多くは治外法権的存在であって、他民族又は他國に寄生しながらも、独自の律法と政治機関を持っていたのである。「ゲットー」こそは、現代に数多い猶太秘密結社の祖先であり、原型であるということが出来る。しばしば猶太人は「國家中の國家」を形成していると言われるが、その伝統の由来は実にここにある。

然し現在に於ては、猶太解放革命としてフランス革命以来は、この「ゲットー」は多くは解消したかに見えるが、しかしこれは表面的に或いは空間的にそう見えるだけであって、精神的又は実質的にはそれはなお厳として存在しているのである。かつて「ゲットー」を政治的にも宗教的にも支配したものは、多くは猶太法師から成る猶太長老会即ちカハルと称せられるものであったが、「ゲットー」の外形は消失しても、このカハル組織は厳存しているのである。それに関する注目すべき材料が改宗猶太人ブラーフマンによって暴露されているが、とにかくこのカハルなるものは、猶太人がある数を以て存在する所には必ず存在し、世界のそれらが互に連繋して、所謂「世界カハル」となっていると称せられている。勿論、他の民族も、相当数が異郷にある時には、その代表者によって指導乃至社交機関を形成することは当然のことであるが、猶太の場合はそれがかかる表面的のみではなく、厳密な秘密結社の形式を持つことが注目に値するのである。米國ニューヨーク州のカハルの如きは世界でも最も有力なものであって、現在は二百万の会員を有していると言われている。

以上に比較する時には、以下に述べるものは半秘密結社ともいうべきものであるが、しかし猶太機関としての力は、それが却って半公開の性質を採っているために、強められているとも言えるであろう。先ず「世界イスラエル同盟」であるが、一八六〇年にパリに創設されたもので、猶太人クレミュー[2]の発起になるものである。これも次の結社と共に猶太人の相互扶助団体であることを表面的の看板としているが、それが半秘密結社であるのにふさわしく、猶太の世界政策の一機関として政治的、経済的に活躍をするものであることは、創設者のクレミューが辯護士であり、ナポレオン三世の退位を促した後フランス司法大臣にまでなったことのみからも判明するであろう。現在でもなおその勢力は強烈なものであって、ロシアのボルシェヴィズム革命には大きな助力を与えたのであったし、一般にフランス國内の反猶運動を屈服させる有力な機関である。一八七〇年にロンドンで創立された「英猶協会」はこれの英國支部とも言うべきものである。

 

[2] Isaac-Jacob AdolpheCrémieux(1796~1880)フランスのユダヤ人政治家。法務大臣ユダヤ人の権利の強力な擁護者。

 

猶太の半秘密結社として現在世界的に有力なのは、ブナイ・ブリス又はブネ・ブリスと呼ばれている純猶太フリイ・メイスン結社である。一八四二年に独逸出身の猶太人によってアメリカで創設されたものであるが、世界に於ける國際資本と猶太人そのものとの勢力の中心が英又は仏より米國に移ったのに一致して、猶太の政策機関も現在では在米のものがその優位を占めるようになり、この結社がその中枢機関なのである。猶太資本家・猶太政治家・猶太革命家等のうち有力な者でこの結社に関係のない人は殆どないと言っても過言ではない。米國のバールフ、ブランダイス、フランクフルター、フランスのブルム前首相、マンデル前内相、ボルシェヴィズムのレーニントロツキー、リトヴィノフ、ラデック、猶太的「相対性原理」のアインシュタインの如き人々も決して例外ではないのである。この結社の動向こそ現在の世界の動きの相当パーセントまでを支配すると言っても、これまた決して過言ではないのである。事変下の我々に取っては、在上海の猶太財閥及び米英側役人のみならず、「三民主義」の祖孫逸仙孫文)が何故かこの結社の高給会員であったことを忘れてはならないであろう。

以上の猶太機関は秘密結社又は半秘密結社であるが、所謂「シオン同盟」と称せられるものは、少なくとも表面的には、純公開のものである。即ち、猶太人をして聖地パレスチナへ帰らしめようという運動であるが、既に前節で触れたように、ブナイ・ブリス結社等もまた広義に於ては一種のシオニズムであるから、一九一七年のバルフォア宣言以来の「シオン同盟」の方は、実質的には兎に角、表面的には一応、他の秘密結社と区別される必要があるのであろう。創立者は「猶太國」の著者ヘルツルであって、猶太問題に悩む諸國の支援を得ている。(シオニズムについては後により詳しく論ずる。)

猶太の世界政策の機関は、上記の純猶太的構成のものにつきるのではなくて、その金力と宣伝力に躍らされている準猶太的機関のあることは言う迄もないが、かかる準猶太機関に論じ及ぶ前に、かの純猶太機関と準猶太機関との中間に立ちつつ双方を結合している存在に関して、否、双方系の諸機関の上に君臨しつつ双方の意の儘に動かしている威力に関して、先ず述べて見ることにしたい。そしてそれは、言う迄もなく國際猶太財閥であって、既に世界の富の七、八割をその手に収めていると言われるだけに、いまだ経済第一の拝物的唯物思想が徹底的に克服されるに至っていない現在の世界に於てはその勢力は極めて強いのである。然もこの最有力の猶太の世界政略機関は、単に上述の諸機関及び後述する準猶太組織を自由に操縦する許りではなく、それ直属の侵略機関を持っているのであって、商業的には取引所及び百貨店がその代表的なものであり、政治的乃至精神的方面に於て新聞、雑誌、通信社、出版社、ラジオ、映画がそれであり、人的にはマルクス自身も自覚していたように「欺かれたプロレタリヤ」がそれであり、またマルクス・ボーイと称せられる宣伝に乗り易いインテリの一群もまたそれに属するのである。「自由」「文化」「科学」「ヒューマニズム」等、猶太が善良にして無批判なる非猶太人を欺くために宣伝する言葉は、その文字の意味の正反対に用いられるのが常である。猶太の國際高度金融の金儲けのために、如何に多くの不自由と、非文化と、非科学と、非人道主義とが、自由と文化と科学とヒューマニズムの名の下に行われ来ったことであるか、今では猶太に屈服しているアメリカの自動車王フォードが嘗て言ったように、世界の最有力の資本猶太人の五十人を縛り上げるならば、人間の世界には、たとえ永遠の平和と正義とは到来しないとしても、少くとも相互理解と公正なる競争とがこの世に見られるに至るであろう。

猶太民族は、彼等が自己の罪を非猶太人に転嫁する時に悪用して宣伝する通りに、文字通りに少数民族であるし、「旧約」でエホバが教えて以来労働を好まず、従って如何なる場合にもみずから剣を取る興味も勇気もないので、その世界政略のためには、多くの場合下手人として非猶太人を使用しなくてはならない。かくて猶太は、その金力と宣伝力とを利用して非猶太人を自己の目的に駆り立てるのであるが、それが我々が準猶太機関と呼ぶものの成立の由来である。そしてこれにもまた種々の方面のあることは言う迄もないが、以下我々はそれを政治的・宗教的・社交的に分類して略述して見ることにしよう。

政治的準猶太機関のうち最も著名のものはフリイ・メイスン結社であって、それが秘密結社であるか否かは、前に論及したブナイ・ブリス結社と同じく、論ずる人の立場によって何れともなるのである。適切には半秘密結社と言うべきであろう。即ち、これは表面的には相互扶助団体であり、修養団体であるが、内面的には兇悪なる秘密結社である。その起源・成立等にも諸説があり、その系統にも英國系・大陸系・支那系等と種々あるが、しかし世界のそれが一つの統一を持っていることは、この問題に多少とも通じた人には明白なことである。ブナイ・ブリス結社の如く人的には純猶太のものでないとしても、その國際性のために、元来全く猶太の支配下にあるのであって、それの本来の目標が猶太世界征服の目標と合致したものであるか、或いは猶太の策謀によってそれが猶太の世界政略の機関化したのであるかは論じないとしても、とにかくそれは、現在に於ては、最も有効且つ強力なる猶太的秘密政治結社となっているのである。そして現在に於ては、猶太人はブナイ・ブリス結社とフリイ・メイスン結社との双方に加入することによって、後者を前者の執行機関たらしめ得るようになっている。その故は、後者における猶太人は殆ど常にその高位階結社であるからである。フランス革命の幹部、前世界大戦の原因となった王國皇儲(皇太子)の暗殺等、正体の判明しないテロ行為の大部分は、この結社の仕事である。英國名流の殆ど全部を網羅する「大英ロッジ」、フランスを猶太人と共に支配する「フランス大東社」、猶太非猶太の混合にて著名な本部在米の「オッド・フェロー結社」の如きは、純猶太系のブナイ・ブリスと並んで世界的に著名である。なお事変下の我々に取っては、蒋介石以下重慶政府の首脳部の殆ど全部が、その細君に至るまで、この結社の会員であり、それも単に支那系のそれの会員であるのみならず、多くはアメリカ系のそれの会員であることを銘記すべきであろう。(本書第二部にも秘密結社について記されている。)

なお猶太人とフリイ・メイスン結社の合作であると称せられる國際連盟、思想的に見ても実行者から見てもその幹部が殆ど例外なく猶太人又はフリイ・メイスン結社であると称せられる社会民主主義マルクス主義共産主義ボルシェヴィズム、「人権擁護同盟」の名を持つ実質上の猶太特権擁護同盟、その他種々の反戦的平和連盟又は婦人平和自由連盟等、準猶太的世界政策機関は多数存在しているが、現代に於てこれらの事情を知らないのは、かかる問題を知る必要のない健全なる日本大衆か、猶太系宣伝に躍ることのみを文化的・科学的・進歩的と考える無批判の徒に過ぎないので、これらに関しては今は語ることを差控えたいと思う。

なおここに特に紹介しておきたいのは、独逸人クラインツが北米合衆國の愛國的特志家達の協力によって調査して明らかにした在米猶太の大秘密機関についての記述である。それに依ればこの機関もまた猶太の他の諸機関と同じく表面的な一面を持っていて、その限りに於ては善良なる非猶太人の目にはその兇悪性は一見しては明瞭ではないらしく思われるが、その組織の広大にして強力なる点から見れば、これこそは現在の猶太の世界支配の中心機関であると認めらるべきものであるそうである。この事情は、この機関が今や世界猶太の中心地である北米合衆國にあることを思えば、恐らく正鵠を得たものであろうと考えられる。それ故に次にその組織を簡単に紹介し、そのプログラムの大綱を訳出しておきたいと思う。

その所在地はニューヨーク・シティーであって、絶対的独裁の主義により其処より全世界の猶太組織に秘密の命令を発し、個々の猶太人の意見を徴することはなく、その付属組織は、例えば國際連盟の如く本来猶太的なる國際機関の内部には言うに及ばず、ハーグの仲裁裁判所の如きものの中にも設置されている。殊に注目すべき点は、それが五千万ドルに及ぶ無税の資金を擁していることであり、また第一次世界大戦以後既に一億五千万ドルをその目的のために使用したという点である。そしてこの巨額の金が如何に過去に於て使用され、また将来使用されるであろうかは、後述するそのプログラムによって明らかであると思うので、ここでは先ずその組織をみることにしよう。

この秘密組織は全体としてはアメリカ猶太連合評議会(The American Jewish Joint Consultive Council)と呼ばれ、五つの部門に分かれている。これは一九三三年七月二十二日に、我々が既に論及したブナイ・ブリス秘密結社の頭目であるアルフレッド・エム・コーンの主唱に依って設立されたものであって、在来より存在した欧米の猶太系結社の統一にまで乗出している。我々の論及した「世界イスラエル同盟」の如きも、既にこの機関の一従属機関化しているそうである。そしてカナダ・メキシコ・英國・フランス等猶太支配下の諸國は言う迄もなく、東欧・南米・支那等にも従属機関のあることは言う迄もない。

この連合評議会は、その主唱者がコーンであることから考えても、先ずかのブナイ・ブリスが加入していることは言う迄もない。そしてその使命が探偵乃至諜報事業であり、また戦争誘発関係の事柄であることは、以前より巨大な國際網を所有しているこの結社としては当然であろう。その頭目は現在ではヘンリー・モンスキーであって、ゴールドン、マルクス、セールス、ビスカイエル等が幹部であると称せられる。現在に於てはフリイ・メイスン系秘密結社中最強力のものであって、「イスラエルの勝利」なる猶太系フランス書に依れば、「ユダヤ秘密結社ブナイ・ブリスは全欧米を席巻したのみならず、今では亜細亜にも擴がっている。それは全世界のフリイ・メイスン結社の監督権を手中に収めている、」と言われている。

第二はアメリカ猶太委員会(American Jewish Committee)であって、内政外交の両部門を司り、従ってまた宣伝事務を担当している。既に一九〇六年から存在し、ニューヨーク・シティーのフォーズ・アヴェニュー四百六十一番地に事務所を持っている。頭目はサイラス・アードラーであり、エルクス、レーマン、キルスタイン等が補佐している。次はアメリカ猶太会議(American Jewish Congress)であって、一九一七年から存在し、有名なるアメリカ猶太人ブランダイス、フランクフルター教授等が関係しており、現在の頭目は辣腕なる猶太法師ステファン・エス・ワイスで、リプスキー、ライヒトマン等が補佐し、前のものと同じくニューヨーク・シティーの西五十七街二百二十一番地にその本部を持っている。

次は経済部門を担当する「アメリカ猶太連合分配委員会」(American Jewish Joint Distribution Committee)であって、表面的には慈善事業を装っているために、上述の如くその巨大な資金は無税である。一九一四年の設立にかかり、ニューヨークの東四十二街百番地に設置されている。その名誉総裁はフェリクス・エム・ワールブルクであったが今は死亡し、現在その夫人が総裁となり、エドゥアルト・ワールブルクが事務を代行している。その幹部に著名の金権猶太人が網羅されていることは、今更説明の要はないであろう。

最後は「アメリカ猶太労働委員会」(American Jewish Labour Committee)であって、一九一七年に創立され、殆ど総てのアメリカの労働団体を直接間接にその支配下に置いている。ヴラテックがその頭目であり、ワインベルク、ザリツキーその他が幹部である。

「連合評議会」に加盟している猶太機関が上述の五つで全部でないことは勿論であって、その五つに更に従属する機関等を考慮する時には、なお我々は数多くの猶太結社を数え上げねばならないであろう。しかしここではこれ位で満足したいと思うが、なお特に注目すべき二つの結社に関しては一言しておきたい。その一つは、情報関係の機関としての「インフォーメーション・アンド・サーヴィス・アソシエイツ」であって、五千人の有給情報員と五万人の無給通報員とを持ち、前にはマディソン・アヴェニューのあるビルディングの七、十三、十四、十五の四階を占めていたが、現在ではフォース・アヴェニューの四百六十一番地に本部を持っている。その頭目はフランク・ジェイ・プリンスで、個人としては別の事務所をも持ち、バーミンガム及びスケントンというカトリック教信者の有能なる探偵を直接の配下として活動している。後の二者は猶太人ではなく、全体主義國家の台頭以来その共通の國際性のため往々にして共同戦線を張る猶太とカトリック教との関係を象徴的に暗示していることは興味深いことである。

注意すべき猶太機関の他の一つは「アメリカ自警委員会」であって、前の機関と同じく、大体に於てはブナイ・ブリス秘密結社に付属するものと考えられて差支えないであろう。その頭目は反独主戦者として又主戦論者として、英國のフリイ・メイスン結社員チャーチル及びイーデン、英國猶太人ダフ・クーパー、フランス猶太人マンデル等と並び称せられる猶太辯護士サミュエル・ウンターマイエルであって、あらゆる殺人法の訓練を経た犯罪人及びギャングを統率し、多年来猶太政策に反する非猶太人を「清算」し来っていると称せられている。この点は、猶太の幾千年の暗黒史を充分に知悉せぬ非猶太人に取っては殆ど信ずる事の出来ない複雑怪奇なことであるし、この解説の筆者の如きも人間の名誉のためにそれを信ずる事を欲しない者であるが、ここではクラインツの説をその儘紹介するに止めて、その可能不可能の判断は識者の賢明なる判断に任せたいと思う。

さて我々はここにいよいよこの「連合評議会」の世界政策のプログラムを訳出しておこう。

 

猶太世界政府のプログラム

  1. 滞留國に於ける猶太の國民的及び國際的権利と、猶太の勢力と、猶太の支配との拡張。
  2. 猶太政策上枢要な諸國の外交機関を金力にて全的に買収することによって猶太の計画を促進すると共に、他の諸國に於て増大しつつある反猶太主義を根絶する。
  3. 北米合衆國の政府をその高官連を利用して監督する。同國の諸州をも同一の監督下に置き、また大都市の警察機関をも同様にするが、そのためには枢要の地位にある猶太の代行者の手を借りるか、或いは買収された州知事、市長、裁判官、政治家等の陰謀を用いる。
  4. 北米合衆國を次第に変化して、モスクワの第三インターナショナル支配下に立つソヴィエト共和國となす。この発展は、ソヴィエト組織に類似した新法律によって、既にその目標に近接している。
  5. 北米合衆國の陸海軍を監督するために、ソヴィエトの代行者とフリイ・メイスン秘密結社員とを潜入させ、ブナイ・ブリス秘密結社をそれに協力せしめる。
  6. 陸海軍を完全に無力にするために、怠業を惹起させ、その組織を破壊する。その後になって陸海軍を新しくソヴィエト式に再組織する。
  7. 非猶太人を商工業、銀行、大学教授その他の教職から追出す。
  8. 北米合衆國とファシズム諸國との外交関係を断絶する。その実行手段としては、新聞、教会、議会、ラジオを利用しての反ファシズム宣伝による外に、テロとボイコットとストライキと叛乱とを用いる。
  9. ファシズム國家を弱体化するために、これ等の諸國家に対して猶太人のみならず國際的なるボイコットを継続しまた強化する。
  10. キリスト教文化の混乱と破壊と根絶とを期する。

宗教的方面のものでは日本に於てはなお一般には充分に知られてはいないが、その害毒性に於て「旧約全書」及び「議定書」と匹敵する所謂「燈台社」なるものがある。本部は米國ニューヨークのブルックリンにあって、表面は一種のキリスト教団体の如くに装っているが、その正体は猶太の世界政策機関の一であって、「厳粛なる聖書研究者の団体」又は「エホバの証者」等の名で呼ばれることもある。その主催者は一九一六年迄はラッセルであり、今はラサーフォードである。そしてそれが如何なるものかは、次の如き言説のみからも判明するであろう。

「現在の政府は破壊され、社会秩序は無政府状態に陥らせられねばならぬ。」(ラッセル、一九二二年)

「なお一つの戦いが起ってサタンの作った諸組織(非猶太教及び非猶太國家)を払拭してしまはなくてはならぬ。」(ラサーフォード、三三年)

「神の真理の語の指示に依れば、あらゆる戦争のうち最も恐るべき戦争と比類のない大量的死とが近き将来に迫っている。エホバはその証をする者にこの事実を人類に告知する義務を下し給うたのである。」(ラサーフォード、三三年)

「世界のあらゆる國民の再組織が行われるのであろう。今日用いられている地図は、その王國(猶太王國)に於ては用いられないであろう。」(ラサーフォード、三三年)

「聖書の光に照らして見れば、エルサレムが世界の首都となることを期してもよい。」(ラサーフォード、二四年)

「猶太人が世界の支配権を握るに至るであろう。」(ラッセル、一七年)

猶太独裁をいまだに甘受しないか、或いはそれを新しく覚醒した民族の力によって撥ね返す力のある國に於ては、この奇怪なる猶太の半秘密結社は禁止又は潰滅させられているが、しかしなおその変形であることの疑惑の深い「無教会派キリスト教」乃至「聖書研究会」の如きは、巧みに法網をくぐって、活躍しているかに見える。ルーデンドルフ将軍の言った通りに、かくの如き意味のキリスト者は、「人工的猶太人」であり、有償無償の猶太の志願兵である。

その他社交倶楽部の名を持っているものに國際ロータリー・クラブ(最近は全く猶太的にラジオを利用して勢力拡大に狂奔している)、國際ペン・クラブ等があるが、これらの猶太性とフリイ・メイスン性に関しては最早疑惑を抱く人も皆無であると思われるから、ここではそれを論ずることを避けたいと思う。(一六・五)

 

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